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心境の落ち着くまで

山田勝1

関東2庁警部


198「早く帰りたいなァ……….悪いことをしたことも,戦争が悪いこともわかったし,いまさら戦争を許すようなことも,古い社会をそのまま見逃(みのが)すようなことも,誰だってしないだろうに,なぜ帰してくれないのだろう……….」

「五十の坂も越えた.働けなくなっては何にもならん.元気なうちに帰れんものか.子供の教育もできなくなるのに……….」

私は大罪を犯した戦争犯罪人である身分を忘れて,ことごとに帰ることばかり考えていた.

一九五四年四月のことだった.

「ぶじに帰っただろうか……….どうして暮らしているだろうか……….四人の子供を抱えて妻はさぞみじめな暮らしをしているだろう……….」と,ウラル3の山の中でも,中央アジアの高原でも,十年この方,一日として思わぬ日とてなかった妻子から,私は突然便りを受け取った.私の胸は嬉しさと不安とで痛いほどふるえた.

「みんな元気でいてくれ……….」

199私はひそかに祈りながら封を切ると,すばやく十枚近くの便箋紙をめくって,差出人の名を探した.長男も二男も三女も生きて手紙をくれている.だが,妻と二女からの手紙は,二度三度血眼になって探したが見あたらなかった.

「どうしたのだろう………,ひょっとすると……….」

私は不吉な考えを打ち消しながら,恐る恐る長男の手紙を手にとった.

「お父さん………,お母さんは一九四七年一月十四日大連4から引きあげの途中,僕ら兄弟四人を残して,お父さんと僕たちの名を呼びながら死んで行かれました.僕は学校へも行けず,いま大工(だいく)の弟子になっています.だからお父さんだけは,どうしても死なないで帰ってください………僕らの願いはただこれだけです.」

私はガーンと頭を叩かれた.子供たちの悲しみをこめたこまごまとした手紙を,私は張り裂けそうな咽喉元(のどもと)を押さえて読みつづけようとしたが,目の前が真っ暗になってしまった.いっさいの希望も願いも,みなめちゃくちゃに叩きこわされてしまって,力の抜け切った体をやっと支え,荒れ果てた広野に,一人しょんぼりとたたずんでいるような気がした.

「だいじをなそうとする人間が,これくらいのことで取りみだしてはならぬ……….過ぎ去ったことだ!」と,私は,私の心を叱りながら,皆の前では平静をよそおったが,一度焼け爛(ただ)れた胸の痛みは,堪えようとすればするほど疼(うず)くだけだった.

その夜,私はふとんをかぶって泣き明かした.思うことは,ただ妻子のことだけだった.

200「小父ちゃん,堪忍して………,僕のお母さんです……….」

妻の死体を海に投げ込む,見も知らぬ人の足にすがりつき,はいずりながら泣き叫ぶ,あわれな子供たちの姿……….妻のなきがらに抱きついて,必死になって妻と私を求めて泣き狂ういじらしい四人の子供の泣きぬれた顔………,西も東も知らぬ幼い子を,旅に病む身でいたわりながら,この愛(いと)し子を残して死なねばならぬ妻の切ない悩ましい顔……….こんどこそ新しい夫となって,中国のように女の権利も自由も認め,美しい家庭生活をなそうものに………,お前はなぜ死んだのだ……….私は毎晩こんなことを偲(しの)びながら嘆き悲しんだ.

「やはり戦争だ!こんな苦しい思いをさすのは……….」

三日目の夜明けごろ,狂い出したいような悩みと苦しみの中から,どう考えてもこの苦しみは戦争がもたらしたもの以外にはない!自分自身の求めて進んだ道ではあるが………,私はいまさらのように戦争と戦争社会を呪(のろ)った.

「今日も六五0体ほどの英霊がお帰りになりましたの,お母さん方のお気持ってどんなでございましょうね……….お父さんを亡くされたお子さんや奥さんの……….」

「馬鹿ッ!そんな考えで戦争に勝てると思うか!日本にはそんな女は一人もいないぞ!」

私は,埠頭(ふとう)に戦死者の遺骨を見送りに行った妻を,かって,こう言って叱りつけたことを思い出してハッとした.

