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第V部 三光の果て

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生きた人間の腹を割き,足を切る
実録・軍医教育

野田実1


[略歴]

旧第 一一七師団野戦病院付属軍医中尉

文化程度 十六年

年齢 四十一歳


一九四五年四月,私の所属した旧第一一七師団野戦病院は,良質の無煙炭で名の知られた炭坑の所在地である,河南省焦作2鎮に駐屯していた.

病院は,焦作鎮北端の小高いところにあった.以前イギリス資本が,ここを支配していた時の建物と思われる一つを占拠して,開設したものであった.この高台の北側五,六00メートル辺りまで,大行3山系の山裾がなだらかに迫っている.その山肌はもうすでに一面青くなりかけていた.

一カ月ばかり前から河南省老河口4,南陽5方面に対するいわゆる老河口作戦」が始められていた.

私の病院からも,作戦のために約三分の一の兵員が抜かれて行った.もっとも病院長の他に,私を含めて四名の軍医が残留していたが,周辺の部隊主力が作戦に参加して,新しい入院患者はほとんどなかったので,病院は全く閑散としていた.

139当時,沖縄6の戦況の急追が報ぜられていた.陥落寸前に追いつめられていることは話めなかった.

しかし,それよりも私たちを不安に陥れたのは,足元の河南省一帯で,八路軍の活動が日を追って,より一層活発となってきたことであった.現に,焦作鎮炭坑の偽軍「鉱警隊」や,焦作鎮の附近に巣食っていた「順撫軍」[日本軍に利用されている地方偽軍]は,しばしば襲撃を受けていた.だから日本軍が「作戦」のため手薄になってみると,いつ「順撫軍」に寝返りを打たれて,逆にこっちへ銃先を向けられるかもしれず,その上,この「作戦」が終わったら,師団は移動するという噂もあって,病院内は何となく落ち着かないありさまだった.

実際私は数日前,日直将校に当たった夜,「順撫軍が叛乱した」という想定で,非常呼集をかけ,焦作鎮の有角7大隊との連絡を確保する演習までやった程である.今度は運良く作戦に引っ張り出されはしなかった.しかし,戦局全般から見ても,いずれは八路軍を真っ先にする中国人民の総反撃がくるだろう,そしたら我われはあの大行の山々にでもたてこもって,何とか戦い続けなければならぬことになる-そういう不安が,近頃私の心を重くするのであった.

今のうちにせいぜい太く短く……と将校クラブで日直につく夜を除いては,ほとんど宿舎に寝たことはない程,女と酒に入り浸った.しかし官能の享楽も続けば,それだけでは物足りなくなる.朝帰りの白々しい虚無感の底で,私の胸に浮かぶものは,外科患者の決まりきった治療などより,ザクッとメスで切り開く,あの全神経の集中することをやってみたいという欲望だった.

それというのも中国に侵略して以来,否,その前からも,私には一つの念願があったのだ.それは140生体実験であった.モルモットや兎を使ったとしても,その成績からでは,人間の生体にはそのまま推論し兼ねる,医学上の研究がある.戦場という殺戮のドサクサを利用して,直接生きたままの人間を,医学実験に使うこと,これこそ戦地にきた医者の特権だ.こんな不安な野戦暮らしじゃないか.それくらいのことは当たり前だ.日本ではできないことをやって,医者としての腕をみがかなくちゃ,引き合うもんか……しかもそれが,日本軍の軍陣医学にこの上ない貴重な研究として,公然のことになっているのだから……ままよ,今のうちにやりたいことはせいぜいやっておくに限る,私はひそかにそう考えていたのである.

中国人民の生命をモルモット並みに扱って,良心になんら痛痒を感じない,こんな,残虐とも無残とも言いようのない私の思想には,深い根があった.

私は,大佐の時にやめた,陸軍現役軍人の家庭に生まれた.そして,日本が中国から奪いとった台湾8に,少年期を暮らしたこともあった.そして植民地支配下の中国人や台湾人に対して,人を人とも思わぬ倣慢さに慣らされたのである.生い立ち育った生活そのものの中から,いつの間にか,神秘の雲に蔽われた,誇大妄想的な民族優越の気狂いじみた侵略思想が,私の血肉にしみこんでいた.それは日本軍閥の中心思想として,盲目的天皇崇拝とともに国民をごまかし,強引に押しつけられていたからである.

おまけに,濁流のようにはびこった,最も凶悪で,独善排外的な,ナチス流の「大和民族優越論」が,日本の文化を空白にし,知性を暗黒に踏みにじった中国侵略戦争の時代に,私は医学の学徒であった. 141しかも,学校を出て間もなく,侵略軍隊の機構の中に入って,私が野戦に暮らした三年余りの体験は,公然と賞揚され,組織的に実行に移されている,かかる非人道思想を,ますます募らしたのである.

それが味気ない戦場に暮らす代償に,戦場でなければできない医学研究でもやらねば損だ,という汚い利己主義と裏表になって,私はいよいよ,中国人の生命を,虫けらのそれと同様にしか感じない程,理性と人間性を失った鬼畜に成り下がっていたのだった.


四月十日頃のことであった.外科の二十名足らずの患者は,ほとんど水谷9見習士官にまかせ切りにしているので,差し当たりやらねばならぬこともない私は,また馬運動に退屈をまぎらすつもりで,馬小屋にやってきた.馬に鞍を置かせているところで衛生兵が追いかけてきた.

野田軍医殿……病院長殿が呼んでおられますが」

はて,今頃なんだろう?……と,私は院長室に引き返した.病院長軍医少佐丹保司平10は,机を前に,椅子にふんぞり返っていた.私が入ると,やや前かがみになって切り出した.

「君は,去年十二軍の軍医教育で,生体解剖を見たことがあったネ……」

ピンときた私は,「シメタ」と内心思いながら,身を乗り出していた. 「ハア」とうなずくのに,吸いかけた煙車の煙を吐きかけて,病院長は顔を一層近寄せると,ギョロッと目玉を光らせた.

「実は焦作鎮憲兵分遣隊から話があってね……病院で適当に処分してくれでもよい中国人がいる142というのだ」

「やりましょう」,私は言下に答えた.

「うん,この機会に俺は軍医教育をやろうと思っているのだ.幸い君は,その経験もある.教官という格で,一つ計画を立ててくれたまえ……いいかな」

「承知しました.去年鄭洲11のときは,傍らで見ていただけで,直接手をつけることができなかったのが残念でした……ところで病院長殿,去年と同じようにやれといわれるのですね……」

「そうだ!!あの普及教育のつもりでな……」

ニヤリと目尻に敏を寄せた病院長は,ここでちょっと言葉を切って,再び椅子に寄りかかると,

「とにかく戦地の軍医は,盲腸の子術や気管支切開,四肢の切断など,救急手術はどんな所でもパリパリやれるようでなくちゃいかんのだ.専門が内科だろうが,小児科だろうが,そんなことをいっちゃおれん……」

「そうです,去年の鄭洲の教育でも,川島12軍医部長殿はこの点を繰り返して強調しておられました」 病院長は我が意を得たりとばかりに,得意満面で乗り出しながら,

「そうだろう,だから俺は今度の教育は,専ら内科軍医の手術練習が狙いだ,そのつもりでやってくれ!!」

私は,自信ありげにうなずいてみせた.

「ところで,どうだ明日の午後実施……それでいいな,できるね」 病院長はつけ加えたのであった.

143医官室に戻った私は,急いでベンを執った.

鄭洲でやった生体解剖の経過を辿って,計画を作ろうというのだ.

鄭洲における軍医教育は,その前年の十月二十日過ぎ,約一週間にわたって,第十二軍直轄兵站病院で行われた.その最終日の午後,一名の抗日軍捕虜を,第十二軍軍医部長軍医大佐川島清が立ち会い,この教育の教官として,北支那13方面軍直轄の北京14第一陸軍病院から派遣された,軍医中佐長塩15の指導で,生体解剖が行われたのであった.

