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赤ん坊を抱く若い母親に鞭
血の無電台

坂本喜一1


[略歴]

関東2省庁警務科 主任警部


一九四五年一月,何とはなしに追いかけられるような戦争の不安,焦燥の気持ちが,市民の心を閉ざしている大連3の街々.硝煙によごれたヒマラヤ杉の植え込みを前にして,大広場4地区の一角に灰色の角張った関東逓信局が立っている.鼠色の建物が,いかにも寒々とした感じを与えて,時たま前を通る人が,身体を丸くして駈けるように通り過ぎて行く.

「先週短波無電をキャッチしたのですが…….昨夜もまたキャッチしましたよ」

逓信局の応接室,冬の鈍い光線は,豪華なカーテンに吸収されて,室内は薄暗い.テーブルを囲んで,三人が額を集めて話をしている.どこか険のある,細顔に度の強い近眼鏡をキラリと光らせて,逓信局伊藤5無電探知係長が言葉を続けた.

「多分受信先はハバロフスク6,発信地は大連郊外と思うのですが…….ロシヤの指令を受けて,054八路が関東省で何かをやろうとしておるんですよ.詳しいことはまだ分からないが,一つ警察側と共同してやって行きたいと思うんですが?」

「やりましょう.それにしてもよくキャッチしましたね」 関東省庁の中村7外事課長が椅子を乗り出して,すぐに答えた.

「軍からの要望で,逓信局に専門の無電探知係がありますが,優秀な技術者を選抜して,一日二十四時間,特に夜間に重点をおいてやっています.戦争がこうなれば,いつどんな秘密連絡無電があるかもしれませんし,それを発見するには,どんな手段でもやらねばなりませんからね.個人宛の手紙も開封するし,電話の傍聴もやります.世間の考えておるように,逓信局は電信や手紙,貯金ばかりと思ったら間違いですよ.戦争ですからね.……もちろん,憲法の規定は規定ですが……」

伊藤係長は,ニタリと笑った.

「その通りです.それで捜査の方は,私の方の特捜班にやらせますから-.よく連絡してうまい具合にやりましょう」

「特捜班?」

「エー,これは私どもの地下組織です.世の中がせち辛くなってくると,あっちの工場,こっちの職場で,いろんな事件が起こりましてね,今までのような通り一辺の警察ではやって行けなくなりましたよ.それで去年の春頃から,特捜班というものを作って,街に沈めてあります.役所には全然出てこないし,私服を着ておるし,それに科学的な捜査設備をもっているし,市民にはわからないよう055してあるんです」

「ホー,なるほど」

「近頃,支那人の国家観,社会観と言いますか,意識の高まりは非常なものでしてね.打倒日本帝国主義の落書きは,工場や街角など,市中の至るところに書いてあるし,戦争を邪魔しようとして,放火や破壊工作等何でもやる.例の満州石油会社の大火事も,支那人労働者のやったことですよ.金も酒も女もいらないというのですから,普通の犯罪と違って相手が悪い.どうも思想犯は一筋では行きませんよ.対策はただ一つ,弾圧,徹底的な弾圧です」

その頃,大連の支配層は大きな不安を感じていた.敗戦の色がますます濃くなるに従って,中国人の盛り上がってくる気迫が,ヒシヒシと感ぜられた.侵略戦争をやりぬくために,支配権を維持するために,必死に狂い廻った.血生臭い弾圧のテロが,次々と至るところで行われ,目的のために手段を選ばなかった.

翌朝,関東省庁外事課長室の空気は,ビーンと鋭く緊張しておる.課長が右手の肘をテーブルに突いて,煙草を持った左手を額にあてている. 坂本主任が,低い陰気な声で押さえつけるように,前の二人に向かって,

「そういう訳で,今度の事件を挙げるかどうかということが,外事課特捜班の試金石だ.今まで無駄飯を食って遊んできたことも,今回のための準備だったのだ.八路の後方攪乱工作を滅茶苦茶にし,ソ聯の情報工作網をたたきつけてやるんだ.聖戦を遂行するため,関東省の治安を維持するために,056どんな犠牲も考える必要はない.徹底的にやっつけるんだ.支那人の一人や二人どうなろうと構やしない」

ゴクリと唾を飲み込んだ第一係長が,顔を硬直させて,低いひきしまったような声で言った.

