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特移扱
細菌実験のための控致(らっち),逮捕(たいほ)

吉房虎雄1(よしふさとらお)

憲兵・陸軍中佐


哈爾賓2(ハルビン)を東南に出はずれたところに平房3という拉浜4(らひん)線上の駅がある.この平房の南方の広大な耕地の上に,見るからに陰惨(いんさん)などす黒い高大な建物があった.その四周には,高い塀があって,厳に外界と遮断しており,さらにその外側には,鉄条網が張りめぐらされていた.汽車の中からこの建物を見る者に,まず奇異な感じをさせるのは,この建物に,不釣り合いな,高い煙突が,中空に聳(そび)え立っておることであった.これこそ防疫給水部(ほうえききゅぶ)の仮面をかぶった細菌研究所,石井5部隊であった.

ここは軍事特別区域であり,要塞と同じく,関東軍司令官の許可がなければ何人(なんびと)も足を踏み入れることのできない秘密境であり,敗戦と同時に日本軍は,その秘密のバクロを恐れて,これを爆破してしまったのである.

日本帝国主義は,細菌と毒ガスの使用を禁止する国際条約に署名することを拒絶した.彼らは安あがりの細菌と毒ガスを,もっとも有効な殺戮手段として,早くから東京の陸軍軍医学校で,細菌攻撃の準備を進めるとともに,「泰天医科大学」に,中国人民を材料とする実験拠点を作っていた.この陰謀を指導していたものこそ,人類の敵石井四郎であった.

024九・一八昭和六年九月十八日のこと.満洲事変が起こった]の後,天皇は,細菌攻撃を大規模に準備するため,七三一部隊,いわゆる石井部隊の設立を命じた.

傷を負った野獣の最期は,この上もなく凶暴野蛮(きょぼうやばん)なものである. 一九四二年一月,石井四郎は,細菌実験の状況を見るため平房に行った関東憲兵隊司令官原守6(はらまもる)と,同司令部第二課長吉房虎雄(よしふさとらお)[私]にたいして,つぎのように語った.

「細菌攻撃の第一の特徴は,効力が偉大であることである.鉄による砲・爆撃は,その周囲一定の範囲のものを殺傷するだけであって,傷ついたものもすぐ回復して,ふたたび戦闘に参加することができる.ところが,細菌戦は,人から人へ,村から村へと,効力圏(こうりょくけん)を拡大するばかりでなく,その害毒は,人体深く食い込んで,死亡率は,砲・爆撃にくらべてひじょうにに高い.また,いったん傷つけば,回復は,きわめて困難で,ふたたび戦闘に加わることは期待し難い.」

何と血に飢えた鬼の姿ではないか.また彼はつづけた.

「細菌攻撃の第二の特徴は,鉄の少ない日本にとっては,もっとも適当な戦争方法であり,経費も安いことである.まだ研究せなければならぬことが多いが,材料が不足で思うようにならぬ.」

吉房[私]は,なるほどそうだ,よい話を聞いたと,腹の底からうなずいた.そして細菌戦争準備に協力することが,大平洋戦争が始まったばかりの,「重大時局」におけるもっとも大きな憲兵の任務の一つであると考えた.

原は帰り道の自動車の中で,「どうだ,よいものを見たろう原」と吉房[私]に言った. 吉房は,025「そうです.ひじょうに大切であるから,帰ったらすぐ命令を出して,石井部隊への協力をいっそう強化することが必要だと思います.」と言ったら,原は「そうだ,そうやれ.」と即座に命令した.

人間性とか良心とかの一かけらも残っていない日本憲兵にとっては,人道主義や国際法規は,何の痛痒(つうよう)も感じなかった.

九・一八以後,日本帝国主義は,東北7(トンペイ)[満洲]では「厳重処分」といって,現地部隊の判断一つで中国人民を,勝手気儘(かってきまま)に惨殺することが公然とゆるされていた.だが,後から後へとつづく抗日烈士の抗争によって,この「厳重処分」も,一九三七年,表面上,禁止しなければならなかった.

