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編し,脅し,スパイ網を張りめぐらす
偽保安局の罪悪史

偽保安局小組


保安局は形の上では偽満州国の機関であるが,実際には関東軍参謀部や特務機関の外郭機関であり,その手足であった.蘇同盟や蒙古人民共和国にスパイを潜り込ませては,軍情や政治,経済の状況をスパイし,全東北1の隅々までスパイ網を張りめぐらして中国の愛国者や平和な人々を暗殺したり,リンチを加えていた.そしてまた,保安局の任務が,秘密戦であるとの理由で,偽満政府で作った凶悪な人民弾圧の諸法令さえも無視して,凶暴の限りを尽くした. このようなスパイ機構であるから,機構そのものも隠蔽して分室という名称を使っていた. 仕事の上で必要なときは偽満の特務警察や税関,郵政局等も指揮する権限を持っていたのである.

地方保安局においても,各省の警務庁長が地方保安局長を兼務し,特務科長が保安局理事官を兼務した.防諜及び諜報にそれぞれ責任者として事務官を置き,特務兵を駆使し"スパイ活動"を開始し113たのである. この機構には中央から地方まで,日本人以外の者は一人も入れなかった.

もちろん密偵として中国人,朝鮮人,蒙古人等を使用したが,その価値がなくなったと考えた場合は,秘密を洩らす危険があるといって,ほとんど暗殺していたのである.

このような任務を与えられて設置された保安局は"ソ同盟や外蒙との国境接壌地区に"重点が置かれた. 特に偽国軍の機構であった「国境看視隊」が,一九三八年五月に偽満警察に移譲され「国境警察隊」となったが,この警察隊に対し保安局は「諜報,防諜」業務上の指揮監督を持ち,国境地区の警察を全面的にその指揮下に入れたのである.


偽保安局のたてなおし

ノモンハン事件をしゃにむに起こした,日本陸軍の精鋭といわれた関東軍は,頭を抱えて遁走し,その醜態を全世界にさらけ出した.だが,あれだけこっぴどく叩かれても,性こりもなく対ソ侵略の準備と偽満統治の強化を押し進めて行った. 彼等は口を開けば「ノモンハン事件の教訓に鑑み,防諜体勢の強化が必要だ……」"ノモンハン事件は秘密戦の敗北が何よりの原因だ"と,わめき立てた.

偽満州国内においても彼等は,枕を高くしていることはできなかった. 一九三九年から四0年にかけて,日本軍隊を初め憲兵隊,偽警察隊,偽満軍,鉄道警護隊等々の各武力機関を総動員して,抗日連軍の武力弾圧を行い,ようやく抑えたと思ったのもつかの間で,彼等の予想は全くはずれた.抗日連軍は地下組織をつくり,ますます愛国の活動を活発化してきた. 八路軍工作員の熱河2を通つての114進出は,その数を増し,新しい力が下から沸々と湧き上がっていた.それは武力で抑えられていた人民の憤激と,祖国を愛する熱情と中華民族の誇りが,猛然と日本侵略者に対する反抗に転じてきたことを物語っており,中国人民は言わず語らずのうちに団結した.

加えて国民党の地下組織である陳立夫の指揮する藍衣社の抗日組織も偽満の中国人官吏の中に働きかけられ,その組織を拡大している事がわかった.こうした諸情勢は,関東軍統帥部をいらだたせた. そして関東軍参謀長は「保安局の整備強化」を命じた.

創設当時の三百万円の予算は,一千万円以上を突破した.偽中央保安局長官混谷三郎3は,この方針をただちに実行に移した.中央では従来第三科の一機構であった,郵便検閲機構を一九四0年始めに第六科として独立させた. さらに交通部から,無電探知器による電波防諜機構を引き取り,第七科を新しく設置した.同時に哈爾浜4,牡丹江5,三江6,間島7,黒河8,海拉爾9に各々「郵検」「防電」の機構を新設した.

防電の機構班は「固定探知班」「遊動探知班」に分かれて,国境地区や国内の重要都市,交通要衝に配置し,無電情報工作者の探知を開始した.

地方組織は一九三九年末までに,各省公署所在地に地方保安局を設け,全東北にその機構を確立した.この時期が,いわゆる保安局の"表面的"機構整備の時であり,それはまたノモンハンで惨敗し,その体勢を整えるまでは,ソ同盟,蒙古に対し鳴りを静め,いわゆる「刺激を与えない方針」の時期でもあった.

115だからといって日本軍国主義者がソ同盟の極東軍の動向を探る事を休んだのではない. なぜか? それは始めからソ同盟を敵視している関東軍の死活に関する問題であり,スパイを不法越境させ,スパイ活動をやる方面で若干「消極的方針」をとっただけである. どうしても必要な場所,例えば北満の黒龍江10対岸の,ビロビチャン11地区等は,三江保安局の安藤明12が終始諜者を投入して情報を蒐集していた.

また一九三九年初め,偽間島省地方保安局理事官の富直明13は,偽琿春14国境警察隊馬滴達15中隊長栗田16に命じ,対ソスパイとして物色させた.元外務省外勤特務朝鮮人高康院17を,ノモンハン事変中にソ同盟領ポセット18地区のクラスキー19に投入させたが,その後,高康院が阿片隠者である事から,阿片を与え,あるいは延吉街20の朝鮮人娼妓を見受けしてやり,その獣欲を満足させる等の方法で手なづけ,ひき続き操っていた.

この「工作」永富21をとって「お富(とみ)工作」と呼び,諜報係主任属官,猿谷菊次郎22に操縦させ,ポセット地区の軍情スパイを行っていたのである.スパイ投入を「消極的」にしたが,これを補うために「向地監視」による諜報を強化した.国境の主な所には,高い望楼を立て,双眼鏡で朝から晩まで,立ちづくしでシベリヤ23鉄道を通過する列車の種別,車輛数,積載貨物の状況,飛行機の演習状況やその種別,部隊の移動,巡察兵の種別,方向,爆破や音響の種別,方向,距離,人や馬の状況から建設,耕地等々に至るまで,ちょっとしたことでも見逃さず報告させた.

こればかりではなかった. 哈爾浜では,ソ同盟領事館に対しての公然たる挑発行為がますます積極116的になった. 領事館の正面に秘密アジトを設け,昼夜の別なく監視した.領事館の門前に紫外線を通じておき,出入りするたびに,遮断された紫外線は,アジトのベルを鳴らした. 全く蟻一匹通さない意気込みであった. 出入りの者は備えつけてある望遠レンズ付きの写真機でただちに写された.もちろん館員の外出には尾行がきまってなされた.

以上のようにこの組織はまず,表面機構の整備から始め,逐次密偵組織の拡大整備へと力を入れていった.


