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11

 

包丁で頭を切り脳みそを食う
うらみの新軍屯1

旧関東2


〈集体創作『うらみの新軍屯参加者〉

五十四旅団一一0大隊小隊長 曹長 横倉満3

九十一師団七十三旅団二九三大隊二中隊分隊長 伍長 西尾克己4

一0八師団二四0聯隊三大隊本部 軍曹 高橋正三5

九十一師団七十三旅団独立歩兵二九三大隊中隊長 中尉 小川政夫6

九十一師団七十三旅団二九三大隊三中隊*長* 曹長 阿部清二7


ここ河北省,玉田8県は,北寧9線密山10より,六十キロも北に離れたところで,大きな城壁に固まれた県城であり,二万余の中国の平和な人々が,先祖代々その生活を営んできた静かな美しい街である.

この街を中心にして,北には有名な満清朝の古き統治の過去を物語る万里の長城が,東から西に走り,その南一帯は見渡す限りの麦畑で,その肥えた土地は,豊かな生活の源となっていることが,誰の目でもはっきりと見てとることができる.この広々とした土地に,点々として見える楊林に包まれた村落からは,今夕餉の煙が静かに立ち上がっている.

一九四一年六月一目,この日,このあたりで,あまり見たこともない怪しげな乗用車を,真ん中にはさんだ数台の軍用トラックが,わがもの顔に,砂ぼこりを立てて入りこんできた.それから毎日,二十台,三十台,百台というトラックが,三八式歩兵銃弾や,十五榴弾と黒印を打った弾薬箱や,094南方進出で運びこんだサイゴン米などと,名札をつけたカマスを積んだトラックが,砂ぼこりだらけになって,目だけを光らせ,銃を握った不気味な兵隊に守られ,自動車が行き来するようになってから,街の空気は不安な灰色に塗りつぶされた.

バリケードを土嚢でものものしく張りめぐらされた玉田街の城門の外に,さびつくして赤くなった三八式銃を持たされた日本軍が三,四人突っ立っている.城内から続いているトラックの列は,城門の外まで五,六台はみ出している.

「おい,どうだだいぶ日本軍も手をのばしたが,すごい勢いだったなァ」

「うん,そうだとも,あの武漢11攻略してからというものは,全く破竹の勢いで,もう支那大陸も日本のものだというわけさ」

「それにしても,この街にもきたならしい支那人にかわって日本人の姿が見えるようになってきたじゃねぇか」

「まぁ,あのざまじゃ戦争に勝てるわけもねえよ.ハ……」

自動車の上から監視兵らしい,二,三名の兵隊は城外に追い立てられ,我が子をしっかりと抱いた母親や,わずかの家財を手車に積んだ老百姓ら二百人余名を見て,笑い出した.自動車の下では出発準備を急ぐのか,目だけを光らせ,汗だらけになった兵隊が修理をしているのだろう,もぐりこんだ体をゴソゴソ動かしている.域内に足を一歩踏み入れると,城門近くの白壁には,まだ書かれて間もないと思われる「剿共滅共」という筆太のスローガンが,中国人を押しつぶすようになげつけられて095いるのが目についた.

玉田県域の中央通りを少し北に寄ったところには,正面に四段ばかり石段を構え,その人口の龍の絵も色とりどりに塗りつくされた大門があり,誰の日にも古風な中国式の大地の建物だと思わせる立派なものだった.

川合12大佐は毒づいた音楽をうしろに,短い足を前にのめらせて,いつもにないあわてた調子で,一人の将校をあとに従え,この奥の建物に駈けつけた.この奥まった庭園を前にした会議室では,先程から中央の椅子に腰をおろした師団長富永13中将の顔色を伺って,立ったり座ったりしていた関根15参謀長は,息をはずませて入ってきた川合大佐を見るなり,集まり終わった一連の大隊長や聯隊長を見まわし,切り出した.

「いや,だいぶお待示を申し上げます」 柳岡の右手に持ったムチは,無造作に足を切り揃えた朱ぬりの中国式の炕の上に広げられた地図の上に,叩きつけるようにふり下ろされた.地図には河北省東北部図と書かれてあり,その幅三メートル,長さ四メートルのたせしました」 関根参謀長は,川合大佐をチラッと見て,「では,柳岡君,すぐに始めてくれたまえ」 皮肉めいた調子で,気味悪い程ていねいに続けた.

「第一……第一聯隊長川合大佐到着しました」 川合大佐は,何食わぬ顔で,関根参謀長の言葉をさえぎり,チョボヒゲがかくれる程口をとがらせて,富永中将にあいさつした.

「いや,これは失礼」 柳岡は立ち上がった体を少し,川合大佐の方に向けなおし,はげ上がった頭をちょっと下げ,鼻に笑いをふくませた調子で, 「申し遅れましたが,川合大佐は,ご存じの第一聯隊長でありまして,武漢作戦におきましては,第一線で,しかも一番重要な包囲戦に見事な殊勲を096立てられました名誉聯隊でありますことを,師団長関下に代わってお伝えします」 柳岡は,川合大佐の頑固にいささか不満もあったのか,上目づかいもたくみに「一」の字三ツに特に力を入れて,一同に紹介してから,徐々に側に立てであった竹のむちを取り,地図に向かった.

「では命によりまして,細部の情報と指図上には,到るところに赤線と青線が引きつめられである.一斉に坊主頭とはげ頭が地図上に注がれた.その地図は「我に獲物あれ」といわん目付きで,冷たくおおいつくされた.

「ただいま我が方の包囲圏内に圧縮しつつあります敵の兵力は,二千内外と確認します.さらに敵は,政治工作に従事する非武装人員も,相当数にのぼるものと考えられます」 柳岡は続けた.

「最近到るところで遭遇する匪団は,主として玉田県および豊潤16県北方地区の山獄17地帯を根拠とする共産八路軍十二団の分散兵力でありますことは,確かな情報として見ることができます」 柳岡のムチは豊潤県西南地区の平地地帯,三屯営附近に渦を巻いたように一点を指した. 富永は一人うなずいて見ている.

「必ず敵をこの平地に出して,さらに現在の包囲網を圧縮し,叩きつけることにあります.このために我が二聯隊は,北方山獄地帯よりこの地区に向かって圧縮することになっております」 柳岡のムチは,中国人を叩きながら,人が人を殺して歩いている日本軍の後ろをあおりたてるように,青線の097上を走りまわっている.

一通り終わったと見た関根参謀長は,あたりの様子をうかがっていたが,急に立つと, 「今後の作戦行動については,すでに師団作命に出してある通りで,問題は共産軍を一人残らず叩き殺すことにある,それには百姓だ,女だ,子供だと少しでも情や仏心を起こしたら,決してこれを成し遂げることはできない.まして今回のキ号作戦の任務は,短期間内にこの兵力で敵を袋叩きにすることだ.そうしさえすれば河北地区の治安を保てるというものである」

富永中将が関根参謀長の話に少し気に入ってきたのか笑いを浮かべて立っと, 「そうじゃ,日本軍が支那人如きになめられてどうするか,一万の兵力を持ちその上,敵にまさる大砲を持ち,ガス弾までも持っているではないか」 富永中将は,両手を開き,胸下で何かをかき集めるようにしては,勇気で気の狂ったようにワナワナした調子で,こぶしを握っては叩きつけている.

「作戦のヒケツは犠牲を出すことを恐れてはできぬのじゃ,敵が二千とあれば我が方は二千や三干の兵隊を殺すのに恐れをなしては,敵を磁減(せんめつ)することはできない.このために,百姓でも女でも,子供はもちろんのこと,猫一匹でもよろしい,殺したものはすべて戦果じゃ,そして兵器をすべて敵より奪い取ることじゃ,人間はすぐ補充できるが,大砲鉄砲は簡単にいかんのじゃ」 富永はそういって曲がりかけた腰を無理にそらして,机をガタガタと叩きつけた.

「特に諸君も知っている通り,この地区の百姓どもは,全くずぶといやつらじゃ,おとなしいところを見せたら見ろ,すぐにあのざまじゃ,二大隊は兵隊を殺した上,鉄砲までとられているじゃないか,098こんなのは君に対する不忠というものじゃ,六日の菖蒲(しょうぶ),十日の菊というではないか,支那人にまんまるい格好なんて見せるのじゃない.徹底してやることじゃ」 富永中将の声はふるえ,日は吊り上がり少しケイレンし出した.会場はすっかり殺気だった.

関東軍の木佐木中佐は,これを聞いて得たりとばかり「ガス戦となれば,北支軍には負けまい」と考えたのだ.後ろに控えた情報主任遠藤中尉と何やらヒソヒソと話し出した.

その他の大隊長連中もチョボヒゲ,ドジョウヒゲをもぐもぐさせ,赤靴黒靴の長靴をガタガタさせて盛んに功名を焦る話を始めた.それは全く野良犬が群がっていると同じようだ.先を焦っているのを見て,富永中将はいつまでもおいては事をし損ずると考えたのか,副官を呼びつけ,何やら話し出した.すぐ準備されてエサが運び出された.