その後,関東軍司令官・植田謙吉8(うえだけんきち),参謀長・東条英機9(とうじょうひでき),軍医・石井四郎(いしいしろう),参謀・山岡道武10(やまおかみちたけ)および関東憲兵隊司令官・田中静壱11(たなかせいいつ),警務部長・梶栄次郎12(かじえいじろう).部員・松浦克己13(まつうらかつみ)らのあいだで,秘密裡に,この「厳重処分」にかわる中国人民虐殺計画が押し進められていた.それは,なるべく簡単に,無制限に,中国人民を細菌培養の生体材料として手に入れることであった.

一九三七年末,軍司令官は「特移扱規定」という秘密命令を出した.その「特移扱」というのは,憲兵隊及び偽満洲国警察が,中国人民を不法に逮捕し,「重罪にあたる者」と決定したならば,裁判をおこなわないで,憲兵隊から石井部隊に移送して,細菌実験材料としてなぶり殺しにすることであった.

一九四一年八月,新たに,関東憲兵隊司令部第三課長として着任した吉房中佐[私]は,大佐に進級するのに差しつかえては困ると,一生懸命「成績をあげる」ことを考えていたが,石井部隊見学を機に,026「特移扱」を増加するにかぎると思いついたのである.そして,それに都合のよい「国境防諜」や,無線探査などを強化する命令を出して,各憲兵隊を督励(とくれい)したばかりでなく,賞金や賞状を出すなど,いろいろ方法をつくして特移扱を増加するよう要求した.

吉房が主任として出した命令にたいし,隷下(れいか)の憲兵隊長は,餌を求めていた豹(ひょう)のように食いついて来た.憲兵は血まなこになった.そして「功績」をあげて,「賞状」「賞金」をもらい,「進級」「栄転」した.

一九四一年,鶏寧14憲兵隊長堀口正雄15(おりぐちままお)は,半載河16(はんさいが)分遣隊長・津田17(つだ)准尉が,将校に進級する手段として,国境付近の善良な中国人民三名を,機密を探知したとデッチ上げたのを,

一九四三年,奉天18憲兵隊特高課長小林喜一19(こばやしきいち)は,日本軍の情況を探知したとの理由をもって逮捕した愛国者二名を,「逆用」しようとしたが,これに応じなかったので,

一九四四年,牡丹江20(ほたんこう)憲兵隊長平木武21(ひらきたけし)は,漢奸の造言によって中共の情報部員であるとの理由で,部下の今別府22(こんべっぷ)少佐が逮捕して,長期の残酷な拷問を加えて歩行できないほどの傷を負わした青年の始末に困ったあげく,それぞれ,特移扱にした.

一九四0年,佳木斯23(チャムス)憲兵隊長であった橘武夫24(たちばなたけお)中佐は,他人よりも早く大佐になる,しっかりした土台をここでつくらねばならぬと考えていた.自分の利益にかけてはあくまでも目さきの利く彼は,この地区が,従来から救国活動の根拠地であることを種に一芝居打とうと考えた.彼は新京25で分隊長をしていたころ宗教関係,とくに「在家理(ザイジャアリ)[信仰中心に集まっている秘密結社]を深く研究していたので,027これから手をつければ相当数の人を反満抗日分子としてデッチ上げに成功すると考え,特務に命じてこの方面の関係者として数十名のブラックリストを作ることができた.

そこで,彼は,一挙にこの数十名の平和な人民を逮捕して,あらゆる拷問を加えて見たが,元より無実のことだから彼が欲するような結果が出るはずはなかった.そこで彼は,はじめから胸の奥に計画していた憲兵の奥の手,「特移扱」を持ち出して,十数名を石井部隊に送った.このいわゆる「優秀な成果」が物を言って,彼は憲兵隊司令部の課長や大佐になる基礎を作った.

一九四四年八月,鶏寧憲兵隊長となった上坪鉄一26(かみつぼてついち)中佐は,国境憲兵隊の「成績」をあげるには,特移扱を最大限に利用することが,もっともよいやり方であることを知り抜いていた.中佐に進級したばかりの彼は,ただ将来の栄達を明け暮れ考えていた.その年の十一月はじめ,ついに彼は,軍事情況を探知し,また,反満抗日運動をおこなったとの理由をデッチ上げて,平陽27に居住する善良な農民張王環28(ちょうおうかん)女史とその父親を中心とする15名を逮捕した.