中国人民の尖鋭化してきた愛国活動を弾圧するにはどうしても,保安局としては,手足である密偵組織を「整備」せねばならなかった. 国境地区では「特別工作班」という密偵組織を作った.この中には抗日連軍の武力弾圧の時採用した「特捜班」をそのまま地下に潜らせて「特別工作班」としたものが多かった.

ではこの「特別工作班」とはどんなことをやったのであろうか?

国境地区の間三江省地方保安局では一九三九年理事官となった島村三郎24が佳木斯25特別工作班をまず作った. 島村は京都帝大出身で,後に保安局の三羽烏の一人といわれた男で,特務活動では「辣腕」をふるった.

彼が眼をつけた男は,撫遠26県国境警察隊特務警察官で「在家裡」二十三代の教徒,遠座建児27であった.当時佳木斯には,二十二代の教徒陳裕如がいた.三百人近くの教徒を一手に握り,隠然たる勢力117をもっていた. 「在家裡」といえば,日本の「ヤクザ」みたいなもので,「義理堅く」先代には絶対服従であった. 彼等は香をたき,鉢の水をすすり合ってその誓いを堅めた"邪教"である.

遠座にこの「在家裡」とわたりをつけさせ,スパイ活動をやらせる目的で,佳木斯特別工作班長とした. 遠座は佳木斯市中央大街の一角に「興隆公司」の看板を掲げて,土木請負事業を偽装した. そこでまた手先密偵にするため,撫遠で雑貨商をしていた中国人郭紀文28を連れてきて,同昇永百貨店を開かせた.資金は阿片をどしどし閣で流して作るのだから造作はない. 一躍,相当の百貨店に仕上げ,こうして地盤を築くとともに,その魔手を拡大していった.

このように配置した佳木斯特別工作班」は,さっそく暗躍を始めた. 富錦29でソ同盟より来た情報工作員と思い込んで逮捕した中国の平和な農民が奉天30の北陵に,その組織がある"と語った事から,遠座の部下は奉天にぶつ飛んだ.だがこのことは,拷問によって意識が混沌として語られたことで,何も得るところはなかった.

妻子が夫を尋ねて佳木斯に出てきたと知った遠座は,慌てて島村に報告した. 島村はいとも簡単に"後がうるさいからやってしまえ"「諜者」を松花江31で殺害し,死体を流して知らぬ顔をした.

一九四一年一月末,春節も間近にひかえて佳木斯の街は,いくらか賑わっていた.しかし夜ともなれば人一人通らない静寂に変わる. この時,一台の自動車が郊外から疾走してきで,松花江岸についた.

後手に縛られた抗日連軍関係の中国愛国者一名が三人の日本人特務に囲まれて氷を渡って中ノ島32118着いた. 突然,後から安藤工作班の片野興喜夫33が日本刀で斬りつけた.手元が狂って肩先からサーッと血が流れた. 中国の愛国者は雪を蹴ちらして走った. 慌てた太田34属官は,拳銃で射った.バッタリと雪の中に倒れたところへ追いついた圧司は,日本刀で横腹を切り開き,肝をとり出して殺した. これが「特別工作班」の正体である.


牡丹江市東一条路といえば,一番賑やかな所で,そこから西に七星街の道路があり,一軒の小ぢんまりした家があった.出入りする者も協和服を着たり,背広を着たりしており,"ははぁ……ここは土木請負業の事務所だな"くらいにしか感じられなかった.

ここが当時,悪名高い"オトミ工作"の本家本元である. 地下室に四個の留置場を持ち,拷問室まで備え,取り調べ室もあり,いくら声を立てても地下から地上に漏れる事は絶対になかった.

牡丹江特別工作班長山田外免治35は,一九四0年九月から一九四一年八月まで部下の特務と密偵を使って,浜綏36沿線の横道河子37,ヤブロニー38,ムーリン39,渡河40,八面子41に居住する無国籍ロシア人を三十数名逮捕した.

ノモンハン事件当時,偽興安北42省地方保安局長をやり,その特務の手腕を買われた中島健治43"重要な省"偽牡丹江省地方保安局長となってこれを指導していた.

拓殖大学出身で柔道三段の「猛者」理事官中村宣也44も,牡丹江の陸軍特務機関長兼参与の土屋45大佐もソ同盟の諜報地下組織だと手を叩いて祝杯を上げた.

119彼らは我が意を得たりとばかり,力こぶを入れ,取り調べを進めさせた. 七星街アジトの地下室からは,毎日毎夜,"鞭の音と罵声""苦痛にうめく唸り声"の絶え間がなかった. 調べれば調べるほど,事件はますます暖昧となり,結論は"密偵の偽情報であり,根も葉もない"という真相がはっきりしただけであった.

いまさら帰したら,保安局の秘密が暴露されると鳩首協議した土屋,中村の「首脳者」は,いつもの手段で"片づける"と簡単に決めた. 全く人の生命を何と考えているのか,恐ろしい話である.事実,保安局に逮捕され生きて帰った人はなかったのである.

一九四一年九月上旬,高梁畑の道を通り抜け,牡丹江市西方の拉克山46に向かって自動車は走った.

現場に着くと無国籍ロシア人男七名が拷問によって痩せ衰えた体でトラックから降ろされた.

二十四,五歳のやはりロシア人の女は,金髪を静かに押さえ,真っ青な顔で歩いてくる.二名の中国人もいる. 既に穴は掘られてあった. 黒い背広を着た土屋大佐は,穴の渕に座らせた十名の人々に近づき「武士の情だ.最後に言う事があったら聞いてやる!」と震え声でいった. 何の理由もなく,何の罪もない人を殺すのに,何が武士の情だろうか…….

新米の市原利行47は,一番先に左側に座らせていたロシア人の後頭部に拳銃を突きつけて射った.死体はもんどりうって穴の中に落ちた. 特務機関の佐藤48通訳は,女の後にまわり,射った.特務機関の原田49大尉[中野スパイ学校出身]も保安局の塗木50も,張本人の山田外免治も皆射った.

紅葉した拉克山の静寂を破って,銃声は広がって行った.ただ土屋大佐と中村宣也だけが傍らで120腕を組んだまま,じっと眺めていた. まもなく彼らは,血海の中で苦悶している人,既に冷たくなった人々の死体に土をかぶせて,何食わぬ顔で引き上げた.

このようなことは全東北にわたってなされた事で,これはその例にすぎないのである.


特諜班とは……

保安局は「客観情勢」の変化に伴って,絶えずその組織も,暗躍する方法も,いろいろとその形を変えてきた. また,そうしなければ,彼等の狙う「獲物」をつかむことはできなかった.

武力弾圧の時期から一時的ではあったが,いわゆる「治安の落ち着き」を見た時期に,保安局が国境地区にスパイ組織として作ったのが,先に述べたように「特別工作班」であった.