「さあさあ,諸君杯をとらんか」 富永の声に,一同あわ食った調子だ.だが我先に呑まなきゃ損だといわん格好で,グラスを手にした. 富永の目は冷たく光り,グラスはふるえている. 「一刻も早く出て行け」と催促しているのだ.

「諸君の目やすも二,三日内じゃ,これで逃がしたとあっては二十七師団の名誉にかかわるぞ」

富永中将は,目をギョロつかせ,何かをかき集めるように,いや彼等を追い立てるように動き出した.外は雨雲が低くたれ,冷気を含んだ風が低く地面を這った.時々雷光さえまじり出し,空は今にも降り出しそうになった.ごったがえした街は,ますます度を加え,警笛は鳴り,馬はさけび,修羅のように変わり,西に東に餌を求める野良犬が動き出した.


099狂う砲弾

幾十門かの兵団の砲と名付く大小の砲が,一斉に三百戸足らずの新軍屯部落に向かって狂い始めたのは,あれから三日後の十二時頃のことであった.もっと正確に説明すれば,多数の兵力と火力にものをいわせた日本軍が,千五百名の平和住民と千二百名の八路軍の抗戦する新軍屯部落に包囲の網の目が縮め始められてから六時間後のことであり,裏側には渡辺大隊と関東軍の木佐木大隊,右側には関東軍の矢野大隊と黒浜大隊,左側には村上砲兵大隊と漸く到着し始めた第二聯隊の一個大隊,正面は第一聯隊主力と師団重砲が配置を終わって火砲の集中攻撃を始めた時である.

部落の裏から西方にかけて,鏡のような流れに砲弾のしぶきを上げているのは三女川で,東西と正面は黄色い麦畑で,穂波は地軸を揺るがす砲弾で,小刻みにふるえている.今は火の手を上げ,黒い煙を上げてる部落のあたりからも,左の後方道路からも,視野に続く畑の果てからも,蟻が中心に向かってうごめくように,増援配置につく第二聯隊の兵力が,新軍屯に向かって這いよっている.

新軍屯は砲煙につつまれて,もう瓦の屋根もはっきり見えなくなった.ここは部落西南一キロの,十本余りの楊林の茂っている林曹長の指揮下の砲兵陣地である.砲声の合間をくぐって,いつも重機のにぶいダッダッの攻撃を押さえつけてきた八路軍の軽やかな,パリッパリッというチェッコの早い音も次第に小さくなってきた.


手榴弾が爆発し,チエツコがうなり出すのは,いつも決まったように,群がる鉄帽が十メートル,二十メートル100近づいた時である.弾と弾,手榴弾と手榴弾,鍬と銃,小勢と大勢,体と体,黒とカーキ色の取っ組み合いが,あっちにも,こっちにもくりひろげられた.その時だった.真っ白い乗り手のいない馬が,葦の中から,きじが飛び出すように,この格闘の中に割りこみ,カーキ色の群をかき散らした.何発かの弾丸が命中したのか,白馬は,いななきを上げて畑の中にバッタリ倒れた.

「うん,白い馬,間違いねえ,間違いねえ!」

第二分隊長の天野18伍長は,何物かにつかれたように呟きながら,林19曹長に近づいていき,もう一度「白い馬が……」とにやりと笑いかけた.

「馬鹿!天野!また白馬の神にとつつかれたのか!」 林曹長に怒鳴られた天野は,チエッと舌打ちをすると,きびすをかえして,自分の砲へ進んでいった.

「アッ,関東軍の奴,とうとう部落へ入りやがったな!」 眼鏡から目を離すと功を奪われたくやしさに,横倉は自分の尻をひっぱたいた.

「ワァーッ」という悪魔のわめきのような枯れ声が上がると,関東軍の方は,狼の群のように土壁を飛び越えている.部落の右の一角から,白い煙が立ち始めると,風に乗って部落の中にスウッと入っていった.

「オイッ!ガスだ!」「ガスだ」

防毒面を準備するのにうろたえている横倉の耳にも,女,子供の,人の胸をえぐるような最後の抵抗の声が,日軍の怒声を突き破って聞こえてくる.左斜の部落の端でも,正面からも,日本のかけた101黒い煙と火の手は上がった.


餌をあさる狼の群

気狂いのようになっている砲声はやんだ……,時々手榴弾と小銃の破裂する音が,思い出したように新軍屯部落から響いてきた.

しゃにむに砲を引きさげた跡には,何カ月もかかって漸く色づいた小麦が,二本,四本の輪,だちの中にめりこんでいる.

聯隊の仮指揮所に代えられた新軍屯西方二キロの部落では,急設無線の幾本かのアンテナが張られ,狼が餌を求めて呼び合うように,グウングウンと,不気味な音は地上を這うように聞こえてくる.ほこりに濁った太陽が西方の彼方に傾いた.一分隊の大隊砲の脚にドッカリと腰を下ろした林曹長は,帽子をあみだにかぶり,口をとがらせながら言った.

「いいか!銃を取ったらみんな自分の註記を付けて納めるんだぞ!それはみんな功績になるんだからな!それから捜索に当たってはまだ生き残っている八路軍がいるかもわからんから,よく警戒し,単独で行動してはならん.それに敵が完全に死んでいないのを見つけた時は,必ずとどめをさすんだ!いいか」

「ハィ,わかりました」 深沢20軍曹と天野伍長は,ぎつな敬礼をした.

四中隊の放火班のつけた火は,新軍屯部落一帯を包み,狂ったように炎を上げて燃えている.

102林小隊は四名の砲看守を残して,八組の捜索小組を編成した. 横倉と岩楯21は一組となった.各組はバラバラになって,つかれた足を引きずりながら駈け出したが,小隊長の位置かちり見えなくなると,皆,ひっこを引いて歩き出し,岩楯は肩で大きく息をしながら横倉に話しかけた.

「オイ!横倉,先程本部勤務の石川22から聞いたんだが,三中隊の河内23も二中隊の皆川24も戦死し,四中隊の榎本25は重傷だそうだぜ!」

「そうか!」と何気なく言った横倉の頭には,保定の教導学校で序列を競い合った河内,皆川,榎本の顔がサッとかすんだ.

何かあると兵隊たちが聞こえよがしによく唄う「人のいやがる軍隊へ志願で出てくる馬鹿もある.現役志願や下士志望……」という文句に反駁しては,奴等をやっつけてきたことが横倉の脳裡をスウッとかすめた.やがてその不快な考えも去り,"俺は生きている.俺がもし小銃中隊にいたら,きっと死んでいただろう"と,さっきの突撃の情況が思い出されゾーッとした.

やがて葦の陣地に近づくと,拳銃の引き金に指を入れた横倉は,五分剣を右手に握った岩楯と,目を皿のようにして,もし生き残った奴がいたら,ぶち殺すんだ,と日で合図し合っていたが,もし手榴弾でも投げつけられたり,拳銃でパンと一発射たれては大変だ,と身の危険を考えながら前に進むと,硝煙の臭いが強くなった.

ふと見るとそこには,今朝から掘られたとは思えない程の縦横に,交通壕が掘られている.そこには二百発近い榴弾を射ちこんだとこだし,相当の死体が散乱しているだろうと葦の中をのぞきこんだが,103それらしいものは一つもない.アレッと不思議に思って見廻すと,あたりには数個所に,つい一時間程前まで,砲弾に抗して幾千の八路軍と農民が使っていた幾十の鍬と円匙の先が光っている.

「オイ,岩楯,どうして戦闘中あんなにきちんと,鍬や円匙を整頓しておくのだろうかな?」 「うん,そうだなあ,全く奴等のやることはわからねぇよ」

二人は疑問を残したまま葦をかきわけ,東の方に向かって歩いた.

やがて葦の陣地に近づいた横倉は,拳銃の引き金に固く指を差しこみながら,こしの五分剣を引き抜いた岩楯に日くばせし,もし生き残った奴がいたらぶち殺すんだと決めこんでいたようだが,未知の夜道に入ったように,いつ手榴弾が飛んでくるか,弾丸が飛んでくるかと,身に危険を感じた二人の足は,のろくなった.

だが二人は後ろから何かに追われているように前に進んだ.前に進むにつれて,硝煙の臭いは強くなり二人を取り巻いた.

藍色の夏衣を着た農民が最後の一発の手榴弾で,日本軍三名を倒したのであろう,三つの日本兵のカーキ色の死体が重なり合って,青い腸を横ッ腹からはみ出し,片足はぶっとばされている.また,そこには農民が倒れている.もう弾も銃もない.

岩楯は何を見つけたのか急に,日本兵の死体に近づき,トウモロコシのような黄色い歯を出してにんまりと笑い,もぎ取った腕時計を自分の腕につけると,あたりを見廻し,野良犬が餌でも見つけたように次の死体に飛び移った. 横倉は黙って拳銃を右手に持ち,落ちた砲弾の跡を眺めている.