上坪はこれを何とか「もの」にしなければならんとあせりながら,部下の尻をひっぱたいた. 平陽分隊長曾場29(そば)中尉以下三0名の憲兵は,一ヶ月あまりにわたってロクに食物も与えず,睡眠もとらせず,あらゆる凶悪な拷問を加えたが,何の事実も発見することはできなかった. 上坪はたまりかねて,みずから平陽に行って,直接拷問を指揮した.

張女史はほおが落ち,髪は乱れ,蒼白になった顔は,傷だらけで腫(は)れあがっていたが,ただ,

ソ連邦30に行って,中国の農民の死に瀕する苦しみを訴えただけだ.何が悪いか?」と述べるだけで, 028ほかに一言も発しない.

また,その父親の老人は,顔に血のにじんだ青ぶくれが二つ,痛々しく腫(は)れあがって,人相もまったく変わってしまっているが,

「おれが生まれた中国で,中国人の将来を心配することがなぜ悪いか.どんな理由で逮捕したのか?」と毅然たる態度で言いはなち,確信にみちた底力のある眼光は,鋭く光っていた.

この愛国の情熱に燃える態度にふるえあがった上坪は,もう一ヵ月にもなるからここらでけりをつけなねばならぬと焦(あせ)ったが,これ以上どんな拷問を加えても無駄なことをさとらないわけにはゆかなかった.だが,これほどひどい拷問の傷痕のあるものを釈放するわけにはゆかないし,また,法廷には事実があまりにも薄弱である.いわんや,「一五人を検挙した重大事件」だと司令官に報告した手前からして,どうしてもこの事件を,自分の「成績」としなければならない.それには石井部隊に送るにかぎると考えたあげく,張女史とその父親も含めて,拷問傷の大きなもの六人を「特移扱」にして石井部隊に送り,そのほかは,渋々(しぶしぶ)ながら釈放した.

このように,特移扱をしようとする憲兵隊は,「丸太何本送る.」とか「荷物何個送る」とかいう記号をもって,哈爾賓(ハルビン)憲兵隊に連絡した.

その記号に該当する数の愛国者は,哈爾賓駅で哈爾賓憲兵隊に引きつがれて,さらに哈爾賓特務機関に送られた.そこの留置所で,ふたたび瀕死(ひんし)の拷問を加えられたあげく,深夜特別の輸送自動車で,最後の地獄,石井部隊に送り込まれたのである.

029こうして,憲兵が特移扱にした中国の愛国者は,一九四二年の一ヵ年で,少なくも一五0名以上に達し,そのほか特務機関と偽保安局から送る愛国者を加えて,一九三七年以来,約九年のあいだに,石井部隊で虐殺された愛国者の数は少なくも四,000名におよんでいる.

この四,000名の愛国者は皆,一九四二年一月,私が見に行ったあの石井部隊の一室で,無慚にも殺されて行ったのである.あの時私は,石井と原の後から,オズオズしながらくっついて行った.

石井部隊の玄関から,何回か厚い丈夫な扉を開けてはいって行くようになっている,幅一メートル五0,長さ一五メートルぐらいの廊下の中央から右に行く通路があって,その両側に,鉄格子(てつごうし)のついた留置所がずらりと並んでいた.その中にペストを感染さすところがあった.

その第一番目の留置場では,中国の労働者風の,薄紺の服を着た四0歳前後の男があお向けに寝たままペストを感染させられていた.薄暗い光線を受けて,目をつぶったままの青白い顔は,蝋細工(ろうざいく)のようだった.動けないように縛りつけてあるのか薬(くすり)でねむらしてあるのか分からないが,ちょうど屍室の死体のようであった.

その隣の留置所には三五,六歳になる,骨と皮に痩せてしまった男が,後手に縛られてすわっていた.

ゴム製の手袋と外皮と靴をつけてマスクした軍医が,その男の,一握りほどしかない股(もも)を押さえつけて,蚤(のみ)に食いつかせてペストを感染させていた.痩せた肩から落ちそうになった,ボロボロの030薄い破れ服の間から見える骸骨のような胸には,直径一寸近くの潰瘍(かいよう)が五つ,痛そうにカサブタを作って,胸いっぱい赤く色どっていた.