しかし彼等はもともと特務警察官から保安局の指揮下に変わったもので,ただ表面的に偽装し,私服を着ていたに過ぎなく,特にその多くの者が上衣の下に拳銃をぶら下げ,黒い表紙の手帳[警察手帳]をふりまいていたので,だれ一人特務である事を知らない人はなかった. このような事では,地下に潜んで活動されている愛国者の人々を捕らえる事はできなかった.また,国内外の諸情勢も,ますます緊張してきた.


一九四一年五月永富は中央の第三科長代理の椅子に座った.この第三科というのは,いわゆる「防諜」を担当する所で,中国共産党や国民党,朝鮮51独立運動等の愛国者を弾圧し,また,ソ同盟の援助121による情報工作者及び各国諜報機関の弾圧を計画指揮する所である.防諜と諜報は,保安局に課せられた任務であり,この第三科は,いわば保安局の実際活動の中枢であった.

永富は科長代理であったが,科長欠員のため事実上の科長としてただちに暗躍した.彼がまず目をつけたのが,特別工作班の大改革であった. 永富は「秘密戦には秘密が生命である」 「敵が高度な秘密をもってすれば,我方はさらに徹底した秘密の方法が必要である.これがためには,徹底した秘密組織を作らねばならない.現在のような偵諜組織では保安局の任務は果たすことはできない」 と考え,日本で警視庁の特高係警部補をやっていた男で,保安局創立時に薄田美朝52が呼んだ,部下の小島高二53を助手としてこの改革案の作成に着手した.

ちょうどこのように準備している真っ最中に独ソ戦が始まって,事態は急変し,この計画は一挙に押し進められ,今まで国境地区にあった"特別工作班"を解散し,新たに「特諜班」を組織することとなった. 国境地区では,一九四一年八月から特別工作班を解散し,その中で「特諜班」として残す必要がある者以外を整理し,欠員は地方人から採用することになり,国内地区では今年中に準備を完了し,翌年から実施させることになった.

この「特諜班」というのは,日本人を班長とし,五名内外の各民族を班員とし,班長以下全員徹底して身分を隠蔽させる. ……そのために旅館,飲食店,会社員,官吏,その他のあらゆる職業につかせ,その行動もまた,いかなる制限も加えないし,必要な費用の一切は保安局から支出することにした.

122では「特諜班」は,どのようにして作られ,どんなスパイ活動をしたかの二,三の事例を上げよう.

関東54軍牡丹江野戦鉄道司令部附大尉,明石憲次55は,同僚である林口経理部の主計中尉大久保56とともに,牡丹江市の日本人青年層に食いこみ「日本軍国主義思想」を宣伝し「アケボノ・グループ」を組織していた.

この「アケボノ・グループ」の中心的な活動をしていたのが,偽満の交通部牡丹江土木工程処警備班長市原利行,牡丹江省公署土木科技土*技士*井関利雄57,牡丹江市協和会職員新関員夫58,牡丹江省公署土木科技士葉田野辰伍59等であった.

彼等は,天皇裕仁60「絶対者」とし「天皇こそ世界に君臨する統治者である.だからこれに対して背くものは,正剣をもって断つ.これは真理だ」……と,たわごとを妄信していた.

妄信ほど恐ろしいものはない.鰯の頭も信心すれば,自分の幸福をつくってくれる大明神に見えるのだから,特に日本では蛇や狐狸を拝んだりしてきたし,いまでも,お灯明を上げたり,家屋敷をお寮銭にあげ,食うや食わずの生活をしている.自分の両親や,祖父母が,どんなにか苦しめられ,痛めつけられ,泣かされてきたかわからない支配者に,両手を合わせて拝む人々が多い…….といって,私達は,これらの人々を嘲笑したり愚かな人だというものでもない. なぜならば,私自身が天皇は神様だと信じていたし,また日本は戦争に負けると考えながらも,やはり「神風が吹くかもしれない」と空頼みにしていた愚かものであったからである. ,

本筋からちょっとはずれたが「アケボノ・グループ」の連中は,毎週土曜日に省公署前にある,123興亜塾に集まり,四五0名の者に天皇主義を宣伝した. 時には軍人会館で弁論大会を開いて怪気炎をあげた.

二十六歳になったばかりの市原は,ファシズムの波にもまれ,すっかりのぼせあがっていた.偽牡丹江省地方保安局理事官中村宣也と明石大尉は,早くから気脈を通じていた. 明石は市原を中村に紹介した.

当時牡丹江保安局では,独ソ戦の開始や「関特演」等の状況に伴ってかねて準備していたところの「戦時有害分子」の暗殺事件を陰謀していた. 中村は牡丹江市内明街にある,ソバ屋「両国」[保安局のアジト]の二階に市原を呼んで,酒を呑みながら「男と見込んで頼む,国のためだ」とすっかりおだてあげた. 柔剣道初段の人一倍征服感の強い市原は,二つ返事で承諾した.だが,中央の指示によって,愛国者大屠殺の陰謀は未遂になってしまった. しかし,食いついたら離さないのが保安局である. こうして,市原は特諜班長となって,中村宣也の魔子の中に自ら転がりこんだ.

日本に帰ると称して,交通部を退職した.彼は日本に帰るどころか,さっそく牡丹江市内の清福街にある中国人家屋に潜りこみ,姓名も明石貞一と偽名し,約半年,日本人街にも顔を出さず,隣近所の中国人に接近し,生活の困難な人に「米を与え」病人を見ては「薬や砂糖を分けてやった」. 日常生活は高梁飯やトウモロコシの飯を食った.

このようにして牡丹江市道徳会宣伝服長伬文山61に食い入り,自ら「在家裡」教徒としなって「巧みに」身分を隠していった.

124そして彼は,牡丹江鉄道局食堂呂青山62,牡丹江郵政局鄭弁善63,日満製粉の干64某,等を密偵とし,遊動密諜者として呉風海65等を獲得して情報を蒐集した.もちろん,このような班員[民族の裏切り者となった密偵]には,どんどん金や阿片を与えた. そして「秘密をばらしたらすぐに殺すぞ」と脅迫して,その身分を秘匿させた.

スパイ活動をやるには,やはり一定の知識と経験とカンの鋭さを必要とされた.この点からいって,市原のように,ずぶの素人ばかりでは,軌道に乗るまでは相当の日数が必要であり,それまでの間,保安局の業務を放っておくわけにもいかなかったので,ただちに役立つ特諜班長も当然必要であった.その例を一つ上げてみよう.

東安66省密山67県平陽68鎮警察中隊の特務係警尉補日野69需は,やくざ性が強く,人を殺すのを何とも思わない男で,いわゆる「腕利き」といわれていたが,突然中隊長に呼びつけられ「お前は没収した阿片十両をごまかした」また「この前,警察官宿舎を建築する時に,昭和公司と結託して,公金を着服した」と,散々叱りつけられ,日野がいかに釈明しても,受けつけられなかった.

