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暗殺
―情報室の泥試合

鵜野晋太郎1

歩兵・陸軍中尉


私は竹藪(たけやぶ)のまわりをウロウロしていた. 誰にも言えないもどかしさとあせりで,カサカサに乾いた唇を,ときどき舌でなめていた.ローソクの火をふき消すように,そっと人の命を奪う暗殺地点を探していた私は,ときおり通る日本兵の敬礼に見向きもせず,まるで夢遊病者(むゆうびょうしゃ)のように見えたことだろう.

竹藪の裏は三メートルほどの崖(がけ)になっており,その前の小道は,土まんじゅうの墓場をとおって,だらだら坂をあがれば,大隊長大尉安藤為一2(あんどうためいち)の居室のある家屋があった. 「暗殺地点は竹藪の前の墓場の入口だ.誘致する径路は,情報室から通じる小道だ.」と決めて,私は腫(きびす)をかえして大股に歩き出した. その相手は日本憲兵隊の密偵長だった. 「いくらじたばたしても,五0人も人を殺した藤井3曹長に頼んだから失敗するものか.」と不安な気持をかき消そうとしていた.

一九四三年四月末湖北4省当陽5県老場6(こほくしょうとうようけんろうじょう)で起きたことである. 私は三十九師団二百三十二連隊二大隊情報主任として,馮7(ひょう)と劉8(りゅう)という漢奸(かんかん)を利用して,二組の密偵グループを作らせていた. 馮は乾渓場9(かんけいじょう)部落の宗教結社「漢流会(かんりゅうかい)の会長で,いつも青白い顔をした阿片(あへん)吸引者だった. 劉はその地方の顔役146で,日本軍が乾渓場に強制的に作った「合作社(がっさくしゃ)[協同組合]社長で片目のつぶれた男だった.

あのころは,ちょうど南方戦域で日本軍の手が延びきって,いよいよ米軍の激しい反撃がはじまったので,中国大陸の日本軍にも影響して,三十九師団も,前年の秋,予定していた重慶10(じゅうけい)侵略作戦の前衛部隊の任務を放棄して,湖北省宜昌11(とほくしょうぎしょう)一帯で,抗日軍の猛攻を必死にささえねばならなくなっていた.

私は,なまかじりな中国語をふりまわして高慢ちきなうぬぼれを満足させる暇(ひま)もなく,弱り目にタタリ目の日がつづいていた. 前面の抗日軍は,日本軍が守勢になったのを見逃(みのが)すわけはなく,二十日にもわたる春季攻勢を敢行され,いたたまれなくなって,出撃すれば,中隊長,小隊長級をバタバタやられ,一個中隊で無傷は六名という中隊まで出す失敗ぶりだった.

一ヵ月前にはたくさんの遺骨を後送したのに,大隊本部の「英霊奉安所」には,もう四0以上の白木の箱が積みあげられ,その中には,大隊副官や全滅した本部通信班の兵隊の骨もあった. 「人殺し連隊長」とか「腰ぬけ大隊長」と言う兵隊の陰口を,「まさか」と思っていた私の耳には,おひざもとの本部将校当番室から,その話し声を聞いて暗い気持になったうえに,「戦死ばかり出るのは情報が能なしだからだ.」といううわさをきいて,私は頭をかかえこんでしまった. 私は兵隊に怒鳴りつけてやりたかった.

「戦争だから人間が死ぬのはあたりまえだ.今にびっくりするような情報をあげて戦果を出させるからガアガア言うな!」……….

147中国大陸の日本軍が,日一日と敗色濃厚になったことがわからない私は,情報さえあげればと信じていたが,しかし,だんだん希望が持てなくなって,目の先が真っ暗になっていた.

広大な中国を思いどおりにするには,軍事占領をして経済支配しなければならず,私の属する三十九師団も第一線陣地を作ったうえに,経済封鎖網を構成してネズミ一匹はいれぬようにしていた.そして,人間が生きるために必要な空気と水のように,たいせつな塩の輸入を断ちぎって,中国人を骨ぬきにし,思いどおりにこき使い,ものをまきあげようとしていたのである.

日本軍は,遠く北支12などの後方地区で略奪した塩で,農民の汗の結晶,米・麦・肉・野菜を略奪した.農民が一人でやっとかつぐほどある野菜も,米も,一握りの塩でとりあげていた.