「そうだ!誰にとってもたった一人の父であり,夫であり,かけがえのないかわいい子供だったのだ!201おれが殺した中国の愛国者も,おれと日本侵略軍隊が殺した一,二00万の中国の愛国者と平和に暮らしておられた人びとの遺家族の嘆き悲しみは,どれほど深く激しいのだろう.おれは,自分一人のことを考えていた.おれは中国人民の血と汗の上で暮らした過去の夢を追って嘆いていた.血にけがれた汚い『幸福』のこわれたかけらを拾い集めながら,あさましくも泣いていた.」と思うと私はつぎからつぎに,過去を追想し,犯した罪の重さに堪えられぬ気持になった.

一九四二年二月,戸毎に貼られた春聯(しゅんれん)[祝いごとの飾り紙]の上に,まだ鮮やかに初春(はつはる)の呑が漂(ただよ)っていたころだった.当時私は第十八集団軍山東5縦隊(さんとうじゅうたい)の戦力削減の目的で,上級の命を承(う)けて,山東省膠東6軍区八路軍(さんとうしょうこうとうぐんくはちろぐん)に対して物資を補給していると難癖(なんくせ)をつけ,山東省蓬莱7県大欽島8(さんとうしょうほうらいけんだいきとう)の張楽尭9(ちょうらくぎょう),粛本忠10(しゅくほんちゅう)という二人を,下松11(したまつ)警部補に命じ捕えさせ,私みずから拷問した.

「おい,お前は八路軍から頼まれて,品物を買いに来たのだろう.」

「いや,島で獲(と)った魚を持って来て,正月の品物を買いに来たのです.」

「嘘を言えッ!」

「嘘ではありません.私は大欽島の漁民です.」

「強情なやつだ.口で言わねば体にもの言わしてやるぞ!すっぱだかにしてブン殴れ!」と,部下に命じた.

冷たいコンクリートの上にうつぶせになった赤銅色(しゃくどういろ)の素肌(すはだ)の上に,ピシャリ!ピシャリッと激しい音を立てて,鞭が何十回となくやわらかい肌にくいこんで行った.その,後から,後から,斜めに202(は)った白い鞭の跡が,見る見るうちに赤紫に変わった.それでも一口も言わなかった.

翌日,私はふたたび拷問しようと思って留置場に行った.

張楽尭はひどい内出血で発熱しています.昨夜から食事もしないで呻(うめ)いていますが……….」

「なにい………,内出血で発熱したァ………,そんなことを一々心配していて仕事ができるか!塩漬大根一切れと小さい包米饅頭(パオミイマントウ)[とうもろこしで作った饅頭]一つが食えぬなんて………,仮病(けびょう)だよ.頭から水をブッ掛けたらすぐなおる……….」と,私は看守を叱りつけた.

ウーン………,ウーン………,と地獄の底から訴えているような薄気味悪い呻き声が,シーンとした留置場の中ほどから命を刻むように聞こえる.私は足音を忍ばせて呻き声に近づいて行った.どの監房も,どの監房も,異国から闖入(ちんにゅう)した私たちに捕えられた,罪も科(とが)もない善良な人たちでいっぱいだった.そしてその人たちはむこうを向いて,キチンキチンと正坐させられていた.

膝の上に堅く握りしめた挙を,ときどきあげて目をこする人,うす汚い壁いっぱいに焦げついた同胞の,赤い,あるいはドス黒くなった血湘をジーッと見つめている人,おもてを伏せて切なそうに肩で息をしている人.その人たちの心の中には国を思い,民放の前途を思い,あるいは侵略者への激しい怒りや憎しみを燃やし,また,ある人は優しい母やかわいい妻子のことをしのんでいたであろう.

私は,暗い牢獄の片隅で,坐ることも寝ることもできないほど腫(は)れあがった体を,やっと横にして呻いている横顔に向かって,怒鳴った.

張楽尭ッ!起きて出ろッ!」

203その瞬間,むこうを向いて坐っていた一0人近くの顔が,グーッにゆるやかと後を向いて,白く光る十幾つかの目が,グッと私の目を射て離れなかった.その目は,どの目も母をしのび妻子を思う悩ましきも優しさもなく,恐ろしいほど鋭く凄い目だった.

「むこうを向けッ!」 私はたまりかねて大声で怒鳴った.