「やりましょう」

「うん,それで皆は?」

「召集をかけて分室に待機をしております」と,特捜班長が答えた.

「よし,では絶対秘密で決して人目につくようなことがあってはならない.逓信局の技術者とよく連絡をしてすぐやるんだ」

「分かりました.しっかりやります」

二人は立ち上がった.小鼻を膨らまし,フーッと息をすると,とりつかれたように目を光らして飛び出していった.


それからの大連の街には,毎日寒い日が続いて,アスファルトの道路に粉雪が飛び舞った. 二月末の短い冬の日が暮れると,郊外黒石礁の海岸は波も凍って,二,三日前に降った粉雪が,地面をウッスラと覆っていた.月が乱れ雲に姿を現しては,また隠れた.アカシヤの疎林の中に,真っ黒い人影が点々と地面を這って動いて行く.森の中の一軒家の窓下に,黒い姿が貼りついていたが,急に立ち上がると,パンと扉を蹴飛ばしてとび込んでいった.

057「別動!」

真っ黒いモーゼル拳銃が,テーブルの前に座っていた若い中国人にピタリと向けられた.卓上には無電機械がおかれて,ランプが明るく輝いておる.中国人はスックと立ち上がって侵入者に目を向けた.双方の視線がカッキと合って,空中に火花を散らした.続いて侵入してきた黒蔭がスーッと近寄ると,ピシャーンと横顔を張りとばした.つぎの黒いかげがよろめいた中国人にいきなり組みついた.二人はストンとその場に倒れた.黒い蔭がいくつもその上に折り重なった.全てのことがアッという瞬間の出来事であった.

「アーッ」と,隣室から若い女のたまげる声がして,赤ん坊が激しく泣き出した.物の倒れる音,罵る声,全てのものが混沌として激しく渦巻いた.その中からひからびた鋭い声が響く. 「無電機はもうないか?」 床に据えられた中国人は無言である.ピシャーンと誰かがまた張り飛ばした.

「聞こえないか?」

中国人は憎悪に燃える目で,黒い男をジーと睨みつけて一言も語らない. 「ヨシ,四,五名が残って家捜しし,他は引き上げろ!」 中島の声がして,黒い蔭の一団は,高手小手に縛り上げた若い中国人と胸に赤ん坊を抱いた若い母親とを真ん中にして,ドヤドヤとつむじ風のように出ていった.

「跪上!」

コンクリートの床の上に立った若い中国人は無言.

058「この野郎!」 赤鬼のような大男の特務が足を上げると,いきなり蹴飛ばした.

「仲間は誰だ?言ってみろ」 若い中国人はあくまで無言,目は焔と燃えて特務の顔を睨んでいる. 「よーし,言わんな.女に聞くぞ」

若い母親が両方の肩を鬼どもにつかまれて引きずり込まれた.真っ青な顔に,髪の毛が乱れて,赤ん坊をしっかり抱いている.夫を見ると,近寄ろうとしたが,両側の特務に「跪上,跪上」といってその場に押さえつけられてしまった.

「お前の夫の仲間は誰か?知ってるだろう?」 若い母親は夫の方をチラと見たが,そのまま固く口を閉じてしまった.

「誰だ?」 赤鬼の特務がかみつく. 「痛い目にあわないうちに言った方が身のためだぜ!」

「我不知道」

「何を!」 赤鬼の特務は手にしていた革鞭を,ヒューと音をさせると,母親の背中に打ちおろした. 「アイヤー」と母親は後にのけぞる.膝の赤ん坊は火のついたように泣き出した.ヒューとまた鞭が振り下ろされた. 「アイヤー」と若い母親は今度は体を海老のように前に曲げて,両肘を張って,赤ん坊を必死になってかばった.赤ん坊は息も絶えよと泣く.