その日本軍がむさぼり食ったその糧食の中に,どれだけ多くの血と涙がしみこんでいたことだろうか!苦しい抗日戦の戦禍の中で,一家をささえるに足りない食物に,塩のない苦しさ………痩(や)せ細り腹ばかりふくれた栄養失調の体………,頭髪はぬけ,蚊の鳴くような小さな声………,ああ,どんなに悲劇を生み出したことだろうか!人びとは乞(とぼ)しい農作物を塩に替えるために,行く末は乞食となり,一家離散し,子供は浮浪児になり,山野をさまよっていた.

老場に駐屯する二大隊本部の経理室に,私の指揮する宣撫班の口入れで,毎日五,六人の子供を雑用にこき使っていたが,一人の十二歳ぐらいの女の子が働きに来ていたのをおぼえている.痩せ細つた体に襤褸(ぼろ)をまとい,おそろしい日本兵に顎(あご)で使われ,一日じゅうオロオロしながら働いて,一つまみの塩と残飯を,だいじそうに布にくるんで夜通を帰っていった.少女の両親と祖母は,一九四0年148の宜昌(ぎしょう)作戦で日本軍に殺され,病身の祖父と七歳の弟を抱いて,その子はか細い腕で必死に生きようとしたが,深い悲しみと飢えの中に,やがてその一家は死に絶えていった.このようにしてその地方に住む幾万の人びとを,生地獄の中に呻吟(しんぎん)させた私は,一片の人間性もなく,「敗戦国民は,くやしければ勝って見ろ.」と笑っていたのである.

ところが,たいへんなことに唯一の武器の効(き)き目がだんだん減(へ)って来て,かんじんな情報があがらなくなったのである.

大隊の第一線から一0キロあまり西北に行くと,そびえ立つ巴山13(ばざん)山系の突端の谷間に,白陽寺14(はくようじ)と呼ぶ平和な山村があった. その村は抗日戦の中でだんだん大きな役割をはたし始めていた. がんらい湖北省は四川15省の塩を輸入していたが,日本軍が長江16(ちょうとう)を封鎖してから,ここの村は抗日第二十六挺身大隊の援護のもとに,塩の補給地としてたいせつなところになったからであった. 四川省万県17(しせんしょうばんけん)揚子江18 上流,重慶――宜昌中間の都市]から,東京19-大阪20に相当する長路を,何度も何度も驢馬(ろば)の背に乗せ替えられて送られた塩こそ,日本軍の占領地区の人びとの命の源泉となり,日本軍には手痛い打撃だった.大隊が毎夜のように潜伏斥候を陣地のあいだの抜け道に待ち伏せさせて,塩の輸送隊を押さえようとしても,とうてい全部を押さえることはできなかった.

だから,日本軍としては,白陽寺村をどうしても叩きつぶさねばならなかった.その中で,私の仕事は,白陽寺村の情況,とくに村をとりまく陣地と塩の集積地点と日本軍の攻撃を防ぐ人工的な阻害施設を調査して,詳細な地図を作ることであった.

149私は漢奸(かんかん)馮と劉を,なんとか手なずけて白陽寺を探ったが,ひじように困難であった.それまでに二十回以上も探らせて,やっと地形と陣地の位置がわかっただけで,日本兵を突入させるのに一番たいせつな人工阻害情況と,塩の集積地が全摑(つか)めず困っていた与えに,たいへんな問題が起きていた. それは密偵に対する餌の問題である. 日本軍の斥候が,一歩も白陽寺の陣地に近づけない以上,漢奸がなければ盲目同然だったので,痛し痒し(かゆ)であったからである.

こうして私は「知恵袋」を洗いざらい出して,いっさいの餌をあたえることに汲々(きゅうきゅう)としていた.

一つは現金支払いの方法,一つは合作社を経営させ,一握りの塩でかき集める物資の総元締めをやらせて,そのオコボレをあたえる方法,一つは白陽寺村へ行かせて一回に二百斤程度の塩を買うことを許す方法である.もっとも効き目のあるのは,後者の白陽寺で塩を買うことを黙認することであった.漢奸は白陽寺で安く仕入れた塩を,べらぼうな値段で住民に吹きかけるのである.一斤百元(げん)以上の高値でも住民は家財道具を売り払っても生きるために,泣きの涙で歯ぎしりしても塩を買わねばならなかった.