「これはペスト菌を感染さした痕(あと)ですよ」と石井が説明した.

「ペスト患者の特徴は足元がふらつくことですよ」と石井はつけ加えた.

軍医に革(かわ)の鞭でひっぱたかれて立ちあがった男は,二,三歩フラフラッと歩いたかと思うと,枯木のようにドターンと倒れて,ウーッと長いうめきをあげた.

廊下は突き当たってすぐ右に曲がった.曲がったすぐのところに,手錠と足錠をかけられた三五,六歳の,農民風の三人の男が,両膝を立てて,その上に両腕を置いて座(すわ)らされていた.三人とも痩せ衰えているが,憎悪に燃え立つ六つの瞳は,射るように私たちを見上げていた.

その目は薄暗い窓の明かりを受けて,鬼気をともなって私に迫った.私は背中に冷水を浴びたように戦(おのの)いた.

「これは凍傷実験をやったのです.」と石井が説明した.五本の指は第二関節から先が腐れ落ちて,その切れたところは,赤色と乳白色が入り混(まじ)ってドロドロになって腐れ,ただれていた.これは凍傷後,零度の水と体温ぐらいの湯につけて処置して,その結果を実験したのである.

無限の痛恨と堪えがたい痛みをこらえて,両手を抱えるようにして坐っている三人の目は,いまにも飛びかかりそうな形相で石井をにらみすえていた.

廊下を三メートルぐらい行って左に曲がると,すぐ解剖室の入口に出た.三人の軍医が頭を031すりつけて何かのぞき込んでいたが,石井を見ていっせいに敬礼をした.

幅三メートルぐらいの室の真ん中に大きな解剖台があり,その上に人間の胴体が置かれていて,肋骨が一本一本はっきりと見え,血がポタリポタリ滴ってドス黒く光っていた.頭蓋骨が断ち割られて,脳"みそ"が出たままの頭が,胴体の右側に転がっており,バラバラに切断された手と足は,室の右隅に放(ほう)り投げてあった.生臭(なまぐさ)い臭いがプンと鼻をついた.

「解剖した死体はあの竈(かまど)に入れて焼いてしまいます.臭(にお)いがしないように,煙突はとくに高くしてあります.この解剖室で働いていた軍医で,気違いになったのがありますよ.」と,石井が冷ややかな笑いを浮かべて説明した.

こうして,四,000人の愛国者は,あるものはコレラ,ペスト,チフス,赤痢その他いっさいの細菌を植えつけられて殺され,あるものは生きたまま解剖され,その他のものは,凍傷実験をやられたり,生きたまま神経を抜きとられたり,トーチカ爆破の実験に使われて爆殺されたり,小銃弾傷の実験に使われて銃殺されたり,毒薬(どくやく)の実験で毒殺されるなど,この世において,これ以上ありえないあらゆる苦痛を強いられて殺されていった.

あの高い煙突から,毎日毎夜,白い煙が大空に吐(は)き出されてゆく.あの白い煙の中に,日本帝国主義にたいする無限の憎しみと恨みをこめて倒れていった愛国烈士の,無言の厳粛な抗議がひびいている.あの白い煙は中国人民の勝利と人類の幸福を築く尊い礎石となって,人類の歴史の上に永遠に日本帝国主義の罪悪を刻(きざ)みつけている.


032略歴

私は一八九七年七月二十六日,長崎31県諌早32市久山町九九一番地に生まれ,一九二一年八月陸軍士官学校卒業,同年十月騎兵少尉となり騎兵第六連隊「熊本」付,一九三二年五月憲兵に転じ熊本憲兵隊本部付,朝鮮33平安北34道江界志共隊長,「その間一九三二年六月より十二月まで中国輯安35臨江36侵略の朝鮮軍国境守備隊配属憲兵長」久留米37憲兵隊本部付,東京38憲兵司令部部員,同副官,関東39憲兵隊司令部部員「第三課長」,大連40憲兵隊長,関東憲兵隊司令部副官をへて,一九四四年八月平壌41憲兵隊長となり敗戦にいたりました.

