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偽りの成果のため青年を水責め
百円札

金田珠寿1


一九四三年,それは私が帽児山2鉄道警護隊警察係主任巡監の時だった.

太平洋戦争を発動してから戦略物資の後方基地「満州国」の鉄道安全輪送は重要な問題で,哈爾浜3鉄道警護本隊長川村進4も力瘤を入れてその「重大使命」[彼がよく口にしていた]を達成するため,鉄道諜報謀略対策がことさらに強調されていた.鉄道従事員,鉄道近接者目あての偵諜を鵜の目鷹の目になってはい上がる機会を狙っていた.

六月とはいえ,北満の朝は肌寒い. 天窓一つよりない薄暗い留置場の隅っこに,四,五人の留置人が体を寄せ合ってうずくまっている.いつもの癖で,格子の間からジロリ一瞥した. 瞬間私の冷たい視線と合って,スーッと顔をたれた青白い青年がいる. 「フンこやつ新入りだな,どうせ阿片か窃盗だろう」と扉を押した.

088私を追いかけるようについてきた宿直の竹光5巡警補が「昨夜,玉泉6分所から送ってきたのを一人ほうりこんで置いたのですが……」と,差し出す同行報告書に目を通しながら「ウムあれかも知れない」,今見た青年の青白い顔がチラリ頭をかすめる.

宿直の申し送りだけ早く済ませて家に帰りたい一心の竹光巡警補は,口早に「実は玉泉鎌田7分所長が下車客の検問検察中にボロボロの服を着てるのに品の良い顔をしてるので,変だと思って身体検査をしたら,靴の中に百円札一枚を隠していたんで,こいつ臭いと思って捕まえたのだが,巡警の話によると,以前採石場で見かけた事がある」といった.

竹光巡警補の帰った後,同行報告書と百円札を見比べながら,ウム,こやつ叩いたら案外物になるかも知れないと思った.警察主任になってからもう一年になるのに,窃盗や阿片ばかりでうだつがあがらないばかりか,最近になって玉泉,阿城8と三回もつづけざまに列車の車軸覆箱に砂を入れたり,車軸箱の油布を抜き取った悪質の運行妨害が発生し,こいつは確かに謀略だと見こんで,特務を総動員して現場附近の住宅や家屋の一斉検査はもちろん,通行人まで捕まえて,三日も四日もやっきになって捜査したが,手がかり一つ得ず,隊長から怒鳴りつけられ,本部の警察科長にまで「手ぬるい手ぬるい」って,電話でギャンギャン責任を追求され,まるっきり黒星つづきだった. よし是が非でもこれを大きな事件にして,帽児山の警察主任はやっぱりやり手だ,腕が切れると言われたい欲望が,頭の中をかけめぐった.

そうだそういやぁ玉泉の採石線の事故に関係があるかも知れない.なぁにそうなくったって,この089際言わせさえすりゃあこっちのもんだ. 証拠なんかどんなにでも作れる. だとすりゃ通訳は馮玉より戴春元9が良い.あれは俺の日の色一つで殴りもすれば蹴りもする. おどしたりすかしたりするのも世馴れてるし,荒仕事にゃあ俺の呼吸を呑みこんでいる戴春元に限る.何せ今度のやつぁ,並大抵の事じゃあ上首尾とはゆくまい. 叩きあげて物にするにはみんなの帰った後が都合が良い. 一応引っぱり出して顔を見るか? それともほっとくか?あれこれ思案したが,結局夜まで手をつけないことに決めた. なんとなしに一日中落ち着かないままに,時計はもう五時を指していた.


八時をちょっと過ぎた庁舎はガランとして,時々裏で警備犬のうなり声が聞こえてくる. 戴春元は私の出てくるのを待っていた.