104「オイ,横倉桑原26が,桑原兵長が死んでいるぞ」 その声にぷるっと頭をふるわした横倉は,頭の鋭さと銃剣術では聯隊の下士官候補中で一番だった第二中隊の桑原のはっきりした顔を浮かばせると "そうだ,こんな時に俺より序列の上の奴は,皆んな死んでしまえばいいんだ,そうすれば生き残った俺が聯隊一番になれるんだ" そう思うと,桑原の死体には振り向きもせず,疲れた足を引きずりながら,反対の方に歩いて行った.部落はずれには,三,四中隊の死体収容班が,十幾組になって,戸板の上に血の気を失った,ロウのような顔,カーキ色の服をどす黒く染めた日本兵の死体を運んでいる.

パッタリ足を止めた横倉は,狼が獲物を見つけたように,葦の窪地を見つめた.そこには八路軍の将校と思われる戦士が,右手に持った拳銃で,自分のこめかみを射ち,前歯で下唇をかみしめて倒れている.

八路軍戦士に飛びついた横倉は,右手に固く握られたモーゼル二号拳銃をもぎ取り,弾嚢を探ってみたが,一発の弾も残されていなかった. 横倉は,黄色い戦士の軍服の血のついていないところを,帯剣でブスッとさけ目を入れると,バリバリバリと破り取り,すばやくモーゼル拳銃を包み,雑嚢の奥にしまいこんだ.あたりを見廻した時,後方にいた岩楯と視線がピッタリと合った. 横倉は逃げるように視線を横にそらした.

「オイ,横倉,やったな,警察に売りつけたら,五,六百円は間違いなしだな……」

岩楯の言う声を尻目に「何を言うか,この拳銃は中隊に残留している功績係の佐々木27准尉の土産に105するんだ」と,心で反駁しながら,また大股で部落に向かって歩き出した.

部落は黒煙につつまれ,火はなめつくすように燃え移り,その焼煙は百メートル近くの野菜畑の中にまで飛んでいる.野菜畑は砲弾で,あちらにもこちらにも大きな穴があき,青菜も葱も吹き飛ばされ,僅かに野菜畑の名残りをとどめている.その中には,砲弾で首をなくした戦士の体が,両手のこぶしを固く握りしめ,また歯をかみしめている戦士の頭,藍色の夏衣を着た農民の死体,黒土の中から日本軍を呪うように,グッと突き出し,吹き出した血はどす黒く地面を染めている.

「オイ,岩楯,兵器を探そうや,小銃中隊の奴等が,あちらでもこちらでも,高梁ガラの中や藁の中を盛んに探しているぜ」. 横倉の言葉には一向かまわず,岩楯は 「金目になるものは,さっぱりねえな」と目を皿のようにして,あさりまわっている.

二人は野菜畑を下りて,窪地の葦の中に入っていった.黄色制服に真っ赤な菱形の台に,八路と註記された奇麗な襟章をつけた八路軍戦士の死体が三十人余りと,それに続いて十人余りの藍色の夏衣を着た農民の死体が,頭をそろえて歯をかみしめ,こぶしを固くにぎり,死体はキチンと並べられている.

その死体を,日本兵の銃剣が一つひとつ胸をえぐり,頭を打ち割り,手をもぎ取り,生々しい鮮血で踏み荒らし,葦の幹を赤く染めている.

「オーイ,八路ってどうしてこんなことをするんかな」

「あの弾の中で,こんなことをするとは考えられないよ」

106何大隊かの兵隊が笑いながらそこを通り抜けて,部落の方に向かって歩いていく.


生きていた戦士

背丈程のび,青々とした葦も,泥と鮮血に染まり,附近の戦士たちの死体を覆いかぶせている.この葦の中を二百メートルも東に歩みつづけて,今,横倉と岩楯は,二,三本の小さな柳と小さな草むらの中に,石を集めて築かれている井戸端の窪地に立っていた.巻き上げ式の井戸,中国人民の汗と手あかがしみこんだ巻き上げ器は,相当すりへっている.

この井戸水でこの野菜を,こんなに育て,また今日の戦闘で八路軍戦士の飯用水を,つい今まで補給してきた.そのたゆみない活動の跡が,巻軸と,手廻しの金具をピカピカ光らせている.足元には日本兵の耳を噛み切り,右手には鍬の柄,左手にはカーキ色の服のちぎれを固く握った中年の老百姓が,日本軍の死体と重なり合って倒れている.そこには柄の折れた鍬が一丁ころがっているだけで,銃も弾薬も何一つとして残されていない.あたりの数え切れない程の死体から見ても,ここは最後まで,激しい格闘がくり広げられた場所であることがはっきりわかる.

「オイ,あいつは何大隊の奴かな」 岩楯が尻をつついて合図した方向には,腰を曲げた十二,三名のカーキ色の群が,死体に近よっている. 「何でもかまうもんか,かき集めろ」 分隊長らしい男が,グッと右手を上げた.兵隊たちはドロボウ犬のように,バラバラッと死体あさりにとりかかった. 「オィ,こんなものがあったぞ」 死体の中から抜き取った大きな懐中時計を,チピの兵長が107みせびらかしている.ドブネズミのような幾つかのまなこは,うらやましそうに,それを見ていたが,その時計がポケットの中にネジこまれると,兵隊たちは思い直したように,死体をまる裸にしだした.あたりは血のついた紙片,紙きれだけが力なく飛び散っている.

後ろからやってきた深沢軍曹は,もの珍しげに戦士の襟章をゴシゴシ小万で切り取ると,記念品にでもするのか,手帳にはさみ,胸のポケットに収め,松永28上等兵をひきたて,また葦の中に消えていった.

「畜生,こいつは何も持っていやがらん」 顔を上げた岩楯は,もう死体あさりには興味がないらしく,チビ兵長の方ばかり見つめている.

「おや,俺の目の違いかな,チビ兵長の十メートル前の死体が動いたぞ」

「アッ,危ない,横倉伏せろ,手榴弾だ!」 グァン……黒い土とともに,紺の布がはじかれ,チピ兵長と,もう一人のずう体の大きな兵隊があおむけに倒れた.不意を食った兵隊は,どこから手榴弾を投げられたのかわからない.彼等は夢中で顔を麦の中に突っ込んだ.風もないのに,横倉の足元の麦が小さくふるえている.誰もが声をひそめた中に,チビ兵長の最後のうめきだけが聞こえてくる.気を失って倒れた戦士が,最後の一発の手榴弾を投げたのだ.

横倉は頭をそっと上げた. 「突っ込め,突っ込めというのになぜ突っ込まんか」 分隊長に怒鳴りたてられた二人の兵隊が,着剣して死体の方向に近づいていった.背の高い方の兵隊の手に握られた剣先が,伏している戦士の背にブツスリと突き刺さった.後ろから剣先も続いてサッと背に向かって108のびた.兵隊たちは,そう立ちになってかたずをのんだ.グワァン…… 「アッ,また手榴弾が出やがった」 横倉が叫んだ時には,制服を着た戦士の胴体が一メートルも上に飛び上がり,前に投げ出された二本の銃剣の先が,ピカッとひらめき,二人の兵隊のずう体が西方に三メートルも吹き飛ばされた.

やがてあたりは,畑にへばりついた兵隊の,ため息と,うめき声に変わり,もう先程の分隊長は,どこにいるのか,その声さえ聞こえない.

「なんと恐ろしいことだろう.手榴弾を自分の腹の下に敷いて,息をひき取るまで闘うなんて,いくら探しても出てこない八路軍の弾薬は,ああして皆死体の下で破裂するんだ」

こう考える横倉は,横たわっているどの八路軍の死体も,手榴弾がだきこまれているような錯覚と恐怖におそわれ,こうしていることがたまらなく恐ろしかった.


「オイ,岩楯,こんな所には戦果がない,あっちへ行こう」, 横倉は目で合図し,片手に持った拳銃で,もと来た葦の方向を指した.岩楯は何を思ったのか,横倉の拳銃を引ったくって駈け出すと,あたりに倒れている死体の頭めがけて,パンパン射ち始めた.

「オイ,お前たちは何大隊のもんだ,からっきしいくじがねえぞ,そんなことで戦争ができるかって言うんだ」

岩楯のみえを張ったタンカに,あたりの兵隊は目を見はった. 横倉もじっとしてはいられなかった.

彼は井戸端の一かかえもある石を持って,岩楯の足元に駈け寄った.

109「オイ,一大隊の大隊砲の西瓜割りを見ておけ」,言うなり横倉は持った石を振り上げると,横向けになった戦士の頭に投げつけた.ザッと音をたて,頭蓋骨はパックリ開いて,血まみれの飛沫は横倉の袖にパッとかかった.彼はまた井戸端の石を取りに戻った.兵隊たちはよみがえったように,横倉に習った.石は見る間に死体に投げつけられた.数分して井戸端附近の二,三十個の石は,畑の中に血や脳味噌に染まりころがされている. 横倉は,得意満面で幾つ目かの石を大きな手で弄びながら,伏せている戦士の頭部を見ている.

