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一検察の告白

水口隆夫1

ハルビン高等検察庁・検察官


私たち日本人,約九七0名が,一九五0年七月十五日,朝鮮2戦争の勃発(ぼつぱつ)によって,なんとたくあわただしさと,緊張した空気を感ずるハバロフスク3の捕虜収容所を出発して,グロテコフ4をへて,中国の東部国境の町,綏芬河5(すいふんが)がにはいったのは,十七日の夕方だった.そこでロシアの貨車輸送と,コンボイ[護送兵]から解放された.やれやれ何回貨車に詰めこまれて,コンボイに警戒されながら,広いロシアを収容所から収容所へ移動したことか……….いま見る綏芬河の山も野ももとのままだ.私は,住みなれた第二の故郷に,五年ぶりで帰って懐(なつか)しさを,この大自然の中に感じたのである……….

列車は牡丹江6,哈爾賓7(ハルビン),奉天8(ほうてん)を経て撫順9についた.荒廃した沿線の光景がいまだ回復されないまま残酷な戦争への追憶をかきたてた.だが畑に働く中国人の新しい姿態の中に,解放の喜びと生活の向上を見出すことができた.そして途中の食事に,白パンを食いたいだけくれたことや,卵をくれたこと,警戒の兵隊さんたちの行きとどいた親切が,無性(むしょう)に嬉しかった.だが撫順に着くと,いままでのソ連邦の捕虜収容所の自由な生活と違って,思いがけなく監禁生活が待っていた.ここは元日本帝国主義が,中国人を監禁するための監獄だった.なんでもこの監獄の長であった大村10(おおむら)元典獄が,われわれ165の中にいるという皮肉な話題もあった.

中国は私たちを戦犯として,処罰するのだというもの,あるいはまもなく日本に帰るのだというもの,前途の不安と危懼をぼそぼそと話し合っていた.それは複雑な気持だった.そのうちに,新しい布団,服,シャツ,靴,防寒帽子,歯ブラシ………を支給された.何年ぶりかで歯ブラシを使った.米の飯をたらふく食った.そんなことでなんとなく皆浮きうきした気持になった.誰彼となく,中国へ来てよかったなあと話し合うようになった.ときどき窓格子の外を飛行機が飛んでいた. 朝鮮戦争が酣(たけなわ)なのであろう.

十月二十一日,私たちは全員撫順を出発して,哈爾賓(ハルビン)に向かうことになった.行き先を明示してくれたので嬉しかった.なんでも朝鮮戦争の危険がわれわれの身に及ぶことを配慮して採られた中国政府の処置だとのことだった.アメリカ帝国主義の絶対優勢を信じ,戦火が東北(とうほく)に波及して来るかも知れないと恐れていた私たちは,中国管理所当局の必勝の「言葉」を信ずることができず,またソ連邦への逆もどりでもするのではないかと,ろくでもない杞憂(きゆう)を抱きながら北上したのであった.しかし,それは単なる杞憂に過ぎなかった.私たちの一行は,予定通りにハルビンで汽車を降りた.

ハルビン! キタイスカヤ11街はハルビンの銀座通りだ.商業の中心地道裡12(タオリー)を貫通して,松花江13(しょうかこうがん)にのびている大街である.石をしきつめたキタイスカヤ街.その上をカツカツと走るロシア馬の馬車,通りいっぱいをあふれそうに押して来るバス,ロシア人運転手のタクシー,立ちならんだホテル「モデルン」,百貨店「秋林(しゅうりん)洋行」 「松浦洋行」,毛皮商「パレー商会」,カフエー「マルス」,レストラン166「ゾロトイ・ローグ」,イベリヤのコーカサス料理,アスペチャンのロシア菓子……….

松花江岸から二,三00メートル離れた,このキタイスカヤ街のはずれに,そうした,キタイスカヤ街と直角に交差している警察街と,商務街のちょうど中間に小さな路地がある.その入口に哈爾賓(ハルビン)刑務所(けいむしょ)道裡(タオリー)分所(ぶんしょ)と記された,あまり大きくない四角な杭(くい)がたっている.その路地をはいって,五~六歩ゆくと,長い煉瓦作りの二階建の住宅がある.それを通り過ぎて,左に折れると,道裡監獄の大きな門がたっている.監獄の高い赤煉瓦の塀は,ある所では商務街に直面し,ある所では一00メートル離れて警察街に,ある所では住宅一棟をへだててキタイスカヤ街に接して,市中の雑踏をさえぎるかのようにつっ立っていた.

この監獄の狭い監房に,九00余名の人びとがぎっしり詰めこまれていた.ロシア人数十名をのぞいて,その他の人びとはまだ判決を受けていない,「未決囚」であった.監獄と向かい合って,同じ区画内に,一九四四年十月ごろから,三棟の二階建の長い建物がつくられ,高い塀がはりまわされた.これが浜江14(ひんこう)地方保安局の秘密抑留所だ.保安局の手につかまった人びとが,目隠しされてこの抑留所に送りこまれた.そしてその後,この人びとがどうなったか誰も知らなかった.また「思想犯人」としてここにぶちこまれたものは,けっして釈放されなかった.街の人びとはこれを,松花(しょうかじゅく)とよんでいた.人家のぎっしりつまった繁華街の真ん中に,「監獄」「秘密抑留所」があったのだ.現在この「監獄」松花塾」がいっしょになって,新中国の哈爾賓監獄となっている.そして今,私はこの松花塾」に収容されているのである.

167私はキタイスカヤ術に近い二階の監房に移った.けたたましいエンジンの音が夜明けの静けさを破る.それからまもなく起床になる.バスのエンジンであろう,すぐ近くのキタイスカヤ街と,警察街の角にバスの車庫があったはずだ.毎朝食事前に,決まって物を売って歩く男の子の,清く澄んだ高い声が聞こえてくる.私は毎日この少年を待っている.そして少年の声が聞こえなくなるまで,聞き入っている.八時になると工場の汽笛が聞こえてくる.街路で遊ぶ子供の声や,騒音が伝わってくる.

日曜日には朝からロシア人の教会の鐘が,引っきりなしに鳴り響いている.バスの車庫と向かい合って教会があった.ロシア人の信者が集まっているのであろう.この教会はロシア人信徒の寄附で建築されたものである.ロシア人エミグランド[移住者]の生活は,宗教と結びついていた.一月のクリスマス,二月の洗礼祭,三月,四月の復活祭……….鐘の音は私を過去の幻想へと誘う.そして私は,キタイスカヤ街の雑踏を思い出す.

ロシア語のできる私は,人の恐れる検察官であり,また街の支配者だった.道行く人が帽子をとってうやうやしく頭をさげる.

「マヨーパチュチェニエー・ゴスポジン・プロクロール.」 [検察官殿,いかがでございますか.]

そして私は,夜のハルビンを彷徨(ほうこう)した.キャバレー「ファンタジア」のステージ,ダンスの踊り子,歌い手,地下室のキャバレー「カズベック」「モスクワ」のバンド,ロシア娘や混血のダンサー,葡萄酒(ぶどうしゅ),リキュール,果物,ウォッカ,ザクスカ,キャビヤ,ロシア人の妓館「ニッツア」「トロイカ」168の裸ダンス,哄笑,罵声,嬌声……….

私は酒を浴びて,野獣のように,手あたり次第に,人に突きかかった.そして「被疑者」を,「囚人」をぶん殴った手で,人を殴りつけた.