戴春元すぐやろう,引っぱり出せよ」と言い残して取り調べ室に入った. 机一つきりない三畳程の狭い取り調べ室に腰を下ろした. 私はわざと威厳をつくるように,ゆっくりと同行報告書にもう一度目を通した. ……本籍 不詳 住所 哈爾浜市新安埠10劉占武11 二十六歳…… とその時,開けっ放しになっていた扉の外から「いいですか?」と言う声と一緒に,戴春元が青年の背中をグイと押した.

着物についた留置場特有の異臭が韮の臭いにまじって,狭い部屋でムンとする.通訳は傍らの椅子に座りながら「跪下」,棘のある低い声だ. 青年は瞬間ためらっていたが,二度目の「跪下」で机越しに私の顔をチラリと見て,おずおず座った. こやつこんな所にきたのは初めてなのかな. それにしても頭を下げることも知らねえ,根っからの苦力じゃあねえか.こんな奴にゃあ高飛車に出る方が手ッ090取り早いと思ったが,まぁ待てと気を取り直して,ゆっくりとした口調で通訳をうながした.

「名前は?」

劉占武

「商売は何か?」

「苦力」

小さな声だがひびきがある.

「どこでやっているのか?」

哈爾浜新安埠

玉泉にいたことがあるだろう」 ちょっといぶかしげな顔をしていたが「採石場で一年程働いたことがある」

「いつ頃までいたんだ」

「二月位前まで貨車の積み込みをやっていた」

「じゃあ車軸箱を知ってるだろう?」頭をかしげてしばらく考えていたが,思い出したようにポツリと「知っている」

「砂利が入ったらどんなになるか?」 こやつ脈があるな,と突っ込んでみた.青年はしばらく考えていたが,なぜこんなことを聞くのかといった顔の軽い調子で,

「車軸が焼けて使えなくなると把頭が言っていた」 シメタと思ったが,わざとそらして,「なぜ採石場をやめたんだ?」

091「とても食っていけないんでやめた」 突っ放すように言うが,山東訛がはっきりしている.

二カ月前と言やぁ,事故の頃にいたはずだ.第一この時期にせっかくありついたのをやめるのがおかしい,それにまた,なんでやって来やがったんだ. こりやぁ面白い事になるかも知れない,とはやる気持ちを抑えて玉泉には何しに来たのか?」

「米を買いに来た」 予期しない答えに

「何,米!」 引きつった私の声に「子供が病気なんで,食わせてやるんです」 折った膝を引きしめて伸び上がるように答える青年の眼が大きく澄んでいる. ブッキラ棒だが,スラスラと答えられ,拍子抜けした気持ちは,却って腹立たしくいらいらする.私は単刀直入に切りこんだ方が得策だと考え,青年の鼻先に百円札をつきつけて「こいつはどこから手に入れたんだ」高飛車に負っかぶせた.

「働いた金です」

「苦力にこんな金がかせげるかい!」 吐きすてる調子だった.

……」 青年はうつむいて答えない. 一秒,二秒,三秒いきなりパンと強く机を叩いた.

「誰から貰ったんだ」 怒気を含めて浴びせかけた.ゆっくり顔をあげた青年は,にらみつけている私を真正面から見ながら,

阿城玉泉から卵やニンニクを哈爾浜に持って行って儲けた金だ.誰にも貰ったのではない」 その落ち着いた口調に,

「馬鹿野郎!警護隊が駅にいて卵一つだって持ち出せると思っているのか」 実際,警護隊の事など092まるっきり気にとめていない青年の言葉が,無性にしゃくにさわった.

「じゃあなんで隠さなけりゃあならねえんだ!」 眉元に縦じわを寄せて怒鳴りつけた. 青年は顔をそむけて答えようとはしない.食いさがるのはここだと考えたが,さっきから抑えつけていた気持ちがグッときて,エエイ!面倒くさい,痛い目に合わせた方が早道だと,今までの訊問の経験からそう決めた時,いち早く見て取った戴春元は,もう青年の右腕をひっつかんで,机の下に広げさせ,拷問のベルトを振りかぶっていた.