「オイ,横倉どんなもんだい」,その時,声とともに,岩楯の片手は横倉の一屑にかけられ,右手の掌には,チビ兵長のポケットから抜き取ってきたばかりの大きな時計が光っている.

"奴す早いことをやりやがったな"と言うなり,反駁するように,横倉は腕にかかえた石を頭の上に振り上げ,パッと地上の戦士の頭目がけて投げつけた.

グシャン……戦士の頭は,やわらかい黒い土の中にめり込んだ. 「これで二十人目か,ハハ……これで飯がうまく食えるというわけだ」 横倉は,わざと時計には目もくれず,心にもない出たらめの数字を言って,岩楯に虚勢をはった.


横倉!!水だ,水だ,水を持ってこい」 突然深沢軍曹のかん高い声が葦の中から聞こえてきた.

横倉と岩楯の二人は目を丸くして,深沢の所に駈けつけた.そこには気絶していたらしい十六,七歳の少年戦士が,右肩を榴弾の破片で負傷し,傷口から鮮血を流し倒れている.

110すぐ近くで天野伍長は,この少年から抜き取ったらしい写真に見入っている. 横倉と岩楯はその横からのぞき込むようにして見た.チラッと見たその写真-ハンチングに上半身,ニッコリ笑った中年の男の写真だ.この写真と小孩,一体どんな関係があるのだろう?それにしても戦果とは余り関係のないことだ.

「オイ!!水をぶつかけろけろ!!」 いらいらしたように天野は岩楯にどなりつけた.

「ハイツ」 岩楯は井戸のツルベザルに入れて持ってきた水を,少年の頭からガパリとぶつかけバザルを葦の中に放り込み,少年の胴腹を蹴飛ばした.

「動き出しやがったぞ」 天野が二,三歩あとずさりをする.後に立っている幾つかの目は鋭く,僅かに動いた左足先と,心眼にも血の気がついたと思われる少年の顔を見入った.だが体は動かない. 岩楯は少年の左手を鷲づかみにすると,抜ける程ひっぱったり,天野の顔をそっと伺った.少年の手は思ったよりもこわばっているようだ. 岩楯は子を突き放すと,汚いものを掴んだように,自分の掌に見入っている.少年の足元に倒された青い葦の茎は音もなく風にゆれている.

天野班長,いやそれに岩楯までが,どうしてあの少年を生かそうと骨折るんだろうか?生きている者は一人残らず殺せと,ハッキリ林曹長は言ったはずなのに……… 天野班長は,あの子供を生きかえして,もう一度なぶり殺しでもする算段なんだろうか? 横倉には天野のやることがわからなかった.

青ざめてはいるが日焼けした,丸い顔の口元が霜柱をとかすように,ほほとこめかみのこわばりが111とけ始め,顔も少しずつ赤昧を帯び,やがて澄んだ目は静かに開き,あたりを見廻した.

だが夢からさめたその目は,次の瞬間驚き,いや,憤りの目と変わった.それは幾百の目が一つ一つ固まったような光で,天野と岩楯を射すくむ程にらみつけている.少年の手は忙しく何度も,何度も腰をさぐった.

「ハハハ……手榴弾はここにあるぞ!!」 天野は少年が最後に残しておいた,一発の柄付き手榴弾を見せびらかした.

少年は天野の手に握られた手榴弾を見ると,少年の目は空の一点を見つめただけで動かなかった.

"少年は何を考えているのだろう,戦場のことだろうか?アッ,違う,舌をかみ切ろうとしているのだ" 横倉がそう思った時には,天野が少年の腰を蹴っていた.

「生かしてやろうと思っているのに,何んていうまねをしゃがるんだ」

天野班長!!こんな子供みたいの何にもなりませんよ.手榴弾で最後まで反抗したり,自殺しようとしていやがるんだから,すぐ殺してしまいましょう」 横倉は思い切って拳銃をつきつけるようにして天野に言った.

「ハハハ……なぁに横倉殺しちゃぁ戦果になるか」

「そうだ早く大隊本部に送りとどけなければならんが」, 深沢と天野は何かこそこそ話出した. 深沢軍曹まで,何を考えているんだろう,曹長の言っていることと違う,あんなのを生かしておいたら危ないに決まっている" 横倉には,それは何のことだかわからなかった.

112やがて話が決まったのか,天野伍長以下四名に少年戦士の監視を頼んで,深沢軍曹以下八名は部落に向かって歩き始めた.その時,天野伍長はそっと深沢軍曹の顔をうかがうように,小さな声で岩楯を呼び止めた.

「俺が頼んだと言えばわかるよ.ウン,あいつは部落にいるはずだ!いいか頼んだぞ」 天野は口早に何度も何度も念を押している. 横倉には何のことだかわからない. 岩楯だけがずるそうな笑いを浮かべて,それに答えながら,深沢の後について小走りに走って行った.


『脳味噌』

部落に一歩踏み入れたとき, 「オイ横倉,学校じゃこんな事ぁ見られんぞ,よく見学しておけ!!」 いい残したまま去って行く深沢軍曹を見送った横倉と岩楯は,部落の一角にある葱畑を見廻した.そこには,右足を砲弾で負傷した母親の袖の下で,二人の幼児があおむけになり,鼻には青草がつめられ,その小さい紅葉のような子は,母の胸もとを引き裂けよとばかり握りしめ,丸い顔が母の乱れた黒髪に覆われたまま倒れている.……

顔を地に埋めるようにした老婆が両手で葱をかきむしり,紺の布で頭を固くくるんだ三人の乳児にかぶさるように倒れている.こうした十幾つの女,子供の死体が青ヘド,血ヘドで吐き散らされた,広くない畑の中に横たわっており,臭気は横倉と岩楯の鼻をついた.

「オイ横倉,なかなかたいした戦果じゃねえか」

113「ウン,俺はガスってやつは,戦闘員にだけ使うもんだと考えていたが,とんだ間違いだったよ!全く戦場でなけりゃわからんことがわかったよ」

「それにしても関東軍の奴等が,ごっぽり撒いたあっちは,もっとすげえだろうな!」 岩楯は眼をしばだたせ,崩れ落ちた土壁の上から東側の方を探るように見入っている.

焼け残った四,五軒の家屋も,今は真っ赤な火に包まれ,藁ぶきの屋根は火柱を上げて落ち,その附近には幾組かの放火班が,盛んに焼け残った所を棒でかき廻し,風を入れている.

その燃えさかる赤い火,くすぶる黒煙,その間をぬってうごめく千,二千をくだらぬ日本兵隊のおびただしい数に,横倉と岩楯の二人は,今更のように目を見張っている.

今はどの兵隊も,自分等があげている怒声や,浴びせられている罵声,火の燃える音,硝煙ガス,死臭に麻痺して,感覚を失ったもののように,死体にとびかかっている.

部落の中央では,二十人に近い兵隊が,無感動な掛け声で,集まった死体を次から次へと井戸の中に投げ込んでいる.あちらで一かたまり,こっちで一群と,火の中へ死体が放り込まれている.その雰囲気の中で,深沢軍曹の一組も,今一人の裸にした女の死体を,一人は髪の毛を,一人は足を持って,大振りに振ったかと思うと,火の中に投げ込んだ.その落ちていく姿が二人の目に大きく映った.

「オイ岩楯,なんであんな面倒なことをやるんだ」

「中国人て奴は,ただ殺しただけじゃまともに成仏しねぇからよ,ハハハ……」

横倉は岩楯の言葉を頭に押し込むようにしながら,ジュウジュウという音とともに異臭が身体に114からみついてくる中を,岩楯の後に続いて歩いた.

その行く先には若い女の真っ白い大腿の片足を引き臼に縄でくくり,片足を驢馬に縛りつけて股裂きにされている裸体の女の死体が,腹に二,三発の小銃を射ちこまれ,五,六カ所に銃剣を突きさされ,その傍らには,驢馬が腹を打ち苦しそうに息をはずませ,うつぶせになった光景が立ちふさがっていた.

「ああ,これは三年兵さんがやったに違いないぞ」 岩楯は戦場馴れしているのだといわんばかりに説明した. 横倉は水をぶつかけられたような目つきで,これに見入った.

"それにしても俺は中国に来てどんな方法で人を殺しただろうか?……今日初めて砲撃で殺したのと死んだ人間の頭を割っただけだ" 横倉は今ここでくりかえされている幾つかの人殺しの方法,銃殺,刺殺,首切り,ガス殺し,溺殺,そして人間の丸焼きと股裂き等を数えているうちに,俺が岩楯よりも臆病者扱いされており,今死体焼きをしている,初年兵の倉嶋よりも度胸がないということもわかってきた気がした.だが次の瞬間 "俺は下士候補だ,岩楯や初年兵と同じであってたまるものか"と,頭を強く振り,打ち消そうとした.