私には,当時の情況がありありと印象づけられていた.解剖を行った場所は,皮肉にも,もと天主教の建物の中だった.第十二軍隷下の各師団,病院から派遣された二十名余りの軍医の手で,生きた人間をそのまま,腹,頚,腕,肢とズタズタにメスを入れ,軍医の手術法教育に供せられたのである.それは,一人や二人の軍医の,単純な思いつきなんかではない.日本軍高等司令部の方針として,計画的に実施された,生きた人間の解剖教育であったのだ.

私は,実施計画を一通り作った.まず腹から切り始めよう,それが終わったら腕と肢だ,最後に頚を切って,気管支を聞く……だが私にはこれだけではどうも物足りない.さらに背中から大きくメスを入れて,腎臓摘出術をやってみたい,と思った.この手術はこれまであまりやる機会も少なかったし,私にはまだ自信がなかったからだ.これもこの機会にやってみたいと書き入れようとした.だがしかし,院長がこの教育は,内科軍医の手術の練習が狙いだ,と強調した言葉を思い出した.それに144鄭洲のときもやっていなかったので,惜しいとは思ったが,あきらめることにした.

そこででき上がった実施計画を提出すると,満足したように病院長はいった.

「これでいい.ところで場所はどこでやったがいいかナ」

私はちょっと思案したが, 「手術室がいいと思いますが……あそこはあまり目立たないし,東門さえ閉めておけば,外からもわかりませんから……」

「それでいいだろう.じゃ君からとりあえず,明日の午後,軍医教育に生体解剖をやる,前もって解剖書や,手術書で勉強しておくように伝えておいてくれ……」

後はすべてお前にまかすから,と言わんばかりの口調で,サッサと帰り支度をすると, 「後始末や警戒の方は,俺から伊藤16衛生中尉に話しておいた……」 そういいながら,病院長は鞄をかかえて立ち上がっていた.

翌日,私は昼飯をすますと,早々に医官室に帰って,今か今かと待っていた.二時近くになって,水谷見習士官が慌てて入ってきた.

野田中尉殿!!今衛兵所から知らせてきました.憲兵が連れてきていますが,どこで待たせますか?」,せき込んで尋ねる.

私は,よし来たな,と思いながら,強いて落ち着きを見せて答えた. 「うん,手術室に入れておいてくれ.それから君,ついでに院長に知らせてくれないか……」

彼が出て行くと,衛生兵を呼んで,各軍医にすぐ始めるから集まるように伝えさせた.

145私は,ペルンコッフ17『局所解剖書』と,千葉医大の高橋18教授の『実地外科手術書』など,四,五冊の解剖書や手術書を小脇にかかえこんで,廊下に出た. 田村19主計大尉が便所から出てくるのにすれ違った. 「いよいよ生体解剖ですね……」 酒焼けした赭顔(あからがお)の白い歯をむき出して話しかける.

「見にきませんか?遠慮なく,どうです……」

「鉄砲の射ち合いなら,主計でもちょいと自信があるんだが」 そういうと歩きかけた手を横に振って, 「切ったり張ったりして臓物をひねくり廻すのは……ありゃあ苦手でしてネ……」 顔をしかめながら,逃げるように経理室に戻っていった.

私は苦笑いしながら,手術準備室に入った.台の上には,二つの大きな滅菌器から取り出されたままの,手術機械が一ぱいに折り重なって並べであった.クローム・メッキの銀色がにぶく光って,ちょうど煮沸消毒をすませたばかりらしく,湯気を立てている.私は,傍らの机の上に抱えていた書物をドサリと置いて,機械の用意に手落ちがないのを確かめた.

「オイ森下20軍曹,機械の準備はいいとして,今日はあるだけの鉗子を全部煮ておけよ」

いい捨てるなり,手術窒の扉をパタンと押し開けて,中に入っていった.手術室は本館裏の小さい建物を,ここに病院を開設するとすぐ,私の設計で改造したものだった.野戦病院の手術室としてはでき過ぎたものだと,かねて内心自慢にしていたのである.コンクリート張りの手術室は,七~八坪の広さであった.南と北の両側には,大きなガラス窓が開けられ,南側の窓下には,セメント作りの146手洗台がある.北側の壁の扉寄りには,採暖炉があるだけで,部屋全体は陰気な灰色にガランとしていた.中央にはポツンと置かれた折り畳み式のお組末な手術台が一つ,その傍らに小さい機械台がある.天井から,普通より大きい金属製の笠をつけた電燈がぶら下がって,手術台を鈍く照らしている.

暖炉の傍で,黒い中国服の憲兵が,水谷見習士官と顔見知りとみえて,何か話していた.初対面の私が入っていくと,憲兵はちょっと頭を下げて挨拶をした.

「ヤーご苦労」 私は努めて平静を装いながら,後ろ手に捕縄をかけられた,傍らの中国人をジロッと横目にした.

年齢は二十七歳位であろうか,額の広い横顔と澄んだ目,丸坊主の髪がやや伸びているが,キッと結んだ唇は,頑強な魂を思わせる.風雨にめげず,営々として土と穀物の労働にいそしんできたらしい広い肩幅と,朴訥な身体つき……一見して純朴な農民のように思われる男であった.身についた黒の中国服を着て,窓越しにジッと外を眺めている姿は,あくまで静かに落ち着いていた.

「すぐ始められますか」 憲兵は尋ねた.

「ちょっと,もうしばらく待ってくれ,今準備中だ」

答えながら,私はもう一度,さとられないように,その中国人をソッと盗み見た.

最初眺めた印象では,顔色だけがひどく白い丸顔……に感じたが,よくみるとそうではない.永い間残酷に留置されて,陽の目をみていない上に,栄養は衰えて,青白くむくんでいるのだ.しかも目のあたりは,痛ましく,黒ずんでいた.弾力を失った頬から額にかけて,まだ治り切らぬ傷痕が,147幾重にもついている.紫色の斑点まで,うっすらと頬に浮き出している.服の下の身体にも,同じような拷問の傷痕があるに違いない.……

この男は,今ここへ,何のために連れて来られたのか,知っているだろうか?そんなことを考える私の存在なんかには,まるで無関心で,中国人は相変わらず,遠く大行山系の方に向けて外を眺めている.

「いやいや彼は今ここで殺されることなんか気づいてはいないのだ」

そう思うと,私は急に落ち着きを取り戻した.わざと大声で「オーイ」と衛生兵を呼んで,椅子を二つ持ってこさせた.そしてわざとらしい丁寧な物腰で,彼らに座るように促した.憲兵はもうここでは逃げられる心配もない,と思ったのか,中国人の捕縄を解いて,椅子に座らせた.続いて憲兵もまた,ズボンの片方のポケットに手を差し込んだまま,腰を下ろしたが,ポケットの中では,裸の拳銃を握りしめているのが,明らかにわかる.

私は煙草を取り出した.中国人と憲兵に一本ずつ渡すと,燐寸(マッチ)の火を両手でかこいながら,いかにも親切そうに差し出した.憲兵は椅子から浮かした腰を,馬鹿丁寧にかがめながら,火をつけた.さらに,消えないように,急いで火を持っていくと,中国人の方は全く無表情で,私の顔には目もくれず,無造作に火をつけた.

不自然な沈黙が流れた.パタンパタンと準備室に出入りする戸の音がひびいてくるだけで,灰色の手術室は,あくまで冷たく静かだった.

148この時手術室のドアが突然開いて,ピンと長い口ひげをのばした内科の新田21軍医中尉を先頭に,去年の暮れ学校を出て,年が明けるとすぐ中国にやってきたばかりの,高岩22軍医少尉が,緊張した面持ちで入ってきた.後から森下衛生軍曹と衛生兵二人が続いた.そして最後に,低い鼻下のチョピひげを,指でひねりながら,病院長が現れた.