それから三日目の朝,私が出勤すると,外事課の入口に,小さな包みをしっかり抱いた十四,五歳ぐらいの娘の子が,私にていねいに頭をさげた.

「あっちへ行け!」 私はあごで長い廊下を指して叱った.十分ぐらい過ぎたころ,この少女がふたたび私の机の前に現われて,

「わたくしは張楽尭の娘です.お父さんが帰りませんので島から一人で探しに来ました.どうぞお父さんに会わしてください」

私は呆然とした.あの島から一人で………,私はそう思いながらその子をジーッと見た.小さな麻の葉模様の茶色の上衣は,二年も前に作ってもらったのだろう.成長ざかりの子供の体を,苦しいほどぎっしりと包んでいたが,手首だけは,二寸ほども寒むざむと袖口からはみ出ていた.伸ばしかかった前髪(まえがみ)が,ことさら長く,美しい眉を薄く覆い,その下で鈴をはったような瞳(ひとみ)が悲しそうに濡れ,黒く長い睫毛(まつげ)の根元まで潤(うろお)っていた.

「おれはお前のお父さんは知らん!よその警察だ!帰れ!」

「いいえ,ここの牢屋にいます.わたしは十日もかかってやっと探しました.お父さんは悪い人では204ありません.会わしてください,お願いです.どうぞ会わしてください,お願いですよ.」

「馬鹿ッ!いないと言ったら,いない!おい!外へ引き出せ!」

グッと少女の襟元を引き摑んだあらくれ男の手の甲に,大粒の涙がポタポタと幾つもいくつも落ちた.そのとたんだった.

「汚い!」と叫んだ部下の大きな手が,丸顔の血の気の失せたほおを,ガーンと殴った.少女はよめきながらぶつ倒れると,す早く,黒く汚れた床の上に坐り直して,涙をいっぱいたたえた目でジーッと,私を見あげて,小さな口をふるわしていたが,

「お父さんは悪い人ではありません.会えなかったらせめてこれでもあげてください.」と,両手で胸に抱いていた小さな包みを差し出した.

「グズグズせずに引きずり出せッ!」

私は部下を叱りつけた.と同時だった,差しあげていた包みがビュンと廊下に飛んだ.そして襟髪(えりがみ)を摑まれた少女の体が床の上をずるずると引きずられて行った.少女は必死になって,

「お願いです.お父さんを帰してください!」と泣きながら叫んだ.これだけ多くの人の中で,誰か助けてくれる人はいないかと,涙に漏れた顔をさげて,そこここの特務に助けを求めて,引きずられて行く少女を,私はあざ笑いながら眺めていた.

私はこのいじらしい少女の美しい心を踏みにじったばかりでなく,この子と母が命をかけて恋い慕った,たった一人の父を,夫を投獄して,虐殺してしまった.

205「もうすぐお父さんが帰って来る.正月には,お父さんが買ってきた晴着を着て,花のついたかんざしをさして……….」と楽しい正月を心に描いて胸をはずましていたこの子……….大晦日(おおみそか)もすぎた,正月も来たのに帰って来ぬ父……….毎日岸辺に立って行きかうジヤンクに望みをよせて待つ子の心……….父恋しさのあまり,海鳴りの音を櫓の音に聞き,岩に砕ける水沫をジャンクの帆に見て浜辺に駆けるいじらしい少女の姿.島を出たきり帰ってこぬ父を尋ねて,たった十五のか弱い少女の身で,ただ一人小舟に乗って,はるばる黄海(こうかい)の荒波に揺られて,見も知らぬ頼る人とてない大連に渡って,町から町を十日もさまよい歩いて,やっと私の机の前までたどりついた可憐(かれん)な少女の純情をふみ潰し,悠遠にかわらぬ幸福を奪ってしまった.

いま,永久にかえらぬ父の姿を,瞼(まぶた)に浮かべ,来る日も来る日も浜辺に立って帰らぬ父を待つ人の心.薄靄(うすもや)のかなたに雲のように浮く大連(だいれん)の空が,この可憐な少女の胸を,毎日毎日,どれほど痛く傷つけたことだろう.いまその人が,私の鬼の姿を瞳に焼きつけ,呪いと憎しみに焼けただれる胸をしっかりと押さえて,寒い湖風の中に立って,冷たい海水に真っ赤に腫(は)れた手で採(と)られる牡蠣(かき)こそ………,私が暖かくスチームの通った室で,仕事もしないで食う中国料理の,おいしい火鍋子(ホーコーズ)[寄せ鍋]の中の牡蠣でなくて何だろう.