そして「お前の日頃の生活や行動を見てみろ,警尉補くらいの俸給であんなぜいたくなことができるか」と怒鳴りつけられ,ついに懲戒処分にされた.

日野が警察を首にされたことは,狭い平陽鎮では噂が噂を生み,ただちに広まり,だれ一人疑う者はいなかった. 日野は妻子を連れて東安市の八千代旅館に一時の宿を求め,思案に暮れた.今まで肩章に物をいわせてきた生活から,急にぺこぺこと頭を下げる気にもなれず,やけ酒を呑んで日を125送っていた.

このように,十日程過ぎたある夜,偽密山国境警察本隊工作主任の宮城70属官がひょっこり尋ねてきた.

「局長の田坂又十郎71と理事官の石田益72や,佐藤73事務官が仕組んだ芝居だよ……君にぜひ"特諜班長"になってもらいたいと思ってね……この仕事は実に莫大で……それに絶対秘密を要することだから……」といろいろ説得した.

日野は,以外なことに驚いて,すぐ返答に困ったが……"よし,それほどいわれるなら"と,すすんで引き受けた. それから一ヵ月後には,黒台74村で堤防工事に山東75から三千名の労働者がきた. 吉田76組の工事現場の労務主任として潜りこみ,八路軍地下工作者や,ソ同盟の援助による抗日連軍の地下工作者の索出偵諜にあたった.

このようにして組織された特諜班は,一九四二年末には定員の一00ケ班に達し,四十三年には一五0ケ班,四十四年には二00ケ班,敗戦時の四十五年には定員が三00ケ班になっていた.

これらの特諜班長は,その下に異民族の班員,すなわち,特務密偵を使い,また利用者といっては,日本人のごろつきや,利権漁りの金儲けのためなら,どんなことでもやってのける者を手下としていたのである.これらの密偵を利用し「工場,鉱山,会社,土木現場,街の繁華街の料理店,飲食店等々,また,無住地帯に残っている一軒家にいたるまで,十重二十重に,スパイ網を張りめぐりしていたのである.

126"温存"から弾圧へ

南方戦線では「勝った勝った」と騒いでいるとき,命の綱と頼みにしている偽満州国は,日一日と崩壊への道を早めていたのである. このような国内外の情勢に伴って関東軍は対満弾圧政策を変更したのである. 一九四三年五月中央の参与として新任した武部松雄77中佐は,その着任あいさつの際「関東軍は南方作戦に全力を上げて協力する.しかしロシアは宿命の敵であり,将来必ず一戦を交えねばならぬ相手である.我々はここから警戒を緩めてはならぬ,目下の諸情勢から彼らは国内の反満抗日組織を利用し,関東軍に対する"諜報"と満州国に対する"謀略活動"を積極的にやる事は,必定である.軍はこのような情勢に対処して,従来の"温存培養"方針を一擲して"即時易扶弾圧"方針をとる事にした.また保安局が創設以来とってきた,国境重点主義と敵の諜報に対する防諜重点方針を国内に対しても国境と同様に力を入れ,殊に政治,思想,経情*経済*等の謀略に対する防諜体勢を強化せねばならぬ……」,方針を示したりこの新任参与のわめき声は,保安局の全機構を色めきたたせた.

かくして"国境地区から全面的に"……. 諜報に対する防諜重点から謀略に対する防諜への積極化……は,保安局業務のいわゆる「一大転換」であった.

この転換に必要な事は,特諜班を中心とするスパイ組織の整備強化と,これまでいわゆる「温存培養」してきた「事案」の処理であった.

地方では特諜班長や,その配下密偵の獲得を急ぐとともに,従来からあった工作係で,半公開的に使用している密偵組織を強化,偵諜してきた者をかたっぱしから逮捕し始めた,その典型的若干の127事例を上げると……潜

東安省密山県黒台街に潜っていた特諜班長日野需は,一九四一年九月初め,密偵差蚋78から密山平陽希賢比79と公所職員を中心とする中国人農民の中にソ同盟諜報組織がある」と報告をうけた.

こおどりした日野は,ただちに偽東安省地方保安局に報告し,その後の動静をスパイしていた.中央の方針を受け取った局長田坂又十郎は、一九四二年六月上旬石田理事官,鈴木80事務官および偽密山国境警察隊特務隊長佐藤81等に命じて,これらの人々を一斉弾圧する事を命じた。

深夜をついて希賢比を襲った。特務どもは何も知らず寝ている平和な人々を片っ端から逮捕し,豚のように手足を縛りあげ,自動車につめ込んで,密山に引き上げた。

これらの人々の中には親戚であるという事だけで,あるいはまた親しい間柄であるという理由だけで,逮捕されたものが多く,中でも妊婦の方や五0歳を越えた老婆等六名の婦女も含まれていた.これらの人々は,特務どもの残虐非道な拷問をうけられ,殊に数名の人々は,無実の罪をきせられ東安の保安局収容所に送られ,ひそかに殺害されていった.

また,国内地区においても,中央の方針はただちに実行に移された.偽錦州82省地方保安局理事官井上義夫83は事務官手塚良夫84に命じ,工作係主任属官前田慶助85と工作係属官大畠伊三郎86を使い,一九四二年九月中旬の夕方,かつて「戦時有害分子」として偵諜していた,錦州市東門外居住中国人民黄某を,外出中に襲い,自動車に引きずり込み,猿ぐつわをはめ,麻袋で体を包み,秘密連絡所「清風荘」に連行し,その後錦州市警察局の留置場に移して,一ヵ月余も拷問を加え,反満抗日活動の事実がある128との理由で,中央保安局に送り暗殺した.

"黒い塀"の収容所

収容所!! それは中国人民から「黒い塀」[収容所の塀が黒煉瓦であったことから]と呼ばれ,憎悪の眼で見られていた所であった.この黒い塀の中に入れられた人は,再び人間として,この門を出ることはできなかった. まことに恐ろしい「人間屠殺場」であった.

秘密機関として作られた保安局であるから,高度の秘密性と超法律的な活動が必要であり,そのためには独自の「秘密収容所」を設けねばならぬ,と言って,一九三八年末頃から逐次各地方保安局にこの「収容所」を作ったのであるが,先に述べた,偽三江省地方保安局理事官島村三郎が,一九三九年九月に作った「三島化学研究所」もその一つである. ではこの「黒い塀」の中で,どんな事がなされていたであろうか?

私達は,自らこの手でやり,この眼で見た幾つかの事例を上げて,その実態をこに紹介しよう.


一九三九年夏,中央の第一科長から偽浜江87省地方保安局長となった秋吉威郎88は,着任して間もなく,哈爾浜89市道裡大街道裡監獄の一角にあった,偽哈爾浜警察庁刑事科専用留置場を改造して,収容所とした.