午前二~三時,ネオンが消えて,薄暗い街灯の石畳の街を,キャバレーや飲食店から吐き出された日本人の酔っぱらいが,三々五々,よろめいて歩いている.その中を酔っ払い客を拾ってタクシーが疾走する.私はハルビンの夜の官能に酔いしれていた.

私は日をつむって,ハルビンの甘い追憶に耽(ふけ)りながら,ハルビンになっかしさを感じていた.しかしハルビンがなつかしかったのは,私が過ごした安逸(あんいつ)な生活と,検察官の権力であるに過ぎなかった.私はハルビンになつかしさをおぼえながら,また検察官を夢想していたのである.だが目を見ひらいて周囲の現実を見るとき,暗い罪と血にまみれた自分の姿を見ないわけにはいかない.

私はソ連邦で取調べをうけたとき,自分がやってきたことをすべて隠してきた.だがいま私は,最後の四年間を検察官としてすごしたハルビンにいる.中国政府が調査をするなら,私の過去の罪業が全部ばくろされるだろう.裁判の記録もあるはずだ.それよりも私からひどい目にあわされた多くの人がいる.だが私はあくまで自分の罪業をかくすつもりだ.あるいは調査がなくてすむかも知れない.私から取り調べられた中国人,朝鮮人,ロシア人が,知った顔が,知らない顔が私に背をむけるかと思うと,拳をあげて怒号しながら突進してくる.私のゆきつけのユダヤ人の理髪屋のおやじが,かみそりを手にして私にせまってくる.何糞!私は反抗する.殺すなら殺せ!私は腹をきめる. 169だが,なんだか不安だ.


私はこのキタイスカヤ監獄の中で,いつも敗戦当時のことを思い出す.敗戦!それはわがままのかぎりをつくしていた私のいっさいを打ち壊してしまったのだ.

ユダヤ人の弁護士は私に言った.

「日本は敗れた.君は検察官だったとき,ある人たちによくしてやったと思うかも知れない.しかし君に感謝しているものは,一人もいないよ.君にひどい目にあわされた人が,街にはおおぜいいる.彼らは君を憎んでいる.そのことは君自身がよく知っているはずだ.」

そう言って言葉をちょっと切ってから,彼はずばりと言った.

「彼らは君を見つけ次第殺すだろう……….」

私はある日,ロシア人の指揮を受けて,馬家溝15(まかこう)付近の対戦車壕を埋めていた.乗馬で見回っていた若いロシア人の青年が,私たちの傍を通りすぎるとたんに,目ざとく私を見つけて近づいてきた.彼は馬の上から,私を見おろして傲然(ごうぜん)と言った.

「おい検察官………こんど[は]おれたちが主人公だ.」

いよいよ審判したものが,審判される日が来たことを恐れないわけにはいかなかった.


一九四五年八月九日,ソ連邦が侵略者日本にたいし,宣戦を布告した.日本敗戦は決定的となった. 170それでも関東軍は最後の足掻(あが)きをこころみ,ハルビン東方の香坊16(こうぼう)に対戦車壕を掘って,ソ連邦軍の進攻守を阻止しようとした.そのために多数の市民が 香坊 へ駆りたてられ,それにまじって私は,香坊 の監獄に二,三日泊りこんで検察庁の中国人職員の壕掘りを監督した.

八月十三日ごろには,どうしたことか壕掘りがとりやめになった.私はその日夕方,香坊を引きあげた.

香坊からハルビンの中心へ通ずる大街,スタルイ・ハルビン スキーショッセ17は,香坊から市内へ向けて,歩いてひきあげる日本人居留民の老人や女や子供の群れが後から後から重い足を引きずりながらつづいていた.銃一つもたない悄然(しょうぜん)とした日本の兵隊をつめこんだトラックが,香坊から市内へどんどん走ってゆく.その中をけたたましい音をたてて,軍のサイドカーがあわただしく飛ぶようにしてゆききする.私は敗戦を身にひしひしと感じた.

八月十四日午後二時ごろ,哈爾賓高等検察庁次長西川清海18(にしかわせいかい)は私をよんだ.私は階下の検察官室から二階の次長室にあがっていった.協和服(きょうわふく)につつんだ,酒ぶとりの大きな体躯を,椅子にうずめていた西川は,胡麻塩(ごましお)の五分刈りの大きな頭をぐっともたげた.そして両腕を椅子においたまま,こころもち体を前にのりだした.平紫の傲慢さはどこかへふっ飛んで,眉のあいだには深い憂悶のしわがきざみこまれていた. 西川は,いつものように早口で低い空虚な,それでいて部下には何かおしつけるような口調で命令した.

「日本はもうだめだ.生かしておいては危い.すぐ孫国棟19(そんこくとう)を殺してしまえ.」

171そう言う西川の,短くかりこんだ胡麻塩の口ひげがびりびりと動いた.真正面に見すえた鋭い目は私の心をさぐろうとするように,きらっと光った.

孫国棟志士は,抗日連軍第三路軍(こうにちれんぐんだいさんろぐん)の,干天放20支隊長(かんてんほうしたいちょう)の副官だった.抗日連軍第三路軍は張寿籤21(ちょうじゅせん)将軍の指揮のもと,北満で,中国人民の独立のために,日本帝国主義の軍隊や偽満の軍警と果敢に戦ってきた中国人民の軍隊だ.

一九四四年十二月「満洲国」警察は北満各地で抗日連軍第三路軍に関係する五0名余の中国人愛国者を逮捕した.その中にまじって,孫国棟も綏化22(すいかけん)九井子23(チュチンズツン)で逮捕された.私は孫を取調べて起訴し,死刑の求刑をした. 哈爾賓高等法院で,審判長横山光彦24(よとやまみつひこ)が死刑の判決を言い渡した.その後,孫国棟は道裡の監獄に,死刑囚として監禁されている.

私は孫国棟という名を聞くと,血が逆流するのを感じた.警察につかまって以来ひどい拷問と取調べをうけてきたことは言うまでもないが,それでも私の取調べの全期間を通じて,彼はまともに私を見すえた.堅く結んだ彼の口からは,何一つ余分に聞き出すことはできなかった.口数少なくきっぱりと話す言葉は,彼の堅い必勝の信念と,私たちにたいする反抗と,強い憎しみだった.それらすべてが私の神経をいらだたせた.私は歯ぎしりした. 「みておれ!この野郎.」

しかし,彼は中国人民の勝利と,日本帝国主義の崩壊を確信して戦ってきた.そして,いま彼の確信がそのまま実現されようとしている. ソ連邦の軍隊が,そして中国人民の軍隊が,まもなく哈爾賓にもはいってくるだろう.そして彼らは,私たちから人民を解放するだろう.何よりもまず抗日のために172身を捧げて戦った「思想犯人」を釈放するだろう.だが私は,この中国共産党員を,敗戦後まで生かして釈放させることはできない.中国人民や,ソ連邦は私たちの死敵だ.一人でも生かしておけない.彼を生かしておいては私の生命が危ない. 孫国棟を殺さなければならない.

私は西川の命令を受けると,すぐ道裡監獄へ飛んで行った.

