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あとがき

中国帰還者連絡会


………われわれの戦争と生活体験を手記に書こう………という提案が,撫順1の戦犯管理所の中で,一部分の仲間たちからもちあがったのは一九五五年[昭和三十年]の暮れごろのことである.

撫順の管理所の内部は,病室をいれて七棟の監房があり,棟ごとに番号をつけて「一所」「二所」というように呼び,「所」には十六個から八個の部屋があった.当時,「所」内の各部屋の扉は,すでにあけ放たれて,「所」内の部屋と部屋の交通は自由であったが,「所」「所」のあいだの交通には一定の制限があった.

学習も文化活動も体育も,私たちは「所」を単位として寄り集まって相談をし,計画をたててやっていたのである.したがって学習の進度も生活の方針も各所ごとにまちまちであった.

撫順と太原2の戦犯管理所に収容されていた者は,全部で一,0六二名[四四名は特別軍事法廷で判決を受けて現在受刑中,一名は,病気仮釈放で帰国,残りの一,0一七名は不起訴となり,昭和三十一年夏,三回に分かれて帰国した].もとはといえば軍人,警察官,官吏,特務機関員などさまざまの仕事をしてきていた.年齢,性格,健康,顔かたちにそれぞれの特徴があるように,生い立ち,環境,教養の程度も218千差万別なら,軍隊や機関での地位も,上は将軍級から下は二等兵までまちまちである.キリスト教徒もいれば法華(ほっけ)信者もいるというぐあいで,こういうところから生まれる考え方の差は複雑だった.

禁欲生活への不満,肉親や家族への満たされない愛情,古い国家理念と義理人情,戦争の責任と罪悪性の自覚,生と死の問題と思想,労働観点や唯物論と観念論の相克(そうこく)などのこみいった問題.相互間の生活感情の相違からくるもつれなどあったし,あれやこれやでハンディキャップがついて,私たちの考え方の程度は,千人が千人それぞれことなっていた.

こういうなかで,私たちは,日ごと変化発展していく戦後の世界情勢の動きや,祖国日本のありかたをみつめながら,過去の戦争の期間中におこなった罪悪行為を,いちおう中国人民政府に口頭や書面で提出し終わったときであった.だから,私たちの考え方も軍国主義のゴリゴリにかたまっていたときからみれば,かなりの変化をみせていたし,程度の差こそあれ,根本的には侵略戦争こそが人類への許すことのできない反逆であるという点に期せずして一致しつつあった.

こういうときに,いままでの「所」単位の生活を破って,全管理所的に学習,生活,文化,体育の各方面を,自主的に運営する私たちの学習委員会を設けることが許可されたのである.この許可は私たちを歓喜させたし,同時に自分の生活と学科の前進に確信をもつための大きな励ましになった.手記を書こうという気持はこういう環境から発展してきたのである.

戦争中に私たちは人間らしいこころと生活を捨てた.戦後十年,ソ連3から新中国へ収容監禁の生活の中で,反省の機会を重ねてきたが,まだ私たちは戦争の中で生きてきた自分の「人間」を見きわめる219ということをしてこなかった.

自分自身さえそうであり,私たちによって,はかり知れない惨害をあたえた中国の人びとの痛々しい感情にも無縁だった.

侵略戦争と世界発展の必然を分析し,自分の果してきた役割りがわかってくるにつれて,認罪の目は,しだいに肉体の深い所に向けられていったのである.

戦争の体験は私たちの場合,長い反省の生活をへて,いろいろな意味で深刻さを増していた.その偽らない気持と行動をありのままに記録するということは,言いかえれば,人間を暗黒の裡(うち)にとじこめていた侵略戦争のファシズムの"くびき"から自己を解放しようとする,いわば失われていた人間性への強い目覚めであったとも言えよう.

書いたものを,将来何かの機会があったら,公(おおや)けに発表したいということも,もちろん考えていた.

私たちが戦犯として責任をとり人民の裁(さば)きの前に服罪するということ,その飾らないこころを書きつづけるということによって,世の人々がこれから何程(なにほど)かの教訓をくみとり,それが平和のために多少なりとも役立つなら,私たちは各人の罪によって,よしんば死刑の宣告を受けたにしても,万分の一の罪ほろぼしともなるであろうし,もって冥(めい)すべしだと,こう思ったのである.

さて,手記を書くという話は全所にひろがったが,………よし,やろう………と集まった者は,正直のところ,はじめはごくわずかなものだった.

220………いい学習になるとは思うのだが,どうもペンを持つのが苦手(にがて)で……….

とにかく,小学校以来,たまに手紙を書くくらいで,文章というものにまったく経験のない連中の寄り集まりである.

書くということじたいに,すでに困難を感じるありさまだった.最初集まった者でも書いてみると,なかなかなまやさしいものではなかった.

第一に,この体験が,思い出すさえ身ぶるいのでるような恐ろしいものだし,親兄弟にさえ見はなされそうな,恥ずかしい事実である.