「準備はいいだろう,始めろよ」,病院長は低い声で私を促した.

「全身麻酔の用意!!ガーゼにクロールエチールを充分ふくませて……」 私は水谷見習士官にいった.そして憲兵に向かって,「俺は中国語は駄目だから,この中国人に話してくれないか,いいかい,おだやかに頼むぜ……何も心配することはないから……」いいながら,私は手術台にツカツカと寄って,台を軽く叩くと,語を継いだ.

「……何も心配はいらんから,この台の上に……この上に仰向けに寝るように……」

努めて平静を装いながらも,私は中国人から目を離すことができない気持ちだった.喉がかすれて,声が空しくうわずっているのが,自分でもわかった.中国人は,自分のことをいわれているのに気づいたのであろう,私の顔から手の方へ鋭い視線を移した.表情は全く動いていない.一瞬殺気をこめた沈黙の中に,皆の全神経は,中国人に集中した.憲兵のたどたどしい中国語を耳にした中国人は,何か私にはわからないことを答えながら,手と首を左右に振った.

「私は病気でも何でもない」 そういっているのだろう.私はその隙に,ジワジワと二人の後に回っていた.

149「睡覚吧!睡覚吧!」[「オイ君,寝たまえ!寝たまえ!!」]

肩を叩きながら,私は無理にせき立てた.すると中国人は,けげんそうな顔で,私と憲兵をかわるがわる見くらべていたが,押されるままに,じりじりと手術台に近寄っていった.

私は悟られぬように,素早く目で,軍医たちに合図した.

中国人は,手術台に押しつけられながら,なおためらっている.それを憲兵は,無理に押し上げるように,台に登らせようとした.やむなく彼は,手術台に腰かけたが,なおも疑わしそうに,左右を見廻しながら,グッと押されて横になりかかった.その頭を私はいきなり押さえながら,水谷見習士官に,ちょっと顎をしゃくってみせた.麻酔をかけろという合図だった.三人の軍医と森下軍曹,衛生兵らは,すでに手術台をかこんでいた. 水谷見習士官が頭の方からわからぬようにこっそり近寄った.ガーゼを口元に持っていくのと,周囲のものがよってたかって,それぞれ肢,腕,腰,肩をおさえつけるのが同時だった.私は両腕に力をこめて,彼の頭を抱えこんでいた.

クロールエチールをタップリ浸したガーゼを,口と鼻を蔽って,バサッとかぶせられた中国人は,猛然と抵抗して,起き上がろうとした.私たちは,七人がかりで力まかせに,上から押さえつけた.手術台がゴトゴトと二,三回大きく揺れる.衛生兵の一人が,手術用の軟らかい綿の縄を持ってきた.そして,グッと突っ張る中国人の大腿部を,ようやくのことでグルグル巻きに手術台へしぼりつけた.みんな息をはずませている.中国人は,憤怒に燃える激しい形相でもがいている.上歯を固く食いしばって,息をとめ,頭を激しく左右に振った.ガーゼを口から外そうとする,必死の抵抗であった.

150その激しさに,水谷見習士官は圧倒されたように,片手にクロールエチールの瓶を握り,片手でガーゼを押さえつけたまま,呆然としている.私はせき込んで怒鳴った.

「おいおいどんどんクロールエチールをかけるんだ!!」

水谷は,ハッと気づいたように,慌ててクロールエチールの栓のバネに力を入れた.ピッと勢いよく走り出るクロールエチールが,線状をなしてガーゼに吸い込まれていく.たちまち鼻を突き上げるように強烈なクロールエチールの香りが,あたりに立ち込めた.頭をおさえている私までが,むせ返って気が遠くなりそうだつた.中国人は目を閉じた.蒸発するクロールエチールの強い刺激に,目を開けていることができないのだ.この時とばかり,私は,上顎と下顎の間に,頬から両手の親指を力一杯突き込んで,無理矢理に口を開けさせた.途端にハァハァと短く呼吸をし始め,みるみるうちに渾身をこめた力が抜けてくるのがはっきりわかる.麻酔がかかり始めたのだ. 「しめた」 私は思わずニタリとしてつぶやいた.

「骨を折らせやがって……水谷君,もうそろそろエーテルに代えてもいいだろう」

うなずくと,水谷は用意してあったマスクにガーゼを手早く突っ込んで,上からエーテルをポタポタポタと落とし始めた.身体の力はますます抜けてきた.大きく荒い呼吸をしている.皆も初めてホツとしたように,手をゆるめた.しかしまだ完全に力は抜けていない.私は皆に注意した.

「すぐ麻酔の興奮期に入る.まだ少し暴れるから油断するな,手を離してしまうのは早いぞ」

間もなく中国人は二,三回,大きく手を動かそうとしたが,皆に押さえつけられているので,どう151することもできない.それが難なくおさまったかと思うと,今度はいよいよグッタリと力が抜けて,深麻酔の状態に入っていった.呼吸も急に穏やかになり,やがてスウスウと寝息をかき始めた.

「ようし,こうなればもうこっちのものだ!!泣いても笑ってもどうにもならん!!」 満足した私は,手を離して命じた. 「サァ手術の用意だ,機械を運べ……」 機械が持ち込まれる. 水谷見習士官は,エーテルの瓶を渡すと,森下軍曹と麻酔係を交替して,手術衣に手を通した.

三人の軍医たちは,すでに着替えて,手を洗い出していた.

物珍しそうにこの様子を見ていた憲兵が,私に問いかけてきた. 「もう本人は何をされてもわからないのですか」

「ああ,すっかりいい気持ちに睡りやがった.もう逃げ出す心配どころか,手を切ったって腕を落としたって,奴さんスヤスヤ眠ったまま極楽往生さ!!どうせ銃殺するところだったんだろう,ネ,君!!銃殺で苦しみながら死ぬより,この方がよっぽど楽だよ.これこそ医者の功徳というもんだな,ハハハハ」

大口を開けて笑う私につられて,憲兵はニタリとうなずいた.私も手術衣に着替えながら,開腹手術はもちろん,まだ手術らしい手術もしたことのない学徒出身の高岩少尉が,今日は初めから一言も喋らず,オロオロしている姿に気づいた.

「おい高岩少尉,どうだ気分は……」 「何ともありませんよ……」

152からかうような私の言葉に,彼はムキになって肩をいからしてみせながら,苦笑を浮かべた.だが,まだマスクをかけていない唇は,かすかに震えていた…….しかし,そんな感情の動きなんか,私には問題ではなかった.

「じゃあ始めよう」.私は手術衣のヒモを結びながら,そっけない調子で言って,麻酔を中止させた.

まず中国人を素っ裸にしなければならぬ.衛生兵二人に手伝わせて,すでに意識を失ってどうにでもなる身体を,グイとひっくり返すようにして,上衣をはぎ取った.首筋から背中にかけて,丸太か何かで,滅多打ちに殴られたらしい皮下溢血の跡が,黒紫色になっている.私はそれには目もくれず,サッサとズボンを引っ張り脱がせ,着ていた一切をはぎ取ってしまった.

もとより今は,カルテなんかに記載するつもりは毛頭ないのだが,私は,患者を見るときのいつもの習慣的な目で,丸裸で仰臥している身体を,ジロジロと眺めていた.

「うん,普通にカルテに記載するとすれば……体格,栄養,中等度,皮膚はやや乾燥状態……」

私は事務的な口調でつぶやきながら,特に肩のあたりの筋肉が,永年の野良仕事と,運搬労働で盛り上がって固まったものと見える.それにしても,今は不自然に皮膚がたるんで艶がなくなって見えるのが,過激に与えられた疲労と消耗を証明している.とにかく,最初一見した印象通り,農民出身にちがいなかった.

