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第二部部隊後方の謀略

080

百数十人を残したままハッチにふた
(蒸し焼き)

五十嵐勇1


[略歴]

本籍地 山形2県東田川3

出身階級 中農

最終学校歴 中等学校十一年

旧所属 関東4庁讐察部特高課

階級 巡査部長

年齢 五十一歳


五月の澄みきった青空,今日は珍しく風もなく,白い綿のような雲がゆるやかに東北5に流れて行き,その下を真っ黒な煙が,太く長く白塔の方になびいている.三十メートルもある管理所ボイラー室の煙突から,絶え間なく吐き出る煙だ.

今,中国人民は貧困と侮辱の中から不屈の闘争により,自らを解放し,あの悲惨な生活を二度と繰り返すまい,また今このような境遇にある,被植民地,被圧迫人民を一日も早くその生活から解放するために,全人類の平和と幸福のために,六億人民が一致団結して,社会主義社会の建設に全力を上げて闘っている.この時に重・軽工業の建設と生産の増大に,また海上,内河,陸上運輸の発展のために一塊の石炭でも欲しい,この重要な時期に,私達の生活のために消費されている,その貴い煙だ.

しかし,この太煙で私は何をしたか…….

081十五年前,一九三九年五月の中頃だった.当時私は大連6水上警察署,特高外事係船舶警察員として勤務中,中国人巡捕鄒徳福7とともに,係主任警部加藤広治8の命で,阿波国9兄弟汽船株式会社所有第十六共同丸,約二千五百トンに大連より芝罘10,威海衛11,青島12間の往復航路の警乗員として乗船出発し,青島より復航の際の事であった.

銅鑼の音に岸壁を離れた同船は,静かな波を蹴ってエンジンの音も軽く次第にスピードを加え,大西鎮13岬もすぎ,遠く松の緑に覆われた山から海岸にかけて青,紅,クリーム色等々の家が立ち並ぶ,青島市街の沖を通り,海尖14岬から涝山15近くになった頃は,出船の時のざわめきも静かになり,四、五人の中国水夫が水の噴き出るホースを操りながらデッキの掃除をしていた.


午後五時出航してからもう二時間もなるので,私は一,三一等船客約二十名だけでも臨検を済まそうと思い,船室に帰り,休憩していた. 鄒巡捕にその事を言い渡し,四等船客約二百二十名は明朝臨検しよう,と打ち合わせながら鞄から用紙を出していた時,突然一声,また一声,長々吹き鳴らす汽笛を聞いて,間もなく三,四人の船員がデッキを船尾に駈けて行くのが,厚い硝子の丸窓から見えた.気にも止めず,鞄を寝台に放り,巡捕とともに出ょうとした所に,村田16事務長があわただしく駈け込んできて「二番船倉に積み込んだ黄燐マッチから発火して,火災を起こしてます.四等船客が騒ぎ出しましたからお願いします」と言い捨てて出て行った.

鄒巡捕に現場に行き,状況を見るように言い,私は貨物状況と原因を聞くため,船長に会うべく082デッキに出たが,船はそのまま走り続けているし,船火事なんて大した事はないと思いながら,ブリッジに昇った.

船長は航海日誌に何か記入していたが,私は,青島に引き返すかどうか,救助無電を打ったかどうか,を尋ねた.

宮村17船長は「電報は打ちましたが,船は極力消火に努め,航行を続けます」と言った. その時,柳田18一等運転手が駈け上がってきて「船長二番船倉全部に火がまわり,四等船客のハッチを開けておいたら,さらに火の勢いが強くなるから,あのハッチも閉めたらどうですか」と意見を言っている.

船長は緊張した顔で「船倉には何人位残っているか,まだ全部は出ていないだろう」「まだ半分位,百人以上は残っていると思いますが,すぐ隣の機関部が危険ですから,早くハッチを密閉して水を入れなければ駄目です」と応答しているのを聞いて,初めて危険な状態にある事を知り,慌てて後甲板に急いだ.

この二番船倉は後部でその前半分を仕切り貨物を満載し,後半分の三一段船倉にアンペラ一枚敷き,青島,大連間の中国人四等船客,約二百二十名に,二晩三日間の客室としたのであり,この四等船客は山東,河北19地方が日本帝国主義の侵略と封建制地主の圧迫下より生きんがため,生活を求めて青島港から大連経由で遠く東北各地に職を探して渡航する人達であった.