本件は関東憲兵司令部部員「第三課長」時代のものであります.

 

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1 Yoshifusa Torao, Oberstleutnant,  Angehöriger der Einheit 731, im Juni 1956 in Shenyang zu 14 Jahren verurteilt, im Mai  1957 entlassen, 1968 gest.
2 meist ハルピン od.  ハルビン geschrieben: Harbin, Stadt nördlich von Xinjing, Hauptstadt der Provinz Heilongjiang
3 Pingfang, 20 km S von Harbin, heute ein Bezirk von Harbin, Bahnstation an der Labang-Bahnlinie
4 Labang, Bahnlinie
5 Ishii Shirô, 1892-1959; Generalleutnant in der Einheit 731, verantwortlich für bakteriologische Experimente und Menschenversuche.
6 Hara Mamoru, 関東Guandong憲兵隊司令官
7 Dongbei -- die drei nordöstlichen Provinzen (遼寧省Liaoning・吉林省Jilin・黒竜江省Heilongjiang), d.h. die Mandschurei; auch: Dongsan東三.
8 Ueda Kenkichi, 1875-1962, General der Feldarmee
9 Tôjô Hideki, 1884-1948, ab 1940 Heeresminister, 1941þ44 Ministerpräsident, 1944 Generalstabschef ; im Tokyo-Prozeß zum Tode verurteilt.
10 Yamaoka Michitake, Stabsoffizier 参謀
11 Tanaka Seiitsu, 関東Guandong憲兵隊司令官
12 Kajiei Jirô, 警務部長
13 Matsuura Katsumi, 部員
14 Jining --- Vermutlich ist gemeint: Jìníng (濟寧), bezirksfreie Stadt in der ostchinesischen Provinz Shandong.
15 Origuchi Mamao, 憲兵隊長 von Jining
16 Banzaihe, Fluß
17 Tsuda, Oberfeldwebel, 半載河分遣隊長
18 Fengtian, früherer Name der Provinz Liaoning, wurde unter japanischer Herrschaft wiederbelebt, nach 1945 abgeschafft.
19 Kobayashi Kiichi, Major der Geheimpolizei von Fengtian
20 Mudanjiang, bezirksfreie Stadt im Südosten der Provinz Heilongjiang
21 Hiraki Takeshi, 牡丹江Mudanjiang憲兵隊長
22 Jin Biefu, Major
23 Jiamusi Bezirksfreie Stadt in der Provinz Heilongjiang und deren wirtschaftliches und kulturelles Zentrum, "östlichste Stadt Chinas"
24 Tachibana Takeo, Oberstleutnant, 佳木斯憲兵隊長
25 Xinjing, Hauptstadt der Mandschurei (1932-1945); siehe 長春 Changchun
26 Kamitsubo Tetsukazu, Oberstleutnant, 憲兵隊長 von Jining bzw. des Stadtbezirks 街地区 Siping
27 Pingyang --- Verwaltungsbezirk in Wenzhou (温州)
28 Zhang Wanghuan, 農民張王環女史
29 Soba, Oberleutnant, 平陽分隊長
30 Die Sowjetunion
31 Nagasaki, japanische Stadt und Präfektur
32 Isahaya, Präfektur Nagasaki
33 Korea
34 Pyeun(g)an (P'yŏngan) --- Provinz in Nordkorea. Sie entstand 1896 als Folge der Teilung der Provinz P'yŏngan-do in P'yŏngan-bukto und P'yŏngan-namdo. Die Hauptstadt der Provinz ist Sinŭiju.
35 Jian --- Ji'an Stadt in der Jilin-Provinz, am Yalu Fluß gelegen; historische Stadt aus dem Koguryo-Reich.
36 Linjiang 1. ... een stad in de provincie Jilin in China. Linjiang ligt in de prefectuur Baishan. De stad heeft meer dan 100.000 inwoners. Linjiang is ook een arrondissement. 2. Kreis in Tongua (5-4-16)
37 Kurume, Präfektur Shizuoka
38 Tôkyô
39 Guandong, alte Provinz
40 Dalian (jap. Dairen), früher Lüda oder Lüta; eine Hafenstadt in Liaoning
41 Pjöngjang