いよいよ実験にかかることになって,再び大腿部をさっきの太い縄で手術台にしばらせた.首から153下腹までサッと簡単な消毒をすますと,衛生兵が鉗子で滅菌槽の中から摘みだす一番大きな被布を,私はまだ洗ってもいない素手で無造作に受け取って,中国人の頭から足の先まですっかりかぶせてしまった.普通なら入念に手を洗い,消毒をすまさない限り,絶対に触れてはならない被布だったが,どうせ殺してしまうのだ,構うことはない……と私は思っていた.

手術衣をつけた三人の軍医は,目顔でする私の合図に,寝ている中国人の右側に,まず執刀者として新田軍医中尉,左側に助手として水谷見習士官と高岩少尉が定位置についた.全般の指揮はいうまでもなく病院長で,私が計画者として指導に当たる. 水谷は見習士官であったが,専門が外科で,その上手術の経験も積んでいるので,執刀者の直接援助をすることに決めてあった.


新田軍医中尉は,緊張にやや頬を硬くしながら,機械台からメスを取り上げて,親指の腹に刃をあてて試していた.彼は,私より六つ七つ年上の三十七,八歳,内科では相当の臨床経験を持っていたが,外科手術には全く素人だった.昨日私が生体解剖の話を持ち込んだ時,ひどく乗り気になって,

「私も医者になって,随分アッぺ[虫様垂切除術]のオペラチオン[手術]には立ち会ったことはあるんですが,まだ自分では直接手にとってやってみたことがない,是非私にアッペを切らしてくれませんか」と,威勢のいい顔付で, 「少々やり損なっても構わんのは気が楽ですからなァ,ハハハハハ……」と笑っていた.

だがイザとなれば,やはり固くなっていやがる……と,私はちょっと笑い出したい気持ちになった.

154水谷見習士官が馴れた手つきで,被布鉗子を扱いながら,被布の中央の切れ目を拡げて,右下腹部に固定した.やがて新田中尉は,腹の上に掌を当てて,メスを入れる部位を測定した.だが,いっこうにメスを入れようとしない.私は,彼がどの切開法を選ぶかに迷っているのじゃないかと思った.

新田さん,今日は初めてだから,一番型通りの直腹筋外縁切開法でやれよ」

私の言葉に,彼はちょっとうなずいたが,被布の上から臓をさぐって,臍と「腸骨前上棘」という腰の骨の出っ張りとを見定めているが,まだメスを入れる決心がつかない. 水谷見習士官が止血鉗子を取り上げると, 「この辺から,この辺まで……」と,無造作に度膚の上に軽く線を引いて見せた.そして「皮膚切開は一辺で度下組織まで思い切ってやるんですナ,切り直すと,後で創口が奇麗にひつつき難い.今日はどう切っても問題じゃないんですが,しかしこれも練習ですからネ,創口が奇麗かどうかでも,医者の技術が測られるんだから,馬鹿にならんですよ」

事もなげにいうのに,新田中尉は,思い切ったというような手つきで,メスの先に力を入れて,皮膚の上を縦に五センチ位スーッと切った.

皮膚の切れ目から,真白い皮下組織がチラッと見えた.が,たちまち渉み出る血液が,手術創に溢れてくる. 新田と高岩は急いで両方から指先で,切った皮膚を引っ張って,創口を左右に開いてみた.完全に皮下脂肪まで切れている.二,三カ所皮下血管が切れたらしく,血液が赤く細い線状をなして,勢いよく走り出てくる.

155「随分遠慮して小さく切ったね……何も創口の小さいばかりが,手術がうまいというわけじゃあない.それに初めてだから,もっと思い切って大きく拡げたらどうかネ……その方がわかり易くて,具合もいいぜ」と,私は手術創をのぞき込んだ.

いつもならこんな場合,サッサと止血してしまう水谷見習士官も,いっこうに手を出さない.鮮血が遠慮なく流出するのを,私も黙って見ていた. 高岩が慌てて止血鉗子で挟もうとするが,うまく血管が押さえられない. 新田も一緒になって,ガーゼで出血部を何回も拭きながら,ようやく目的を達した.

水谷がじれったそうにメスを取り上げると,手術創を少し上下に延長して拡げた.そしてメスの柄の方で,薄くネバネバした皮下組織を筋膜から剥離すると,薄い筋膜を通してうす桃色の筋肉が露出する.縦に走る腹直筋と,斜めに走る腹斜筋との境界部は,筋膜が融合して縦に白い線を形成している.

水谷は,この白い線を止血鉗子の先で示しながら,

「この境界部で筋肉を切らずに,筋肉と筋肉との間をうまくよけて,腹膜に達する,これが直腹筋外縁切開法だ,この白い線の内側で縦に筋膜を小さくメスで切る……そこを基点として,筋膜を上下に挟んで切り開くんです.やってみたらいいでしょう……」

まるで教授が,助手か学生たちに教えているような口調でいう.

新田はいわれた通りに,タドタドしい手つきで,メスと鋏を動かした.それをじっと見ていた水谷156が,はがゆくなったのか,自分でペアン甜子を使って,筋膜を挟むと,新田に持たせた.そして鈍鈎で,乱暴にグイッと上下に引っ張って,腹膜に達した.露出された腹膜は本当にうすく,淡い黄色に澄んでいた. 水谷は鈍鈎をそのまま高岩に渡して,手術創を左右に拡大させると,さらにピンセットの先で,腹膜の一点を注意深く小さく持ち上げた.

「さあ左手に有鈎ピンセット,右手にメスを持って……」と,新田中尉を促すと,再びさっきと同じ講義口調で続けた.

「腹膜を切って腹腔を開く時は,どの部位でも同じですが,まず腹膜の一点を術者と助手が,ピンセットで持ち上げる.つまり腹膜と一緒に腸をうっかりして傷つけないためですよ」

新田はいわれるままに,左手にピンセットを動かして,水谷がすでに持ち上げているピンセットに接して,腹膜をつかんだ.

「ピンセットの中間の腹膜を小さく切って」

新田は今度はやりにくそうな手つきで,右手に持ったメスでいわれた通り小さく切った.薄いゴムでも切るように,腹膜は切れた.

「ここで大事なことは,腹膜と腸や大綱膜等が,癒着していないかどうかを確かめること,ほら癒着はないでしょう.さらに腹膜を開大して……」

新田は,腹膜をさらに少し切り,身体を乗り出して,腹腔をのぞきこんだが,水谷が指示するまま,右手のメスを,長摂子に持ちかえると,ようやくガーゼの端を腹腔内に挿入した.そして腹腔の中に157指をつきこみ,腹膜にあてがうと,鋏で腹腔を大きく開いた.

いつもの虫様突起の手術なら,腹膜はやや充血して,濁った赤昧を帯びているか,甚だしいときには肥厚している.しかし今,まるで正常なこの腹膜の淡黄色を目にすると,私にはチラッと全く生き生きした健康な人を,わざわざ手術しているのだという感覚が戻ってきた.だが,それだけのことに過ぎなかった.

「さぁ,新田中尉殿,アッぺ[虫様垂]を引っ張り出してごらんなさい.今度は黙って見ていますから」

水谷は得意然として,腹膜鉗子で腹膜の端を挟みながらいった.腹膜甜子のピシピシピシとふれる金属製の音が,かすかに響いて,手術室には重苦しい静けさがよどんでいた.被布にすっぽり全身を被われた中国人の身体は,始めからピクリとも動かない.

新田中尉は,手術創をのぞきこみながら,手当たりばったり腸を引っ張りだしてみるが,アッペは出てこない.焦り出すのを水谷はニタリニタリ笑いながら見ている.