だから日本軍をパックにして濡れ手に粟の漢奸は,貧しい住民とは逆に,財富をつみあげ,私へもいちおう活気ある情報をよこしていたのだった.ところが,その唯一のドル箱が効かなくなったのである. 一ヵ月前から,今まで直接手を出さなかった日本軍憲兵隊の漢奸が,二百斤を問題にせず,大儲(おおもう)けのため,どんどん持ちこみはじめて,馮と劉も顔色変えて持ちこみ量をあげてくれと食いさがって来た.

150私は,白陽寺の情報を集めるためとはいえ,憲兵隊の漢奸とのせり合いまで黙認しては,アブ蜂とらずで元も子もなくするし,そうかと言って,この問題が起きてから,目に見えてやつらのよこす情報が,私の足もとをみて,痛くも痒くもないものばかりなので,いよいよ八方塞(はっぽうふさが)りになって来たのであった.

あの日も執拗(しつよう)に,馮と劉は顔色変えてつめよって来た.

「主任さん.私は四ヵ月も命がけで白陽寺を調べているのですよ.商売人に化けるぐらいでは内部のことはわからないし,あそこにいる私の親戚をなだめすかして,すっかり農民に化けて,いよいよ馬蹄(ばてい)型の陣地にはいれる段取(だんど)りになっているのですからね……….見つかったら親戚のものは,命はないし,私の首はとびますよ……….二百斤ぐらいの塩で儲(もう)けた金は,白陽寺の親戚にやれば,後は足代にもなりませんよ……….」

片目の劉がずけずけと食いさがってくる.

「主任さん.は合作社をやらしてもらってるから何とかなるでしょうが,私はいったいどうなりますか.漢流会の地盤と白陽寺を調べてることがばれれば,信者の信用がなくなるどころか,住民から殺されますよ.白陽寺近辺の住民と当地の住民は親戚関係が多いから,ほんとうに危い綱渡りなんですよ.主任さん.同じ日本軍で儲けられるのなら,私は鞍替(くらが)えせにゃあ,立つ瀬はありませんね……….」

馮が巻き舌の早口でしゃべりつづけた.私は,握りしめた拳(こぶし)がブルブルふるえた. 「こいつら,この151あいだまで塩の搬入証明書お願いしますと,ペコペコ頭をさげていた癖に………,家族や親戚がかわいいのだな………,日本軍についておらにゃ,乞食になって野垂(こた)れ死にしたくせに………,この野郎ども,いままでに十両の阿片と十万元以上の現金をやったのに,恩知らずのいまいましいやつらだ!」

だが,私にはムカッ腹を押さえねばならない,情けない弱点があって何とも言えなかった.半月以上,私は失敗の連続で,どん詰まりのところまで来ていた. まず私は,憲兵隊長に規定量にしてくれと頼んでことわられ,つぎに密偵長を懐柔(かいじゅう)してやろうと一杯飲ましたが蹴とばされ,業(ごう)を煮やして持ちこむ塩を押収したら,憲兵隊長から起訴すると嚇(おどか)されたのであった. あの日の夕方,ドテラ姿の大隊長安藤(あんどう)は,脂汗(あぶらあせ)を流して電話機に頭をさげた.その後で私は,小さくなっていた.

「憲兵隊長どの,それはけっして大隊長個人の意図ではありません.なにぶん若僧のやったことで,かならず責任ある処置をします……….」 そしてオロオロする私を,安藤は怒鳴った.

「コラッ,貴様は偵諜工作妨害で起訴されるところだったんだぞ.憲兵と喧嘩して勝てるか!貴様はおれが憎いのか.いままで二度も憲兵に事故をつけて来て,少佐になれんおれのことがわからんのか!」

取りつく島のない私も,どうしても頼みこむ以外にはなかった.

「悪くありました.しかし情報があがりませんので……….」

大隊長はとびあがって叫んだ.

152「大隊長は責任はとらん.貴様が何とか考えるのだ……….どうするか?」

進退きわまった私は,乗るかそるかのただ一つの残された方法にすがりついた.

「エエイッ.こうなったら最後の手だ.何だ,支那人の一匹や二匹.この前の龍北21掃蕩戦(りゅうほくそうとうせん)でトーチカに農民を一0人もぶちこんで吹き飛ばしたおれじゃあないか!」

私はゴクツと唾を飲みこんで言った.

「手としては暗殺以外にありません.ご迷惑はかけません.」 大隊長はニヤッと笑った. 「よーし,やれ.へたをしたら軍法会議もんだぞ.」

私は安藤の最後の言葉を思いうかべながら二人の漢奸を前にして,「もう少しの辛抱だ.」と歯をかみしめた.