ヨシ!やれ,私が言い終わるか終わらないうちに,四つ五つ力任せに殴りつけた.ベルトの音か硝子窓をふるわせる. ピシリピシリとそのたびに,体を縮めるように歯を食いしばってこらえている膝の拳にグッと力がこもり,広い額ににじむ油汗が,電燈にギラギラする.私は少しは効き目があったろうと通訳を制して「オイ!素直に言やぁ痛い目にもあわねえんだ」かすかーにうなずいたと思ったが,それは私の欲目からそう見えただけだった.

強情な奴だ,ヨシ!腹立たしさに,立ち上がりざま通訳の持っていたベルトをグイと手にして,ゆっくり一歩,二歩,三歩,青年に迫って行った.小脇のベルトが不気味に振れて,まるで蛇のような沈黙の威嚇だ.ジリジリ壁際まで後ずさりして行く青年の光る眼が,執拗に迫る私の手元を凝視している.その眼に心のあせりを見すかされたようなひけ目を感じたが,それをかなぐりすてるように,青年の横顔を右,左と続けざまにピシリピシリと殴りつけた. 「ウム」と,噛みしめた唇から,スーッと一筋,血がコンクリートの土間を赤く染めた. 赤紫に腫れ上がった顔が,苦痛にひきゆがんで,093窪んだ眠だけが刺すようだつた.

「エイ糞!」 思いざま横なぐりしたベルトを避けた青年の口から,パッと一滴,私のズボンのすそに赤く飛んだ瞬間「畜生」といきり立った私は,血に狂ったように襲いかかり,力一杯腰を蹴りあげ,アッ!と横倒しになった首筋を踏み押さえて,四つ這いにさえた.振り下ろすベルトが臀の肉に吸いつくようだ. 通訳は青年の頭をグッと土間にすりつけている.

青年の足がいきなり私の足を横に払った. 「野郎反抗するか!」私は息もつがずに目茶苦茶に殴りつづけた. 吐き出す血が土間に広がって,赤黒く生臭い. 青年の呼吸は荒いが,結んだ口は開かない.

「エエ!君,やろう」 水責めの意味だった. ベルトを手にしたまま荒々しく取り調べ室を出た.

その足音に,何事であろうかと扉を半明開きにしてのぞいた直轄の劉巡長に巡長お前もこい」 叱りつけるように言いつけた.

青年は背中をグイとこずかれて,風呂場の敷居に蹴つまずいてバッタリ前にのめった. 「馬鹿野郎」 腕のある罵声と一緒に,通訳の手が伸びて,首筋をつかんで引きたてた. 憎しみに燃える眼が,通訳の顔に食い入っている.眼のやり場に困った通訳が,それを払いのけるように,青年の頬をいきなりパンと殴りつけた.

青年がグッと体をのり出して,腹の底から「你是中国人麽?」聞きとれない程の低さだが,力がこもっている. タヂタヂとなった戴春元が,私の顔をチラリ見た.振り返った私の視線に合って,ハッと思い切ったように青年の向こうずねを蹴りあげた. 腰をかがめた首筋をムキになって押さえつけて094いる.

「フン勝手にほざけ」と思った私は,協和服をぬいで,劉巡長に手渡しながら,素っ裸にするんだ」怒鳴りつけ,シャツの裾をまくりあげた. むき出しになった臀の肉に,ベルトの痕が薄黒く浮き上がっている.がんじがらめに長椅子に縛りつけられた青年は,ジッと動かない. 握りしめた両の拳が長椅子の下でワナワナと震えていた. 青年のひきゆがんだ口からいきなり嘲笑するような「你是人麽」「糞!」水道のゴムホースの口を指先で押さえ,サッと体中一杯ブッかけた.

アッ!と小さな声をあげた体が縮まって,つやのなくなった皮膚が粟立った.

すかさず「どうか石山じゃ何をしていたんだ」「我是苦力実際」実際に力がこもっている.