私は余り手間取るので,「もっと外側の……小腸じゃあない太い奴を引っ張り出すんだよ」

言われて新田中尉は,手術創の上に乗り出して,腹腔の外側をのぞき込んだが,ようやく前よりはやや青みがかっている太い腸を引っ張り出してきた.

「そうそう,それがいわゆる盲腸だよ,そのテニア[盲腸締紐]を辿って,下を探っていけば,否応なしにアッぺが出てくるんだ……」

158私の言葉に力を得て,ようやくアッペに到達した新田は,顔をあげて嬉しそうに目尻を下げた.それは「ミミズ」のように細い,白昧を帯びた,うす桃色の小さなアッペだった. 水谷見習士官は,また得々として,切除の方法を説明している.この時,私の腰のあたりを憲兵が引っ張った.

「私は他に用事があって忙しいので,失礼します.後始末は何分よろしく……」

青ざめた顔を耳元によせてささやくのである.好奇心から手術を見たがる普通の人が,よくこんな生理的な反射作用で,嘔吐に襲われることを私は知っていた.

「何だ憲兵の奴青くなりやがって……」

病院長は,挨拶もそこそこに出ていく憲兵の後ろ姿を,ののしるようにいった.

「やはり素人ですからね,そんなもんですよ……」 私も調子を合わせて笑い声を立てていた.

切除されたアッぺを,新田中尉から受け取った私は,メスで中を切り開いてみた.病的なところは全然なかった.

虫様垂切除術が終わると, 「面倒ですから,手術創からこのまま波状切開で,大きく上の方に開いていきますか?」

水谷見習士官が言い出すのを,私がさえぎった.

「いや,腹腔をしめることも練習だ,高岩少尉と二人に手術創の縫合閉鎖をさせた方がいい」

縫合はすぐに終わった.今度はいよいよ開腹術にかかるのが,私の計画だった.それは病院長が159命じた開腹技術の教育のためであったのはいうまでもないが,同時に,生きた人間の内臓諸器官を生きたままで病理,解剖学的見地から点検できる,という興味に駆られていたからである.

正中線切開となると,一番簡単なアッペの手術に,四十分位もかかった,初めての新田中尉ではちょっと難しい.やはり水谷見習士官でなければ時間を食うばかりだと考えた私は,「今度は君が代わって執刀者になって,正中線切開法をやってみせろよ……」と命じた.

彼はうなずきもせず,被布のきれ目を腹の中央に移して,さっさとメスを取り上げた.そして少しもためらわずに,胸骨のすぐ下から,メスをさっと入れると,まず腹の真ん中を臍のあたりまで,約十五センチ程一気に,ググググッと切り下げていった.臍の傍で,左手の指先で,横へ引っ張った皮膚を固定させると,メスをそのまま,臍の左側にクルリと廻し,さらに下腹まで十センチ程,スーツと皮膚切開を加えた.約二センチ程左右に開いた創口は,真白い皮下組織が見える.とみるみる渉み出た鮮血が真っ赤に拡がり,断ち切られた四,五本の皮下血管からは,細い線状に血がサーッと走った.臍のすぐ上でやや太い血管が切られたと見えて,勢いよく流れ出た血潮が,臍のくぼみに流れ込んで,溢れそうになった. 水谷は急いでそこからガーゼで血を拭きとると,止血鉗子を素早く操って,全部止血してしまった.さらに白線[正中線を形成する筋膜の融合した結締織]と,皮下組織をメスの先で剥離すると,左側の直腹筋の正中線よりでメスを入れた筋膜を,手術創の長さ程鋏で切り離した.そして白線に接続している筋膜のはしを,ペアン鉗子で挟んで,引っ張り上げながら,ここから鈎を入れて,グッグッグッと上下へ乱暴に腹膜を露出していった.淡黄色の薄い腹膜を透して,その下にある大綱膜が160静かに動いているのが見える.

新田中尉にピンセットを持たせて,さっきと同じ要領で腹膜の一点を持ち上げさせた水谷は,小さく切った腹膜を両方から腹膜鉗子で挟んだ.そしてその腹膜鉗子を持ち上げて,腹膜の中をのぞき込んでいたが,

「局所麻酔では余程完全に効いている時でも,患者が手術で緊張しているから,どうしても腹圧がかかる.だから下手に大きく腹を開くと,腸がとび出してくるんです.その点全身麻酔は,腹に全く力が入らないので,操作はこんなに楽なんですよ,高岩少尉殿のぞいて見なさい,ホラ腸が下の方にあるでしょう」

私が側から口を入れた. 高岩少尉!!普通の局所麻酔のとき開腹手術がこんな調子でいくと思うと,大間違いだよ」

水谷は大胆を通りこした乱暴さで,切った個所を中心に鋏を動かして,手術創と同じ位腹腔を上下に開いていた. 新田中尉が腹膜鉗子を四カ所にかけた.

この時まで静かに呼吸するだけだった中国人が,不意に,私たちにはわからぬ中国語で,かすかなうわごとをいい出した.好奇心にかられた病院長が,「奴さん何をいっているんだい?……」と口を出したが,誰も相手にしなかった.

水谷がすでにまず胃から始めて,内臓点検にかかっていたので,解剖書を片手に目を走らせ,高岩をはじめ,皆は夢中になってその方に気をとられていたからである.

161胃はやや桃色を帯びて白く,しかもつやつやしていた.

「人間の内臓の生理的な状態をこれ程ゆっくり見れることはそうざらにはないぜ,特に高岩少尉なんか,こんないいチャンスをせいぜい利用してよく見でおくんだな」

と,私はもったいぶった口調でいった.生体実験の解剖学的な意義を,慣れない高岩に教え込むつもりだったのである.

胃,十二指腸,肝臓……と水谷は,次々に点検を進めていった.肝臓の裏側にある胆嚢まできたとき,「どうだね人間の生きた肝はいらないかね.熊の肝よりもよく効くそうだぜ,ひどくご執心の向きもあるんだが……」 私は笑いながら口にした.二,三年前,保定にいた時分,憲兵分隊長の藤木24大尉から,「生きた人間の肝をなんとか手に入れることができんもんかね……病院なら簡単にできそうなもんだが……」とねだられたことがあった.

「病人の胆嚢は,病原菌の巣窟ですよ」

「いや病人じゃなくて,あなた方にはいくらもその機会はあるはずでしょう」

何気なく答える私の言葉に,あわてたように藤木は顔の前で手を左右に振って笑ったが,話はそのままになったのである.つまり日本軍の軍医と生体解剖は,それ程公然たるものだった.今この健康な黒昧を帯びた草色の胆嚢を目にすると, 「これなら大丈夫なんだが,あいつにやったら喜ぶだろうに……」 私にはふとその時のことが蘇ってくるのであった.

続いて,長い小腸を水谷は素早く引っ張りだしてたぐり始めた. 新田はたぐるのを手伝いながら,162目を皿のようにしてこれを点検して,また元へもどしていった.腸をたぐるのにつれて,人間の内臓の青臭い匂いが,プーンとあたりにただよった.こんな匂いには私は馴れ切っていた.だから健康な人間の内臓の青臭い匂いは,苦にならないどころか,却って心地良くさえ感ずる程だった.

大腸,特にS字状結腸をはじめ,内臓諸臓器はいずれも皆,病的な所はおろか,奇形的な所も全くない,正常で健康なものであった.

こうして,計画通り開腹術と内臓の病理,解剖的点検が終わって,腹膜は縫合された.


今度は,四人の軍医が二組に分かれて,生きたまま左脚と右腕を,同時に切断する手術操作に入ることになった.外科技術の点から,これは,私にしてみれば,この日の生体解剖で,一番力を入れた腕のみせどころ,というつもりだったのである.

新田と高岩が,額を寄せ合って,手術書をのぞきこんでいた.

