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農民を酷使の末,崖下へ
虐殺

北野昇1


[略歴]

一九一九年,千葉2県の農村の小作農の四男として生まれる.小学校卒業後東京3にて工場に入り仕上工として町工場で働く.

一九四0年十二月,山東4省泰山5,独立混成第一0旅団に入隊. 一九四二年三月,五九師団要員として工兵隊に編入.その後敗戦直前まで山東省済南6におり数十回にわたる作戦討伐に参加.


一九四二年十二月の半ばだった.

山東省の東海岸に面した黄7県附近を,大隊長五十君8大佐の指揮する五九師団独立歩兵第四二大隊は雪の積もった山道を夜通し歩きつづけ,目的地と思われる山の頂上に着いた時は,夜もすっかり明けていた.

やまあいに点々として見える部落では,朝飯の支度でもしているのだろう,泥で造った煙突から真っ白な煙が静かに立ちのぼっていた.

ちょうどその時であった.大隊長の部落掃蕩の命令とともに,数百名の日本兵が,小高い丘の上から一斉に谷聞の部落めがけて襲いかかった.

部落の中から,四方八方に住民が逃げはじめた.

016「向こうにまわれ,あいつを捕らえろ」

逃げ迷う住民を追う兵隊のどなり声が,山のかなたこなたから上がった.

大隊本部の指揮班には,数日前に捕らえられた百名近くの若い男が,げっそりとやせ衰え,飢えと寒さに震えていた.

一九四二年十月,五九師団を中心に,幾つかの旅団を動員し,一二軍の計画した「労工狩」作戦は魯中9,魯東10地区の住民を片っ端から捕らえ,そのあげく華北11,満州の炭鉱や日本本土にまで送り「大東亜戦争」を遂行するためのものであった.

「班長殿やつらを捕まえて来ます」と,初年兵と古兵の間を,いつでもうまく立ちまわっている北野12一等兵が分隊長である東一文13軍曹の顔色をうかがいながら,支那服や反物を一杯詰め込みふくれあがった背負袋をその場に下ろすと,初年兵の野村14を連れて飛び出して行った.五九師団工兵隊に所属している北野は,入隊してから二年余りの間,数回にわたる作戦や討伐で,弾丸の下をくぐるようになってから,人殺し,火付け,かっぱらい,なんでも一通りの事をやってきた.彼は,今度の作戦にも,地雷捜索の命令を受けて,分隊長以下五名が四二大隊に配属されたのであった.酒と女遊びにかけては,中隊でも誰にもひけを取らない彼は,作戦や討伐があるたびに,荒稼ぎの場所として,内務係に申し込み,いつの作戦をも欠かしたことはなかった.

今度も,魯東と聞いた彼は,正月を目の前に,たんまり稼いで,済南で良い正月でもしてやろうと,もくろんでいたのである.

017「畜生ッ逃げやがった」.四,五百メートル走った北野は,髭もじゃな顔を赤黒くほてらせ,くやしまぎれに小銃を一発ぶっ放すと,銃を肩にかけてすたすた歩き出した.

「古兵殿あそこに人が」 野村はぎっくりしたように言った.

見ると百メートルばかり先の石蔭に,身をすくめてじいっとこちらをうかがっている. 北野も体をすくめた.そして何か二言,三言言うと,銃を肩からおろし,その場にすっとんで行った.

そこにはもう六十を越えたと思われる老婆が,かたわらに病気らしい二十二,三歳の男をかばいながら,体を小刻みにふるわせていた.この老婆は,日本軍に捕まると知りながらも,逃げることができなかったのだろう.真っ白な髪の毛に,深く刻まれたしわ,体は枯木のように痩せ細り,その手は松かさのように節くれだっていた.

そして,永年の生涯を士とともに苦労に苦労を重ね,たった一人の息子を頼りに生きてきたのだろう.老婆の姿は,一目でこの附近の百姓女である事が解った.瞬間,北野の脳裡に故郷に残した母の顔がひらめいた.二年前軍服を着て家を出る時に,しわと白髪を交えた六十近い母が,松かさのような手で,北野の肩をさすりながら,生きて帰ってこいよ,無茶な事はやらないでな,と一涙を浮かべて見送ったあの時の姿を.

