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哀願する母の下腹に剣
「母」となる前に

三浦唯守1


[略歴]

一九二二年,北海道2留萌3市に生まれる

出身階級,商人

文化程度,八年

所属部隊,第五九師団五四旅団百十一大隊一中隊

職務階級,伍長,分隊長


緑の沃野と,平和な生活に満ちた広大な中国の山野に,血に飢えた日本帝国主義侵略軍隊が荒らしまわった八年,私の属する五九師団ののさばった山東4省では,日本兵の行く所,すべて中国人民の財富は焼き尽くされ,人影のある所,到るところに殺害の血は流され,老若の別なく婦人は犯し尽くされていった.

しかし,血みどろのうらみと憎しみの中に,立ち上がって闘い続けた八路軍と中国住民の反抗の炎は,遂に山河を覆い,その包囲の中に,五九師団は,自らがむさぼり食った血肉の香に酔い痴れて身動きがならず,遂に一九四五年六月から七月にかけて,最後の足掻きの足場として,師団長藤田5中将は「秀嶺二号作戦」の命令の下に,海陽6県索格荘7に一大陣地を構築して,醜い悪魔の断末魔のもがきをしたのだった.

026大隊長熱田8大尉は,主力をこの部落に集中し,この部落中の人間は老若男女を問わず,周辺の山々の陣地構築の労役に追い立てた.しかし,ひしひしと反撃の鉾先を近づけてきた八路軍と民兵の圧力に,戦戦恐恐として不安の衝動にかられた熱田大尉は,遂にこの恐怖に耐えきれなくなって,気狂いの如く喚き散らした.

「どうせ撤退するなら,この部落のものは何でも持って行け,食えるものは全部食いつくせ,燃えるものはみな焼いてしまえっ」

脅えきった熱田大尉の眼には,どの中国人民を見ても,復讐者に見えてならなかった.一軒の家を見ても,一本の木立を見ても,みな自分に襲いかかってくる人のように見えた.この彼の恐怖心を静めるためには,ただ,徹底した破壊と殺裁の刺激だけが残されていた.

呪われたこの索格荘の周辺の山々に,骨と皮ばかりにやっれ果て,こき使われて歩く力さえもなくなった農民が,綱にしばられて日本兵の銃剣に追い立てられてゆく姿が,ひっきりなしに見られた.そしてその人達は,二度と山から下りて帰ってはこなかった.山々の上にはただ,うらみに湿った風が無残に晒された骸を慰めるかのように吹いているだけであった.

しかし,下の部落の中では,大隊本部に集まった将校連中の,酒に酔い痴れただみ声と,虚ろな高笑いの狂声が,嵐の前の静けさのような重苦しい空気の中で,不自然に響いているだけだった.

このようなことが数日続いた後のある日の事,昨夜来の雨は音もなく静かに二四0高地の山肌に027降り注いで,深く垂れこめた黒い雲は,胸を抑えつけるように苦しそうに思われた.

私が四人の初年兵を連れて中隊を出ようとした時,小ぬか雨は激しくなってきた.私は丸坊主頭の異様な姿にやつれ果てた身重な女に向かって言ってみた. 「もうお前は用事が済んだから,家に帰してやる.さあ一緒に行こう」.この私の言葉を真に受けた彼女は,いかにも嬉しそうに頭を何回も下げながら「ありがとう,ありがとう」と礼をいい,拷問にうちひしがれた体をもち直して,たどたどとした足つきに力を入れて,一歩一歩と歩き出した.

昨日,中隊長上山9中尉が,大隊本部から帰ってきた時私に「あの女は民兵のかかぁだ.どうせこのままじゃ部落へも帰せまい.明日お前とこの指揮班の初年兵に,刺突の教育でもやらせろ」と,酒臭い息とともに言い終わると,ボロボロに破れた着物を着た丸坊主にされた一人の女を引っぱって来た.