この収容所は独房が八つ,五,六名収容できる部屋が七つあった.それに取り調べ拷問室が四つ129あり,拷問用の皮鞭,竹刀,水責め用の長椅子,拷問用電気椅子を始め,拷問に必要と思われる一切の用具がぎっしりとつめ込まれている部屋が一つあった.

看視にあたる特務達は,看守長の斉藤賢太郎90を始め,五,六名の者が皆,特務刑事や司法刑事の経験を持った者のみで人を殺すことや殴ることが,飯より好きな悪鬼どもであった.監禁されている人々は中国愛国者や,無国籍ロシア人で,いつも十名より減ったことはなかった.これらの人々は,零下十数度の真っ暗い監房の中で,一枚の毛布と高梁粥一杯に,つけもの一切れを与えられるだけで,飢餓と寒さに苦しめられ,その上,朝は水責めだ,伎は電気拷問だと,特務兵の残虐非道な拷問を受け,万魁の恨みをのんで殺されていったのである.このように残酷な目に合って殺された人々は,はたしてどんな人達であったろうか?

一九四一年関特演が終わって間もない十月中旬,偽浜江省地方保安局官属官兼哈爾浜市警察庁特務科附特務であった泉屋利吉91は,密偵として使っていた中国人某[当時三十五歳]「阿片飲者であるからここの秘密を暴露する危険がある」との理由から,密偵を街頭に呼び出し,自動車に詰め込んで覆面をかぶせ,この収容所に放り込み,当時使用していなかった物置同様の十号室に監禁した. 泉屋は看守長の斉藤に「奴は特別な理由があるから俺が連絡するまで一滴の水もやってはならぬぞ」と強く命じて引き上げた. 密偵は狂いまわった. しかし看守達は見向きもしなかった.彼は遂に十一日目の真夜中,指先がザクロのようになった左手に,壁土をしっかと握ったまま冷たくなっていた.

斉藤の報告を受けてその夜やってきた泉屋は,密偵の死体を泥靴でポンと蹴っ飛ばし「ク夕ばった130か,フフン」と不気味な笑いを浮かべながら自動車で死体を運び去った. 二,三日してやってきた泉屋は,斉藤に「手間のかかる奴は片づけた方が早いよ,奴の死体は馬家溝92の公園に行路病者のようにして捨てた.今頃は野良犬の腹の中にでもはいっただろう」と,平然と言ってのけた.

「阿片飲者だから秘密がばれる?」 阿片飲者であることは密偵にする前からわかり切っていたことである.おのれの悪事がばれる事を恐れた泉屋の残忍狡猾さは,まさにファシスト特務の正体であろう.


五月といえば,氷にとざされていた,松花江はも,すっかり解氷,哈爾浜の人々に春の訪れを知らせる頃である.独蘇戦だ,太平洋戦争だとあわただしかった一九四一年も過ぎ,不気味な重苦しい四十二年五月下旬だった. ある朝出勤したばかりの看視長斉藤に,事務官の山寺93から「中央の第八科から技士の方がこられて,注射液の『試験』をやるから,三肇94地区の五名を準備してくれ」と電話で命令を伝えてきた.

この五名の人々というのは,一九四一年三肇地区「粛正」弾圧のとき,泉屋の手で逮捕され,約一ヵ年もここの水責め,吊上げ,電気等の残虐非道な拷間取り調べを受けたが,これに屈することなく闘争してきた勇敢な愛国者達であった.手を上げた泉屋は,理事官の重富貢95「これ以上絞っても出ませんから,片づけたいと思いますが」と意見を具申した. 重富も,「いまさら病院に送るわけにもいかず,それかといって釈放すればここの秘密が暴露するから」と,泉屋に同意して,中央にその処置131を申請したのであった. 中央では第八科長の薬学博士元吉96が,毒殺用薬品の「試験」をやろうと企んでいたところなので,さっそく技士を派遣したのであった.

収容所にきた技土は,斉藤とはかり「伝染病が発生したので,予防注射をやる」と欺瞞し,技士は白衣をつけ,いかにも医師のごとく装い,人ひとり取り調べ室に呼んで,静脈注射をやり,次々と殺害していった.死体は道外の「乞食収容所」屍屋に運び,市公署の衛生車で,大平橋附近に放棄させたのであった.

このような方法で中国人民を始め,ソ同盟人,無国籍ロンア人,朝鮮人民を殺害した例は非常に多いのであるが,ここではこの一例で止めたい.ただ付け加えておきたいのは「中央の第八科とはどんな事をやるところであるか」ということである。

第八科とは「化学を相当する科」である. ここでは,暗殺用注射液や飲食物へ混入する毒薬や麻酔薬から,放火,破壊用の器具や,密偵の尾行張り込みの際に使用する変装,偽装用具等の研究試作を行っていたり

科員は,科長の元吉を始め,数名の医師の外に,薬剤師や,カツラを作る技術に至るまで,十数名の専門技術者を集め,殊に奉天大医科大学の屍を収容する建物の一部に,こっそり「分室」を設けていた. いつ設けたかは確実でないが,一九四三年春頃には医師と助手が二,三名配置されていた.これらの場所で試作されたものは,前述のような方法で,その効力試験をやった後,各地方保安局に配付されていたのである. 一九四四年夏,林西弁事処で「戦時有害分子」として偵諜していた人々を暗殺132した際使用した毒薬も,ここで作られたものである.

収容所の中で殺害した方法は,注射薬や服用薬物を使用する方法のみではなかった.残酷な拷問により,殺害された人々や,餓死させた人も少なくない. 次に述べるのは,やっぱりハルピンの収容所で虐殺した事例であるが…….

一九四二年七月泉屋利吉の手で逮捕され監禁されていた中国愛国者五名の暗殺事件である.偽哈爾浜警察庁特務科留置場でさんざん拷間取り調べをした泉屋は「どうも証拠を吐かないから,叩き殺すまで締めてみよう」と,理事官の重富に相談し,この収告所に移したのであった.中国愛国者達は,手錠足錠をかけられた上に,頭から毛布でぐるぐる巻きにされ,屠殺場に運ばれる豚のようにして連れ込まれた.

翌日から泉屋は拷問を始めた.両手を後にまわし,天井から麻縄で吊るし上げ,愛国者が気を失えば引き降ろして水をぶっかけ,また吊るし上げる. それでも手ごたえがないといえば電気拷問をやり,遂には二日間も水一滴も与えなかった.これには鬼のような看守達でさえ,目をそらさずにはいられない程残虐なものであった.

しかし,泉屋が逆上すればする程,これらの人々は冷然として,少しも動じなかった.