第二には,発表することがあれば,日本にいる家族に何かの累(るい)を及ぼしはしないかなどという顧慮もでた.

表現の上の問題でも,商をかぶったような無表情の人間ができあがったり,凶暴きわまりない日本軍の軍人を形容するのに,書いているうちに,感情がたかぶって,狼,虎,獅子,猿,やせ犬,野良,猫,蛇,青鬼赤見といったふうの,まるで動物園のような状態が出現したりした.

書きながらあまりの苦しさに耐えきれず,ぺンを投げだして,わが身にしみこんだ罪悪と軍国主義の根深さを嘆き,しらずしらず,こんなにもこころの枯れてしまった人間になっていたのかと,われながらあきれるようなこともあった.

手記の内容はまさに人類の,そして日本人の恥さらしである.これを書くには大きな勇気が必要だった.私たちはいくどもこの間題を討論して克服した.恥さらし………,まさにそのとおりだ.

221しかし,われわれはこの凶悪無慨をさえ型戦と思いこんでいたのではないか,いまその姿がようやく見えるようになったということに,誇りをもちこそすれ,何を顧慮することがあろう.われわれが真実の語り手として生まれ変わったと知ったら肉親たちもきっと喜んでくれるにちがいないじゃないか.

苦心惨惜して,とにもかくにも書きあげて仲間たちに見せたところが,これが俄然全所に大反響を巻きおこしたのである.

だれしもが身をきられるような同じ体験をもっていた.下手だとわかっていても,やはり強い感動にうたれて涙を流し,あらためて自分を見なおしたのだった.

一深刻さがたりない.戦争なんてこんなもんじゃない………

………これじゃ,まるで中国の人がでくの坊で,日本軍の武勇伝みたいだ………

とか,いろいろな批判もでた.けれども同時に,

………じゃ,おれも書いてみよう………

という者もどんどんふえた.手記を書くことが,全所的に学習の課題になって,ついに全員を巻きこんだのである.

私たちのばあい,学習とは過去のおのれをみつめること,その血にまみれた罪悪の歴史を掘りさげて,認罪に徹することだということが,身にしみて理解されだしたのである.

ヒューマニズムという観点から,新しい人生観と,これからの世界と人制の発展方向を見いだそう222とする努力が生まれた.

手記は私たちにとって,きびしい認罪と自己鍛練の道場となったのである.

この手記は,私たち自身の思想改造への情熱が,自然に生み出したものであって,けっして何らかの外部的強制があったものでもないし,また創作とかルポルタージュとか,いわゆる文学という型にあてはまるものでもない.これはやむにやまれぬ気持から,私たちが不慣(ふな)れなぺンを握ってつづった真実の記録であり,身をもって体験し,反省した侵略戦争の告白になったのである.

いまからふり返ってみると,管理所生活という一定の枠の中で書いたもので,そこには,多少一面的な感覚上の狭さがあることは認めないわけにはいかないが,それだけにまた純粋だろうと思うのである.全員の手記が一応完成するまでには前後約一年の日数がかかった.そうして私たちは出版の便宜を与えられたいという希望をつけて,そのうちの一部を中国政府に委託したのである.


………もともと,これら犯罪者のおかした罪からすれば,公訴を提起して裁判に付し,しかるべき処罰をあたえるのが当然である.しかし,日本の降伏後,十年来の情勢の変化とその現在おかれている状態,ならびにここ数年来における中日両国人民の友好関係の発展に鑑(かんが)み,またこれら犯罪者は拘留(こうりゅう)期間中の悔悟の態度が比較的良好なものであるか,あるいは重要でない戦争犯罪者であることを考え……… [中華人民共和国最高人民検察院の起訴免除の決定書より.原文のまま]

こういう理由で中国の人びとは,憎んでもあまりある私たちを親兄弟のもとへ送りかえしてくれた. 223私たちは感涙にむせびながら,十数年ぶりで,昭和三十一年の夏,新生のすがすがしい目で,戦後の変貌した故国の山河にまみえたのである.舞鶴に上陸第一歩で私たちが経験したものは,夢にも忘れなかった肉親や,祖国の人々との胸のふるえる涙の邂逅(かいこう)であり,同時にまた,「十人一色の総ザンゲ」「洗脳」というコトバであった.私たちはいまのところ,こういうコトバにたいして,ムキになってあれこれと釈明するほどの必要も感じてはいない.いずれは事実が証明してくれると信じているからである.

だが,この点について,私たちはこの手記を,ひととおり読んでいただきたいと思う.