の言い分はよくわかる.二,三日中に解決する.悪いようにはしない.」と二人をなだめ帰して,ただちに暗殺の手はずに取りかかった.

たくさんの平和な農民を捕え,水を飲まし,天井につるすなどの方法で拷問し,殺した情報室で,私は自分の漢奸をよりよく使うために,他人の使う漢奸を暗殺する命令をくだした.

「部外には絶対に言うな.憲兵の密偵長を暗殺する.やつは明日白陽寺に行くはずで,今夜は乾渓場にいる.北森22(きたもり)軍曹と梅崎23(うめざき)上等兵は,大隊長が宴会に招待すると言って連れ出すんだ.しかし他の住民にはわからないようにするんだぞ.もし他のやつに見られたらやめろ.足がついたら,おれもお前たちも軍法会議だぞ.」

153こうした後で,あの暗殺地点の下調べを行なったのだ. そして私はその足で新品(しんぴん)副官,少尉,矢野膂力24(やのちから)に頼んで,広島25県福山26市の遊郭の小枠(こせがれ)で,藤井と言う人斬り曹長に,刺客を引きうけてもらった.

四月と言っても,若葉はすでに青葉に変わり,初夏を思わせる湖北の山野に,太陽が沈むころ密偵長は連れられて来た. 北森軍曹がぺロッと舌を出してささやいた.

「やつはまだ気づいていませんよ.隣の部屋にいます.」

「よーし,副官に連絡しろ.」

私は冷たく光るブローニングをポケットに入れて,隣室に入った.

「いやー,忙しいところ………,大隊長がぜひ白陽寺の話を聞きたいというのでね……….まあ,このあいだのことは水に流して……….」

菓子と果物の皿を前に密偵長はすっかりご機嫌であった.

「大隊長さん,なかなか話わかりますね.」

なめきった態度に,私は心で叫んだ. 「末期(まつご)の水を腹一杯飲んでおけ……….もう数分であの世行きだッ……….」 だが,密偵長の肩にモーゼルがかかっている. 私は思わずブローニングの安全装置をはずした.そこへ副官がはいって来た. 「サア,準備ができました.案内しましょう……….」 先頭に副官,その後に密偵長,私,藤井の順で静かに歩き出した.

(あた)りは人の顔がやっとわかるぐらいに暮れていた. このような死の行列を嘲笑(あざわら)うように,はるかに白陽寺の廟がボーッと霞んでいる.副官室を回って後三0メートルになった. 「まだですか.」と聞いた154密偵長に,ドキッとした私は,彼の背中をなでるようにして,「もうすぐだ.」と答えて藤井を見た.軍力の柄先(つかさき)を抱くようにして,腕を組んで歩いている藤井は,地下足袋の軽装だった.

空気が冷たくなり,急に暗くなって,行列は竹藪にはいった. 藤井が私の右前に音もなく出て,腰をひねり,軍刀が光った.

「アッ!」 モーゼルに手をかけるまもなく,低い唸(うね)り声を残してドッと倒れた. 夜目にも黒い血潮の中で,ダラリと垂れた首にのしかかるように,胴体は横になっていた. 「馬鹿なやつが………おれもこれで羽根を延ばして仕事ができるか……….」

こうして暗殺した後,血眼(ちまなこ)でさがす憲兵隊に,「敵地区で殺された.」とだまし,また馮と劉を手なずけて,元通りに諜報網を復活させることができた.そして白陽寺の地図を作りあげたのである.

こうして使い古した漢奸は,その年の六月,一大隊と駐屯地交替のとき白陽寺の地図とともに譲り渡した後,用のないその漢奸を,一大隊宣撫班は,試し斬りの「慰み」に殺してしまった.

このように血に狂った日本軍は,ついにその年の幕,白陽寺攻撃をおこなった. 一九四三年十二月日夜[二十五日夜?]二百三十二連隊長大佐浜田弘27(はまだひろし)の命令をうけた一大隊長少佐山中孝夫28(やまなかたかお)は,「年寄り女子供,一人残らず殺せ.物盗り火つけ勝手放題.」と残虐非道の命令をして,鬼畜のような日本兵を追い立てていった.あの村人たちは,新年の慶を語りあって団欒(だんらん)し,楽しい眠りについたころ,一瞬にして一00人余の命は奪われてしまった.子供をかばう母親も,病人も,妊婦も,見境なく惨殺して,平和な村を火の海にしてしまったのだ.