「俺の手にかかったらどんな奴でも物にしてみせる」と豪語していた泉屋も,遂に手を上げた.理事官の重富も泉屋があれ程やっても目鼻がつかなければ片づけてしまえ」と,泉屋の暗殺意見に133同意した.

ハルピンの七月と言えば,真夏である. 収容所からすぐ近くの松花江の河畔では,日本人達が中国人民の膏血をしぼった金でビルをあおり,貨ボートの上で馬鹿騒ぎをしているとき,ここ黒い塀の中では,祖国を愛し,民族を愛し,平和のため,勇敢に闘われる中国人民の偉大な息子達が,日本帝国主義の特務達によって暗殺されようとしている.

斉藤看守長は看守達に夕食の準備をさせていた.四,五日姿を見せなかった泉屋は,ヒョッコリとやってきた.夕食の分配がすんでいない事を聞いた泉屋は,安心したような顔つきをして,カバンの中から,ストリキニーネを取り出し「食事に混ぜて食わせろ……」と命じた. 斉藤は看守の藤井97と田上98を伴って,炊事場に出かけた.炊事婦として使っていた看守田上の妹を遠ざけ,準備されてある高梁飯にストリキニーネをふりかけ,田上と藤井に運ばせた.

看守詰所で泉屋を始め看守達はいらいらしながら二十分も待った.見張っていた藤井は「やつらのようすはおかしいです.いつもと少しも変わりません」と報告してきた.

慌てた泉屋は「確かに入れたね」と斉藤に詰め寄った. 斉藤も狐につままれたようにポカンとしている.たまりかねた泉屋は先にたって監房に走った.監房の中では藤井が報告した通りであった. 斉藤は錠を外して中へはいり食器をとり上げたが,一粒の高梁も残っていない. 「確かに変だ」 斉藤は田上に命じて毛布をはぐらせた.特務どもの野蛮卑劣なやり方を人民は見破らずにはおかない. 憎悪と憤怒のこもった高梁飯は,床の上に叩きつけられであった. 泉屋は真っ赤になって地だんだ踏んだ.

134看守詰所へ帰った泉屋はかつて一度も頭を下げたことのない斉藤に斉藤君,何とかうまい方法はないかね」と相談した. 斉藤も看守長に選ばれたくらいの男だから,すぐ一策を進言した. 泉屋はどんな方法であっても殺害すればその目的を達することができるので,ただちに同意した. 斉藤は「腕前を見せるのはこの時」とばかり看守達に命じて準備を始めた.

すっかり準備された取り調べ室に,田上が背の高い三十五歳くらいの頑健な体格をした一人を連れてきた.獲物をねらう狼のように,看守達は一斉に飛びついて,タオルで猿ぐつわをはめ,麻縄でガンジガラメに縛り上げた. 部屋の中央には満水にされたバケツが置いてある. 斉藤の合図で愛国者の体は宙に浮いた.逆さまにされた頭がバケツに突っ込まれた. 既に覚悟していた愛国者は,顔色一つ変えず,無言の抵抗を続けながら死んでいった.

収容所は附近にあるロシア正教のサボルナヤ99寺院より,日没を知らせる鐘は,愛国者の死を悼むように聞こえてきた.このようにして残った四名の人々も暗殺されていった.


それから二カ月後外事係相沢雅一100の手によって,この収容所に入れられた無国籍ロシア人も,拷問で虐殺された. 相沢は事件の暴露を恐れて薪割斧で顔面を無茶苦茶に叩きつぶし,三棵樹の鉄橋の上から死体を松花江に投げ込んだ.

興安北省地方保安局では,一九三八年末ハイラル101市警務庁裏に収容所を作り,三十九年始めから使用を始めた. その後幾度か改修し,一九四三年には独房三,大部屋八,取り調べ室三の外に,135看守室,炊事場,自動車運転手室まで整ったもので,四十余名を監禁できる大きなものである.このような規模の大きなものは,大きい警察署ですら持っていない事は,人々のよく知っているところであろう. このことからしても,偽興安北省地方保安局が,どれだけの中国人民愛国者を始め,ソ同盟や蒙古人民共和国の平和人民を監禁し,屠殺していたかは,想像に難くないことである.この収容所は,愛国者を拷問屠殺する場所として使われたのみでなく,ソ同盟や外蒙に対するスパイの「養成」「休息」の場所としても使われていた.

一九四五年八月,日本帝国主義が無条件降伏したとき,二十数名の人々を監禁していた事実からしても,常に数十名の人々が監禁されていた事は,疑う余地のないことである.この屠殺場でどのような事が行われていたかは,前述した哈爾浜収容所と大同小異であり,新たに記述する必要もない事ではあるが,一つの事例を述べることにしたい.


中央で各地方保安局の防諜担任事務官と主任属官を集め,教育演習をやって半年もたたない一九四三年十月,局長の大塚善吉102は,理事官河上修103や事務官の山田外免治とはかり「少しでも疑わしい奴は容赦なくつかまえろ」と各国境警察隊の特務長等は保安局の事務[彼らは保安局の事務員または属官の兼務者である]に厳命した. このような命令がなくとも,おのれの立身出世のためには目のない特務達ではあったが,局長の厳命とあれば,このときとばかり私服特務や密偵を追回して「特種」あさりに躍起となった.

西額旗キラムト警察本隊蕪木104特務隊長もその一人であった.部下が使っている密偵から「中国人農民136劉某105[三十歳位]『警察に情報を提供する売国奴はアルグン河に叩き込んでやる』と部落民を煽動しています」と報告してきた. 蕪木は「こいつはソ同盟と連絡がある」と,ただちに逮捕し,残酷な拷問を加え,半死半生にして,この収容所に送り込んできた. 保安局では防諜隊中国班の班長であった属官の根岸106が,自らその取り調べを行った.しかし劉某は,沈黙の闘争を続け,十日以上も絶食して頑強に反抗した.残虐非道な拷問を浮け,長い間の絶食闘争で,劉某は遂に再起不能に陥った.理事官の河上や理務官の山田も,これ以上生かしておく必要もない,とはかり,一九四四年一月下旬,根岸に命じて毒薬注射で殺害したうえ,ハイラル市郊外に死体を放棄し,狼の餌にしたのである.

興安107地区の中国人民には,ホロンバイル108には二つの狼がいる,草原の狼は恐ろしくないが「黒い塀」の狼は恐ろしい,とまで言われていた. 二人集まって話をすれば,政治犯だと言って逮捕し,幾百年の長い友誼の歴史を持っているソ同盟人と話をすれば,通ソ容疑者だと言って逮捕され,同種民族である外蒙の人々と往来すれば,外蒙のスパイだと言って暗殺された.日本帝国主義統治下にあった中国人民の心情は,到底計り知ることのできないものである.