私は,刑務所長奥田25に死刑の執行指揮書を渡し,孫国棟の死刑執行を命じた.監獄内の死刑場といっても,特別の設備はなかった. キタイスカヤ街に面した塀の隅っこの屍室の横に狭い空地があった.そこにちょうどテニスコートの網をはる杭と同じような杭が一本打ちこんである.その杭の下から八0センチぐらいのところに麻縄を通す穴がある.そして片側にその縄を結びつけてまきつける鉄棒とハンドルがついている.縄の端を鉄棒に結びつけて,ハンドルを回すと,縄が鉄棒にぐるぐるまきついて縄がしまるわけだ.

「用意ができた.」というので,私は刑務所の所長,文書科長,戒護(かいご)科長らといっしょに死刑場に出た.すでに看守が四~五人集まっていた.その中に死刑執行の看守もまじって,私たちを待ち受けていた.私たちは,杭から二~三メートル離れておいてある机についた.一瞬,沈黙が支配して,私は全身が引きしまるのを感じた.やがて,手錠と脚鎖(きゃくりょう)[足鎖]をはめられた孫国棟が監房から出てくる.脚鎖についた五0センチの鉄の鎖が,一足歩くごとにがちゃがちゃと音をたてる.八ヵ月余におよぶ非人道,野蕃な拷問と,監禁生活のために,ほおの肉は落ち,ひげはぼうぼうとしているが,歩みは悠然として,曇りと恐れを知らない.日は晴れ渡った青空のように,いとも平静に輝いていた.

173彼はこの場の異様な空気を,あたりまえのことのように受けとっているらしく,私たちはその凛然(りんぜん)たる気魄にすっかりけおされて,言いようのない,いらだたしささえ感じた.

看守が,彼を荒あらしく,机の前に引き立てた.そこで手錠に細紐を通して,その紐を腰にまわして縛りつける.絶対に手を動かせないようにした.所長は型のごとく,本籍,現住所,氏名,年齢をきいた.人違いでないかどうかを確かめるのである.所長はあらためて死刑を執行する旨を告げた.落ちつきはらった態度にすっかり気をのまれた所長の声は,ふるえを帯びていた.全員の視線が彼に集中した.だが彼は顔色一つ変えない.そして所長の傍にいる私の目をまっすぐにつきさすように見つめた.私は瞬間たじろいで目をそらした.所長は家族に何か伝えることはないかと聞く. 孫国棟は何もないと,きっぱりと言いきった.

瞬間,私と所長の目が期せずして出あった.私は目で所長をうながした,「執行」という所長の命令で,看守は肩をいからしてつったっている孫国棟を引きたてようとした.彼は体でそれを振り切った.憎悪と怒りに燃えた孫国棟は,私たちをぐっとにらみつけた.そして腹の底から叫んだ. 「中国共産党万歳!」 中国人の看守が一瞬気をのまれてたじろいだ. 孫国棟が皆の面前で,私たち日本人に公然と反抗し,侮辱し,日本の敗戦を嘲笑しているのだと思うと,私の血が逆流した.

看守は彼を机の前から引き立てた.彼の脚鎖の重い鎖が,一足ごとにがちゃりがちゃりと地の底に引きずり込まれるような音をたてた.看守は杭を背にして,孫国棟を坐らせた.彼は手錠の手を腰に縛りつけられたまま,脚鎖をはめられた両脚を揃えて,やっとのことで前に伸ばして腰をおろした.

174執行看守は後にまわって,この穴から麻縄を通し,それを孫国棟の首にかけた.そしてその麻縄の末端を杭の後側についている金具の鉄棒にかたく縛りつけた.

執行だ!鉄棒についているハンドルを,力いっぱい一気にぐっとまわすと,麻縄が鉄棒にぐっとまきつけられた.縄がぴんと張って,孫国棟の咽喉にくい込んだ.頭がぐいと杭に引きつけられた.

一瞬,顔にさっとどす黒い赤味がはしる.そしてすぐ紫色に変わってゆく.

憎悪と怒りと苦悶に燃えて,ぐっとひらいた目が,私をくいいるようににらみつけている.竪く縛りつけられた両手に,ぐーっと力がはいり,ぴーんと細紐がつっぱる.そしてぴりぴりと痙攣(けいれん)する.

腹から両肩にかけて,上半身が,ぐーっぐーっと波をうつ.手錠でしめつけられた手の指が,大きく小さく開いては虚空(こくう)を掴む.脚鎖をはめられた足が,ぴーんとつっぱる.とたんに鎖ががちゃりと音をたてる.両脚は小刻みに痙攣(けいれん)する.

五分!目は見ひらいたまま,光が鈍くなる.手足から力がぬけてゆく.監獄医が近よって脈をとる.十分!十五分!医者は二度,三度近よって聴診器を心臓にあてては,引きさがる.最後に聴診器をあてて,

「脈がとまりました.」と報告する.私はべっとりと汗をかいた.

焼けつく大地のほてりの中に,抗日愛国の志士孫国棟は,中国人民解放の喜びを見ることもなく,鬼検察官と恐れられた私の毒手に倒れて行ったのであった.

最後に私がこの監獄に行ったのはその翌々日の十六目だった. 哈爾賓高等検察庁は,南崗(なんこう)の官公署街175にあり,その筋向かいに,浜江(ひんこう)省公署警務庁があった.その日私は,昼飯を外ですまして,検察庁の入口にさしかかったとき,検察庁にはいろうとする警務庁特務科の警佐高野(たかの)とばったり出合った.

高野26は私をつかまえると,私に逃げられては一大事だと言わんばかりに,一気に述べたてた.

「監獄には抗日軍関係の死刑囚がそのままほうってある.ぜひ殺してもらいたい.ソ連がはいってきて釈放したら,われわれもあなたもひどい目にあう.ひどく痛めつけて取り調べたのですから,もし監獄で殺さないなら,私のほうでやります.特務科の若い連中が,日本刀で斬ってしまうといきまいています.」

前日,日本の無条件降伏をラジオで知ると,私はすぐ高検の庁舎内にある書類記録を整理して,だいじなものを破ったり,焼いたりした.その混雑の中で,監獄にいる死刑囚を処分することを忘れていた.私は高野の話をきくと,すぐ次長室にかけこんだ,そして死刑囚を殺さねばならぬと言った.次長の西川は,

「よし………,吉良27(きら)と二人で監獄に行って,全部殺すよう命令してこい.」と言う.

吉良は,二,三ヵ月前に長春28(ちょうしゅん)から転任してきた思想係検察官だった.八月の太陽が塩をふいた顔を痛いようにてりつける中を,私は挙銃を腰につけて,吉良といっしょに馬車を道裡の監獄へはしらせた.敗戦直後の町はあんがい落ちついていた. キタイスカヤ街にはいると,いつもより人出が多かった.

日本の敗戦で,今まで大きな石で頭の上から押さえつけられていたのが,急にその石がふっ飛んで,176解放された喜びをたたえた中国人,朝鮮人,ロシア人,………の明かるい顔,何か大きな転変を期待する緊張した顔が,ゆききしていた.だが,いままでわがもの顔に横行していた日本人の姿は見えなかった.街では,青天白日旗が,煉瓦造りの高い建物の屋上の,そこ,ここにひるがえっていた.