取りかかろうとしたが,私はふと麻酔状態が気になって,被布の下に手を入れて脈をみた.ちょっと弱くなったのが感ぜられたので,森下軍曹に注意して,エーテルの滴下を少しゆるめさせた.あまり麻酔をかけ過ぎて,途中で中国人の命が危なくなっては,せっかくの生体解剖が台なしになる,と思ったのである.助手になる高岩を促して,ホンの形だけ,私も手を洗い,消毒すると,滅菌した手術衣をつけた.右腕のつけ根と左肢の根元で,止血帯をかけさせる.

とりかかると,もう水谷も私も,クドクドしい説明は抜きだった.私は大きな切断刀で,大腿の下163三分の一の所を,一気にグルリと皮膚を切り離した.皮下血管から,血液がサーッと流れ出した.私と組んだ高岩が,あわてて止めようとする.

「放っとけよ.そんな血はどうせ出てしまうんだ」

私ははがゆそうにいい捨てた.構うものか,と勢いよく切ったので,所どころ筋膜まで切れており,そこから暗赤色の筋肉がのぞいている.サッサと皮膚を剥離して,少しまくり上げると,人間の太腿を切り落とす,あの感じ……私なんかにしてみれば,馴れ切ってしまっていたが,高岩少尉には,

一つ昧あわせてやる必要がある……そう思って,彼に刀を持たせた.

私が初めて切断手術をやった時には,一時的なおびただしい出血にまごつき,筋肉がピクピクけいれんするように切断されていくのが,少し気味悪かったことを覚えている.それが,二回,三回と馴れてみると,止血帯をかけている以上,止血に慌てることはなし,折り重なっている筋肉をズバリ,と切り落とす……あの感触は,外科医でなければ味わえない,魅力ある醍醐味だ,とさえ感ずるようになっていたのである.

「まず,万を握って……万を自分の方に向ける.万と腕との間に脚を抱えこむようにして……そうそう,そこで俺が今切ったと同じ要領で,今度は一気に骨まで垂直にグルリッとやるんだ.後から切り直すと,筋肉の横断面がギザギザになって,血管の切り口が筋肉にかくれ,止血に苦労するから,必ずズハリと思い切ってやるのが肝心だ」

口早に説明しながら,私は高岩少尉に姿勢をとらせて,「サァ切ってみたまえ……」と促した.

164高岩少尉は,私のいう通り,目に緊張の色を浮かべながら,思い切ったように,私が止血鉗子で示した所から,握った万にグッと力を入れた.ズハリと大腿骨まで切れたらしい.伸び切った下側の筋肉層が,ピクピクとけいれんするように収縮して,パクリと口が開いた.鮮血がドーッと瀧のように流れ出た. 高岩は一瞬,血液の流れる激しさに,呆然としている.私は素早く別のメスを取ると,手で筋肉をかき分けた.そしてむき出しになった筋膜の付着した白い大腿骨にメスを入れて,骨膜を剥離し始めた.

次々に,大腿骨を切るのである.筋肉を上の方に押し上げながら,できる限り上部まで,大腿骨から筋肉と筋膜を剥離してしまう.そこで何枚ものガーゼを折り重ね,筋肉の切断端を包んでつり上げる. 高岩が骨鋸で太い大腿骨を切り出した.ギッギッと,重い音がする.骨髄から渗み出た脂と血液,切られた骨のくずが,鋸の目にひっついて,鋸がうまく動かない. 高岩のいかにも切りにくそうな手つきを見かねた私は,「構わんからもっと力を入れるんだ.何だい,もっと思い切ってやれよ」と,脚の先を支えている衛生兵に,支えている手を少し下げて,切れ目を開けてやるようにいいつけた.それと同時に,高岩が急に鋸を強く動かし始めたので,ガッと骨の最後の部分が切断されてしまった.その勢いが余りに急だったので,脚先を支えていた衛生兵が,不意を食って手を滑らしてしまった.大腿はドサッと音を立てて,タタキの血溜まりへころげ落ちて,パチャリと私と高岩のサンダルの足に,血しぶきが飛び散った.

だが,大腿をそのままに放り出しておいて,「おい,手を洗い直そうぜ」私は高岩にいった.手首165から先がベトリと血にまみれていたのである.

四つの手を洗面器につけて,ここびりついた血が,すでにかたまりかけているのをこすり落とすと,真っ白いクレゾール液がみるみるドス黒く変わっていった.ついでに,私は消毒液を両手にすくい上げると,足にベットリついた血を洗い流した.

引き続いて,切断後の処置にとりかかることにした. 高岩を手伝わせて,血管を結紮すると,骨端にやすりをかけた.次いで神経をつかみ出して,筋肉をつかみ出して,筋肉をなるべく上の方に押し上げておいて,その根元で切り直した.

「今日は,本当はこんなに丁寧にやる必要もないんだが,普通の切断なら,当然義肢をつけることを考えなくちゃならんからな……神経が創口に近い所にあると,痛むからね.なるべく神経を上の方で切っておくこと,それに骨端を筋肉の真ん中に包みこむようにしておくことが大切だ.いいね,高岩少尉,よく見ておけよ……」

高岩は黙ってうなずきながら,じっと私の手元に目をそそいでいた.そこで衛生兵に止血帯をゆるめさせる.四,五本細い動脈から勢いよく出血してきたが,手早く止めてしまと,結紮して筋肉の横断面を押さえるようにして拭き取った.筋肉の横断面から,ジワリジワリと血が渗み出るのを,高岩は不安そうにみつめているので, 「こんな出血位,縫い合わせてしまえばすぐ止まるんだ」と,私は筋肉に針をひっかけて,二,三カ所筋肉を縫い合わせてみせた. 高岩が皮膚縫合にかかったのを見て,私は骨端の骨髄につめ込んだガーゼの端を,ペアン鉗子でつまみ出した.タップリと生きた血液を166吸い込んでいるガーゼは生温かく,指先で押さえると,ポタリポタリと血が床の上に滴り落ちた.

私たちの切断手術は,それで終わりだった.顔を上げると,水谷と新田は右上膊切断を終わって,煙草をふかしていた.

私も急に一プクつけたくなった.が,まだ計画では,気管支切開が残っているので,早く片づげてしまおうと思い直して,麻酔をやめさした.血に染まった被布を引っ張り上げて,真ん中の切れ目を頚の所まで持っていったが,これは応急処置としては,特に重要だから,高岩にやらせてみることにした.

頚の下に小さい枕をあてがって,喉の突き出したいわゆる「のどぼとけ」を指で押さえながら,私は言った.

「すぐこの下で縦にメスを入れるのだ.やってみたまえ」

「喉の所を切るのは,何だか深く切りすぎはしないかと,不安な気がしますね……」

メスを持った高岩が,恐る恐るという格好で,縦に小さく皮膚切開を加えた.ほとんど出血はない.私は傍から薄い筋肉を左右に分けて,その下から真っ白い気管支を露出して見せた.

「サァこれだ.この切開は,メスの刃を上に向けて,はねるように切るんだよ」

メスを取り上げて,その手つきをやって見せた. 高岩はその通りに,メスを気管支に入れた.スウーッとかすかに,不気味な音を立てて,気管支の中の空気が洩れた.私は機械台から,気管支カニューレを取り上げて,創口から気管支に挿入して見せると,「普通なら,針を皮膚にかけて,カニューレを167固定しておくんだが,今日は,切開と挿入の要領,だけだ」 そして,すぐ抜き去ったカニューレを,機械台の上にポンと投げかえした. 高岩が一針縫うと,それで予定した計画は全部終わったわけだった.

「これで全部終了しました」 病院長の方に向き直って,私は報告した.

「後始末は,伊藤衛生中尉が承知している.なるべく早く片づけたまえ,いいな……」

横柄にうなずいた病院長は,そう念を押して,サッサと手術室から出ていくのに,新田ら三人の軍医もその後に続いていった.