「苦力の外に何をやっていたんだ」

「我是苦力」 声は低いが,腹の底から落ち着いていた.

「苦力が百円札を持ってるか,何で隠さなけりゃならねえんだ」

……」 青年は黙って眼をとじてしまった. そうした青年のしぐさが,無性にシャクにさわって「ヨシ!思いざま呑ませろ」 私は怒鳴った.

押しあてた濡れ雑巾が口と鼻にすいついてはなれない.青年の全身が真っ赤に充血した. あるったけの力を振りしぼってくねらす肩と腰に,濡れた麻縄が生々しく食いこむ. 息苦しさにこらえている呼吸が反って,大きくズーズーと音を立てて吸いこんでゆく.横向きになった雑巾の間から,黄色い胃液に混じった高梁を吐き出した. ゆがんだ顔中,ぬるぬるとして鼻をつく生酸っぱい臭気が,風呂場095一杯に漂った.

その時青年が顔をあげて何か言った.私は「シメタ」と心の中で思いながら,それでもわざとゆっくり雑巾を取って,もう一度「どうかい,本当の事を言う気になったか?」 「巡警俺は何を言ったら良いのか?」 私など全然眼中にない、さげ切っている青年の言葉に 「馬鹿野郎ふざけるない」 引きつった豚の悲鳴のような声で怒鳴りつけた.

逆上している私には,何かつづけて言っている青年の言葉など耳に入るはずはなかった.手にしていた雑巾を顔に叩きつけ 呑めるだけ呑んでみろ」 ならず者根性が水道の水をやけに注ぎかけた. よくこんなに力があると思われる程,縛られた長椅子をガタガタさせている.いつの間にか劉巡長は出て行って,入口の扉がピタリと閉められていた.

「早く言った方がいいぜ,そうすりゃ女房子供に会えるんだしさ……お前は女房が可愛くねえのか?」 耳元で言う通訳のにやりとした面が,私の眼に映る. 青年が何かののしったが,雑巾で声にならない. 通訳をにらみつけている眼が,憤りに燃えている.私を見上げた通訳の顔がこわばっていた.

部下の前で甲斐性のない正体を見られては,といらいらしている私は,こんな奴,一人位殺したってと思ったが,いやこいつは殺したんじゃあなんにもならねえ,大物にたたき上げて今までの黒星をご破算にするんだ.よしこうなったら根比べだと決めた時,青年がフーッと大きく息をした.

君もう一辺やり直しだ」 思うようにならないムカムカした気持ちで,ゴムホースを土間にたたきつけた. 「こいつ性こりもなく良く呑みやがったもんだ,俺が代わろう」言うなり,私は片足で096青年の腹を力一杯踏みつけた.

椅子の下の拳が小刻みに震えている.細々とした呼吸だが,見開いた眼が憤りに燃えていた.

君もうちょっと押しあげてみろや」 入れ替わった瞬間,グッと頭を起こして憎しみをこめた底力のある声で「リーベンクイ……」かっ,となった私は,やにわにベルトをひつつかんで,顔といわず腹といわず,滅多打ちに殴りつけた. ベルトの音が風呂場一杯にビンビンする.あっけに取られている戴春元に,何をボヤボヤしているんだ!貴様,かそんなだから,こいつがつけあがるんだ,そんな事で通訳がつとまるか」一気に怒鳴りつけた.声がかすれていらだつばかりだ. 「水だ!水だ!」 わめき立てる私に,ハッとした通訳が,ゆるんだ肩先の麻縄を肉に切れこむ程締めつけている.

畜生! 私はもう言う言わないは問題ではなかった.ただ,がむしゃらに苦しめ抜いて青年の反抗を叩きつぶしたい一心だけだった.