監獄の門の前で車をすてた私たちは,大股に事務室にとびこんだ.階下の戒護科の部屋では,かねて顔見知りの中国人の看守たちが集まって何か話し合っていたが,私たちの勢いこんだ足音にふりかえった.そして反感と憎悪をはっきりとあらわして,私たちを見つめた.その目の光の中に,「ここはもうお前たちの力のおよぶ所ではないぞ.」と言っているようであった.いらいらした私たちは,二階の所長室へかけあがって行った.

所長室はがらんとした,だだっぴろい大部屋で応接間と会議室をも兼ねていた.応援のテーブルに向かって所長の奥田がうつむきかげんに二人の男と話していた.私たちが部屋の中に荒あらしくはいりこむと,三人がびっくりして立ちあがった.六つのおどおどした目が私たちを迎えた.一人は牡丹江(ぼたんこう)刑務所長の今井29(いまい),もう一人は輔導院の所長で,二人とも私は顔見知りだった.この二人が席をゆずって窓ぎわに立った.私と吉良がソファーにどっかと腰をおろす.

奥田はあきらかに私たちの出現に狼狽(ろうばい)していた.私は思い切って口を切った.

「次長の命令でやってきた.死刑囚を全部,即刻殺すように!」

所長の顔色がさっと青くなった.言葉がない.心の動揺を押えつけようとして懸命になっているのがわかる. 奥田はがんらい坊主だ.それで刑務所の教誨師をやっていたのが,いつのまにか刑務所長177になりあがった男だ.彼は「さあ.」と沈痛な声を出す.私はこの男のおどおどした態度にむかっとした.そして語気が荒くなった.

「共産党員を生かしてはおけない.しかも死刑囚ではないか!」

「私は在監者全部に対して,かならず責任をもって皆の体の安全を保障すると申しました.そうでないと私の生命があぶないのです.刑の執行をせ[し]ろとおっしゃっても,中国人の看守がやりませんからできないのです.」

と彼は恐怖にふるえていた.

「取調べをした警察でも,死刑囚を生かしておいては因る,監獄でやらねば自分たちが斬ってしまうと言っている.」

と,私はたたみかけた.

「とうてい私にはやれません.私は生命が惜しいのです.次長に死刑を取りやめるよう,どうぞ,お願いしてください.」

と小柄のやせぎすの,四十をすぎた奥田は泣き出しそうになった.

私は,いままで死刑の執行をやってきながら,いまさら「囚人」の前にふるえあがっているこの坊主の泣き言(ごと)をきいて,机をたたきつけてどなりあげたい衝動にかられた.それをぐっと押さえたが,それと同時に階下に集まっていた中国人看守たちの憎悪と反感にもえる目が,脳裡にちらつと浮かんだ.そして窓の外に青天白日旗がへんぽんとひるがえっているのを見た.私は挙銃を握りしめた.私は178敵にあわれみを請(こ)いはしない.そしてまた絶対に敵をあわれまない.私はどうしても「囚人」を殺してやる.

「それでは,警察に斬らせる.」と言いすてて,吉良といっしょに所長室をとびだした.

私たちは急いで南崗30に戻り警務庁特務科に行った.警務庁の一番奥に場所を占めていた特務科の大きな部屋はとりみだされていて,びっしりつめこまれた二,三十個の机の上には,書類が散乱していた.その部屋の隅にある応援用のテーブルのそばに,特務股長(とくむこちょう)の望月31(もちづき)警佐が,高野といっしょにうずくまっていて,望月はソファーの上に寝ていた.私たちがはいってきたのを見た高野は,急に立ちあがって近づいてきた.

「特務科の若い連中は,たった今汽車で南にさがりました.身の危険が迫ったので,金を分けて地下にもぐることにしたのです.ところが悪いことに私の親友の望月がチブスで動けないので私は残りましたが,最後の汽車が出るというので,むりにここまでやってきました.汽車を待っています.」

哈爾賓の特務警察の中で育ってきた,大男の頑健な望月は,波れを知らぬ男であった.

そして中国人を逮捕し,虐殺するために生まれてきたような男だった.中国人弾圧にはかならず第一線に立った.それがやせおとろえて動けなくなっている.事情がわかった私は,いま「囚人」を殺さねばならぬのだ.もはやこんな望月も高野も私には用はない.私はただ,「体をだいじに!」と言い残して警務庁を出た.

179吉良は日本軍憲兵隊長に話をして憲兵に殺させようと言う. 吉良は新任の哈爾賓憲兵隊長である児玉一真32(こだまいっしん)大佐とは長春以来の知り合いであるし,憲兵隊にはときどき刑事訴訟法の講義にもいっていた.憲兵隊本部は南崗にあった.そして検察庁のすぐ裏にある.私たちは憲兵隊本部に行った. 児玉は,

「命令によって憲兵は全部集結を終わった.手をかせないからこれで殺してくれ.」と言って青酸加里をくれた.

いまさら薬では殺せまい.私は,私の手で監獄にほうりこみ,監獄の中に監禁しておきながら,その中国人を殺そうとして殺せない.無力だと思っていた中国人の力がぐんぐん伸びてきて,振りあげた私の腕を釘づけにする.いままでしっかりしていると思っていた土台が大きく揺れている.それだけではない.大和民族の団結と犠牲心がどこかへ吹き飛んでしまって,誰も彼もわれ先にと自己の身の安全をはかり,他人のことなどかまっているものはない.

日本軍幹部の家族は秘密裡に専用列車で安全地帯へ逃げのびた. 関東軍は日本人居留民を見殺しにして,端然としている.洪水にのまれながら辛うじて水面の上に枝をふるわせている一本木のように,私は身のおきどころのない孤独と不安と焦燥の中にあえいでいた.だが私はまだ世紀の大転変をまじめに見つめようとはしていなかった.


こんな大きな犯罪を抱いた私は,哈爾賓管理所の三年間を脂汗(あぶらあせ)をしぼって悩みつづけた.それは,180「死」を机の上に置いて,それを取ろうか,とるまいかとする「生」へのしんけんな闘争であった.

私は管理所の拡声器を通じて,世界情勢,世界平和会議,朝鮮戦争や日本の事情をきいた.そして日本敗戦後,世の中が大きく変わったのを感じた.世界が民主主義と帝国主義の二つの陣営に分かれた.そして民主主義の陣営がだんだんと大きくなって行く.

だが,そんなことが私にとって直接何の関係があるのだ……….私たちはソ連邦にいたときとちがって,監房の中に監禁されている.私たちが知りたいのは私たち自身の前途の問題だ!

中日国交が回復して帰国すると言う,それは夢だ.日本講和条約が厳存しているではないか……….米軍が朝鮮,中国の東北を占領する.米国の,そして日本の優勢な国際的な力が,私たちを解放すると言う.そうなればいいと思う.だがそう簡単にはゆくまい.日一日と民主陣営が,そして中国が強固(きょうこ)になって行く.

日本の軍隊が満洲を占領した.そして「満洲国」を造りあげた.私は中国にやってきて満洲国の検察官として,この土地で抗日連軍第三路軍の志士を,そして中国の平和人民を殺した.監獄にぶちこんだ.共産党員を逮捕して,これを釈放することはけっしてなかった.考えて見れば強盗におしいって家人を殺したり縛りあげたようなものだ.誰が見てもいいことではない.私自身悪いことだと認めざるを得ない.