「オイ横倉,あれを見ろ」 突然目の早い岩楯が指さした.そこには片桐上等兵が,黒煙に包まれた廃屋の上に,どこから盗んできたのか,菜包丁を右手に光らせ,人目をはばかるようにしてしゃがんでいる.

大連生まれで偏くつで,淋病梅毒で有名な片桐は三年兵だが,中隊の通訳をやっているだけに,115幅をきかしており,下士候補の横倉はいつもピクビクしていた.

「オイ岩楯片桐上等兵がいつも人の脳味噌を食っているという話は嘘でもないらしいぜ」 横倉はそれを見て声を落とし,一年前のナゾを解き,岩楯の顔を見た.

片桐上等兵殿!実は天野班長殿より,先程例のものを是非頼むといわれてきました」 岩楯の声に,片桐は吊り上げた目で近寄り,二人をにらむと,ヒゲモジャの口を大きくゆがませ,人を食ったようにニッタリ笑い返した.

横倉は,天野が岩楯に頼んだのが何かがわかってきた.足元には崩れ落ちた土壁の下積みになった老人が,何かを運んでいた所だろう,テンビンを左手に握り,真っ白の頭だけ出して倒れているのを見た横倉が……,「ここに良いのがあるじゃないですか」と指さした.

「何を,そんな老ボレが役に立っか」 片桐は得意の菜刀を振り上げると,老人の頭を真っ二つに割り,二人をにらみつけた.

横倉は"何を馬鹿にされてたまるか"と心で叫び,拳銃を持って飛び出した.血の出る頭を打ち割った横倉は,あとを振り返り,片桐上等兵殿,血の出る頭があったぞ」とあてつけるように叫んだ.

横倉!貴様が探した首なら,お前始末したらどうだい!」 後をつけてきた片桐は,明らかに挑発するような口調で意地悪い笑いを浮かべた.

"今の俺には脳味噌を取ることくらいは,わきゃあないことだが,まだ俺はそんなにまでする必要はないのだ"

116「しかし横倉は,淋病や梅毒じゃありませんから……」

「何ッ,淋病だ!!勲章をもらわない奴が男といえるか!!」

横倉にはもう片桐に対する萎縮もなかったが,何も答えなかった. 片桐はあたふたと用意した空缶を取り出し,包丁を持ちなおしたと思うと,血の出ている老百姓の頭を見ていたが,すぐに右手の包丁は毒牙のように,ガタガタと音を立て頭にめり込んだ. 片桐の右手がグッと伸び,老百性の頭の中より薄桃色のかたまりを抜き出し,空缶につめた.老百姓の身体がグッと伸び,動かなくなった.

片桐は素早く空缶をボロ布で包むと,火の手を上げている部落の真ん中の方に向かって小走りに走った.


恨みの新軍屯

外は土砂降りの雨が音をたて,くすぶった部落の壁には幾つかの人影がゆらいでいる.

炕の上の小机のランプは,血がかわいてどす黒くなり,腰から下まで湿った泥土にまみれ,血と泥でしまになった帽子をかぶり,土間に座っている十六,七歳の八路軍戦士の引き締まった横顔をあかあかと照らしている.

「ところがこの小僧ときたら,とてもキカン気の奴で,肩の負傷した所を繃帯してやろうといっても,飯を持って行ってやっても,あの目でにらみ返すばかりで全然受け付けません」

つい数時間前まで,蜂の巣のように,何回も胸を打ち抜かれ,倒れていた八路軍戦士の死体の下に,117この少年が気を失って倒れていたその経過を話したてた後,天野伍長は急に声をおとして,その少年の顔をにらんだ.少年を監視のために,天野伍長と一緒にきた横倉兵長も相槌をうって,頭を大きく縦に振った.

天野伍長の話を根掘り葉掘り問い正すように聞き入っているのは,師団情報部付の情報専門通訳で一等通訳を鼻にかけた,鬼瓦のあだ名のある,見るからに食いつきそうな顔をした,アバタの内山であった. 天野の話から,少年をどう調べたら良いかと思案している.

情報主任の土井大尉は,もう部屋を出て三十分にもなるがまだ帰ってこない.

横倉は部屋の中をギョロギョロ見廻している.師団の戦闘司令所が宿るというので,村でも一番大きな立派な家を選んだと思われるガッチリした家だ.中は何物もない,中国風のきれいな花模様の花びんも長持ちも皆叩き割られている.

あわただしく濡れた雨合羽を脱ぎながら入ってきた,三人の将校につきまとった酒の臭いが,プンと鼻をついた. 横倉にも,今日昼の戦闘で見ていたのですぐわかった.それは真っ赤な顔をした師団参謀の柳岡中佐,情報主任の土井大尉と,横倉の中隊長佐々木大尉だった.

「手荒いことをするな,訊聞は慎重にやることにするから……」,何か打ち合わせしたのか,土井大尉は通訳の内山に向かっていつもにないことをいい出した.

佐々木大尉は,納得できない気持ちをぶっつけるように柳岡の後を追って述べたてた.

「白い馬が死んでいた地点,この少年が倒れていた地点,それから彼が持っていた写真からしても,118絶対に間違いないと思います」

「オイ佐々木君,そんなにムキにならんでも良い,僕は君のいうことが間違っているというのじゃあない,とにかく落ち着いて調べてみよう」

佐々木が功績であせっておるなと見てとった抜け目のない柳岡参謀は,ズルい笑いを浮かべ佐々木の言葉を手でさえぎり……土井の方に視線を向け,うながすようにしてどっかり椅子に腰をおろしながら,

「では土井君,懸案通り写真から始めようじゃないか?」 「はァ……」と土井は答えて訊問に取りかかった.

「オイ小僧[小孩]これは誰の写真だ」 通訳は濁った声で機嫌をとるように切り出した. 土井は右手に握った名刺板の写真を,何よりの証拠だといわんばかりに,少年の目の前に突き出した.

少年は全神経をこの一点に集中して写真に見入った.…… 首を横に振った.左手で目をこすって再び穴のあく程この写真に食い入るように見入った.少年は上気した赤いほほをほてらせながら,右肩をはった……血まみれの汚れた土井の手に握られた写真が小さくゆれた.

少年はハッと我に返ったように,自分の右胸のポケットを素早く手でさぐった.…… 少年の顔はサッと血走った.

「ハハ……小孩の奴,今頃になって気づいたらしいぜ!!」 肩をゆすぶり得意満面の天野伍長は,柳岡の顔を見て,自分の声をだしたことに気づき,スッポンのように首を引っ込めて顔を赤くした.

119少年は歯をかみしめながら,「こいつが抜き取ったな!!」というように,すんだ日でジッと,天野の顔をにらみつけた.

痛む傷も忘れ,顔をひきしめると,少年は静かに立ち上がり,写真に対して姿勢を正しくした. 天野はそばの椅子に無造作に腰を下ろし,右手に煙車をゆるがせ,上体をゆすり,鼻にうす笑いを浮かべていたが,警戒の目を光らせた.

"黒いオーバーの襟を立て,ハンチングの下の広い額,ガッチりした上半身,やわらかな,そして限りない慈愛のまなざしでニッコリ笑っている" この写真が汚れた悪魔の手に握られているのを見て,少年はたまらなくなったのだ.その体は小刻みにふるえた.

「オイ泥棒,写真を返せ」 炎と燃ゆるような声は初めてほとばしり出た.痛む右手に気づいて左手を出して,身体を土井に打ちつけるように,一歩,二歩突き進んだ仁王のような土井の大きな身体も,よろめくように一歩,二歩と押し下げられた.

「小僧め,思いあがるな!」 不安を感じた土井の大きな手は,少年の胸をドンと突いた.そのとたん,ランプの火がゆらゆらゆらぎ,ようやく少年は,グイッと足を踏ん張って,身体は元のようにきちんとして肩をいからした.

「ハッハ……土井君佐々木君の問題ははっきり解決したじゃあないか,写真は返してやりたまえ,小さなことでこの小僧の神経を高ぶらしては後のために良くない.問題は餌だ,小さな餌で大きな魚をとるというわけだよ.この小僧にゃまだ大きなことを吐かせにゃあならんからな」 柳岡は120みだらな笑いを浮かべると,こういった.

少年は土井の差し出した写真を引ったくるようにもぎ取り,手を後ろにして土井の顔をグッとにらみつけた.そして勝ち誇ったように,写真を胸のポケットに大事に納めると,どっかりと土間に腰を下ろした.

手早い土井は「この小僧が」と,右手を振り上げたが,すぐにハッとしたように,その手を引っこめた.それは柳岡がいたからだ. 柳岡は土井をにらみ,何やら日くばせをした. 土井は内山通訳のそばに椅子を寄せて,長いこと小声でささやいていた.通訳はアバタ面を縦に何回か振っていたが,急に顔に不相応な笑いを浮かべ,調子を変えて,猫なで声で少年に言い寄った.