顔に叩きつけた雑巾が,ダニのように吸いついてはなれない.ズーズーと吸いこむ水の音が段々途切れ途切れだが,憎しみににらみ返してくる眼が,今にも飛び出してくるかのように光っている. 「畜生!まだ音をあげやがらねえ」 いらいらした気持ちで青年の横腹を蹴りあげた. 噛みしめた青年の歯がギリギリ音をたてている. 「シャクにさわる奴だ」と思った瞬間,ククク!と,三,四回つづけざまに呼吸して顔を横に傾けた.

君今夜はこれでやめとこうや」 力ない声だった. ふくれあがった腹をこずきあげている通訳に ,いい加減でいいよ」 素っ気なくうながした. 吐き出した水にどす黒い血の塊が混じっていた.

097青年は横壁を伝わってようやく立ち上がったが,崩れるように土間に座り込んでしまった. 思うつぼにはまらなかった腹立たしさに,扉を蹴りあけて巡長ちょっと来い」大声を張りあげた. 気のない返事がかすかに聞こえた. 君二人してほうりこんでおけよ」 言い残して風呂場を出た私は,ジッとにらみ返してきた青年の憎しみに燃える眼に,背後から射抜かれているようで,冷たいものが背筋を走った.

ホッと事務室に飛びこんで一服つけている時,廊下を引きずる足音が乱れていたが,やがて,陰惨な音が高い廊下の天井に不気味に響いた.頼んでおいた夜食の餃子にコップ酒を呑みながら君今度の奴はながくかかるかも知れねえぜ,その気になって腰をすえるんだな」 自分自身の心のあせりを言い聞かせていた. 帰ろうとする戴春元に「ああ明日は十時に出て来ればいいからな」 さっき怒鳴りつけたので,機嫌をとって,またうまく利用することを考えていた.

通訳を帰してから「あいつどうしているかな,少しやり過ぎたかも知れない」と,思わず留置場の方に靴音をしのばせて歩いて行った. 留置場看守があわてた恰好で敬礼して,何か言おうとするのを右手で制して,格子の間からのぞいて見た.仰向けになっている青年のうめき声が,暗い留置場の天井にうつろに響いている. 「どこまでも大袈裟な野郎だ」と思いながら顔を寄せた.

ボロ毛布を着せかけて,頭と両脇から三人の留置人が身体をピッタリすり寄せて,何か小声で話している.

かけられた毛布の上から昨日貨物を抜き取ったと言って叩きあげた国際運輸の李高山,バクチ098ばかりして仕事をしないと言うので,阿城工務局からいためつけてくれと委任され,もう十日もほうりこんでいる,ならず者みたいな二人の線路手,まるでろくでなしだと思っていた三人の,日焼けで真っ黒になった腕が,腹と胸を静かにさすっている.

看守の巡警がバツの悪そうな顔をして,そっと遠くへはなれて行った.巡警はこの民族の愛情の前に威圧され,制することができずにいたのだ.

私はしばらくこの様子を見ていたが,チェッ!あれだけ苦しめたってなんにもならねえ,こいつらぁみんなグルなんだと思って「何をやってるんだ寝ろ」いきなり怒鳴りつけた. 私の怒声で振り向いた六ツの眼が,薄暗い留置場の中からジッとにらみつけている.その三ツの口から「鬼子!」と叫ばれるような圧迫を感じ,たじたじとなった. 節くれだった腕は相変わらず動いている.私はその圧迫を振り切るように「ヤイ!寝るんだ」怒声と一緒に格子を蹴った.

ゆっりく立ち上がった三人は,青年からはなれて横になった.青年のうめき声が,いやに私の耳に響いてくる. 「馬鹿野郎,何をうなってやぁがるんだ」 酒の勢いで,格子を蹴ってがなりたてる私などには振り向こうとせず,三人がのり出すようにして青年をみつめている.

このこそ泥までなめていやがる,ムキになった私は「よしあいつ一人だけにしてやれ」 プリプリ直轄室の扉を押しあけた. あわてて立ち上がった劉巡長に「さっきのを一人だけにしろ」不機嫌に言いつけた. 私の顔をチラリ見あげたが,なんにも言わずに鍵を持って歩き出すのを追っかけるように「ちょっとでも変わったことがあったら,宿直を起こすんだぜ」 廊下の角をまわるのを見済ませて099警護隊を出た.