いま私はこの人たちに捕えられている.私たちに殺されたものが,私たちを殺すのは当然だろう.私たちには一言も文句は言えない. 「満洲国」の一機関として行動したのだ,法律によって中国人を181処罰したのだと言っても何になろう.法律は支配権をもったものがつくり,解釈し適用するものだ.私たちにとっては中国人の合法行為が犯罪だったし,中国人にとっては私たちの合法行為が犯罪だ.そして犯罪は処罰を予定する.捕えられている私たちに何ができる.国際法だ,法律論だ,こんなものは泣き言だ.私たちに反対して生命を賭して戦って来た中国人民が,私たちを釈放すると考えるのがあますぎる.私自身日本降伏を前にして,中国人志士を監獄の中で殺した.敗戦直後,在監者全部を殺そうと考えたではないか……….中国人民はかならず私たちに血の復讐をする……….


だが中国にきて以来,毎年新しい衣類を支給される.毎月必要な日用品を支給される.米だ,肉だ,野菜だと腹いっぱい食っている.ときどき果物,菓子が配給される.正月には,特別に私たち日本人向きの餅をついてくれる. 哈爾賓に残った私たち二百数十名の者に対して,医者二名,看護婦三~四名,薬剤師,化験士等々の人びとがつききりだ.そして新しい療法がおこなわれる.薬が惜しみなく使われる.私は,注意深く管理所の態度を見ているが,中国政府が私たち今一虐待して苦しめようとしているようには思えない.その反対だ.私たちは毎日,新聞雑誌を読んでいる.運動に出る.やがて運動場にバレーボールのコートができて,全員がバレーボールに熱中している.夜は娯楽だ,碁と麻雀がさかんだ.

医者の申33(しん)先生,雀34(さい)先生,看護婦さんたちに私たちはいつも世話になる.そして私はこの人たちから私たち戦犯に対する憎悪というものを感じない.私は自分の手で直接多数の中国人をひどい自にあわせて182きた.この人たちの肉親や,知人が,その中にはいっていないと誰が言えよう.私はこの人たちにありがたいと思い,すまないと思う.

管理所の指導員が私たちを個別的によんで話してくれる.そして私たちの考えや要求を聞いてくれる.私は,直接ふれる指導員や医務室の先生たちの言葉や態度の中に,憎しみのない民族を越えた暖かい手を感じる.監禁生活の中で,中国人民の復讐をおそれ,これに対抗して身がまえている私の感情の一角がほぐれる.そしてこの人たちの「おもいやり」に対し,何か「恩義」「義理」を感ずる.私はこの人たちには絶対に反抗してはならぬ.

そして私の過去の罪業がうずく.私はこの人たちの前に私のいっさいの罪業を暴露して謝罪したいという衝動にかられる.が,まもなく私は私の感傷をふきとばす.

「監禁生活の中で柄になく気が弱くなりやがった.」と.

管理所長,が私たち全員を集めて言った.

「中国人民に対する罪業をみとめて,これを暴露し,帝国主義をすてて,人民の道を進むことを希望する.そしてこそ明るい前途がある.」と.

私は所長の話は正しい,その通りだと思った.同時に,私は所長の「明るい前途」にとびついた. 「明るい前途」とは釈放のことではないか!私は中国人民に対する罪業を認めよう.私は「満洲国」の検察官として中国人民を殺し,監獄に入れて,中国人民に対して罪業を犯してきた.

私は帝国主義の思想を捨てる.どんなにして捨てるのだ?私は二度と中国を侵略しないと決意しょう. 183私は人民の道を進む.どんなにして進むのだ?私は二度と人民弾圧の機関にはいらない.そんな仕事をしないと決意する.思想改造,それは過去を捨てることだ,忘れることだ,二皮と帝国主義者の手先とならないことを決意することだ.だから私がやった罪業をいまさら具体的に全部暴露しなくてもいいではないか!私は「満洲国」の検察官として人民を弾圧してきた.私がやったことのすべてが中国人民に対する罪業だ,と考えたらそれでいいではないか!そして「悪かった.」と言ってあやまったらそれでいいではないか!それ以上何の必要があるのだ.

だが,ほんとうに心から,罪業を犯した,悪いことをしたと思うのだったら,自分がやったことを全部暴露してあやまるのがあたりまえではあるまいか?

嫌だ!ふれたくない,いや恐ろしいのだ.処罰がこわいのだ.そしたらやはり私は罪業を認めようとしていないのではあるまいか?いやそうではあるまい.悪いことをしたと考えればそれでいいのだ.

すべて問題は将来にある.そうだ,私はマルクス主義の理論を学ぼう.マルクス主義の本を読むことが先決問題だ.それにしても思想改造は困難だろうか?マルクス主義の理論を知ることはむずかしいか?困難ではない.マルクス主義の本は学生のとき読んだことがある.それが思想改造に役立つだろう. 「明るい前途」のために思想を改造しよう!だが,心の底のどこかから,何ものかが低い声で,「用心しろ,危いぞ.」とよんでいるような気がする.

管理所長は,中国人民は勝利した,勝利した中国人民は復讐しない,と言う.そうだろうか?私たち184はいつまでたっても厳重な管制をうけている.警戒兵が昼夜,監房の外まわりの廊下をこつこつまわって警戒する,監視の班長がときどきまわってくる.運動は班長と警戒兵の監視のもとに,おこなわれる.これは処罰を予定するものではないか?復讐ではないか?給養がよくても本質に変わりはあるまい.東北日報は,日本人が撫順近郊の部落を包囲して全住民を虐殺した,悪名高い平頂山(へいちょうざん)事件やその他の残酷な事件を取りあげている.そして紙上には中国人の日本帝国主義に対する憎悪,憤怒をこめた投書が大々的に掲載されている.

これはみな事実だ.だからこそ,それは私たちの胸をつきさす.だが,いまさらどうして私たちにこんな話をするのだ.これは復讐ではないか.復讐するならするとはっきりいったらいいではないか.中国人のやり方は蛇を生殺しにするやり方だ.私は所長の言葉を信用しない.もちろん中国人にたいして罪業を犯した.そして復讐は当然だと思う.悪いと言うのではない.

私の前進を後から力強く引っぱっていたのはこの事だった.

私は,ソ連邦にいたときには,何とか日本へ帰れると思った.私は私の経歴も罪業も,ごまかしてきた.しかし,私はいま最後の五年間を検察官として過ごした中国にいる.私の罪業を調査しようとすれば,裁判の記録はある.私を知っている人がいる.何より私からひどいめにあわされた中国人民がいる.私は罪業を,かくしおおせない.もちろん私は証拠をつきつけられるまで,自分から言いはしない.それにしても私を処罰しようとすれば,それはわけはないことだ.

人間,「諦め」が肝要だ.やるだけやってきたのだし,一度は死ぬ生命だ. "まないた"の上の鯉は,185ばたばたしないと言う.

私はいままで死にたくない,何とかして日本へ帰りたいと思ってきた.私は溺(おぼ)れるものが藁をつかまえるように,生きるために思想改造に飛びついたのだ.思想改造,それは,世の中に出られる.そして,こんどこそは平和な,人民の道を歩もうと考えてきた.だが,私は私の過去の罪業を考えねばならない.そして中国共産党は,私たちの「死敵」だったのだ.これに対して私たちはどうやってきたか.処罰をまぬかれようとか,日本に帰るとかいうことは甘い考えだ.そしてみれば,監獄の中で一生を終わるものに,思想改造が何の役に立つのだ.思想改造してどうしようというのだ?