いや違う,奴は支那人だ.支那人なんてこれでいいんだ.しばし老婆を見ていた北野は,後に突っ立っていた野村に言った. 「かまうもんか連れて行くんだ」.入隊して初めて討伐に出た野村は,何をする事もできず,ただおろおろするばかりであった.

018「馬鹿野郎そんな事で戦争ができるか」

どなられた野村はあわてて青年の手を持って引き出そうとした.老婆は,野村の手を払いのけ,しきりに頭を下げて哀願した.そうして,息子の足を包んでいたボロボロの綿入れを取ると,痛々しげになでながら,病気だから見てやってくれと北野の顔をのぞき込んだ.見ると彼の踵は青黒く腫れ上がり,黒い薬を塗った小さな紙切れを通して,血膿がにじみ出ている.こんな奴を大隊本部に出したところでどうせ戦果にはなるまいと,しばし考えていた時,野村が言った.

「古兵殿こやつは足が悪いから駄目ですよ」

「馬鹿野郎ッ.支那人なんて生ずるいんだ.叩きながら使えば,二,三日は大丈夫.俺達の荷物を持たせるんだ」

俺達の荷物と聞いて元気づいた野村は,青年の襟首をつかみ,顔をしかめながら引っぱり始めた.

今までかっぱらった物は,みんな野村に背負わせ,へとへとになっていたところだったからである.

驚いた老婆は,息子の体にしがみつき,野村の手を夢中になってのけようとしている.それを見て,にたりと笑った北野は,老婆の後にまわるや,ぎゅうと襟首をつかむと,力一杯に引っぱった.親子の両腕は,堅く握り合って離れなかった.

「強情なばばぁだ」

片手に持った銃を高く振り上げた北野は,両手の真ん中めがけでぱんと打ちおろした.その瞬間,老婆の小さな体はもんどり打って,雪の上にころがった.体の痛さも忘れた老婆は,素早く起き上がって,息子のそばにはいよろうとした時,銃剣を振り上げた北野が老婆の前に019突き立った.

野村っ早く引っぱって行けっ」

今まで日本の鬼どもに連れて行かれて帰ったためしのない事を知っている老婆は,身の危険もかえりみず,立ち上がろうとした.

「このばばぁー」. 北野は思い切り老婆の胸を蹴りとばした.

「ウッー」と言ったきり,雪の中にあお向けに転がった老婆は,それっきり動かなくなった.時々松かさのように節くれた細い腕をびくびくけいれんさせている.

「これでいいんだ.くたばってしまえばいいんだ」

けいれんする老婆の顔を見ていた北野は,ごくりとつばを呑み込み,大急ぎで野村の後を歩いて行った.足を引きずり歩く青年は,野村に蹴られながら,もう二十メートルも先を歩いていた.そして傷口が破れたのだろう,雪の上にどす黒い血が点々と残っていた.

ちょうど四,五十メートル来た時だった.死んだと思っていた老婆が,小さな包みを持って,テン足の足でよちよちしながら後を追ってくるのが目に映った.

「ばばぁー生き返ったな」.我が子を助けたい一心,無我夢中になった老婆は,銃をかまえた北野のところにどんどん近寄って行った.そして息をはずませながら,汚い布で包んだ品物を北野の目の前に差し出した.

「什麽[シセンマ=なんだ?の意味] 北野はかまえた銃を下ろすや,いきなり老婆の手から包みを020ひったくった.そして二,三歩後にさがると包みのひもを解き始めた. 「何かなー」.彼は目を光らせながら,包みを開いた.すると中にはかちかちに凍った粟鰻頭が六つばかり並んでいた.

たった一人の息子を奪われた老婆は,いくら頼んでも駄目だと知って,せめて飯だけでも持たせてと,痛む体を引きずりながら持ってきたのだろう.老婆は北野の顔を見つめながら,ひかれて行く我が子を指さして,何回も哀願していた.