「なあ小孩,日本軍はお前を決して殺しはしない.それどころか病院に入れて,その傷をなおしてやろうといわれるのだ」 柳岡を指しながら「あの大人の子供も,ちょうどお前と同じくらいの年頃なので,大人は自分の子供のようにお前を可愛がって,大切にしてやろうといわれたんだ.お前があの死体の中に埋まっていたら,今頃はもう,とうに死んでいた筈だぜ.日本軍はお前の生命を救ってやったんだ.だからお前は日本軍に本当のことを皆言わなきゃあいけないよ」 ネチネチ,くどくどしく,蛇がからみ合ったようにいい始めた.

柳岡は立ったり座ったりして,無理に参謀肩章を動かしている.

「どうか小孩,お前の家はどこだね,おふくろや,おやじさんも家にいるんじゃろうが,早く本当のことをいって家に帰るんだな,帰りたくないかね」

121内山はここまでいうとまた少年の顔を見た.

「お前のおふくろや親父さんもきっとお前を待っているだろうが,どうかね」 きまっただけのことはいいつくされた.六人の目は一斉に少年に集中された.

"何故だまっているのだろう,小孩には親子の愛も何もないのだろうか?いやそんなことはない筈だ" 横倉は自分に聞かれたようにして目をみはった.

「我不知道」 少年の言葉は意外だった.…… ポツンとすんだ瞳が通訳を威圧するようにあたりに響いた.

「馬鹿者,子供だと思っていりゃいい気になりやがって,叩き殺せ」 得意な雷を落とした柳岡は通訳に耳打ちした.

外の雨はますますはげしく扉に音をたてている. 内山通訳は急に七面鳥のように態度を一変した.

虎の威を借る狐のように,濁った中国語でがなりたてた.

「ヤイヤイ,この小僧奴!!俺たちは貴様が言わなくても,みんなよく知っているんだ.嘘だと思ったらよく聞け,第一に貴様が八路軍第十二団,団長の伝令で,年齢は十七歳であること等は,もうとっくに調べ上げてあるのだ.そればかりじゃねえ,貴様の団長は今度の戦闘で白い馬に乗って指揮していたが,今日お前の倒れていた葦の中で大腿部を射ち抜かれて負傷し,最後の時期に自分で拳銃自殺したこともわかっているのだ.どうだ,思い当たることがあるか?」

内山の青筋のふくれ上がった右手には,乗馬用の鞭が固く握られている.

122少年は顔色一つ変えず,毅然として柳岡をにらみつけた.

「知っているなら俺に聞く必要はないだろう」 静かに落ち着いて答えた.

横倉はあんな少年に団長の伝令が務まるか,とさえ考えたが,なかなか気骨のある小孩だなと,その顔を見直した.

通訳は大粒の汗を流しながら,土井は立ったり座ったり,少年に弄ばれているような気がして,そのアセリを覆いかくすことはできなかった.

柳岡は目を光らせた. 土井はこれに応えて今度は訊問に入った.

「オイ小僧,八路軍は小銃や弾丸はどこへやったか,いやそればかりじゃあねえ,日本軍から取った兵器はどうしたか,本当のことを言え,まさか焼いてしまったとはいわせんぞ」と決めつけた.

「我不知道,你們知道吧」 澄んだ声が土井の胸をぐいとえぐるように響いた.

「オイゃれ」と柳岡が目くばせをすると,通訳の手に握られた皮の鞭がピューンとうなると,少年のリンゴのようなほほに一条の血潮があとを引いた.口をつぐんだ少年の目は烈火のように燃えて柳岡の禿げ頭をにらみつけた.…… さらにピューン,ピューン,鞭は幾十回か,うなっても,少年はウメキ声一つ上げない…….

額から汗を流した内山通訳が手を止めると言った.

「オイ,ニ言え……,いわんか……」 少年の目がキュウッと通訳をにらみ,左手でほほの血を拭うと,厳粛な顔で言った.

123「東洋鬼子,教えてやろう,八路軍はな,お前たちの兵器で武装してきたんだ.今日もお前たちの兵器で,機関銃から榴弾筒まで装備して闘ったんだ.兵器は一挺残らず,お前たちを皆殺しにするため,大事にしまってあるのさ!!」と,ずばりと言ってのけた.

「どこにかくしてあるのだ?どこかに埋めてあるのだろう?」……と柳岡は膝を乗り出し,せき込んで言った.

横倉は参謀の一番大きな頭痛の種がここにあるのだな,とはっきりわかった.通訳は柳岡参謀のこの言葉に力を得て,おうむ返しに少年に突っ込んでいった.

「どこにかくそうと勝手だ,欲しけりゃあ探せば良いだろう,俺は知らん」といいきると,口を真一文字に結んだ少年は,野獣のように血のついた鞭を持った通訳と,半身乗り出した柳岡,いらいらしている土井,すっかり気を呑まれている佐々木の顔を鋭く一つ一つにらむと,さらに冷笑を浴びせかけた.

柳岡は目を三角に吊り上げて机を叩きながら,語気も荒く,土井君!!この小僧一すじ縄じゃあ駄目だ,とことんまで叩きつけろ」と毒々しく吐き出した. 土井の右手を上げた合図に,またしても通訳は血の鞭をピューン,ピューンとうならせ,少年の肉に食い入らせた.

内山通訳は,力つきて打つ手を止めると,荒い呼吸をして脂汗を流した.少年を打つことによって心を良くした野獣の柳岡は,土井君,今度はあれを聞いてみよう」と新しい問題に移った.

「オイ小僧,八路軍はまだ生き残っていると思うか」

124「生きているとも,みんな元気で生きている.お前たちにやっつけられてたまるかい」 内山通訳は得たりとばかり,のろまの牛ように考え考え,さらにたたみかけた.

「それじゃ聞くが,約八百の八路軍は何のためにこの地区から逃げて北に行ったか?」

「我不知道」

「小僧,お前は知っていると一言ったじゃあねえか.だが敗けて逃げた八路軍のことを聞かれたらいえないだろうな……」

少年はキッと通訳をにらむと…… 「お前たち日本鬼子を一人残らずやっつける作戦準備工作に行ったんだ」 少年は目を輝かし,何物をも恐れないように毅然としていった.

内山通訳は釣り出そうと,さらにたたみかけた.

「その作戦準備というのはいつ,どこで……誰が指揮して行ったか」 暫く沈黙していた少年は,さらにいった.

「そんなことは必要のないことだ!!だがその時がくれば鬼子にもわかるだろう!!」…… 「昨年の百団の戦闘を思い出すがいい」 せきこむ柳岡,土井,通訳の言葉に答える少年の目元は炎のように燃え,言葉は冷やかだった.ほほから流れ出る新たな鮮血は,軍服にすーとしみ込んでいった.

皆殺しの作戦準備,それは時がくればわかる.何と不気味な言葉だろう,少年は口から出まかせに言っているのであろうか.そうではない,横倉は今日の八路軍の頑強さと,老百姓と一体となっての抵抗を思い出すと,ググッと身体中に鳥肌のたつのを感じ,足はワナワナ震えるのを止めることは124できない.

エイ,クソ,日本軍の方が強いんだ,負けるもんか,と震えを止めようと思ったが,どうしても何とも知れない不安で,胸がドキン,ドキンとなった.

外の土砂降りの雨の音は,一層激しく音をたて始めた.さんざんに,嘲弄された土井は,遂に音を上げて助けを求めるように,柳岡の顔をのぞき込んだ. 柳岡は額に青すじをたててますますその迫害の手を強めた.

「こ奴は新軍屯で敗けたと思っていやぁがらんぞ!!共産軍の宣伝を聞いているんじゃねえ,叩きあげてはかせるんだ」

「オイ小僧,新軍屯の百性は一人残らず死んだことを知っているか?」

「不知道」

「もう河北省には,昨日逃げた八百名の八路軍しかいないことを知っているか?」

「不知道」

「オイ小僧,何とか言え……なぜ答えないんだ」

「答えてやろう,生きている八路軍はそれだけじゃあない,新軍屯の老百姓は生きているのだ.お前たちを殲滅せずにはおかないんだ」 澄んだ声で底力のある少年の一言葉に, 「なんと言っても子供だ,遂につり込まれやがった」と, 土井はしめたという顔で参謀をのぞき込んだ.

「鬼子,よく耳をほじって聞くが良い,俺たちは決して貴様たちに消滅させられはしない.八路軍126の数はお前らには数えきれないもんだ.鬼子ども,その数を知りたかったら中国の老百姓一人ひとりを数えてみたら良い.その数が八路軍の力だよ……」 胸を張って,自分の力を確信しているように,鬼子を完全に圧倒する若々しい中国語はなおも続いた.

「鬼子が今日一人の中国人民を殺せば,明日は二人の八路軍に変わる.中国人民を殺せば殺す程,新しい軍隊は生まれてくる.いいか鬼子,新軍屯の名を忘れずに覚えておけ,今自殺された新軍屯の千五百名の老百姓は,明日は三千人の新しい八路軍に変わっている.そしてお前たちの喉笛にとどめを刺すのだ」と言い終わった少年は,さすがに興奮して,目には悲憤に燃ゆる涙をたたえ,ランランと輝く目は六人の鬼子の目を射抜いた.