後甲板はハッチの上も舷側の通路も無い位,山のように布団梱包や家具類等の荷物が積んであり,その間から船倉からの黒煙が吹き出ている.その貨物の中から自分の荷物を探す人々が一面に群が083り押し合っている.

開かれてある昇降口からも渦巻く煙が出るその中から,子供が父を呼びながら,嬰児を抱いた婦人が夫を呼びながら,救助を求めながら老婦人が,ともに叫びつつ,あえぎながら出てくるのを,数名の年若い労働者が引き上げているのを見ていた私の所に宮村船長が来て「日本人船員であのハッチを閉鎖します.船客は半数位残っているが,隣の機関部が危険ですから……」と言ったので,百名以上の船客を燃えるこの船倉とその運命をともにさせんとする計画をハッキリと知った.


その時,柳田一等運転手以下六,七名の日本人船員が重いハッチの蓋板を一枚,一枚運び,閉鎖し始めた.足場の悪い荷物の山の上,しかも群がる人波の中を,四メートルもある蓋板を運ぶ人手が足りない. 私もじっとしてはおれず,手伝うために積んである所に行き,船員とともに一枚ずつ運んだ.

ハッチの中からは,なお人群が激しく泣き叫びながら出てくる.また,肉親を探しに再び入って行く者もいる. 次第にハッチはせまくなって行く,その中から激しい熱気と黒煙が吹き出してくる.荷物を探しながらひしめき合っている人達に蓋板をかつぐ私達が突き当たり,よろめくのを力を入れてやっと板を降ろし,蓋しようとしたその板に,中から出てくる人達を引き上げていた五,六名の頑強な労働者の,汗のにじんだ黒い手が伸びて来でかかったとたん,板は無造作に奪い取られ,海中に放り込まれた.

私は「やりゃあがったなー,生意気なッ」と思って彼等をにらみつけたと同時に,その五,六人の084労働者の憎しみに燃え上がる鋭い視線が私に注がれているのとカチ合った.

私は「何をッ,今に見ていやがれてこの野郎がッ」と,押さえ切れない気持ちから,再び積んである蓋板の所へ行き,二人の船員とともに一枚を担ぎ上げ,ハッチの傍らに降ろした時は,前よりもさらに多くの労働者が立ちふさがり,しかも降ろした蓋板に彼等の黒い手がかかったと思うと,蓋板は波紋を画いた水面に白泡を立てて浮いていた.

私は「野郎ッ,またやりゃあがったなー」と思って,にらみまわすと,その労働者と,さらに周囲から憤怒に燃える幾十,幾百もの憎悪の視線が注がれているのに気がついた.他の船員達も次々と蓋板を海中に投げ込まれ,もう板も無く,閉鎖もできなくなった.

煙とともに火炎も噴き出てきた.多くの中国人船客は船首の方に互いに,肉親を呼び合いながら避難したが,十名余りの労働者は,ハッチから離れず,火煙の噴き出る船倉に向かって「荷物を放って,早く出てきなさい」と何回も繰り返し叫んでいる. 私は周囲から鋭く注がれる視線を背に感じつつ,再びブリッジの船長の所に急いだ.

もう船体の後半は黒煙に包まれ,人群はなお,激しく肉親を探し求めて叫んでいる.船長は私を見つけ青島向け,大連汽船会社の貨物船,豊島丸が十五分後に到着します.青島港務局からも曳船二隻,間もなく到着します.豊島はあれです」と言って指さす沖合,夕闇の空に連なる黒い水平線より近くに来るのが見える.

水面は黒く大きなうねりはすべての一切を呑み込まんとするかのように,船首に迫ってくる.ブリッジ085の下から柳田一等運転手が,「船長,機関部の石炭に火が移りました.機関部が危険です」と大声で連絡している. 後甲板の中国人船客は全部,船首に避難し,おのおのよりそい,いたわりながら近づいて来る豊島丸に視線を注いでいる.