そんな事には日もくれない彼は,何か当てがはずれたいらだたしさに,いきなり包みを石の上に叩きつけた.鰻頭は,雪の上をころころ転がって行った.老婆は泣きながら雪の中をはいまわり,鰻頭を拾い集めていた.足もとにころげてきた鰻頭を,軍靴で力一杯蹴りとばした北野は,くるっ後を向くと,分隊の方に走って行った.


それから三日たった.大隊はこの附近を何回も往復していた.丈夫な者でも苦しい山道を,ましてや足が悪く重い荷物を背負わされた青年は,もうへとへとに疲れ果てて,歩く事もできなくなっていた.そのたびごとに,棍棒や軍靴がとんだ.もうどれだけ叩かれたのだろう.頭のいたる所から血が吹き出し,顔から首筋にかけて,真っ黒に固まった血がこびりついていた.

「こんな苦力は捨てて,荷物はお前等が持って歩け」.分隊長は行軍が遅れることに腹を立てて,北野と初年兵をどなりつけた.

北野はしばらく棍棒を握ったまま,棒立ちになり,青年の顔を憎々しげに見ていたが,今度は野村021に当たりちらした. 「貴様がぼさぼさしているからだ,もっと叩け,叩け」. 北野にどなられるものの,もう動けない青年を叩く気力もない. 野村はおろおろしながら,棒の先で青年の尻をこずいた.

ちょうどその時であった.三年兵の川瀬15上等兵が,谷間につないでいたロバを一頭引っぱって来た.そして北野に言った. 「こいつは戦果だ.帰りに一緒に売り払うから,叩いて傷なんぞつけるんでないど」.助け神にでもあったように,北野はかっぱらった布団や衣類を,馬の背中に縛りつけた.そして,動けない青年の襟首を持って引きずり起こし,馬の手綱を渡した.ようやく身をささえた彼は,足を引きずりながら歩き始めた.

野村はご機嫌になって,馬の後に付き,分隊の先を歩いて行った. 北野は,その後から分隊長や川瀬と一緒に歩いた. 「この苦力はもう使い物にならんから,今晩宿営したら帰しましょうか」. 北野は,分隊長の後から話しかけた.

その時,川瀬が口を入れた. 「帰す事はない.度胸をつけるために,野村の奴に突かせてみろ」

分隊長は川瀬の案にすぐ同意した. 北野はぎっくりとしたように歩度がゆるんだ.

いくらなんでも,これまでずっと宿営するたびに,水を汲んだり飯たきに使ってきた彼を,今晩殺すという事には,あまり気のりがしなかった.だがしかし,初めて作戦に出た初年兵に,生きた人間を突かせる事が,強い兵隊をつくり上げるための,唯一の手段だとも考えるとき,また北野は仕方がないとも思った.

やがて分隊が山の頂上にたどり着いた時は,もう昼の二時をまわっていた.大隊は小休止をする事022になった.海抜五,六百メートルもある頂上に登った北野は,赤黒く上気した顔を,汚れたタオルでひとなですると,石の上にどっかりと腰を下ろした.酒好きな彼は,分隊長の目を盗むように,水筒の白酒をごっくとひと口呑んで,大きな息を吐き出した.

馬の手綱を持っていた青年は,疲れた体を休めようともせず,谷間の部落を見ては,無性にたまらなくなったらしく,北野のところに近寄ってきて,そして血で真っ黒に固まった帽子を取ると,ていねいに頭を下げて言った. 「私の家です.帰してください」.彼は下の部落を指さして,何回も頭を下げて哀願した.見ると,この山の下が,三日前彼を捕らえたところだった.

北野はだまって,わざとそっぽを向き,煙草を吸い始めた.

「私を帰してください.私を帰してください」.ひざをついた彼は,泣きながら,北野の足元につめ寄ってきた.

「どうしたんだそいつは.二年兵がそんな奴になめられるんじゃないぞ」.青年の泣き声が耳にさわった川瀬は,北野を叱りつけるように言った.