だが人間は生きている以上正しい考えをもち,正しい行動をすることを求めるのは当然だ.何のために?真理のための真理,正義のための正義だ……… 何が正しいことだろう.はっきりしない.しかしいま私の前に少なくとも,帝国主義思想と,民主主義思想の二つがある.私は帝国主義の思想は正しくないと考える.民主主義の思想,人民の道が正しいと考える. 「朝(あした)に道を学び,夕べに死すとも可なり.」と言った昔の人の言葉を,私はいまかぎりなく正しい言葉だと考える.

私は正しい考えと,道を学び,正しい行動をしてゆこう.正しい行動,それは監房内においては監房規則の遵守だ.思想,それは私たち自身の問題だ.中国人民とは関係のないことだ.中国人民は私たちの「敵」だ,そして私たちの処罰を考えているだけだ.

だが,いまの私にとって困ったことは,その「敵」の考えが,思想が,正しいと考えないわけにはゆかないことであった.

186正しい考えをもつなら,人民の立場に立つなら,私の過去の行為が悪かったと心から思い,監禁や処罰が当然だということを,はっきり知るわけだ.してみると思想改造は監獄生活への,処罰へのあきらめでもある.

私の頭の中には,思想改造が,そしてそれを打ち消そうとして,私の過去が,罪業が,処罰が,うずをまいている.

私は毎日毎日,本を読んでいる.そして論理をたどることによって,思想改造をしようとし,気をまぎらそうとしている.私は碁も麻雀もやらない.

私は本にかじりついている.私は処罰の恐怖からのがれようとしてもがいている.私は「処罰」という壁のところへきて,飛んだり跳(は)ねたり逆立ちしたり,あるときは目をつぶって前の方へ大股に歩みよって行ったり,またびっくりして引きかえしたり,きりきり舞いをしているのだ.

一九五三年十月,私たちはふたたび撫順に帰って来た.私は帝国主義の本質について,その罪悪性について,いちおうの概念を得た.そして帝国主義思想を捨ててしまったと考えた.過去,私は誤った道を歩いた.今後,私は人民の道を歩むことを決心したと考えた.監民の中でマルクス主義の本を読んだ.そして本を読んで知ったことは私の思想だと思った.私は思想改造は容易だと思った.私は,「人民の立場から言えば………」と語った.だが,私自身の考えはどうだったのか?ここに問題があった.理屈はそうだが感情で割り切れないと言ったとき,その感情という形で私のほんとうの姿がちょっぴり顔を出す,それが私の思想だった.それを私は見のがしていた.その思想が,私の罪業の187暴露(ばくろ)を必死になっておしこめて来た.私は中国人民を信頼できなかった.そして,その指導も援助も受け入れなかった.そして,それを曲解した.処罰の恐怖におびえて罪業の暴露を拒否しつづけて米た.処罰と思想改造を取引しようとした.こうして私は,私の罪業を擁護し肯定しながら中国人民に対立し反抗して来た.

過去,検察官として中国人民を監獄にぶちこみ,殺して来た行為と何の相違もない一貫した帝国主義者の姿ではないか!口先でなんと言おうと,私の行動の中に,私の頑固な帝国主義思想がはっきりと姿を暴露している.私は帝国主義思想を温存しながら思想改造を語っていた!

人民の道に立つためには,まず私は自分の罪業をすっかり,さらけ出さねばならない.そしてこれをはっきりと見つめ反省して,その罪業の根源をなしている私の帝国主義思想をえぐり出し,叩き潰(つぶ)さねばならない.そして,それをはぐくんだ私の醜悪な過去と訣別しなければならない.

認罪は思想改造の第一歩であった.全身に帝国主義思想をしみこませている私には,私自身の凶悪な思想がつかめなかった.まして,どうして思想を改造したらいいか,私には分からなかった.独力ではどうしてもやってゆけなかった.私の頑固な思想を打ちくだくためには,強力な指導と援助が必要だった.

私は指導員に面談して,援助してくれと頼んだ.指導員は話してみろと言った.

私は自分のやったことを全部話すと言った.指導員はそれはなかなかそう簡単にゆくものではないが,まあ思った通り話してみろと言った.私はここぞとばかり,過去,地検の検察官として取りあつかった188普通刑事事件,経済事件など,大した問題でないことについてくどくどと話した.指導員は黙って聞いている.そしてもっと考えろと言う.そんな日がつづく. 「思想事件はどうだ.」という.

私は高検で取りあつかった若干の小さい事件を小出しにした.何回聞かれても私はもうこれ以上記憶がないという.指導員は,「もっとあるはずだ.君の態度は帝国主義者そのままだ.」という.私は「記憶がない.」と繰り返す……….私はこの辺(あた)りがヤマで,まかり通ると思っていたが,こうなってくると,かえって藪から蛇を出したようなものだ.しかし事態がここまでくれば行きつく所までは"つ"[行]かねばならない.指導員は立ちあがって確信のある態度で冷静にきっぱりと言った.

「中国人を殺している!」と.

私は愕然(がくぜん)とした.指導員は私の顔をまともに見つめている.私は狼狽した.負けてはならぬ,私は立ち直った.そして坐ったまま指導員を見あげてはっきりと言った. 「一人も殺していない!」 私は指導員に公然と反抗した.指導員は,ただ一言「帰れ!」と言った.私は監房に帰った,そして考えこんだ.私はいままで自分で頼んだ面談を引きのばして来たが,はっきり態度を決めなければならないところに追いこまれて来た.

否認-処罰-死刑,罪業暴露-処罰-死刑が頭の中で渦を巻く.どっちにしても死刑はまぬかれない.私はあくまで否認することはできなくなったと考えた.少しでも思想事件を言わなければすみそうにない.それで私は哈爾賓から巴彦35(バーイエン)に出張して取り調べた 巴木東(ばもくとう)事件-抗日連軍第三路軍の指導で,北満の巴彦,木蘭36,東興37一帯の地区に作られた救国会武装組の中国人を検挙した事件-について話をした.

189私はこの事件は高検の命令を受けて取調べに参加したので,あまり責任はないと考えたからだ.

指導員は,「態度が少しよくなった.だが,まだあるはずだ.」と言う.私は小出しに,供述したり否認したり,追求をそらそうと努める.私の全神経は指導員の一言一句から,その態度から,どの程度の証拠を握っているかをつかもうと懸命になっている.私は指導員と戦っている.指導員は,「以前の職業の経験をここで使うのはよくない.」と言う.図星である.私は,これ以上やっていない,記憶がない,裁判の記録を調べてくれと繰り返す.

指導員はついに切り出した.

「日本敗戦のとき監獄で中国人を殺しているはずだ!」

私はぎくりとした.指導員は何の監獄を言うのだろうか. 道裡の監獄か,香坊の監獄か.私は敗戦当時,道裡監獄に二回行った.二回目は結局殺しはしなかったのだ.それにしてもまずい話だ.だがこの事実は話さないわけにはゆくまい.中国人の看守たちが見て知っているはずだ.私は敗戦直後,道裡の刑務所に行った,そして監禁していた「死刑囚」を全部殺すよう刑務所長に命令した.しかし殺してはいないはずだと言った.

指導員はたたみかける.

「いや敗戦直前に行っている!」

さては孫国棟のことだ!いよいよやってきた.私は恐怖と混乱の中に突き落とされた.万事休すだ.しかし私は身構えた.そして,ここでくじけてはならないと考えた.