大隊本部では既にこの婦人に対して,八路軍の組織やこの部落との連絡について聞き出すために,あらゆる拷問が行われ,しかも妊娠しているにもかかわらず,誰かにはずかしめをうけたあげく「こいつは器量がいいから,一つ髪の毛でも刈って男のようにしてやれ」と,誰かの慰めのために,おもしろ半分に婦人の大切な黒髪がすっかり刈りとられた事を,私は聞いて知っていた.

私は予定通り二四0高地の窪地の方へと急がせた.ちょうど,高地の麓が見えた時,彼女はつと立ち止まって「兵隊さん,家へ帰るのにはこちらではありません」とけわしく聞きたてた.

私はそ知らぬふりをして答えた. 「雨降りで道が悪いからこちらから大まわりして行くんだ」 しかし,彼女は歩き出そうとはしなかった.

028その時,高地の右まわりの方から五,六人の農民が二中隊の兵隊に追いたてられながら,前かがみになって陣地構築用の材木を負わされて,苦しそうに喘ぎ喘ぎやってきた.

私達の姿を認めた前の二,三人の農民が,こちらを向いた時,その視線は期せずして彼女の方に注がれた.その瞬間,彼女はその人達に何か言おうとしたが,兵隊の怒鳴る声にさえぎられて,材木を担いだ人の列は,再びよたよたと行き過ぎて行った.

躊躇している彼女を「早く歩けっ」と,私はつきとばした.すると婦人はにわかに泥の地面にばったりと座りこんだ.私は既に彼女が感づいたことを知って,いらいらしてきた. 「おいっ,こうなったら早いとこつれてゆけ」.私の怒鳴り立てる声に,初年兵の桂山10は,銃の台尻で彼女の背中をどんと突いた.

「あっ」と叫びをあげて泥の中に両手をついた彼女は,桂山に向かって訴えた. 「兵隊さん許してください.私を家に帰してください」. 桂山はちょっとためらった. 桂山何をしているんだ,伊東11貴様も何をしているんだ,早くおったてろ」 「はあ」 どんとまた銃の台尻が飛んだ. 「兵隊さん許してください.私は何も悪い女ではありません.殺さないでください」と,痛みを耐えて彼女は大地に両手をついて頭を振って助けを願った.

しかし,私にはこの婦人の訴えなど問題ではなかった.ただ,一刻も早く中隊長の命令を終わらせてしまわなければならない,という考えしかなかった.

「兵隊さんどうか助けてください.命だけは助けてください」と,助けを求める叫びは029くりかえされた.

それから四人の初年兵は,私のせき立てる声にかわるがわるになおも手ひどく殴りつけ,泥靴で蹴りながら,銃剣でその婦人を追い立てた.婦人はよろよろと立ち上がるや,ばったりと倒れ,倒れてはまた蹴られ,這い歩くように,一歩一歩と追い立てられて行った.

とうとう窪地まできた時,彼女はもう進もうとはしなかった.起き上がることもできない彼女は,地面に伏せたまま言った. 「兵隊さん許してください.どうか殺さないでください」.彼女は泥の中に額をたたきつけては,私の顔を見上げ,また泥の中に額をたたきつけて頼みこんだ.

私はもうここでケリをつけてもよいと決めて,彼女の前に立ちはだかった.婦人は我を忘れて,泥によごれた両手を差し伸ばして,私にすがりつこうとした.私は何かけがらわしいものに取りつかれるように思って,さっと後へさがった.

「兵隊さん,私はほんとうに百姓の女です.どんなことでもして働いてゆきますから,どうか私の命だけは……どうか命だけは助けてください……」

婦人は苦しい中から,なおも両手をついては,泥の地面に何回も頭をたたきつけ,一波とともに頼みこんだ.命がけで全身をふるわせてにじり寄る彼女の激しい息づかいに,思わず私はたじろいだ.

次の瞬間,彼女は急に伊東の方に向きを変えたかと思うと,再び泥土に頭を何回もたたきつけた.

「兵隊さんどうか助けてください.あんたから班長さんにどうか私を助けてくださるように頼んでみてください.お願いです.どうか……」

030地響きを立てて頭をうちつける音に,気の弱い伊東は,私と婦人とを等分に見ながらどうしたらよいか,と迷っているようすに,私はすかさず伊東っ,そんなところで気を弱くするようじゃ幹候にはなれんぞ.突き飛ばせっ」 「はあ」,伊東は答えたまま,ますます狼狽した.