155天人ともに許されないこの蛮行に,日本軍がいかに血に狂おうとも,塩の集積地点をみつけることもできず,強烈な二十六挺身大隊の猛撃の前に,ついに[日本軍が]潰走(かいそう)したのは,それから数時間後だった.破壊と略奪,放火と人殺しの残酷な戦争………. その陰にどれほど多くの謀報と陰謀がおこなわれたことだろうか………. 聖戦なる美名のもとに,少しの良心のあ呵責もなく,人を殺した私は,今あの残虐のかぎりをつくした過去を,心から悔い俄悔せずにはおられない.人類の自由と平和,幸福な生活を願うために,ふたたびあの戦争を許すことはできない.


略歴

私は,一九二0年一月九日,中国河北29省天津30市旧日本租界曙街十五ノ一番地において鵜野梅三郎31の二男として出生しました.現住所は東京都南多摩32郡町田33町南大谷玉川学園五七七番地です. 一九四0年十二月一目,広島県福山市西部六十部隊入隊後,一九四一年春,中国湖北省荊門34県子陵舗35に駐屯する三十九師団二百三十二連隊三機関銃中隊に所属していました.爾来久留米36第一予備士官学校で将校教育をうけて,幹部候補生第六期生として引き続き三十九師団二百三十二連隊において二機関銃中隊小隊長二大隊情報宣撫主任,二百三十二連隊停虜監督将校,経理委員,中国語教育隊長を歴任し,予備役将校中尉になり敗戦にいたりました.敗戦後一九四五年八月二十一日,東北37四平38市楊木林39においてソ

 

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1 Uno Shintarô, Oberleutnant, 1956 in Shenyang zu 13 Jahren verurteilt, 1958 entlassen; hat 1991 zweibändige Autobiographie veröffentlicht.
2 Andô Tameichi, Hauptmann
3 Fujii, Leutnant
4 Hubei, Provinz
5 Dangyang, Kreis und Stadt in Hubei
6 Laochang, Ort in Dangyang
7 Feng (Ping), Kollaborateur
8 Liu, Kollaborateur
9 Ganxichang (Qianxichang), Siedlung in Dangyang
10 Chongqing (Ch'ung-ch'ing, auch Tschungking), Stadt in der Provinz Sichuan, von 1937 bis 1946 Sitz der chinesischen Regierung.
11 Yichang, Stadt in Hubei, am Jangtsekiang oberhalb des Drei-Schluchten-Staudamms
12 Beizhi, kurz für Beizhina
13 Bashan, Bergkamm 稜線, Gebirgskette 山系 in Dangyang
14 Baiyangsi, Siedlung und Dorf in Dangyang
15 Sichuan --- auch: Sezuan; zentralchinesische Provinz mit Chengdu als Hauptstadt
16 Changjiang (Zhangjiang) = Yangzijiang 揚子江
17 Wanxian, Stadt in Sichuan
18 Yangzijiang --- (früher: Jangtsekiang), größter u. wasserreichster Fluss in China
19 Tôkyô
20 Ôsaka, japanische Großstadt
21 Longbei
22 Kitamori, Feldwebel
23 Umezaki, Gefreiter
24 Yano Chikara, Leutnant
25 Hiroshima, japanische Präfektur und Stadt
26 Fukuyama, Präfektur Hiroshima
27 Hamada Hiroshi, Oberst
28 Yamanaka Takao, Major
29 Hebei, Provinz
30 Tianjin --- regierungsunmittelbare Stadt und Stadtregion in Hebei 河北 am Fluss Haihe
31 Uno Umesaburô, Vater von U. Shintarô
32 Minamitama, Landkreis in Tôkyô
33 Machita, Stadt in Minami-Tama, Tôkyô
34 Jingmen, Kreis in Hubei
35 Zilingpu, in Jingmen
36 Kurume, Präfektur Shizuoka
37 Dongbei -- die drei nordöstlichen Provinzen (遼寧省Liaoning・吉林省Jilin・黒竜江省Heilongjiang), d.h. die Mandschurei; auch: Dongsan東三.
38 Siping (chinesisch 四平市, Pinyin: Sìpíng Shì) ist eine bezirksfreie Stadt im westlichen Teil der nordostchinesischen Provinz Jilin. Siping ist der Sitz eines Apostolischen Vikariats der römisch-katholischen Kirche.
39 Yangmulin, in Siping