その夜ふけの三時頃だった.まだまんじりとしないままに,列車脱線の報告を受けて,充血した眼をこすりながら原因調査のために小嶺12駅に出張した.六時過ぎ現場についたが,間もなく警察係の渡辺13巡警補から「留置人が死んだ」という報告を受け取った瞬間「シマッタ!折角ころがりこんだのにやり過ぎたかな」と,青年の死んだことを直感した.事故は単純な原因だったので,後のしまつを分所長に任せて,ちょうど着いていた単貨物列車に乗りこんだ. がたつく車掌車の中で,誰にも言えない腹立たしさでやけに煙草をのんだ.

帽児山に着いたのは昼に近かった.私は真っ直ぐ隊長室の扉を叩いた. いらいらする気持ちを抑える心算で小嶺は機関区の責任事故にしてきました」と報告した. 遠藤14隊長はそんな事はどうでもいいといった顔で,回転椅子にそり返ったまま,鷲のような鋭い眼をギョロリとさせて小嶺はいいとして,なぜ一言,言わなかったのかい,折角の奴も実にうかつだよ」 不機嫌な声がケンを含んでいる. こっちの腹の中を見られたような思いがしたが「ハア,一応叩いてと思ったもんで」 「フン」 鼻の先で返事をしている.こんな時の癖で,眉毛を神経質にピクピクさせていた.

「少しゃあ手がかりがあったのかい」 なんにもできてないのだろうとせせら笑っている顔だ.また一本やられたと思ったが,どうにも仕方がない.

「これと言ったものは皆目ですが,玉泉には阿城から当分の間特務を一名増員します」

100「ウンそれが良かろう」

「で……死体は」

「こっちで片づけるのも業腹だから行路病者って事にして,村公所に引き渡したよ」 関東庁叩きあげの鬼刑事は,こんな事には馴れたものだった.

「そうですか」

「その方がうるさくなくて良いだろう.詳しい事は渡辺に聞けよ」 素っ気ない,おっかぶせてくる口調だった.

「じゃあ渡辺に……」 と立ち上がった私に 「これからもよくある事だが,殺したんじゃあ,あぶ蜂取らずだからな」.浴びせられた皮肉にムカッとしたが「ハア,良く気をつけてやります」 頭を下げて扉を閉めた. 渡辺も戴春元も昼食に帰らないでいた.

「ご苦労さんでした」 それには返事もしないで,書類から同行報告書を取り出し,ベリッベリッと引き裂いた.ふと「日本鬼子」とののしった青年の,憎悪をこめた体ごとの反抗を思い出した.

畜生!舌打ちするなり報告書をグシャツと丸めて,紙屑に叩きつけた.その形相に渡辺も戴春元もあっけにとられていた. 「どうだい,えんぎ直しに一杯いこう」 わざとくだけた調子で,例の百円札をポケットにねじこんで先に立った. そうした私の心に,よし今度こそは,というあせりと野心が,ズボンのすその血のしみのようにいつまでも消えなかった.

 

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1 Kaneda Tamanaga, 警察係主任巡監
2 Maoershan, Berg in Heilongjiang
3 meist ハルピン od.  ハルビン geschrieben: Harbin, Stadt nördlich von Xinjing, Hauptstadt der Provinz Heilongjiang
4 Kawamura Susumu, 警護本隊長 der Harbin-Eisenbahn
5 Takemitsu, 巡警補
6 Yuquan
7 Kamata, Leiter einer Abteilung in Yuquan
8 Acheng (Echeng)
9 Dai Chunyuan, Dolmetscher
10 Xinanbu, Ort in Harbin
11 Liu Zhanwu
12 Xiaoling, Bahnstation
13 Watanabe, 巡警補
14 Endô, 隊長