「お父さんだけは死なないで帰ってください.これが僕たちのたった一つのお願いです……….」 母を亡くした私の子,切なる叫びを聞くとき,私はこの少女にどうしたらよいだろう……….私が殺した多くの人びとの家族に,永遠によみがえらぬ人をどうしてその子にかえすことができようかと思うと,206私はたまらなくなった.しかも私は生きている.被害者である中国人民から,語っても言いつくせぬ暖かい配慮の中に,何不自由なく生きている.

一九五二年六月六日の夕方だった.私は急に寒気がして気分が悪くなった. 「寝冷えでもしたのだろう.」 私は布団の整理を止めて静かにしていた.仲間さえ気がつかぬのに,工作員先生は,「気分が悪いのでしょう.やすんだらどうです.」とすすめられた.早速,医務室から先生が来てくだされ,ていねいに診察され,二本の注射と投薬と血液検査をしてくださった.アスピリン一錠で済ました過去のことを考えて,私はもったいなかった.それから工作員先生は,ひっきりなしに来て,心配そうに枕元にたたずまれていた.真夜中,私はフト額の上に手が載ったのを感じ,目をさますと,先生と工作員先生が立っておられ,再診と注射をしていただいた.三度目に目をさましたときもやはり前と同じだった.

「どうして大罪を犯した私に一晩じゅう休まず看護してくださるのだろう……….」 私は,ありがたさにそんなことを考えた.こればかりではなかった.私は癌性(がんせい)の胃病を特殊療法で根治していただき,十六本の入歯や眼鏡までいただいた.

一九五五年八月六日,私は歯痛で診察,注射,投薬を受け休んだ.その翌目だった.

「どうですか,痛みはやみましたか……….」 まったく思いがけなく,朝から先生が回診してくださった.

「日曜日だのに………,お休みにもならず……….」 私はありがたさがこみあげてきて,あわてて起きて坐った.

207「休んで………,痛むといけないから……….腫(は)れは減りましたね.」と喜んでくだされ,その日二回も来て,そのつど注射してくださった.

「日曜であるのに………,家庭のお仕事もあろうに………,戦犯人のたかが歯痛のために……….」と思うと,私は,私の長女と同じ年ごろの女医先生から,優しい母の気高い心を感じてたまらなくありがたく泣けて来た.

「お前たちもこんな気高い人になってくれ.」と,私はむせび泣きながら,遠い故郷の子供たちに言った.その昔,私と日本軍国主義ファシストのために,父母兄弟を殺され,迫害と災禍をなめつくし,しかも勝利した中国人民の,その仇敵であり加害者である私に対する,言えどもつきぬ配慮を思うとき,私はこの配慮と戦争犯罪人の身分とをどう考えてよいかわからなくなってしまった.


一九五六年二月,私はこの身分でありながら,史上かつてない実際社会の参観をゆるされた. 瀋陽奉天の参観を終わり撫順(ぶじゃん)参観のときであった.私は養老院を参観した. 「まったく極楽だ!」 私は足を一歩踏み入れたとたん目を見はった. 瀋陽の参観でもこんなことはあった.学校,幼稚園,託児所,住宅,工場,農村などの福祉施設を見て,搾取さえなければこうまで人間は幸福になれるものか,人民の国でなければできないと感嘆した.

「どんな犠牲を払っても,働く人には一滴の血も流さしてはならない.」という人間を一番尊いもの208として大切にする共産党と政府の配慮がどこにも徹底しておこなわれており,新しい社会制度でなければ人間の幸福はないことを痛感した.いまでさえこのようであれば,社会主義・共産主義社会になったら,どれだけ生活が豊富になるだろうかと見当さえつかなかった.

養老院の参観はひとしおその感が深かった.私は養老院で一老人を訪問することができた.この老人たちは,何十年間,日本独占資本家にこき使われ,自分が掘る石炭を日本の戦争屋に奪われ,これが大砲や軍艦となってふたたび中国に押し渡り,この人たちの兄弟たちを殺す,むごたらしい戦争世界の不合理,非人道な社会制度の中で,つきない苦しみをなめ,辛うじて生き残った人たちであった.