190孫国棟は抗日連軍第三路軍の重要な地位にあった共産党員だ.だからこそ私はいままで必死になって隠して来たんだ.もし,これを喋(しゃべ)ったら,私の生命はもうない.私はきっぱり言った.

「敗戦直前に監獄に行ったことはありません.もちろん人を殺したこともありません.」

私は頑張った.なんと言われても「知らぬ.」「存ぜぬ.」を繰り返した.指導員はついに一歩を踏みこんで来た.

「君は孫国棟を知っているだろう.」

私は,いよいよだめだと思った.すると,かつての取調室で,憎悪と怒りに満ちて私をまっすぐににらんでいた孫国棟の目が,公判廷できりっと一文字に結んだ孫国棟の口が,証拠品として並べられていた銃,槍,刀が,そして死刑場で,「中国共産党万歳」と叫んだ孫国棟の声が,私の目と耳の中によみがえってきた.私はそれを押しつぶそうとする,すればするほどますますはっきりとその顔が[その]目が見え,その声が聞こえてくる.やがて,その刑場に絞首されている顔が,いつのまにか私自身の真っ青な顔に変わってくる.私ははっとして思わず,

「知らない.」と大きな声を出した.それは死の恐怖から逃れんとする,助けを求める絶叫であった.

「抗日三路軍干天放隊長の副官,一九四四年綏化県で逮捕された孫国棟……….」

と,指導員は私をじっと見つめたままこう言った.私はまた反射的に,「知らない.」といって,頭を振った.私は必死になって,「ここで負けたら死だ.」と,「知らない.」にしがみついていたのだ.

私は,いま,右足をあげて死の断崖に一歩を踏み出そうとしている.私はいま必死になって足を191元のところに戻そうとしている.大きな力が私を前に押している.私は左足で懸命に頑張っている.脂汗が額から,じいっとにじみ出してくる.

指導員は,ついに哈爾賓高等法院次長横山光彦(よこやまみつひこ)の供述書を読みはじめた.

一九四五年六月横山は裁判長として孫国棟に死刑の判決を言い渡した.本事件の取調べをしたのは水口だ.公判の立会(たちあい)をしたのも水口だ.死刑の求刑をしたのも水口だ.」

もうだめだ.私は証拠をつきつけられた.が,私はまだ思い切ることができない.やっと横山が認めただけを認めた.まだ死刑を執行したことは言わない.これを喋(しゃべ)ったらもはや違法虐殺と断定されても仕方がない.なぜならそれは,八月十四日,敗戦の前日だからである.

孫国棟を監獄で殺したのはおまえだ.」

「絶対に私ではない.私はまだ生まれて死刑に立ち会ったことはない.」

孫国棟は,中国共産党万歳と叫んで死んだぞ.」

「知らない.」

孫国棟の死体は打牛溝(だぎゅうこう)に埋めた.」

「知らない.」

私はどこまでも否認しつづける.指導員は一通の書を私に渡した.二,三枚の中国文書類だ.読めと言う.見ると元哈爾賓刑務所看守三名の告発書だ.私はどきりとした.看守たちに対する怒りがこみあげてくる.同時にすっかり狼狽した私は,漢字の並んだ文章の意味がよくつかめない. 「もっとも192凶悪な水口検察官」「死刑」孫国棟などの文字が,うわずった私の目の中にちらつくばかりだ.とうとう通訳が読んでくれた.

水口は,もっとも凶悪な検察官であった.彼は一九四五年八月十四日午後三時,刑務所で死刑を命じた……….」

万事が終わった.私はこの証拠の前にもう身動きができない.しかし私は生命がほしい.

「私はやっていない,知らない.」

「中国人の看守が嘘を言っていると言うのか?」

「殺した事実は嘘でなかろう.だが私ではない,私は誰がやったのかも知らない.」

「君は検察官だったろう.こんなはっきりした証拠の前で,君はかつてどう処置して来たか?中国は君が認めようと認めまいと,処置することができるとは思わぬか?」

「有罪と認めるか認めないかは,中国政府の考え一つだ.私はやっていない.」

指導員は,静かに,「考えろ.」と言う.私は監房に帰って考えた.私はただ一つの処刑の恐怖にふるえている.もしかしたら否認し通せるかも知れない.しかし否認してみても,あんな証言があってはどうせ有罪だ.思い切って認める.そしたらたちどころに処罰だ.どうしたらいいのだ.私はもう考える力も失って,ただうろうろしている.

孫国棟の目が,看守たちの目が,私をにらみつけて放さない.私は負けた.指導員との闘争についに負けた.私は死を覚悟した.もうこうなったら諦めが大切だ.男一匹,ぐちをむいながら未練がましい193死に方はすまいぞ.

そうだ,認めよう,そしてりっぱに死刑になろう.私はたくさんの中国人の愛国者を殺して来たんだ,いま殺されても当然だ.むしろいままで生きて来たのが不思議なくらいだ.あっさり諦めよう.それにしても長い間の闘争だった.そして負けた.敗戦の将もはや兵を語るまい.私はこう決心して翌日出て行った.私は坐るといきなり,

孫国棟は私が殺しました.長い間お手数かけました.」と言って頭をさげた.

私は,指導員が,「この野郎!」と怒鳴って,満面朱に染め,歯をむいて噛みついてくることを覚悟していた.卓を叩いて,中国人民の六億の怒りが,万雷となって襲いかかってくるだろうことを予期していた.だから私は頭をあげなかった.私の膝小僧は,もうそれを覚悟してか,ふるえてもいない.あんがい私の心境は静かである.

ところが,私よりも静かだったのは指導員だった.

「うむ,君はよく勇気を出した.君はまた一歩人民の道に近づくことができたのだ.」

私は驚いて顔をあげた.指導員は目を細うして,界に打ちひしがれて小さくなっている私を見守っている.それは愛児が自己の行為を悔い改め,謝っている姿をじっと見ている慈父の顔そのものであった.私は茫然として指導員を見つめていた.私の前に坐っている指導員は中国人である.私は中国の愛国者を殺害した下手人である.かつて私は,中国人を前にして,およそこのようにふるまうことができたであろうか.かつての私は,歯を食いしばりじだんだを踏み,真っ赤になって怒鳴り,194殴りつけたではないか.それだのにこの人は?………

私は,あまりにも予期しない,心の隅のどこでも考えたことのない,厳然たる現実に直面している.この現実をどう見ればよいんだ,私は,私に言ってみた.

「おい水口!いったいおまえは,おまえの理論で,この現実をどう説明するんだ.とうてい説明できないだろう.だとしたら,少なくとも,おまえの理論は,この現実の前に敗北しているんだ.」

「おい水口!指導員の態度は,彼一人の,そうだ,個人的な特殊な人間としての態度じゃないんだぞ!この態度こそ,中国六億の人民のおまえに対する態度なんだぞ.なら,おまえの考えは,この六億の人民を説明することができんじゃないか?」

私は,自分自身をここまで追い詰めてみた.すると,私の立っている足元が,根底から大きな音を立てて,がらがらと崩れて行く音をはっきりと聞きとることができた.