古兵からいくじが無いと見られた彼は,無性に腹を立て,にが虫をかみ潰したような顔をして,青年の前に立ち上がった.

「帰してやるからこっちにこい」.吐き出すように言った北野は,彼の手をつかむと,ずるずると引っぱり始めた.青年の顔からサッと血の気が失せた.もう七,八メートル行けば,深い谷である事を知った彼は,必死になって北野の手を払いのけた.

023「アアッー」.はずみを食らって,すってんと石の上にころんだ北野は,何よりも先に,分隊長や川瀬の方をちらっとのぞいた.すると彼等はこっちを向いてにやにやと笑っている.

「この野郎ッ」.とんだブザマを演じた北野は,顔を真っ赤にして,両手に石を握りしめると,またもや青年に飛びかかって,ムチャクチャになぐり始めた.馬の首にしがみついて,ひいひいとうめく青年の頭から,血が吹き出し,その血が馬の首を伝わって,雪の上にぽたぽたと流れ落ちた.気狂いのようになった北野は,それでもあきたらず,彼の襟首をつかんで,どんどん崖の方に押しやって行った.血まみれになった青年は,もがき狂った.後二メートル,一メートル,断崖の上に押しつめ,今まさに突き落とさんとした時,全身の力をしぼった青年は,北野の手を振り切って,くるっと後に向きをかえた. 「鬼子」.その声は恨みに燃え,腹の底からしぼり出た声だった.

顔じゅう血にまみれ,それまで純朴に見えた青年の顔が,なんと物凄い形相をして北野にとびかかってきた.青くなった北野は,あわてて二,三歩後にたじろいた瞬間「ガーン」,耳元で大きな音が聞こえた. 「ウァーッ」,もがき狂った青年は,空をつかんだまま,深い谷底に真っ逆さまに落ち込んで行った.

青白い顔をびっしょりぬらした北野は,初めて我に返ったように後を振り返って見ると,小銃の引き金に手を入れた川瀬が,にやにや笑って突っ立っている. 北野は照れ臭そうな笑いを浮かべ,はいずりながら,崖下をそっとのぞき込んだ.深い谷の石の上に,あお向けに転がっている青年の顔は,ざくろのように割れて,とび散った血潮であたりの雪を真っ赤に染めていた.

024ごつくりとつばを呑み込んだ彼は,思わず顔をそむけた.そして乱れた服を直しながら,何事もなかったように,すたすたと歩き出し,山を下りて行った.


文中の北野は私であり,私は,今静かに当時の事を思い浮かべる時,全く胸をえぐられる漸憾に耐えない.聖戦と信じ込んでいたがゆえに,百姓の子として生まれた私が,あのような平和な部落で,一人息子を頼りに,生涯を土に捧げて生き抜いてきた人々を,無残に殺していったのである.

その私が,今中国人民から再生の道をあたえられ何不自由なく暮らしている事を思えば思うほど,自己の非人道極まる行為を,反省せざるを得ないとともに,再びこのような行為をあえて行わんとする者に対し,限りない憤りを持たずにはいられない.

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1 Kitano Noboru, Gemeiner (Pseudonym)
2 Chiba, japanische Präfektur
3 Tôkyô
4 Shandong, chinesische Provinz
5 Taishan --- heiliger Berg Chinas, im Osten des Berglandes von Shandong
6 Jinan (auch: Tsinan) ist die Hauptstadt der chinesischen Provinz Shandong
7 Huang, Kreis in Shandong
8 Igimi, Oberst
9 Luzhong, Regierungsbezirk
10 Ludong, Regierungsbezirk
11 Huabei, Nordchina ---Huabei ist die chinesische Bezeichnung für den Großraum Nordchina. Er umfasst die folgenden Verwaltungseinheiten auf Provinzebene: 1. Innere Mongolei 2. Shanxi 3. Peking 4. Tianjin 5. Hebei
12 Kitano Noboru, Gemeiner (Pseudonym)
13 Higashi Kazufumi, Feldwebel
14 Nomura, Rekrut
15 Kawase, Gefreiter