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ア弾
毒ガス弾の使用

阿賀恵1

砲兵・陸軍大尉


ダダダダ,ドン,ダダダ,大隊の火力(かりよく)は,紅山2(こうざん)に向かって集中された.山頂は砲煙に包まれ,きびしい銃砲声が両側の高地に響きかえして,あたりの楊(やなぎ)の葉を,ザワザワとふるわせた.だが山頂の石垣陣地には何の反響もなかった.それどころか,激しい銃砲声の間隙を巧みに縫ってくる八路軍(はちろぐん)の正確な狙撃弾は,ますますひどくなった.

突然,砲側で眼鏡(がんきょう)をのぞいていた連絡下士官の香月3(こうずき)軍曹が「アッ,小隊長殿!八路が石垣を補修しています……….」と報告した.見ると左の方の崩れた石垣の所に,八路軍戦士の体が見えかくれするたびに,黒い岩石が動かされている.砲弾に破壊された所を補修しているのだ.……… それを見つけたか,重機の曳光弾が,ダダダダと黒い岩に,白く点線を描いて集中された.だがそれもこたえぬか重機の音がやむと,ふたたび戦士の体が岩のあいだから見えかくれし始めた.

昨夜半,山東省(さんとうしょう)泰安県(たいあんけん)の西南端,安駕荘4(あんがそう)から北進した独立混成十旅団[砲・工・歩兵の混成]独立歩兵四十五大隊は,破壊された夜道になやまされて,今朝がたまでに一,五キロも前進したろうか,明けがたの高地に八路軍を発見して,あわてて攻撃を始めたが,いつのまにか,紅山の麓に吸いよせられて,082進みも退(しりぞ)きもできなくなっていた.

紅山………,それは,わずか二00メートル足(た)らずの低い山ではあったが,なだらかな小山の起伏しているこのあたりでは,一番高く険峻(けんしゅん)な山だった.朝日を浴びて褐色に光るその頂上には,この地方によく見られる,鉢巻きをしたような,二メートルばかりの高さの石垣が,築かれている.その昔,山麓の人びとが,外敵の襲来をさけてここに戦ったと言われるその石垣陣地は,麓の人びとの不屈の歴史を刻みこんでいるかのように,黒い岩が,がっちりと組みあっていた.

いまも,この石垣陣地に拠(よ)った八路軍の反撃は猛烈だった.大隊に配属されてきた私の山砲小隊も,すでに携行弾薬の三分の二も撃ちつくしているのに,わずかに石垣陣地の一部を破壊し得たのみで,いたずらに,附近の土砂を吹きあげるだけだった.朝から三時間も攻撃している大隊は,何回となく石垣陣地の崩れた所に向かって攻撃をはかるが,そのつど,猛烈な反撃を受けて失敗した.

パチッ,パチッ,と耳をつんざくするどい流弾の音にまじって,

「オイ副官.何をぼやぼやしているんだ.早く左中隊を前に出せ.」

と,神経質にどなっている大隊長森川浩平5(もりかわこうへい)大佐の声が,せきたてるようにひびく.堆土(たいど)や岩かげにかじりついている歩兵には,動く気配さえ感じられなかった.歩兵への支援が,思うようにならないのにいらいらしてきた私は,残り少なくなってゆく砲弾を気にして,

「オーイ,残弾を知らせろー」 と段裂(だんれつ)のほうをふりかえったときだった.先ほど通ってきたばかりの部落が,もうもうと白煙をあげて083燃えあがり,赤い炎が渦をまいて部落の上をはい回っているのが目にうつってきた.………

「そうだ,ア弾だ……….」 その瞬間,私の脳裡に,毒ガスにのたうちまわって苦しむ議士,まったく抵抗力を失った八路軍戦士を,芋刺しにして殺す歩兵の姿が浮かんで,もうなんの躊躇(ちゅうちょ)もなかった. 「大隊長殿!ア弾を撃ちましょう!.」

側方の大隊本部に向かってどなった私は,その返事も待たず,

「オーイ,ア弾を持ってこーい.」

と,後方の部落のかげにいる段列に向かって叫んでいた.


弾は依然として,砲側に近くピュンピュンと飛んでくる.四,五寸も伸びた麦畑をふんで,バタバタと乱れた足音がして「ア弾到着!」青ざめた顔に冷(ひ)や汗をびっしょりぬらして初年兵の花井6と佐藤7が,口をパクパクあけなが畑の上を引きずるようにして弾薬箱を運んできた.そうだ,彼らは初めての戦闘なのだ.初年兵の初陣(ういじん)に,このようなありさまで"おじけ"を持たしたら,後の始末(しまつ)が悪いと考えた私は

「オイ佐藤!いまに八路(はちろ)をお陀物(だぶつ)にするからな,よっく見とけ!」

と彼らに勢いづけるようにどなった.