周囲は既に暗く,沖の親子島灯台の回転する光線は,眼を刺すように海面をなでまわしている.後方から青島港務局の曳船二隻も,赤,緑の舷側灯を照らしながら近づいてくる.これらの船を待つ約二十分の時間が何時間もの長い時のように人々を疲れさせた.

横着けされた豊島丸の照明の中に午後九時半頃,二百五十余名の船客全員と村田事務長以下,中国人船員五名が移乗し,一隻の曳船には宮村船長以下三十余名の船員と警乗員の私達二人が移乗し,各船が長く吹き鳴らす汽笛とともに青島に向かって,真っ赤な炎に包まれた船を捨てて離れる.他の曳船が燃える船を涝山海岸にのし上げるため,船首のワイヤーを引き,次第に離れて行く.たなびく煙に炎が映え,空を真っ赤にこがし,風もない空に花火のように火の粉を吹き上げている.

私は,あの炎の渦巻く船倉に中国人船客百余名を入れたまま,密閉しようとしたのだ.しかしあの労働者の頑強な大きな手が,それを許さなかった. そして,私に注がれたあの憎悪の鋭い幾百もの視線は,今なお,その一つ一つが脳裏に深く刻みつけられている.

船会社は,最も危険な黄燐マッチすを運賃が高いばかりに積んだ結果は,船体と貨物八百トン,中国人船客約二百五十名の衣類,家財をほとんど焼失し,三十数名の重軽傷者をも出したのである.

086ボイラー室の煙突からは,絶え間なく煙が上がっている. あれは私達の白飯やご馳走を作るための煙であり,私達に入浴させるための煙である.フーと大きく息をはいて私は,青く澄み渡った空へ消えてゆく煙のあとを追っていた.

 

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1 Igarashi Isao, Polizeiwachtmeister 巡査部長
2 Yamagata, japanische Präfektur
3 Higashitagawa, Landkreis in Yamanashi
4 Guandong, alte Provinz
5 Dongbei -- die drei nordöstlichen Provinzen (遼寧省Liaoning・吉林省Jilin・黒竜江省Heilongjiang), d.h. die Mandschurei; auch: Dongsan東三.
6 Dalian (jap. Dairen), früher Lüda oder Lüta; eine Hafenstadt in Liaoning
7 Zou Defu, 中国人巡捕
8 Katô Kôji, 係主任警部
9 Awa no kuni: 阿波国兄弟汽船株式会 -- eine der historischen Provinzen Japans im Gebiet der heutigen Präfektur Tokushima auf der Insel Shikoku. Awa grenzte an die Provinzen Tosa, Sanuki und Iyo.
10 Zhifu Island (芝罘島 Pinyin: Zhīfù dǎo, Wade-Giles: Chih-fu tao), or North Island (北島 Běi dǎo, Pei tao), is an islet with historical significance in Shandong, China. The name of the islet -- Chefoo -- was generalized to mean the entire Yantai region in older western literature. ... Administratively, Zhifu Island is a part of Dàtuǎn Village (大疃村), Xingfu Sub-district, Zhifu District, Yantai City, Shandong Province. Dàtuǎn has a part on the mainland, where the offices and most residents are. ... Located in Bohai Sea, the island is 4 km from Downtown Zhifu and is 10 km x 1 km. Part of Public Road No. 26 connects the western end of the island and the north part of the mainland peninsula. Originally, the island was disconnected from the mainland, but for a period of millennium of years, the sand and soil in the ocean floor built up a 600-metre wide pathway. Thus the island is called the "Mainland-connecting Island" in Chinese (陸連島); it could even be considered a small peninsula.
11 Weihai, Stadt im Osten der Shandong-Provinz, Seehafen.
12 Qingdao (auf Deutsch auch Tsingtau), Hafenstadt in der Provinz Shandong im Osten der Volksrepublik China.
13 Daxizhen (Daixizhen), Kap
14 Haijian, Kap
15 Laoshan, Lauschan, Gebirge im Südwesten der Halbinsel Shandong, China, östlich der Bucht von Kiautschou (Gelbes Meer); aus Granit aufgebaut; bis 1 087 m über dem Meeresspiegel.
16 Murata, 事務長
17 Miyamura, Kapitän 船長
18 Yanagita, 一等運転手
19 Hebei, Provinz