侵略戦争に,私たちは青春のいのちを賭けて参加した.それが過(かあやまち)と知り,被害を受けた人々の苦しみや,悲しみの深さが身にしみたからには,認罪は同様にいのちを賭けてやらねばならないことである.じっさいに私たちの真理に忠誠ならんとする思想改造は,いのちがけであったのだし,また,けっして終わりがある性質のものでもなし,これからもこれで生きていくつもりである. 「人間」という誇りある言葉に恥ずかしくないように.そしてこれは私たち自身と,もしそれが侵略戦争に参加したことのある人なら,だれかれを間わず日本国民自身の問題なのだ.だれのためでもない.私たちはそう思っており,ただそれだけである.

まえにも述べたように,一,0六二名の構成はまことに複雑で,まさに「十人十色」である.

しかも,ここから「十人一色」が出てくるゆえんのものは,ひとすじに人間としての喜びと悲しみからでなくてなんであろう.

224中国の人々は,私たちにこれを教えてくれた.これは純粋なものであり,人間が生きているかぎり,この点で一色にならないで,どうして世界に平和と幸福がくるだろうか.

こういうことは理屈ではないが,ひとのこころの奥底ば信じられないとすれば,それは殺しいことである.

ここに収められている十五編は,すべて事実であり,なかんずく,戦争の実体を取扱ったものは,あの戦争の規模と被害からすれば,ほんの九牛(きゅうぎゅう)の一毛(いちもう)にもたらぬ一部分である.

しかしながら,それでも読む人には,どんなに日本軍国主義と私たちが,非道に,野蛮に中国の人人のうえに,残虐な猛威を振るっていたかを了解していただけると思う.

こういう惨事は,たんに一人の人間の異常性格や,思いつきからだけでおこるものではなく,その根本は戦争の侵略性という本質からひきおこされているものである. 「皇軍」の軍紀や慈悲のおとぎ噺(ばなし)に耳を傾けるまえに,それが伺人のどんな意志から発したにせよ,侵略を受け,肉親を目のまえでむざむざと殺された側の人々からみれば,すべて仇(あた)であり,人の皮をかぶった悪鬼羅刹(あっきらせつ)であることに注意をしていただきたい.

私たちは,こういう過去の自分を臍(ほぞ)を噛(か)むような痛恨にさいなまれながら,だからこそ,二度とけっして過を犯すまいと誓いつつ書いた.日本国民のうちに,ふたたび,愛する人々を戦場に送って,あの惨めな悲しみと苦しみを繰りかえし,原爆の惨害を味わいたいなぞと考えるような人はひとりもいないと思う.

225私たちは,このような人々に,私たち自身の体験した侵略戦争の実体と,人類が尊い血潮で購(あがな)った教訓を,さらに噛みしめていただきたいと願う.

日本軍国主義がひきおこした戦争は,日本国民自身をも人間としてのどん底にまで突き落としたけれども,同時に戦争をしむけられたアジアの諸国民,とりわけ中国の人々には深い傷手(いたで)を与えた.ファシズムに勝利して独立と自由を戦いとった新中国は,現在隆々と発展しているが,その新建設の途上では,全国のどんな土地を掘りおこしても,日本軍国主義と私たちに尊い生命を奪われた,人民の英雄の白骨が出てくるのを見なければならないのである.

侵略戦争の魔の爪跡は,すべての平和を愛し,人間の愛と美しさを望む人々のこころに,癒(いや)すことのできない傷手となって残っている.

私たちは,二度とふたたび祖国日本と,愛すべき青年たちをあのいまわしい戦争に駆り出し,輝かしい青春と幸福を原子兵器の餌食にすることを許せないのである.二度とふたたびアジアを戦火の巷(ちまた)に投げこみ,勤勉で善良な人々を,無慚に殺戮(さつりく)するような犯罪を繰りかえさせるに忍びないのである.

私たちの現在の願いは,日本の土地の上で,平和に楽しく,よい夫,よい親,よい兄弟,よい子供としての勤労の生活を送ることである.全世界の平和を愛している諸国民,侵略の被害を直接に身浴びながら,平和のために旧怨をのり越えて,日本国民と暖かく手をむすぼうとしている新中国の人々と,堅い友誼(ゆうぎ)の誓いをうちたて,人類永遠の楽園をつくりあげることだ.私たちがこのような手記226を書いたのは,ただただ,この願いからだけなのである.

こうして過去の凶暴なファシストは,いま生まれ変わって平和の道へ,なつかしい祖国での再生の第一歩を踏み出しつつある.にがい前半生の体験を顧みて,私たちが言えることは,戦争は本来の人間としての私たちを否定したが,戦犯としての私たちは,この否定の上に,さらに否定を重ねたものであった………ということである.私たちのこころはいま,真実を知り,語ることができる喜びと希望でいっぱいだ.

昭和三十二年二月二十日

 

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1 Fushun, Stadt in Liaoning, Nordostchina, Bergwerke 炭坑; Ort der späteren Kriegsverbrecherverwahranstalt 戦犯管理所.
2 Taiyuan, Hauptstadt der Provinz Shanxi 山西, Gefangenen- und Umerziehungslager
 Die Sowjetunion