以上述べたように,保安局の収容所は,中央の直接管理している縁園街の東興109寮を始め,全東北に二十箇所の多数に上がっていた.王道楽土,民族協和の国だと宣伝されていたその裏では、今まで述べたような蛮行が,連日連夜行われていたのである.


137一九五六年七月二十二日

参加者

元偽三江省地方保安局属官特諜班長 志田己一郎110

元偽三江省地方保安局属官特諜班長 鈴木太助

元偽三江省地方保安局属官特諜班長 古川勇一111

元偽東満総省地方保安局属官特諜班長 市原利行

元偽黒河省地方保安局属官特諜班長 日野需

元偽錦州省地方保安局事務官 月足港112

元偽興安総省地方保安局林西弁事庁事務官 水埜公治113

元偽錦州省地方保安局属官 三品彦八114

元偽興安北省地方保安局属官 大池政行115

元偽浜江省地方保安局属官 斉藤賢太郎

元偽錦州地方保安局属官 大畠伊三郎

元偽中央保安局属官緑園学院助教授 興梠繁116

138


証言 保安局事務官 水埜公治

元満州国は,いわゆる建国精神論すなわち民族協和,王道楽土,一徳一心,道義世界を実現する目的で立国されたものであるが,その実体は皇帝には統治権はなく,関東軍司令官兼駐満全権大使がすべて掌握していた日本の従属国であったことは明白である.すなわち各民族は平等に権利を所有することになっていたが,響務機構内には日本のみの特別の偵揖室なるものがあり,室内外の出入りは厳重に禁止し,反満抗日分子の動静を査察していたのである.この組織がその後保安局管制となり,昭和十六年の関東軍の南方転出後治安強化のためさらに組織を拡大したのである.

この保安局は,関東軍情報部の領導を受け,地方では各地特務機関長より内面指導を受けていたものである.

保安局は非合法機関であり,職務遂行に当たっては,法治国家であるが,司法権の掣肘を受けず,蒐集した情報により,被疑者を警察を通じ逮捕させ,夜間極秘裡に自己の収容所に入れ,あらゆる訊問を行い,その結果白と判明しても,釈放せず処分し,秘密機関としての存在を秘匿していたもので,生きて帰さないのである.場合によっては,特別の待遇訓練をなし,国外の諜報要員として仕立てる. その他関東軍のかの生体実験で悪名高い,ハルピン郊外平房の七三一部隊に護送し,試験材料としての具に供していたのである.私は元満州国興安総省保安局事務官として昭和十八年より二十年五月まで,熱河省・内蒙古と隣接している興西117地区林西118県林西街に事務所があった責任者として謀殺,薬殺,大量の死刑執行等の大罪を犯しました.

139本保安局罪行史は,昭和三十一年中国撫順119管理所に収容された末期,中国当局の入所以来の人道的処遇と,罪を憎んで人を憎まずの寛大政策により,一貫して反抗し続けてきた私達が,やっと自己の罪を認め,鬼から人間に生まれ変わりつつあった頃,私達の意志で保安局の罪行を暴露し,事実求是により,一言一句に至るまで相互に点検したものです.管制下の自由を奪われた環境下で,当局の命令によって行われたものではなく,また自己の処刑を軽くする自己保身のものではなく,むしろ当時の認識では処刑は当然であるという心境で,自己の罪行を告白して,中国人民に襟を正しておわびをして認罪するための記述であります.

[1988・9]

 

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1 Dongbei -- die drei nordöstlichen Provinzen (遼寧省Liaoning・吉林省Jilin・黒竜江省Heilongjiang), d.h. die Mandschurei; auch: Dongsan東三.
2 Rehe, bekannt auch unter dem Namen Jehol; eine frühere Provinz der Inneren Mongolei, die 1933 von den Japanern der Mandschurei angegliedert worden war.
3 Mazeya Saburô, 偽中央保安局長官
4 meist ハルピン od.  ハルビン geschrieben: Harbin, Stadt nördlich von Xinjing, Hauptstadt der Provinz Heilongjiang
5 Mudanjiang, bezirksfreie Stadt im Südosten der Provinz Heilongjiang
6 Sanjian, frühere Provinz
7 Korean Autonomous Prefecture, a part of Jilin Province of the People's Republic of China (PRC). In China, Yanbian (延邊; Yenbyen 옌볜, or Yŏnbyŏn 연변 in Korean) is the usual name used, and Jiandao is rarely used, due to its association with Japanese occupation. North Korea and South Korea recognize the region as a part of the People's Republic of China, but there are some groups in South Korea that claim the region as a historical part of Korea.
8 Heihe, Fluß und Provinz
9 Hailar -- Der Stadtbezirk Hailar, ehemals kreisfreie Stadt Hailar, ist das politische und ökonomische Zentrum der bezirksfreien Stadt Hulun Buir im Autonomen Gebiet Innere Mongolei der Volksrepublik China.
10 Heilongjiang, Provinz und Fluss (= Amur)
11 Birobidschan Биробиджан, Jüdisches Autonomes Gebiet
12 Andô Akira, 三江Sanjian保安局
13 Tominao Akira, 間島Jiandao省地方保安局理事官
14 Hunchun ist eine kreisfreie Stadt im Autonomen Bezirk Yanbian, im Nordosten Chinas. Sie liegt in der Provinz Jilin, nahe der Grenze zu Nord-Korea und Russland.
15 Madida, Station: 間島Jiandao省琿春Hunchun県鎮安Zhen'an村馬滴達屯
16 Kurita, 琿春Hunchun国境警察隊馬滴達Madida中隊長
17 Go Gangweon, Koreaner, früher im Außenministerium, = Nagatomi 永富, Otomi お富
18 Malaysia
19 = グロデコウ
20 Yeon Gilga, Koreanerin, Geliebte von Go Gangweon
21 Nagatomi, siehe Go Gangweon 高康院