私は,中国人の顔に被いかぶさっている被布をまくり上げてみた.僅か二時間前,ここに連れてこられた時の,青白くむくんでいたにしても,永年の耕作労働に鍛えられた農民らしく,健康な生命力を感じさせた顔とは,今はもうすっかり人が変わったように,死相が漂っていた.土色に近い血の気を失った顔は,横に向けられて,不吉な黒い影が浮かんでいる.かすかに呼吸する度に,白くあせた唇がふるえているかに見えた.

だが,私は人間らしい温かい感情はもとより,良心の一かけらもない,人殺し軍医であった.習慣的に脈を取ってみながら,あくまで冷然としていた.全身を無残に切りさいなまれて,多量の血を失った以上,脈が微弱で小刻みに,はやくなっているのも,私には予期したことに過ぎなかったのだ.

「うん,こ奴は脈は弱っているが,このままじゃなかなかすぐ死にそうにもないぞ」

却って,こんなことを考えていた.しかしとにかく,予定通り終わったいま,一刻も早く片づけて168しまいたいというそれだけが,私の気持ちだったのである.

「おい,森下!本人が気を取り戻しそうになったら,またエーテルをかけるんだ.よく注意してみておれ……」 手を洗って軍服に着替えながら,私は煙草に火をつけると,いかにも面倒くさそうに言い残したまま,便所へ出ていった.

すでに外は陽が落ちて夕闇が迫っている.衛生兵の一人が,切断されたばかりの血のしたたる太い腿と腕を,軍靴の先で気味悪そうに押して,手術室のかた隅の方に並べた.そして,手術台の身体の上の被布をはぎ取ると,切られた腕と脚にかぶせであったのと,三枚一緒にグルグルと丸めて,バケツの中に放り込んだ.もう一人の衛生兵は水を流して,血まみれになったタタキを洗い流し始めていた.

やがて私は再び手術室に戻ってきた.扉を開けて,さすがの私の目にも,戻ってきた手術室は,「異様な光景」に映るのだった.血のしたたる人間の太い片脚と片腕が,タタキの上に投げ出されてある.手術台の上には,片脚と片腕のない,全く異様な素っ裸の人間が,しかもなお生きたまま横たわっているのである.もとより私には,それを罪悪とも悪虐とも感ずるだけの人間性は,いささかもなかった.けれども,余りにも「異様な」この光景は,「余り多くの入目に入れては,具合の悪いことになる」とだけは,本能的に頭に閃くものがあった.私はキョロキョロと窓ガラス越しに,素早く目を投げていた.案の定,窓の外から七,八名の兵隊が,好奇心と嫌悪にみちた目を光らせて,のぞき込んでいるではないか日169ギクリと慌てた私は,「おい,あっちへ行け!!お前たちの見るものじゃない」恐ろしい顔つきで怒鳴りつけて,兵隊を追っぱらってしまったが,「こりゃ,早いところ始末してしまわなくちゃまずい」と,せき立てられるような苛立ちを感じた.

薬の注射で殺すには,少し時間がかかる.しかし,といって手術室をこれ以上汚すのも面倒だ.そう考えた時「空気注射」……を思いついたのだった.静脈に空気を注入して殺すこと,そうすれば手術室も汚さなくてすむし,薬もいらぬ.その上,時間もかからぬとあっては,一石三鳥というところだ.それだけではない.話に聞いていたが,実際に自分で体験したことはなかったし,どの位の量の空気を静脈の中に注射すれば,人間が死ぬものか-これはちょっとおもしろい生体実験をやることができる.予期していなかったこの思いつきに,私は意気込んだ調子で言った.

「おい!!森下軍曹,5CC注射器を持ってこい.こ奴の静脈に空気を注入してみろ……」

すぐに森下軍曹は,急激な亡血で,もうすっかり細くなっている中国人の左腕の静脈に,注意深く注射針をつき刺す.その針の先にジッと冷たく視線をそそぎながら, 「静かに,静かに,ソロソロッと入れるんだぞ……」 私は低い声で指図する.注射器の吸子が押されて,空気が少しずつ静脈に入り出した.

中国人の左腕を押さえて,私はその顔色と,次第に空気の入っていく注射器を,交互に見比べながら,どんな変化が起こるかを,固唾をのんでみつめていた.冷たい,氷のように無残な興味が,私の胸をゾクゾクとさせた.

1705CCの空気は,間もなくスーッと吸われるように,全部入ってしまった.ところが,中国人には依然として何の変化もない.期待した通りの結果が表れないのが,私にはちょっと意外だった.思わず,森下と顔を見合わしたが,実際の所,私はかなり焦っていた.日頃から自負した「冷静な科学的観察」などてんで忘れ果てていたのである.5CCでは致死量に達しないのか,あるいはもう少し時間的経過を見なければならないのか,当然考えてみるべきことを思い浮かべる余裕さえなかった.ただ思ったようにすぐ死なないのは,意識を全く失いながらこの中国人が,強靭な生命力で抵抗しているようにさえ感ぜられて,むやみに腹が立った. 「こいつめ図太い奴だ」と思った私は,すっかり慌てて言った.

「おい森下,20の注射器だ」

せき立てられた森下は,20CCの注射器に一杯空気を吸い込むと,もう一度静脈に突き刺した.また,空気が入りだした.……と思うと,注射器の吸子が動かなくなってしまった.

「軍医殿,これ以上入りませんよ」 森下はいかにも情けない声を出して,親指にできるだけの力を入れて,吸子を押してみせた.

「そんな馬鹿なことがあるか!!どけッ」 私はムッとして,森下を押しのけると,さし込んだ針を静脈からはずさないように気をつけながら,注射器を握った.

「針がつまったんだろう」 こともなげにつぶやいて,吸子を引いてみると,血液は注射器に逆流してくる.つまっていないのだ.私はますます焦り出しながら,ムキに吸子を押すがやはり動かない.

171「畜生,おかしいナ」

私は夢中になって吸子の末端を,手のひらに当てて持ち直した.そして肘を横腹に固定させると,身体をよせて思いきりグッと押し込んだ.瞬間,吸子がググッと動いて,注射器の約半分程の空気が入った……かと思うと,中国人の左胸部の乳の下あたりで,グルグルグルグルッと気味の悪い音のするのがかすかに聞こえた.その顔が静かに動き出し,二,三回やや大きな呼吸をする.止まるかナ……と見ていると,続いてすぐ,さらに下顎を振るように,もう一つ大きな呼吸を最後に,そのままガックリと首をたれてしまった.心臓が止まったのである.

私は注射器を素早く抜いて,中国人の左の乳の下に手を当てた.心臓の鼓動はすでに感ぜられなかった.それまでほんの僅かに残っていた血の気が,顔と唇からサーッと引いていくと,生きた人間の顔がみるみる死人の容貌に変わっていった.

私は聴診器を心臓部に当てた.心音は全く聴きとれない.ただ人が息をひきとった直後の,あのサァーッという不気味な雑音だけが聞こえた.それは,無限に暗い,閣の夜空を,遥かに吹き渡って消えていく木枯らしのような音であった.

「よし,終わった」

聴診器をはずして振り返ってみると,森下と二人の衛生兵が,呆然とした面持ちで立っていた.

「おい,何をボヤボヤしているんだ!!こいつを何かに包んで,厩の後ろに掘ってある穴に早く埋めるんだ」

172私はムラムラとして,怒鳴りつけた.

「ハイツ」,反射的に答えた森下は,衛生兵をせかして,担架を持ち出していた.

ちょっとそれを見ていた私は,何かしらひどく落ち着かない気持ちに駆られて,手を洗うのもそこそこに,手術室を飛び出して医官室に戻ってきた. 水谷見習士官が一人だけ残っていた.