柳岡も,土井も佐々木も,内山も沈黙に入った.…… 横倉の耳には,新軍屯を覚えておけ」の鋭い声が,いつまでも壁にはね返って,ガンと頭を叩かれたように強く残っていた.


屯営

昨夜から降り続いた豪雨は,今朝になってからりと晴れた.

新軍屯から麦畑を曲がりくねった泥濘の道は,兵隊たちの足をとらえ,隊列を乱し,出た時の半数しか残っていない五百そこそこの一大隊は,今漸く三屯営に辿り着いた.

「もう二,三大隊の奴等は,エエとこにおさまっていやがるぜ,俺の大隊はいつでも貧之くじばかり引いているな」 砲の前に,うすぎたなく腰をおろして,あたりを見廻した観測子の大竹一等兵が127いった.

「オイ,早く宿舎を決めてくれんかな,もう一時過ぎているぜ」…… いつも物あさりが早くて炊事の世話をやる松永が,腹をすかしている兵隊に同意を求めようとしている.

「それもそうだが,そうあせることはないさ,どうせここで五,六日は休むんだから……」

「それに酒と甘味品をウンとあげて貰わねばならんからな」 岩楯の言葉に相槌を打った.

横倉の眺めた青空には,「消滅了八路軍十二団,二千」と書かれたアドバルンが長い尾をひいて浮かんでいる.

おかしいな…… 天野班長殿!!殲滅した八路軍は一千二百名ではないのですか?」 「共産党も宣伝をやれば,日本軍だって少しくらい宣伝はやるさ!!」

横倉は,"宣伝戦か,そうだ勝つためには"そう考えた.だがまた,こんな戦果を上げたことが家族たちに知られたとも考えた. 五月二十六日から作戦に参加し,行軍を始め,もう十日余りになる. 林曹長の話では,昨日の新軍屯の戦闘で,この作戦の第一期が終わるという話だ. 横倉の頭に走馬燈のように次から次へ浮かぶ瞑想も,「オイ自動車が来たぜ!!」と,いう伸びたヒゲ,泥と汗にまみれた軍服のまま座っている兵隊たちの言葉でかき消された.


後方から泥だらけのトラックが一台,三台,五台と,ムッとする戦場の悪臭を運んできた.昨日の戦闘で死んだ日本軍の死体を山積みにしてきたのだ.附近の兵隊たちは顔を見合わせて黙り込んだ.

128松村一等兵もこの中にいるのか" 横倉は戦闘中,松村が砲弾で死んだ時のことを思い出した. "俺は死なんで良かった" やっぱり生きなければならぬ,中隊長は,戦争で命が惜しくて戦争になるかと,よく言ったが,そのためには早く中国を占領してしまうことだ,中国人を日本軍が殲滅することだ,頭の中で二つの思いが駈け巡った.

ガタガタする道をトラックは,はみ出した死体の手や足を不気味にゆすぶりながら,聯隊本部が陣取っている豪農の門の中に消えていった.だが兵隊たちの通夜のような沈黙が続いた.

部落の中央にあるこの豪農の家宅は,もともと三大隊の一個中隊が占領していた所だが,この四,五日は聯隊本部が独り占めしている.

門の前では先程から煙草をくわえた柳岡参謀と土井大尉,高梨副官とが小隊長以上を集めて,何かを指示していたが,それも高梨の号令で柳岡に敬礼すると,おのおのの所属中隊に散り,林曹長も,小隊の位置に帰ってきた.

時計をにらんでいた中隊長の佐々木大尉は,指揮班長に中隊の全員を,道路に整列を命じた.兵隊たちは,宿舎に入るごあいさつか,そんな注意はわかっているよと言った調子で,思い思いの持ち物を肩に引っかけ,ダラダラ集まると腰を下ろした.

「おい,よく聞け.大隊はここで三日間環境の整理と休養をすることになった.その前に不必要なものを全部整理する.皆その場に装具をとれ」 佐々木大尉の号令で兵隊たちが顔を見合わす頃,林曹長は逃げるようにガニ股で,四中隊の方に歩いて行った.それと入れかわるように,士官学校出の129ガリガリの一中隊の田島中尉が両手を振って大隊砲小隊の装具検査をやりにきた.

横倉と岩楯の顔が,"しまった"とばかりにゆがんだ.兵隊の背負袋と雑嚢が,ひっくり返され始めた.こんな時に限って大ざっぱな男も,シャクにさわる程細かい所まで力を入れる.

田島は飯盆,洗面袋の中まで手を突っ込んでいる. 横倉のモーゼルも札束も,岩楯の懐中時計と,行軍中に盗んだシュスの二枚の衣服も,深沢軍曹,松永の聯銀券八束も,白い布,青い布ぎれも,道の真ん中に放り出された.

土井大尉の後にニヤニヤしてつきそっている高山准尉が,その子分の兵隊に合図すると,六挺の拳銃,十束に近い聯銀券,三,四個の懐中時計,色とりどりの衣服が大きな布に包まれた.

柳岡参謀は,分隊長の深沢軍曹と天野伍長を呼び出し,一つ一つ馬鞍を持ち上げさせ,鞭を持った土井と田島が目を光らせた.四枚の新しい大衣と反物三反ばかりが,はぎ取られた.

柳岡のずるい目は,二人に一つ一つ弾薬箱と属品箱を開けさせた. 田島の手からはどこから持ち運んだのか,蓄音器が一台,柱時計と置時計が五個,象牙の麻雀二組がはね出された. 深沢軍曹と,天野伍長が小さくなり,兵隊が唇を結んで目を地に落とし,中隊長佐々木大尉がそっぽを向いて前の方にコソコソ逃げ始めた.

その時,唐山に通ずる道路の方から自動車の警笛が聞こえた.兵隊たちが逃げるように目をそらした彼方から,四台の輜重隊の自動車がこっちに吹っ飛んでくる.どの車輌も運転台の上に,鉄帽をかぶった兵隊が軽機を構えている.第一,第二車輌はビールを一杯積んでいる.第三車輌は下は130甘味品らしいが,上には三味線と太鼓,なまめかしい模様の入った布が置かれている.第四車輌は何を積んできたんだろう. "ウワ,いきな日本の女を積んできやがった!"

白粉のにおいをプンプンさせながら,「兵隊さんご苦労さんです」,護衛付きの十余名の女たちは,口々にきいろい声を張り上げながら,ハンケチを振っている. 柳岡と土井はこの女を見知っているらしく,さすがは兵隊の手前,手は振りかねたが,みだらな笑いでこれに応えている.

兵隊たちがコソコソと,唐山の芸者がこんな所まで出張しやがった」,と叫ぶ頃には,自動車は聯隊本部の門の中に消えてしまった.麻雀,時計,衣服は,准尉と兵隊たちの胸にかかえられ,うわついた柳岡,土井もそそくさと兵隊には目もくれず立ち去り,その後から佐々木大尉,佐伯少尉も,田島中尉も,門の中に胸を張って入っていく.

「オイ,今から将校の戦勝宴会があるんだってよ!!」,三年兵で中隊長の馬取扱兵をやっている秋山上等兵が,たまらないようにはき出すと,兵隊たちはガヤガヤ騒ぎ出した.もう兵隊たちは,深沢や天野なんかに目もくれず,もう四,五名一塊になっで,目を怒らし,三年兵の動作を見守っている.

「将校がなんだ!!兵隊をあんなに殺しておきやがって,しかもこの同じ院内には,その兵隊の死体が山積されている.これをよそに,よくも平気で宴会だなんていえたもんだ.貧乏くじはこちとらだけだ」 蹄鉄工の若尾上等兵が腕をまくって気焔を上げた.

「兵隊は使い殺せ,養い殺せ,といった師団長の言葉が,その通り実行されているんだ.使えなくなったらこの俺たちを使い古した草履のように捨ててしまうというのか.馬鹿にしていやがらぁ」 131荒くれの山田が,若尾に応えて言うと,持っていた茶碗を叩きつけた.

「俺は酒も女もいらんよ,だがせめて生命をかけて取った物だけでも返して貰いてえもんだ.奴等は昨日新軍屯で取った八路軍の糧抹だという粟を,中国人の商人に売っていたぜ.あの金がみんな機密費だとか言って,みんな酒と女とどんちゃんさわぎに使われているんだ.今俺たちから巻き上げたあの品物や金だって,みんな奴等の飲み代になることは間違いねえ.どうせ将校も将校なら,兵隊も兵隊じゃあねえか」 秋田の言葉で,横倉も岩楯も,他の兵隊も不満をぶちまけた.

「オィ,みんな気を悪くすんなよ.これもみんな兵隊がヘマをやるからだよ.二大隊の間抜けの二年兵がよう.ここで拳銃を警察に売る所をみつかったんだってよ」 いつの間にか飛び込んできたのか林軍曹は,三年兵をなだめるように言っている.