「副官!中隊に連絡だ.いまからガス弾を撃(う)つ.陣地から逃げてくる八路を攻撃しろ.」と,どなっている大隊長の声を耳に,私は,

084「ア弾の発射!五0増せー」と,準備ももどかしそうに,諸元(しょげん)の修正を命じた.空色の弾体に,太く赤線のはいったア弾.それは,特殊弾と呼ばれた毒ガス弾の秘匿(ひとく)名である.窒息性とクシャミ性の混合ガスの放射と同時に,弾体炸裂(さくれつ)時,榴弾(りゅうだん)同様の殺傷力を持つという凶悪なガス弾であった.

私は,そのときこのガス弾が,人道主義を蹂躪(じゅうりん)し,国際法に規定された最小限の戦争道徳さえ破壊した残忍非道なものとして,世界の人びとから呪われた殺人兵器であることを知っていた.だが,日本軍国主義にすべての良心を失っていた私には,そのようなものは,まったく眼中になければ,殺戮(さつりく)のためには,いかなる手段も選ばなかったのである.

「撃て!」 ドン!ダン!あたりをふるわせて,崩れた石垣陣地のたもとに炸裂したア弾から,ムクムクと吐き出される黄色ガスが,生ぬるい西風におされて,だんだんと右に向かって薄黄色に広がり,石垣陣地の上をなめるようにしてはってゆく.二発………四発………,不気味(ぶきみ)な毒煙は,山頂を溶(と)かしこむように完全に包んでしまった.………

「やったぞ!」私は思わず叫んだ.いまのいままで,身動きできないほどに,砲側のあたりを,プスッ,プスッと砂けむりをあげていた八路軍の銃弾が,ぴたりとやんでしまった.

やっと落ちつきを取りもどした私は,眼鏡を目から放した.見ると,体をふるわせながら,段々畑(だんだんぱたけ)や堆土のかげに,はいつくばっていた兵隊たちが,のこのこと頭をあげ始め,歩兵が,ようやく攻撃態勢をとり始めているのに,いままでうろたえていた自分のことも忘れて,「フン,なんと臆病なやつらだ.」085と冷笑を浴びせかけていると,

「オイ,砲兵,つづいて撃て!見ろ,すっかりガスにやられたぞ.ハッハハ,もっと撃て!」

先ほどまで石がけのかげで,がなりたてていた大隊長が,すっかり安心したように眼鏡片手に近づいて来た.

「ハッ,風のぐあいを見てガスの切れないように……….」

すっかり慢心した私は,つぎの発射時期を見はからっていた.

静まったあたりに,にぶいア弾の炸裂音が,つづけざまにひびいた……….突然,砲側で包隊鏡(ほうたいきょう)をのぞいていた観測手の秋山8(あきやま)上等兵が,

「アッ,八路が右へ逃げる!」と声をあげた.

浅黄色の毒煙の中に浮き出したように見えてきた石垣の下を,飛びおりた五,六名の戦士が,まばらに生えている小さな木のあいだを縫うようにして右に移動するのが見える.だが,つぎの瞬間,戦士たちは,手前の高地から,三中9隊の集中射撃を受け,パタパタと倒れていった.

硫黄(いおう)をくすぶらしているような,不気味な毒ガスは,山頂の石垣陣地を,毒蛇のようにはい回っては,右のほうに流れてゆく……….急に,両側の高地から銃声が激しく鳴り始めた. 「やった,成功だ!」 陣地を捨ててのがれる八路軍を攻撃し始めたのだと思うと,もうじっとしておれなかった」

「オイ,陣地変換だ!」

軍刀を握った私は前進し始めた大隊本部を追いかけていた.

086やがてガスは流れ,ふたたび薄煙の中に山頂が浮き出してきたが,八路軍戦士の黒い影はもう見えなかった……….

それから二十分もたったろう.ようやく頂上の石垣陣地にたどりついた私は,倒れている八路軍戦士のあいだを,縫うようにして本部のほうに急いだ.

まだ付近には,吐き出したいような,嫌な薬品の臭(にお)いが残っている.それは,ちょうど,昔私が久留米(くるめ)の連隊で,練兵場(れんぺいじょう)の一角に建てられていたガス室にはいったとき,防毒面のわきから指を突っこんで,ガスを一臭吸った,あの苦しさとあの臭いだ……….頭がカッとなって割れるようにひびき,しめつけられるような胸の苦しさに,呼吸ができなくなり,とめどもなく流れ出る青洟(あおばな)に,吐き出したいような苦しさは,もうじっとしておれなかった.あのとき,同じ初年兵の一人が,あまりの苦しさに,ガス室を飛び出して,練兵場のほうに気違(きちが)いのように駆け出したが,三0メートルもゆかないうちに,ばったりと倒れて気絶してしまった……….ちょうどあのときと同じ生ぐさい,嫌な臭いだ.