「君は罪を認めた!このことは君自身を正しい道,人民の道に進める大きな原動力だ.勇気を出せ.真理に邁進するに誰をはばかることがあるか!中国人民は,君の認罪を心から祝福し,君の前進を力いっぱい援助するだろう.」

こんな現実,こんな言葉が,いったいありうることだろうか?私はふと何かの錯覚ではないかも疑ってみた.しかしそうではない.厳然として,いま私の眼前に現実している現実である.

私は負けた,完全に敗北したんだ.

「君が罪を認めたということは,中国人に負けたということではない.君は真理に負けたのだ.」

195三度聞いたこの言葉に私は愕然として,プロレタリア民族主義の真理に触れることができた.私は,はじめてそうだったのか,と気がついて,こんどこそ心から頭をさげた.私のかたくなな排他的民族主義,私の心の底に頑強に巣食っていた天皇主義は,中国人民の復仇を堅く信じさしていたんだ.だからその復仇がこわかったんだ.

「ああ!真理はかくも巨大で慈悲深いものか.」

私が長嘆息してこう気がついたとき,私は目頭に,つんとあついものがこみあげてくるのを感じた.

もう三ヵ月もの長い間,指導員の言葉をまっすぐに受け取らず,私を殺すための「ペテン」とのみ受け取って,嘘八百を並べ立て,反抗しつづけて来た私だ,ああ済まなかった,どう言ってお詫びしょう?そうだ,謝ろう,すなおに謝ろう.そしてこの現実をすなおに是認しよう.

そう思って私はふたたび顔をあげ,きっと取調官の顔を見た.そして慈愛に満ちた顔を見つめているうちに,その姿がだんだん涙の中にうるみ,消えて行くのをどうすることもできない.涙は"ぼうだ"として両ほおに流れ,膝の上にそろえた手のひらを濡らして行く.

声も出せない.

私は放心したようにそれをぬぐおうともしない.

そのうち私は,流れ落ちる涙そのものの中から,限りない喜びを摑掴み取ることができた.

「この涙は単なる悔悟の涙じゃない,真理に目ざめた喜びの,そうだ!新生の涙なんだ.」

196*

あれから私は,自分の凶悪な罪業と醜悪な心を見つめながら,勝利した中国人民の偉大な,民族の差別を越えた人道主義の暖かい手に抱かれ,人民の道の正しさと暖かさをしみじみと体験することができた.

暗い過去と明るい未来の間に,認罪という一本の橋がかけ渡され,私はふたたび生きる希望を摑み,贖罪(しょくざい)という光栄な任務を自覚するに至った.

日本軍国主義は中国に侵略して,この世に存在するありとあらゆる非人間的な悪事のかぎりをつくして来た.侵略された中国人民の言語に絶する被害と,肉体的精神的苦痛は,私の想像を遠く越えたものである.一方,侵略者として駆り立てられた,日本人民にもたらされたものは,植民地奴隷化の生活だけだった.

かつて平和の光を求め労働にいそしみ,力を合わせて幸福な生活を築こうとして努力していたアジアの人民を,あの深水熱火の地獄におとしいれたのはいったい誰だ!民族と民族とを対立抗争の渦巻に投げ込んだのはどいつだ!

幾千万人民の血の犠牲と,私たちの罪悪の山の上に肥え太り,敗戦後なお涼しい顔をして倣然と構えているのは何ものだ!

こんな道理に合わないことが,「忠君愛国」という美名で飾られ,至上命令として日本人民に押しつけられていた.この欺瞞を暴露し,真実を訴えるものは,ことごとく国賊の汚名を着せられて,197世の中から葬り去られたのである.しかし私はもはや盲目ではない.真理の前に目を見開き,ものごとを正しく見つめることを知った.真理の前に私は勇敢でなければならない.私はかつて私たちが歩んで来た,軍国主義の道をふたたび復活させることはできない.それは私たち日本人を,外国軍隊の雇傭軍として,侵略戦争に奉仕させ,日本民族を必然的な壊滅に導く戦争への道であるからだ.私は美しい祖国を愛し,労働にいそしむ,日本民族を熱愛するがゆえに,民族の災禍を坐して見ることはできない.私は侵略戦争に断固反対する!


略歴

哈爾賓高等検察庁検察官

文化程度 十七年

年齢 四十六歳.

 

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1 Mizuguchi Takao, ハルビン高等検察庁・検察官 (Pseudonym)
2 Korea
3 Chabarowsk Хабаровск, nahe der Grenze zu China. Dort Gefangenen- und Umerziehungslager
4 = グロデコウ
5 Suifenhe, Grenzstadt in Heilongjiang (Grenze zu Sibirien), hieß früher ポクラニチャ
6 Mudanjiang, bezirksfreie Stadt im Südosten der Provinz Heilongjiang
7 meist ハルピン od.  ハルビン geschrieben: Harbin, Stadt nördlich von Xinjing, Hauptstadt der Provinz Heilongjiang
8 Fengtian, früherer Name der Provinz Liaoning, wurde unter japanischer Herrschaft wiederbelebt, nach 1945 abgeschafft.
9 Fushun, Stadt in Liaoning, Nordostchina, Bergwerke 炭坑; Ort der späteren Kriegsverbrecherverwahranstalt 戦犯管理所.
10 Ômura, früherer Gefängniswärter 典獄
11 Kitaiskaia, "Ginza" von Harbin --- Zhongyang Straße, belebte Geschäftsstraße in Harbin, heute Fußgängerzone
12 Daoli, Geschäftszentrum von Harbin
13 Songhuajiang, Nebenfluß des Heilongjiang (Amur), fließt durch Harbin
14 Bangjian, Region 地方 und Bahnhof bei Harbin
15 Majiagou ("Ma Family creek", Carter, James: A Tale of Two Temples: Nation, Region, and Religious Architecture in Harbin, 1928-1998. The South Atlantic Quarterly 99-1 (2000), pp. 97-115), 目抜き通り in Harbin
16 Xiangfang, im Osten von Harbin, heute ein Bezirk von Harbin
17 Straße von Xiangfang nach Harbin
18 Nishikawa Seikai, 次長 des 高等検察庁 in Harbin
19 Sun Guodong, Adjutant 副官 von Gan Tianfang
20 Gan Tianfang, 支隊長 der 抗日連軍第三路軍
21 Zhang Shouqian, General 将軍
22 Suihua, Stadt in der Heilongjiang Provinz, etwa 100 km entfernt von Harbin.
23 Jiujingzi, Dorf im Kreis Suihua
24 Yokoyama Mitsuhiko, Vorsitzender Richter 審判長 des 高等法院 in Harbin; im Juni 1956 in Shenyang zu 16 Jahren verurteilt, im Aug. 1961 entlassen; 『望郷 私は中国の戦犯だった』(1973)
25 Okada, Gefängnisdirektor 刑務所長
26 Takano, 警佐
27 Kira
28 Changchun, Hauptstadt der Provinz Jilin; seit 1932 Hauptstadt der von den Japanern besetzten Mandschurei; zu dieser Zeit hieß die Stadt Hsingking (新京; Pinyin Xīnjīng; jap. Shinkyō).
29 Imai, Gefängnisdirektor von Mudanjiang
30 Nagang (Nangang), Behördenviertel 官公署街 in Harbin
31 Mochizuki, 警佐
32 Kodama Isshin, Oberst

33 Shen, Arzt
34 Qiao (Que), Arzt
35 Bayan, Kreis in Harbin
36 Mulan, Kreis in Harbin
37 Dongxing, Stadt im Kreis Mulan, Harbin