「妻は何も知らない」 身動きのできない中国人は,血を吐くように叫んだ.

「てめえに聞いてるんじゃない,黙っていろ」と憎々しげに赤鬼特務.若い母親は無言で,身体を丸くして子供を抱き込み,ピッタリと頬をつけたまま,激しい呼吸に全身を波打たせている.赤ん坊059はひた泣きに泣き続ける.

ややしばらくして,若い母親の無言の抵抗に手を焼いた特務は,「うるさい餓鬼だ,お母ァ乳を飲ましてやれ」 母親は我が子を抱えなおすと,急いで胸元を広げ,子供の口に乳房を含ましてやった.室内の視線を一身に集めて,赤ん坊は一心に吸い出した.暫く吸っていたが,乳房から口を離すと,また激しく泣き出した.母親は右手で自分の乳房を強く握ってみた. 「乳が出ない!乳が止まった!」 低い鋭い絶望の叫び声が,母親の口から洩れた.忙しく動かす子,真っ青な顔,乱れた髪,焦った目,半ば開かれた口,と突然襲ってきたあまりの不幸に,母親の心身は打ちのめされて,乳が止まってしまったのだ.

特務たちは顔を見合わせて,ニヤリと間を置いて,「だからよ,よく落ち着いて考えてみな.仲間を思い出せば,赤ん坊に乳もやろうし,お前の乳も出てくるように旨い物をやるさ,ナ,思い出したか?」 声を落とした赤鬼特務は,放心した彼女の心理につけ込んで,ジワジワと攻めていく.

「ナ,お母ァ,あんまり赤ん坊を泣かせるもんじゃないぜナ」

「それとも親子諸共痛い目をする気か」と,猫撫声だが,ますます陰惨な響きに変わっていく. 「妻は何も知らないんだ.知らない者をいじめてどうするんだ」 身もだえして夫は叫ぶ.

「ホーではお前に聞こう.おいコイツをあっちへ連れていって叩き上げろ」

側で始終を見ていた中島課長が言うと,四,五人の特務がバラバラと集まって中国人を引き立てて肩先を邪険に小突いた.

060「走ー」

若い母親は思わず身体を動かしたが,声を呑んで着物の端を固く握りしめ,引き立てられて行く夫の後ろ姿を食い入るように見送った.

「腹が空いたかの,ハッハッハ」 母親は何も耳に入らない.一心に口を動かしていた赤ん坊を抱き直して,その口に自分の口を押しつけた.ドロドロになったパン汁を赤ん坊の口に移してやった.赤ん坊はヒタと泣き止んだ.それはあまりにも凄まじい母親のひたむきな親心であった.だが良心を無くした漢奸特務たちは,母親のその愛情にすかさずつけ込んで責め立てた. 「お母ァパンはまだあるぜ.サ,仲間を話してみな……」とパンを打ち振る.母親は固く口を結んで目を閉じた.そして膝の上でモジモジと赤ん坊が動くと,その上に顔を伏せてしまった.肩が大きく波打っていた.


それから一時間もした頃,年の頃四十歳前後,しっかりした労働者風の中国人夫婦が縛り上げられて,コンクリートの床の土に引き据えられていた.

「そうだ,無電技手を領導していたのは俺だ.女たちは何も知らない.働く人たちの幸福な世の中を作るために,働く人たちの不幸を無くするために,日本の侵略に反対してやったことだ!」.そう言い切った彼の顔は,崇高な確信に充ちて落ちついていた.

「今お前たち日本鬼子がこの俺を殺しても,百人の俺が,千人の俺が,数え切れぬ中国人が,すぐにお前たちをやっつけるぞ.立ち上がった中国人は,自由と解放のために,どこまでも戦い抜くのだ.061最後の勝利は俺たちにあるのだ.お前たちの崩壊は目の前に来ておるのではないか!お前たちは日本帝国主義が勝つとでも思っているのか?」

彼の言葉は火のように燃えて,全身は激しい不滅の闘争を叫んでいた.そして腑に落ちぬ顔つきで,不安そうに取り巻いていた周囲の獰猛な特務を,毅然と蔑むように見廻した.