頂上に急ぐ私は,そのときハッとして立ちどまった……….岩かげの凹んだ所に,顔を地にすりつけるようにして倒れている一人の戦士……….その体は黒紫に変色し,紫色の大きな斑点が,不気味に浮き出している.私は後をふりかえると,初年兵の山本10(やまもと)一等兵に,

「オイ,これをひっくりかえしてみろ!」

と声をかけた.

だが「ハイッ.」と答えた山本の声は弱くかすかにふるえていた.初年兵の教育を終えて,初めて作戦087に参加した彼は,私についてこの頂上の陣地にはいったとたん,あまりにも無慚な目の前の戦士の姿に驚いているのか,日焼けした顔はすっかり血の気が失(う)せている.日ごろ活発で利発な彼に期待をかけていた私は,裏切られたような腹だたしさに,

「何をグズグズしてるんだ!」と,どなりつけた.

あわてて戦士のそばによった彼は,紫色にむくれ,いまにも中から黒い血膿(ちう)みの飛び出してきそうな体に手をかけると,上にひきあげようとした.だが戦士の体は,大地に吸いついたようにして動かなかった……….

「なんだ,のけッ.」と,後にいた秋山上等兵は,前に飛び出て山本の体を突き倒すと,じれったげに, 「そんなことで戦争ができるか!」 と,右手で咽喉(のど)首をおさえるようにして,倒れている戦士の襟首をつかみとるや,グイと引っ張りあげた.爆煙とガスに,紫色にはれあがった顔は,吐き出された汚物とドス黒い血に,べっとりと汚れている.しかし苦悶にゆがんだ顔に光る目は憎しみと怒りに燃え,なおも生命あるかのように一点を凝視(ぎょうし)して動かなかった.瞬間,サーと冷たいものが,背中を走った.私はそれを部下に見やぶられまいとして,

「フフフフ,オイ,これがガスでやられたやつだ.………いいか,話の種(たね)だ,よく見とけ!」と吐き捨てるように言った.

戦士の体を引きあげている秋山は,

「ハッ.フン,いいざまだ,山本よく見とけ!」

と,088私にこびるような態度で答えると,「この野郎!」と,力まかせに戦士の体を放(ほう)り投げた.

そのときパタリと,握られていた小銃が手から離れたと思うや,戦士の体はなおも小銃をだき抱えるかのようにおり重なって倒れた.

「オイッ,その小銃をはぎとれ!」

カッとなった私は,かたわらに呆然と立っている山本に向かって,いまいましげにどなりつけた.

まだ付近には,黒紫に変色し,無慚にはれあがった十数名の戦士の死体が,銃砲弾に倒れた戦士にまじって,あちこちの凹地(くぼち)にたおれていた.

「オイ,後でこの情況を,皆によく話してやれ.」 二人に声をかけながら,軍刀を持ちなおした私は,頂上の大隊長のもとに急いだ.

私を見つけた大隊長は,「見ろ,すばらしい成果だ.」と,麓のほうを指さした.そこには,麓に血路(けつろ)を見出(みい)ださんとした七,八0名の戦士が,重なるようにして倒れていた.あれだけ石垣に拠(よ)って頑強(がんきょう)に抗戦しながら,何の防毒装備も持たないがゆえに,どうすることもできなかったのである.

突然,パンパンと右下の木部の兵隊が,右前の高地から駆けおりてくる三名の戦士に向かって射撃している.まだ附近の高地にはあちこちから銃声が断発(だんぱつ)していた.………

このようにして,彼等は祖国の解放のため,わずかの小銃をもって,山砲や大隊砲などの重火機を持つ大隊の攻撃を打ち破りつつ頑強に抗戦しながら,残忍非道なガス攻撃に,身の自由を失い,拠るべき防禦物を失い,悪虐な日本侵略者に万斛(ばんこく)の恨みをのんで倒れていった.

089わずか数瞬にして三00名にのぼる八路軍を殺戮した大隊は,その日,恨みの血に汚れた手で乾杯をあげた.そして私の小隊に賞詞をくれたのである.