「オィ,将校下士官は聞かんでも良いが,兵隊はよく聞け!!」 思いがけない所で,とんだことをいい出したのは,新品少尉に叩きつけられたのに反抗して,陸軍刑法を食って帰ってからは,めったに口をきいたことのない木村一等兵だった.

「いいか,危ない思いまでして,敵から銃なんかかっぱらう必要はないぞ.味方の三八銃だって千円にはなるし,小銃弾一発でも五円になるからなあ」,こういうと木村は一人ひとりの兵隊の顔を伺い始めた. 林曹長はパッと逃げるように姿を消した.

「そうだよ,手榴弾一発は五十円になるだい」, 若尾の声に三年兵は,"そうだ,そうだ"と調子をとった.ただ初年兵教育を二年も続けてやった星野兵長と横倉だけが,そっと深沢を伺って声を132たてなかった. 岩楯は一番先になって賛成の声をあげた.

観測班長の古根村伍長が宿舎割りが決まったことを連絡にきた.二年兵と初年兵だけが馬鞍を持ち上げ,砲馬を引きたて,移動の準備にとりかかった.

前にいた三,四中隊はもう立ち去った. 林曹長が聯隊本部から都合してきた二本の日本酒をつきつけて,まだ道路端に座っている三年兵をなだめたり,手を引っ張ったりしている.

兵隊たちはもう始まった宴会場の三味線や太鼓の音,ざわめきに,むかつく胸を押さえながら,宿舎の方に向かった.子供を抱いた婦人や,老人たちが追い立てられている家屋に荒々しく入り込んで行く.兵隊たちはこの腹立たしさを平和な中国人民の上にぶっつけて行った.

入口の扉が割られ,鶏は片っ端から断末魔の声を上げ,葱は引きちぎられ,豚は追い廻され,ひとしきり騒然たる光景がくり広げられ,めまぐるしいひと時が過ぎると,あれ程騒ぎたてた兵隊たちも鶏の香り,豚の昧に胸のモヤモヤを少しは納めることができ,遅い昼食を終わると,占領した炕の上に枕を並べてイビキを立てている.

それからどのくらい経ったのか,夢うつつの横倉の耳元で,かすかに聞き覚えのあるささやきが聞こえてくるのに,とうとう目を覚ました.プンとにおう酒の香りに頭をもたげた.そこには宴会に行っていた筈の佐伯少尉が,声を落として林曹長に話している.

「起床!!起床!!ただちに出動準備!!」 林の怒号で兵隊たちはキョトンとした目で天井を眺めている.

133「やかましいわい!!八路軍が攻めてくるならここで応戦してやるわい!!何もあわてて出ていくことはないぞ」 二人にあてつけるようにどなった木村は,また炕の上にごろりと寝ころんだ.

横倉は林曹長から,ともかく聯隊本部に弾薬を受領にいくからと急がされて,五,六名の兵隊と,さっきの大通りに出た.そこには唐山から女を乗せてきた四台の自動車と,死体を運んできた五台の自動車がズラリと並んで,エンジンの調整をする音で兵隊たちの心を急き立てている.

死臭の消えない先頭車輌のボデーの上では,第二大隊長の楠木少佐が,「早くせんか,早く」とあわてふためいてはいるが,力なく恐怖におびえた青白い顔で駈けてくる兵隊たちをどなり散らし,急がせている.

やがて鉄帽の兵隊を全車輌に満載すると,傾きかけた夕陽の入る方向に,自動車は次から次へと消えていった.

狐につままれたような横倉には,なんであんなに元気がないのだろう,と,めいりそうな焦りと不安をどうすることもできない.思わず,ゾクッと身震いした.

"八百の八路軍は日本鬼子を皆殺しにするための準備工作に行った.それは時期がくればわかる"と言ったあの少年の言葉が,その顔が,のしかかってくるのであった.

横倉のこんな瞑想とは無関係に,林曹長は足を急がせながらこう説明した.

「八路軍は西北方に六百,西南方から七百,合計千三百がこの三屯営に向かって移動中であるという情報が入ったんだ」

134八百と聞いた八路軍が千三百になった.どうして一晩に五百人も増えたんだろう. "老百姓一人一人が八路軍の力だよ"といった.これを考えると,俺たちはいつも八路軍の包囲の中にある.ましてこの高梁や,粟,小麦の繁茂する今では,林の中で包囲されているのだ,それがいまこの三屯営に攻めてくるのだ…… 横倉は放心したように歩き続けた.

弾薬庫の西側には,何百かの死体が山積みして放り出してある. "日本鬼子から取った兵器で,新しい軍隊を装備し,お前たちの喉笛を突き止めるのだ"……と叫んだ少年の言葉が,横倉に襲いかかってくるのを感ぜずにはいられない.…… 俺もいつかはこんなになっていくのだろう.人間の生命なんでもろいものだ.

もし俺が死んであんなになったらどうだろう.…… ああ,それも何と皮肉なことには,日本鬼子の戦死者五百と,新しく増えたという情報の五百とは,ピッタリ一致しているではないか.うつろな気持ちで夢遊病者のように青ざめた顔で,力なくヒョイッと弾薬箱をかかえた横倉の太い足は,ヨロヨロと横にのめった.

「何だ横倉,そのヘッピリ腰は,昨日の八路軍の小孩の方がよっぽどしっかりしているぞ!!」 よろめく身体をやっとのことで持ちこたえた横倉は,ずばり林曹長から小孩のことをいわれたので,ガーンと頭を打たれたように感じた.…… 新軍屯の名を覚えておけ」 と涙声を交えて叫んだ少年の引き締まった丸い顔が,幾重にも幾重にも覆いかかってきて,自分が今抜け出そうとしても抜け出すことのできない,深い深い泥沼……死の沼に突き落とされていくのをどうすることもできないので135あった.


証言 西尾克己

時代の流れって一体なんでしょう

漠然と大きなものを感じます

瞬間 みえたかと思うと

すぐ何処かへ消えてしまい

……

時代の流れに流されつつも

人間をやめたくはありません

人の心を失う前に

時代を探しにゆきましょう,ね

君や僕や親父やじいさん

皆が生きてきた時代を探しに

人が生きてきた時代を探しに


まずはじめにこの自由詩は私の作ではないことを,お断りしておきます.昨年盛岡高校135三年の佐藤薫君[十八歳]が,本多勝一氏の『中国の旅』に刺激され,こんなショッキングな歴史があったのか?と,関係の文献と取り組み,六カ月をかけ研究の成果を生徒会誌で発表しました.そしてテレビ,マスコミ等のいわゆる現代の「情報化社会」は,必ずしも万能ではないという体験を得た彼は,真実は自分の脚でと,「第二次南京追悼献植訪中団」に参加しました.冒頭ご披露の自由詩は,若い彼の南京訪問」の動機と決意を謳ったもので,その始めの四行と最後の七行を拝借したのです.

廻りくどいようですが,あえて佐藤君の自由詩をお借りしたのは,特にこうした戦争誘発に疑念を抱く広汎な若い人たちに,戦場は人間が人間であることを拒み,二十一歳を残虐な獣鬼で過ごした,私の体験を聴いていただき,そして賢明な若いあなたたちに学びながら余生を誤りなく過ごしたいと考えたからです.

最後に佐藤君の訪中後の感想文の一端を付け加えさせていただきます.

……何のために,僕はわざわざ虐殺記念館まで行ってきたのか.あの凄まじいフィルムは,今でも忘れられないのに,その思いを伝えるためには,少々歪み過ぎている日本のようで残念です.-ですが,決してあきらめることなく,僕は僕なりにこの国に一石を投ずる方法を探すつもりです.……

ご閲読ありがとうございました. [1988・10]


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1 Xinjuntun, Siedlung
2 Guandong, alte Provinz
3 Yokokura Mitsuru, 曹長
4 Nishio Katsumi, 伍長
5 Takahashi Shôzô, Feldwebel
6 Ogawa Masao, Oberleutnant, geb. 1907
7 Abe Seiji, 曹長
8 Yutian, Kreis in Tangshan, auch Stadt
9 Beining, Bahnlinie
10 Mishan 1. Kreis in Dong'an 2. Ort in Hebei (5-4-25)
11 Wuhan, Hauptstadt der Provinz Hubei
12 Kawai, Oberst
13 Tominaga, Generalleutnant
14 Sekine, Stabschef
15 Feng'run 1. Bezirk von Tangshan 2. Kreis in Hebei
16
17 Shanyu, in Hebei
18 Amano, 伍長
19 Hayashi, 曹長
20 Fukazawa, Feldwebel
21 Iwatate
22 Ishikawa, 本部勤務の
23 Kawachi, 三中隊の
24 Minagawa, 二中隊の
25 Enomoto
26 Kuwahara, 下士官候補
27 Sasaki, Oberfeldwebel
28 Matsunaga, Gefreiter