「チェッ,ツベコベいうな」 怒った漢奸特務が革鞭をとると,ヒューヒューと音を立てて彼の身体に滅茶苦茶に打ち下ろしていった.歯を食いしばって痛さを堪えてはいるが,怒りに燃えた顔は,みるみるうちに腫れ上がっていった.風を切る革鞭の唸りに,凄惨な気が部屋中に満ちて,悪魔の夜が白々と明けていった.


三月も終わりに近くなると,さすがに寒気も薄らいできた.昼頃から降り出した雪が,ねずみ色の人魂のように,フワフワと流れていった.

「いいか,お母ァ,今日はお前を帰してやる.二度とこんなことにかかわり合いになってはならないぞ」 「あの私の夫は?」と若妻は飛びつくように聞いた.何日間彼女は,このことを考えていたことだろう.すっかりやつれはてて,目の周囲に大きな黒いくまどりができていた.

「知らないよ!多分これだろうさ」と青顔の目付きのよくない特務が,右手の掌で自分の首筋をチョンとたたいてニヤリとした.

「エッ……」 瞬間声を呑んだ若い母親は,子供を抱いたまま,その場に座り込んでしまった. 062唯一のたのみの綱がプッツリと切れてしまった.あまりのことに,呆然として眼が大きく開かれ,半ば開かれた口に,黒髪がバラバラと乱れかかった.働く人の幸福のために,中国人の幸福のために働いた私の夫のどこが悪いんだろう.今まであんなにたくさんの中国人を殺して,私の山東の家を焼き払って,そして今度はまた私の夫を殺すのだ.何という人でなしだろう.鬼子だ!彼女のはらわたは,激しい怒りと憎悪ににえくり返って,目先が真っ暗になった.

「立て!帰れ!」 雪はますます降ってくる.その中を若い母親は,放心したようにトボトボと歩いて行った.いったん地面に落ちそうになった雪片が,またフワフワと舞い上がって,あたり一面薄鼠色に閉ざされ,少し先の人が地獄の影絵のようにぼんやり見える.上着のボタンをはずして懐に赤ん坊を抱えこみ,慟哭する彼女の上に,赤ん坊の上に,雪が降りかかった.この一カ月,突然襲ってきた背負いきれない苦労が,何も知らない善良な若い母親を,すっかり痛めつけて,夫を奪い,生きる目途をなくしてしまった.

何のために,かくまで苦しまねばならぬだろうか?これから先どうして生きて行こうか?極度の傷心が,彼女の心を閉ざした.彼女は雪の中にフト立ち止まった.懐の赤ん坊の体温が母親に伝わって,母親の気持ちを揺さぶっていた.

「そうだ,私はここでくじけではならないのだ.この子のためにも,幾百千万の中国人のためにも,私は負けてはならないのだ.どんな迫害があっても,私は負けてはならないのだ.私はきっと最後に勝利するのだ」

063強い信念が彼女の心に湧き上がってきて,体に力が満ちてきた.引き締めてくる緊張感にブルブルと身震いして,赤ん坊をかかえ直すと,その重みが彼女の手にズシッと感じられて,彼女を強く現実によびもどした.

「そうだ,私は生き抜いて勝たねばならぬ.きっと勝てるのだ!」

彼女は赤ん坊にかかった雪を払いのけた.そしてふらつく足を踏みしめ,歯を食いしばりながら,また雪の中を歩いて行った.雪はまだ激しく降り続いている.

 

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1 Sakamoto Kiichi (Pseudonym)
2 Guandong, alte Provinz
3 Dalian (jap. Dairen), früher Lüda oder Lüta; eine Hafenstadt in Liaoning
4 Da/Dai-an/guang-chang, Regierungsbezirk
5 Itô, 逓信局無電探知係長
6 Chabarowsk Хабаровск, nahe der Grenze zu China. Dort Gefangenen- und Umerziehungslager
7 Nakamura, 関東Guandong省庁外事課長