それは,十山八年前,一九四0年の,ちょうどいまごろ,麦の青く伸びた五月上旬のことであった.そのころ私の所属した独立混成十旅団の各部隊は,砲兵はア弾を,歩兵はアカ筒を,分隊にいたるまで,例外なく携行した.ガス兵器の関係書類は軍事機密として部隊の書類箱の底深く納められてはいても,現物のガス兵器は,部隊の蟠踞(ばんきょ)する所,どのような小さな所でも,防毒面とともに備えつけられ,部隊が行動する所,どのような小さな部隊でも,防毒面とともに携行された.それは防毒装備を持たなかった当時の八路軍に対しては,掛替(かけがえ)のない攻撃武器だったのである.だが,これはけっして私の旅団一つのことではなかった.それから三ヵ月後の八月上旬,当時ガス兵器の効力を研究したり,ガス攻撃についての教育資料を編纂(へんさん)するために,日本の陸軍教育総監部は,旅団司令部を通じて「戦闘中ガス兵器の効力調査に関する資料」の提出を指令してきたのである.

そのとき旅団砲兵隊長多勢清作11(たせせいさく)中佐から報告資料の作製を命ぜられた私は,当時の気象や,ア弾の効力から,使用上の経験教訓の一連の報告資料をまとめると,最後に「とくに,小部隊による討伐時,囲壁(いへき)あるいは家屋などの防護物に拠る敵を攻撃するさいもっとも有効なり.」と結び,あの悲惨な紅山山頂の殺戮を,中国全土におし広めんとしたのでした.

そして,みずからまた,半月後の八月下句,山東省(さんとうしょう)嶧県12(たくけん)朱溝13(しゅこう)の戦闘において,ふたたびア弾を部落に撃ちこみ,三五0名にのぼる抗日軍と,何の関係もなかった部落の人びとを,無慚に殺害してしまった090のです.


私は,このようなガス兵器が,人類史上もっとも非道な殺人武器であることを知りながら,そのガス兵器が,ただ日本侵略軍のみが持つ独占物だという理由で,そして相手が中国人だという理由でもって使ったのです.それはあの米帝国主義が,日本人が黄色人種だというただ一つの理由をもって,原爆を投下し,一瞬にして三十数万の尊い生命を奪ったのと,まったく同様に,私は,ただ誤った大和(やまと)民族の優越と,中国人民に対する蔑視感から,このように人道主義を蹂躪し,国際法を無視した非人道のかぎりをつくしながら,何はばからなかったのです.

だが,現在その中国人民が,この殺してもあまりある鬼畜の私に,過去の非を悟(さと)るならば,ともに手をとって平和と人類幸福のために戦おうと,温情あふるる手をさしのべて指導してくれたのです.まったくこの仇を報(むく)ゆるに徳をもってあたえられる崇高な中国人民の懐(ふところ)の中で,初めて目覚めることのできた私は,いま自身の過去をふりかえるとき,あまりにも無恥盲目な殺人鬼に憤激せざるを得ないのです.

戦争………それは私の人間性のいっさいを奪い去った.そして日本軍国主義にすべての良心を失ってしまった私は,あの残虐な戦争罪悪の中に自己の情熱を燃やした.だが戦争なるがゆえに,いかなる残忍な手段をも許してもよいだろうか.絶対に許されない.私はいま自分自身の過去の罪悪と,現代戦争の残忍性を知れば知るほど,現在復活しようとしている日本軍国主義の陰謀,米帝国主義の水爆戦争準備を黙視し,ふたたびあの悲惨た戦争を再現させることは絶対にできない.なぜなら戦争消滅091のため,平和のために戦うことこそ,あの紅山(こうざん)に万斛(ばんこく)の恨みをのんで倒れられた戦士の遺志に報(むく)い,いっさいの私情を捨てて,私を更生させてくれた中国人民の崇高な心情にこたえた,自覚せる戦犯人としてただ一つの道であり責任であるからです.


略歴

本籍地 広島14県呉15市広町二七二一番地

年齢 四十一歳

文化程度 十一年

前歴 内務省大阪土木出張所技術員,一九三九年八月中国山東省,泰安県に侵略,敗戦時,五十九師団迫撃砲大隊長,大尉.

 

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1 Aga Satoshi, 砲兵・陸軍大尉 (Pseudonym)
2 Hongshan, Berg
3 Kôzuki, Feldwebel
4 Anjiazhuang, Stadt in Shandong
5 Morikawa Kôhei, Oberst, 大隊長
6 Hanai, Rekrut 初年兵
7 Satô, Rekrut
8 Akiyama, Gefreiter
9 Minaka, 三中隊
10 Yamamoto, Rekrut
11 Tase Seisaku, Oberstleutnant
12 Yixian, Kreis in Shandong
13 Zhugou, in Yixian, Shandong
14 Hiroshima, japanische Präfektur und Stadt
15 Kure, Präfektur Hiroshima