再び彼女は私の方に這い寄ってきたが,やにわに私の左足をつかんだかと思うと,あらん限りの声をしぼった. 「兵隊さん私は死にたくありません.どうか助けてください.私はもう二カ月もすれば子供が生まれるのです.どうか帰してください……あなたにもお母さんやお父さんはあるでしょう.どうか助けてください……」

必死の訴えに,私のズボンは引き裂かれるように握られた.もう二カ月すれば子供が生まれるという言葉には力がこめられていた.私は握られた彼女の両手を振り離すことを忘れて立つ一秒……ニ秒…… 「なんと強い女だろうか……もし俺がこの女のようになったら俺はどうするだろうか」と,そんな考えが頭の中にひらめいた.一瞬,私は体中の力が消えてゆくように感じた. 「しかし,こんな考えを起こしたのは今までに何回もあったことだ.こんなことで気を弱くして何ができるんだ……中隊長の命令ではないか,これで戦争の目的が遂行できるのか!」 我に返った次の瞬間,私は思いきって婦人の手を振り払い,腰のあたりをがばっと蹴りあげた.

「わぁー」……

「おいっ,初年兵何をぐずぐずしているんだ」 「はぁ,班長殿,こいつもう歩けそうにありません」 「馬鹿野郎っ,歩けなくなったらどうするのかっ」,気のきかない初年兵に業を煮やした私は,031がみがみと毒づいた.

しかし,婦人はもう今までのように叫ばなかった.今はもうこれまでと諦めたのであろうか.泥の中にじっくりと座り直して下腹を両手でおおいながら,私に向かって言った.

「兵隊さん,これほど私がお頼みして許してくださらないのならば,仕方がありません.しかし,最後に一つの頼みがあります……私は殺されても構いませんが,どうかこの私の腹の中の子供だけは,刺し殺さないでください……お願いです……」

弱々しい声ではあるが,私の腹腸に食いこむように響いた.私はたまらなくなって「貴様達,何をしてるんだっ」と,初年兵四人にわめくなり,腰の帯剣を素早く抜くや,気合もろとも婦人の頬をめがけて,力一杯横なぐりに振り下ろした. 「えいっ」「ああー」 鋭い叫びをあげて,両手で顔をおおったまま,がばっと泥の中にうつ伏せた.

「なんだ,やっぱり女のような声を出しゃがる」と,私は真っ赤な血がべっとりと飛び散っている剣身を眺め入った. 「ふーむ,この帯剣が人の血を吸うのも,ここへ来てからこれでもう二十一人目だぞ」,私は傍らの初年兵に言うが如く,また自分自身に言い聞かせるかのように,誇らしそうにつぶやいた.

班長の私が直接手を出したのに,じっとしていては調子が悪いと思った伊東は,「このやろう」とやにわに前に出るや,うつ伏せた婦人の屑をぐっと片手でわしづかみにすると,力まかせに引き起こした.

032上半身を力なくもち直した彼女の顔は,帯剣にたたき斬られた傷が黒く太く腫れあがっていた.泥と血にまみれながらも,なお彼女の眼は,やさしく私に哀願しているように見える.両手は恐怖にふるわせてはいるが,もう彼女は泣いてはいなかった.その柔らかな肩先や,破れた着物の間から白くふくらんだ胸元の格好には,女らしさがまざまざと見てとれた.ふるえる両手をしっかりと下腹の上に組み合わせ,呪いと憎しみに燃えながらも,彼女の,我が身は殺されてもこの愛児だけは殺させまいとする強い母としての決心が,なおもやさしい瞳の光となって輝いている.その頬には,折りから降りしきる情の雨の雫が,口元から流れる血潮を静かに洗っていた.