「他の連中は?どうしたんかね……」

「早いとこ,風呂だといって帰りましたよ」 「そうか,おい帰ろうぜ……」

抱えていた本を机の上に返すと,私は水谷を促して外へ出た.あたりはもうとっぷりと暮れていた.

肩を並べて歩きながら,なぜか水谷は何もいわない.遥かの夕闇の中に,黒ずんでかすかに見える大行山脈から吹き下ろす夜風が,四月とはいえ頬にひんやりと感ぜられた.するとさっき聴診器のゴム管を通して聴いた,あのサァーッという不気味な音が,まざまざと私の耳に蘇ってきた.

「おい,今日の中国人は,ありゃ何だい?」

私はそんな音を振り切るように,ワザと軽い調子で問いかけた. 水谷は時どき憲兵隊の診断にいっているので,知っているかもしれないと思ったのである.

「さぁ……よく知りませんがネ……おおかた八路の密偵……というところでしょうよ」 水谷は大した興味もなさそうな口振りで答えた.

「ヘェ……そうかネ.俺は並の百姓だと思ったんだが……」

173「そりゃ百姓に違いはないでしょう.だから,憲兵隊も手を焼いちまうんでしょうネ……どうにもならんと,よくこ,ほしてますよ」

「憲兵隊がね?」

「つまりネ,本当に何でもない百姓と思われる年寄りや,女子供に至るまで,八路軍のこととなると,どんなにおどかしても,殴っても,殺しても,不利になるようなことは絶対にいわない.だから憲兵からみると,八路の密偵でない百姓なんて一人もいない,といっても必ずしも大げさじゃないんでしょうネ」

「なるほど……」

あいまいな気持ちでうなずきながら,殺した男が農民だろうが,水谷のいう通り「八路の密偵」だろうが,どっちにしても私にとって大したことはない-そう簡単に片づけてしまおうとした.だが,耳の底には,臨終直後のあのサァーッという音がまだ不気味にこびりついて離れないのは,どうしたことだろう.医者である私には,初めて聞いた音ではないのに,なぜいつまでもしつこく耳に残るのだろうか?私にはわけがわからなかった.

いやしかし,実は,今水谷のいった事実が,八路軍と中国人民の総反撃の恐怖となって,私の心に重くのしかかっていたのは確かだった.何気なく顔を上げると,閣の彼方に黒い大行の山なみが,私の心を威圧するように,底知れぬ静かな姿で連なっている.その山々の奥には,頑強不落の抗日根拠地のあることは,私も痛い程感じていたのだから.

174ところが,そのような,色んなことの真実には全く盲目だった私には,却って自分の心に感ずるその不安が,自分ながらひどく痛にさわるだけだった.その上,私の気持ちの苛立ちを一層そそるように,いま殺してきた中国人を最初に手術室で見たときの印象-額の広い澄んだ瞳と,落ち着いた横顔が,ありありと浮かんでくる…….

「チエツ」と,私はたまらない程いまいましくなって舌打ちしたが,恐怖をムキに反発しようとして,自分で自分を一層凶悪な気持ちに駆り立てるのだった.急にベラベラと,最後に一人でやった空気注射の経過を喋って聞かせると, 「なぁ,水谷君,どうせ生きた人間を殺すんだ,今日のように単純な病理解剖や手術の練習じゃなしにサ,どうだい,まだ医学上知られていない問題で,成果のある実験をやってみたいね.例えばサ,止血帯の長時間装着とか,動物血の生体輸血,それに,亡血の致死量を時間的経過を追って実験するなど,ちょっとしたもんだぜ……」

「そうですよ,一つ病院長に談じこむんですな」

水谷は冷やかに応じたが,さらに残虐な生体実験の企みを喋っているうちに一方,私の胸には「将校クラブ」にいる女たちの派手な笑顔が思い浮かんでくるのだった.するとそれが,唯一の救いのように感じられた.この訳のわからない凶暴な気持ちは,結局,「将校クラブ」の女と酒に,しびれるような官能の享楽を追って,果てしなく溺れ込むしか,私にとってやり場がなかったのである.

宿舎はそう遠くはなかった.門のすぐ近くまで来て,私は,急に矢も楯もたまらなくなって,「どうだい,このまま一つ出かけようじゃないかネ,水谷君」

175「行くのはいいとしても,風呂位すましてから……」

「風呂なら,殺風景な宿舎なんかより,むこうの方が余程いいぜ……な……」 「遠慮なくお先へどうぞ.僕は後から馳せ参じますから」

強引に誘うのだが,水谷はいっこうに私の言う通り乗ってこない.

「じゃ,僕は,このまますぐ一足先へ行ってるぜ……」

業を煮やした私は,ちょうど着いた宿舎の門の前に,水谷を残してサッサッと歩き出した. 「例によって,お待ち兼ねでしょうからね……」

ニヤニヤする水谷の言葉を聞き流して,私はかすれた高笑いをひびかせたが,馴染みの女の,むせかえるように淫蕩で技巧的な婿態が,目の前一杯にクローズ・アップされて,すてばちな陶酔感をそそるのだ.その衝動に引きずられるように閣の中を,「将校クラブ」に向かって私は,知らず知らず足を早めていった.


あれから十年の歳月を経た今日,私の胸にはあの日のことがマザマザとよみがえってくる.人類の愛情と幸福のためにこそ捧げるべき私のメスで,生きた人間を生きたまま無残に殺して,恬として恥じないばかりか,それがいかにも冷厳な「科学的探究」であるとさえ思い込んでいた私であった.人間的良心の一片もない鬼畜に勝る私の「戦争医学」を,今心から恥じ,心から悔恨し,懺梅せずにはいられない.それは全く科学の名に値しない殺戮の技術に過ぎなかった.

176中国人民は,-私がこの手にかけて,生きながら殺したあの中国人の肉親は,却って私に,真の科学とは何であるかを,そして人間として新しく生きる医学の道を教えてくれた.

私は,侵略戦争に奉仕する悪虐非道の「科学」を憎む.

 

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1 Noda Minoru, Oberleutnant, Militärarzt (beide Texte nahezu Dubletten)
2 Jiaozuo, Gemeinde in Henan
3 Dahang, Gebirge; vermutlich identisch mit Taihangshan 太行山
4 Laohekou, Gebiet in Henan, 老河口作戦
5 Nanyang, Gebiet in Henan
6 Okinawa
7 Aritsuno, 大隊
8 Taiwan
9 Mizutani
10 Tanpo Shihei, Major, Militärarzt und Krankenhausdirektor 病院長
11 Zhengzhou, früher: Zhengxian, Chengchow; Hauptstadt der Henan Provinz. (Um die japanischen Truppen aufzuhalten, ließ die Guomindang-Regierung 1938 die Deiche des Gelben Flusses bei Zhengzhou zerstören. Ein Gebiet von 54.000 m² wurde unter Wasser gesetzt, eine Million Menschen ertranken und zwölf Millionen Menschen kamen später durch Hunger und Krankheit um.)
12 Kawashima Kiyoshi, Oberst, Militärarzt
13 Beizhina, Nordchina
14 Beijing
15 Nagashio, Oberstleutnant, Militärarzt
16 Itô, Oberleutnant
17 Eduard Pernkopf (1888-1955), Verfasser von "Topographische Anatomie des Menschen: Lehrbuch und Atlas der regionär-stratigraphischen Präparation (1937-41)", vgl. D. J. Williams: The History of Eduard Pernkopf's Topographische Anatomie des Menschen. Journal of Biocommunication, San Francisco, Spring 1988, 15 (2): 2-12
18 Takahashi Nobuyoshi (geb. 1884), 千葉医大, Verfasser von 『実地外科手術書』
19 Tamura, 主計大尉
20 Morishita, Sanitätsoffizier 衛生軍曹
21 Nitta, Oberleutnant, Militärarzt
22 Takaiwa, Leutnant, Militärarzt
23 Fujiki, Hauptmann
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