美しく飾られた部屋,楽しい文化生活,私はこんな美しい幸福な社会を打ちたてるために戦っていられた中国共産党を弾圧し,こんなりっぱな社会の出現を阻(はば)んで来た過去を持つだけに,ことさら胸が締めつけられる思いがした.老人は,昔の苦しみより将来の希望を愉快に語られ,幸福そのものだった.私どものたっての希望で,話が過去の一部にふれたとき,老人の顔色は変わった.

「私は独(ひと)り者です……….だが,もともと独り者ではなかったのです.満洲事変の翌年,何一つ悪いことをしない姪ほか八人が,平頂山12(へいちょうさん)というところで日本鬼子(リーベンクイズ)に殺されてしまったのです.私はこんなことを話すとたまらなくなります.」 老人の口には涙が光っていた.

「やはりそうだ!幸福じゃないのだ!」

私は叫んで土下座して,「私をどんなにでもしてください.」と頼みたかった.この永越にかえらぬ209幸福を奪ったものこそ私だ!日本侵略者だ!何千万という人びとが,今日のような美しい楽しい世の中で,この老人のように疼(うず)く胸を押さえていられるこの事実の前に,私は八つ裂きにされても足りない身であることをはっきりと知った.

そして私は,私ばかりでなく,私をこうさせた天皇も財閥も,いっさいの目本軍国主義残余分子を,この事実の前に八つ裂きにせねばならない責任を感ずる.この事実と責任を無視して,なお,おのれの利欲のために再軍備を進め,人民を屠殺(とさつ)し,この平和な社会を生地獄にしようとたくらむ帝国主義反動どもに,直接,私はありったけの憎悪をブッつけたかった.

「音のことを言えばきりがありません.過ぎ去ったことです.よく勉強して平和のために戦える人になってください.」

老人は私たちの緊張した顔をのぞいて,静かに言われた.戦争を憎しみ呪うがゆえに,この堪え難い個人の憎悪を押さえ恩讐を越えて,平和を語られる老人の心境………. 「自分のことばかりを考えず,人民のことをまず考えろ.」と言われた大青村13(ダーチンツン)の老人の話と,どこにちがいがあろう.これこそ六億中国人民の心情であり,真理でなくて何だるう.

「真の人間とは,自分のいっさいを捨てて,民族の前途を考え,人類の平和と幸福を求めてやまない人である.」と,私はこの老人の言葉の中からはっきりと知ることができた.私は幸福の基礎,平和を守ることのみが,第二次世界大戦の戦争犯罪人である私の進む唯一の道であり,平和と幸福を破壊する戦争に反対し,戦争挑発者の陰謀を打ち砕くことのみが,私が深刻に体験した残忍な戦争を,210二度とふたたび人類の上にもたらしてはならぬ戦争犯罪人の絶対の責任であります.


略歴

一九三0年 偽関東庁巡査として偽関東洲に侵略

一九四0年 警部補外事警察課庶務

一九四五年 外事課第二係庶務係兼第二係長代理警部[内命]敗戦当時偽関東洲庁警察部外事

 

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1 Yamada Katsu, 関東Guandong庁警部, (Pseudonym)
2 Guandong, alte Provinz
3 Ural
4 Dalian (jap. Dairen), früher Lüda oder Lüta; eine Hafenstadt in Liaoning
5 Dalian (jap. Dairen), früher Lüda oder Lüta; eine Hafenstadt in Liaoning
6 Jiaodong, Halbinsel in Shandong
7 Penglai, Kreis in Shandong
8 Daqindao, gehörte zum Kreis Penglai, Shandong
9 Zhang Leyao (Yueyao), aus Daqindao
10 Su Benzhong, aus Daqindao
11 Shitamatsu, 警部補
12 Pingdingshan (jap. Heichôsan); am 16. Sept. 1932 fand hier ein Massaker an der Dorfbevölkerung durch japanische Wachleute statt; Opferzahlen schwanken zwischen ca. 500 (Nishio Kanji) und 3000 (chin. Angaben).
13 Daqingcun (Daiqingcun), Dorf