「くそっ,今まで助けてくれ助けてくれと泣いていやがったが,とうとう諦めたか.よしっこうなりゃ好きな通りにやってやるぞ」と,血の香りに狂った私は,残忍な笑いを口元に浮かべるや,泥靴でどんと力一杯,今度は彼女の左肩を蹴りつけた. 伊東桂山も他の奴も何をしとるかっ,早く突けっ」.婦人の力ない息絶えだえの姿に躊躇していた四人の初年兵は,背後から帯剣を振りかざして,わめく私の威唱に,一斉に銃剣を構えた.

「何をぐずぐずしとるか,そんなことでは皇軍の恥だぞ」.言い終わらぬうちに,幹候の伊東の銃剣が,雨の中にきらりと光った. 「わぁー」という悲鳴とともに,婦人の首元に血しぶきがあがった.しかし,突き刺されながらも,彼女は素早く右手で銃剣の剣身をがっちりと握りしめた.その手からまた血潮がしたたる. 伊東は慌てて銃を引こうとしたが,抜けない.他の士一人の初年兵もどうしてよいか,恐ろしさと凄惨さに銃を構えたままおののいている.

033「そんなことで人殺しができるかっ」,大声で走り寄るなり,私はその婦人の上半身に飛びまたがった.左手で婦人の首を抑えつけ,右手に帯剣を握りしめた私は,婦人のふくらんだ腹の真ん中をめがけて,ざっく占突き刺した.ぐらっと力を失って,体を伸ばした婦人の口から,かすかに全身の力を集中したかのように,憎しみに燃えた一声「鬼子ー」と,吐き出されるや,最後まで母として闘い続けた魂の響きが,がくっと私の体に伝わったのを感じた.

びったりと着物が身にくっついて,紅に染められた無残な骸の上に吹きつける雨が,冷たく白く光っていた.

あたりの静かさに,急に虚ろな気持ちに返った私の脳裡には,ただ憧れの二つ星の軍曹の襟章と,なつかしい故郷の山河だけが浮かんできただけであった.


ちょうど,私が中国へやってくる時,故郷の汽車の駅で,妊娠していた私の姉さんが,私を見送りにきてくれて唯守さん早く帰ってきて,お父さんやお母さんを安心さしておくれ,誤ったことや危ないことはしないようにね」と,やさしく言ってくれた言葉を私は忘れることはできない.私の姉さんも楽しい夫婦の生活の中に生まれ出る子供が,老いた父母の初孫を見たいという望みと,一家団らんを求めて,その日のくるのを指折り数えて待っていたはずだ.人の子として生まれた者なら,誰しもこの美しい生活を望まない者があろうか.そしてこの楽しい生活を築き,これを破壊する者から守るために闘わない者があろうか.

しかし,私はあの時,私の姉さんと同じような可愛い胎児を宿した中国の年若い婦人を,034何の理由もないのに,この私の手で殺し,その一家の生活を破壊し尽くしてしまった.

中国におし渡ってきて,人ひとりでも多く殺し,一軒の家でも多く焼くことが,私のなつかしい父母兄弟を喜ばせることになる,とばかり私は信じていた.

私は本当に大馬鹿者であった.人間がなぜ人間を殺し,人間の尊い汗で創り出した富をなぜ人間が破壊し,焼き尽くさなければならないのか,誰のために,最も大きな罪悪である戦争が行われるのか,を知らなかった.今,私はこの大きな道理を知って,盲いた眼を聞くことができた.

私は,過去の自己の全く非人間的な罪悪性を深く反省するとともに,この私を盲目にして死のどん底に追いやった奴どもに対して,必ずや私の全精力をもって復讐の一大打撃を与えねばならない.

 

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1 Miura Tadamori
2 Hokkaidô, japanische Präfektur
3 Rumoi, Stadt auf Hokkaidô
4 Shandong, chinesische Provinz
5 Fujita, Generalleutnant
6 Haiyang, Kreis in Shandong
7 Suogezhuang, Ort im Kreis Haiyang
8 Atsuta, Hauptmann
9 Kamiyama, Oberleutnant
10 Keizan, Rekrut
11 Itô, Offiziersanwärter 幹候