22 Saruya Kikujirô, 諜報係主任属官
23 Sibirien
24 Shimamura Saburô, 副県長 von Baicheng und Zhaozhou (= Sh. Saburô); geb. 1908, Verwaltung Geheimpolizei; im Juni 1956 in Shenyang zu 15 Jahren verurteilt, im Dez. 1959 entlassen; Vorsitzender des Vereins der China-Heimkehrer (Chûren); 1976 gest.
25
Jiamusi Bezirksfreie Stadt in der Provinz Heilongjiang und deren wirtschaftliches und kulturelles Zentrum, "östlichste Stadt Chinas"
26 Fuyuan --- located northeast of Jiamusi, is only 65 kilometers from Khabarovsk, the biggest city in Russia's Far East region. Apart from playing an important role in the opening up of Heilongjiang to Russia, owing to the convergence of the Heilong and Wusuli rivers, Fuyuan is a key port where Heilongjiang Province links up with the Pacific Ocean.
27 Enza Kenji, 撫遠Fuyuan県国境警察隊特務警察官
28 Guo Jiwen, 撫遠Fuyuanで雑貨商をしていた中国人
29 Fujin, Kreis in Heilongjiang
30 Fengtian, früherer Name der Provinz Liaoning, wurde unter japanischer Herrschaft wiederbelebt, nach 1945 abgeschafft.
31 Songhuajiang, Nebenfluß des Heilongjiang (Amur), fließt durch Harbin
32 Insel im Songhuajiang
33 Katano Kokio, 安藤工作班の
34 Ôta, 属官
35 Yamada ?, 牡丹江Mudanjiang特別工作班長
36 Bangsui, Bahnlinie
37 Hezi, Ort an der Bangsui-Bahnlinie
38 Ort an der Bangsui-Bahnlinie
39 Muling, Ort an der Bangsui-Bahnlinie, Mudanjiang Prefecture, Heilongjiang Province (Manchuria)
40 Duhe, Ort an der Bangsui-Bahnlinie
41 Bamianzi, Ort an der Bangsui-Bahnlinie
42 Xing'anbei, mandschurische Provinz (siehe Xing'an)
43 Nakajima Kenji, 興安北Xinganbei省地方保安局長
44 Nakamura Nobuya, 理事官
45 Tsuchiya, Oberst, 牡丹江Mudanjiangの陸軍特務機関長兼参与
46 Lakeshan, Berg westlich von Mudanjiang
47 Ichiwara Toshiyuki; auch: Akashi Sadakazu 明石貞一
48 Satô, Dolmetscher
49 Harada, Hauptmann
50 Nuki, 保安局の
51 Korea
52 Usuda Yoshitomo
53 Kojima Kôji
54 Guandong, alte Provinz
55 Akashi Kenji, Hauptmann
56 Ôkubo, Oberleutnant
57 Iseki Toshio, 牡丹江Mudanjiang省公署土木科技士
58 Niizeki Kazuo, 牡丹江Mudanjiang市協和会職員
59 Hadano Shingo, 牡丹江Mudanjiang省公署土木科技士
60 Hirohito, Kaiser 天皇
61 Vorname: Wenshan, 牡丹江Mudanjiang市道徳会宣伝服長
62 Lu Qingshan, 牡丹江Mudanjiang鉄道局食堂
63 Zheng Bianshan, 牡丹江Mudanjiang郵政局
64 Gan, 日満製粉
65 Wu Fenghai
66 Dong'an -- 中国黒龍江Heilongjiang省牡丹江Mudanjiang地級市の区の1; und Provinz
67 Mishan 1. Kreis in Dong'an 2. Ort in Hebei (5-4-25)
68 Pingyang, Gemeinde in Mishan
69
Hino Motomu
70 Miyagi, 密山Mishan国境警察本隊工作主任
71 Tazaka Matajûrô
72 Ishida Masu, 理事官
73 Satô, 事務官
74 Heitai, Dorf und Stadt
75 Shandong, chinesische Provinz
76 Yoshida
77 Takebe Matsuo, Oberstleutnant
78 Cha/Chai/Ci-rui, Spion 密偵
79 Xixianbi, in Pingyang, Mishan
80 Suzuki Tarô
81 Satô, 密山Mishan国境警察隊特務隊長
82 Jinzhou, Industriestadt in der Provinz Liaoning
83 Inoue Yoshio, 錦州Jinzhou省地方保安局理事官
84 Tezuka Yoshio, 事務官
85 Maeda Keisuke, 工作係主任属官
86 Ôhata Isaburô, 工作係属官
87 Bangjian, Region 地方 und Bahnhof bei Harbin
88 Akiyoshi Isao, 浜江Bangjian省警務庁長 bzw. 浜江地方保安局長
89 Daoli, Geschäftszentrum von Harbin
90 Saitô Kentarô, Gefängniswärter 看守長
91 Izumiya Rikichi, 浜江Bangjian省地方保安局官属官兼哈爾浜Harbin市警察庁特務科附特務
92 Majiagou ("Ma Family creek", Carter, James: A Tale of Two Temples: Nation, Region, and Religious Architecture in Harbin, 1928-1998. The South Atlantic Quarterly 99-1 (2000), pp. 97-115), 目抜き通り in Harbin
93 Yamadera, 事務官
94 die drei Kreise Zhaozhou, Zhaoyuan und Zhaodong
95 Shigetomi Mitsugu, 理事官
96 Motoyoshi, Arzt 科長
97 Fujii, Aufseher
98 Tanoue, Aufseher

99 Kloster in/bei Harbin
100 Aizawa Masakazu, 外事係
101 Der Stadtbezirk Hailar, ehemals kreisfreie Stadt Hailar, ist das politische und ökonomische Zentrum der bezirksfreien Stadt Hulun Buir im Autonomen Gebiet Innere Mongolei der Volksrepublik China.
102 Ôtsuka Zenkichi, 局長
103 Kawakami Osamu, 理事官
104 Kabuki, 特務隊長
105 Liu
106 Negishi, 属官
107 Xing'an --- 1. Gebirgszug . Außer 興安嶺 kommt vor: 小興安嶺 Chinese (Pinyin) Xiao Xing'an Ling or (Wade-Giles romanization) Hsiao Hsing-an Ling, conventional Lesser Khingan Range 2. Hsingan or Xing'an (興安省, Pinyin: Xīng'ān shěng) refers to a former province, which occupied in Western Heilongjiang and part of Northwest Liaoning of the Autonomous Mongol Anto (province) of Hsingan. The name is related to that of the Khingan Mountains. Another name used for this land is Burga, which is also the name used for the east sector of the province, the Burga district. The province was first created as part of Japanese controlled Manchukuo and after the Second Sino-Japanese War the Republic of China government reorganised the area as Hsingan Province, with the capital in Hailar. It is now part of the Inner Mongolia Autonomous Region of the People's Republic of China.
108 Hulun Buir (chin. 呼倫貝爾市), bezirksfreie Stadt im äußersten Nordosten des Autonomen Gebietes Innere Mongolei
109 Dongxing, Stadt im Kreis Mulan, Harbin
110 Shida Kiichirô (Pseudonym)

111 Furukawa Yûichi
112 Tsukiashi Minato, Angehöriger der Manshuu-Polizei
113 Mizuno Masaharu (Pseudonym)
114 Mishina Hikohachi, Polizeiangehöriger in der Mandschurei
115 Ôike Masayuki
116 Kôrogi Shigeru (Pseudonym)
117 Xingxi, Regierungsbezirk
118 Linxi, 中国内モンゴル自治区赤峰Chifeng地級市の県の1
119 Fushun, Stadt in Liaoning, Nordostchina, Bergwerke 炭坑; Ort der späteren Kriegsverbrecherverwahranstalt 戦犯管理所.