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ある朝突然村をのみ込む白い煙
毒ガス

松下勝治1


[略歴]

年齢 三十九歳

出身 埼玉2県秩父3

学歴高等小学校

職業 農民

旧部隊 第一0七師団一0七野砲聯隊第五中隊 内務係准尉


車窓には起伏する山々が遠く浮かび,なだらかな丘や点在する部落が飛んで行く.いつの間にか列車は,錦州4駅に停まった錦州と筆太に書いた文字に,私の目は釘付けになった. 「そうだ,あのあの丘も,この町も,部落も,みんな過去銃剣を引っさげた醜い自分が,泥靴で踏みにじった土地だ」…… 私の頭の中は,当時のありさまが,まざまざと建ってくる.

一九三一年日本帝国主義の侵略以来,人民の生活は破壊された. 一九三七年日本帝国主義者どもが,侵略の魔子を中国の中心部に伸ばしてからは,自分の作った粟一粒でさえ食うことができなくされ,一家は離散し,餓死しなければならない悲惨などん底に突き落とされた.

それにも増して,一九四一年日本侵略軍隊がこの錦州の町に侵入してから,中国人民は,自分の町を自由に歩くことさえもできなくされ,二人集まれば,背後に銃剣が迫った.村の中であろうが,042畑であろうが,所かまわず,毎日毎日砲車が荒れ狂い,汗水流して作った作物を,滅茶滅茶に踏みにじった.農民たちは家に帰るにも,畑に行くにも,絶えず周囲に気を配らなければならなかった.いつ,どこで日本軍と出会うかも知れないからだ.出会ったら最後,「馬鹿野郎どけどけ」と,頭から怒鳴りつけられ,少しでもとまどおうものなら,鞭でなぐりつけられるか,砲車に引き倒されるにきまっているからだ.

当時の私は,一切の生きる権利さえ踏みにじられた中国人民の心情を知らず,「日本軍隊がいるからこそ,安心して彼等は生活できるのだ」と考えており,「この位のことは問題にならない」と,ますます横暴をきわめて行ったのだった.


それは,一九四二年の春のことだった.静かな朝が明け始めた頃,部落の北方約五百メートルの林のむこうへ,野戦重砲兵第二聯隊長山下政義5中佐は,聯隊の将校下士官全員約百数十名を引き連れて忍び寄って行った.周囲の部落は,まだ静かな眠りを続けている.

突然「演習開始」,聯隊長のしゃがれ声があたりの空気を震わせて,林の中に消えた.

防毒面を着けた将校下士官の集まりの目玉が,一斉に水上発煙筒を握った,兵技軍曹海老原6の手に集中した. 海老原の手が,得意げに動いた瞬間「シュウシュウ」と不気味な音をたてて,白色の煙が吹き上がった.それが見る見るうちに,悪魔のように大きく広がり,あたりを濃い煙幕で包んで行った.

043「頃合い好し」と見た聯隊長は,平然と緑筒[催涙弾]に点火を命じた.二本の筒から放出する黄色いガスは,見る見るうちに煙幕の中に身をひそめ,風速三メートルの北風に乗って林をくぐり抜け,はうようにして,音もなく部落に迫って行く.部落の人々は,誰がこの恐るべき悪魔が襲いかかろうとしているのかを知る者があるだろうか?

「次だ次だ」 血に狂う狼のような聯隊長は,人間の生命を奪う恐ろしい赤筒[チッソク性ガス]に点火を急いだ. 海老原軍曹は,無表情のままに点火したのだ.

聯隊長山下7は,さも満足げに,放出する煙の行くてを見送っている.悪魔の煙の先端は,すでに部落に侵入し,またたく間に完全に部落を呑み,一瞬にして残忍目を覆う生地獄と化した.

人々の怒り泣き叫ぶ声が,遠く畑を越えてくる.人々は七転八倒の苦しみの中で,子供を抱え,老婆を背負って,死の淵から脱け出すために,必死に走った.やっと西方の飛行場にたどり着きはしたが,誰もが激しい苦しみに,地をはいまわってもだえ苦しんだ.

一人の老婆と五,六歳になる可愛い女の子は,激しい毒ガスのために,昏睡状態の重態に落としこまれてしまっていた.誰もが燃えたぎる怒りをおさえることができず,口ぐちに,日本軍隊の非道をののしった.その日は火と燃え,こぶしが震えている.もしも日本軍が目の前に立っているなら,ひとたまりもなく引き裂かれてしまったに違いない.それから約二時間は過ぎた.


聯隊長山下に,現地調査を命ぜられた軍医中尉が,下士官,兵数名を従えて,部落民のところへの044このこやってきた.これを見た一人の青年は立ち上がって,軍医に飛びかかっていこうとしたが,老人に引き止められて,やっと止まった.怒りに燃えた皆の目が,一斉に軍医を射た.

これに震え上がった軍医は,二,三歩後に下がり,あわててポケットの中から聴診器を取り出し,ゴクンと生つばを呑み下し,やっと冷静を装った.そしてお世辞笑いをしながら,いつもとはうって変わり,さもていねいに,「いやこれはこれは済まないことをした.実はこんなことになるはずではなかったのだが,急に……その風向きが変わったので……」,とずうずうしくも嘘ぶいた.

皆の胸に新しい怒りがぐっとこみ上げて,誰も何も言わない.軍医は,もう一人ひとりの顔をのぞき込むようにして,調査に余念がない.軍医は,数名の者に固まれて寝ている,先刻の老婆を見つけると,得たりとばかりに急いで近づいて行った.だが婦人たちに行手をさえぎられて,やむなく後に下がった.

彼は「どうしたのかね,どこが痛むかね」と,白々しい態度で聞いた.もうがまんできなくなった老人は,「毒ガスでこんなになってしまったのだ」と,静かではあるが,鋭くたたきつけた.だが,軍医にはヌカに釘であった.

「そうか……そう心配したことはない.すぐ良くなるよ」と,軍医は一つの目的をつかんだので,

内心喜んで軽く受け流し,「もうだれも部落に残っていないか?」と,老人に問うたが,やっと全員が脱出できたことを聞いて「それは良かった」と,さも心配しているように言う彼の態度は,明らかに,落胆と不満が満ちみちていた.

045この非人道極まる日本軍隊を,誰が憎まない者があるだろうか?断じて許すことはできない.しかも彼等はずうずうしくも,この現実を否定するためにやっきとなり「部隊の将兵に対する防毒訓練が目的であり,これは意志なき行為である」と,中国人民を欺瞞しようとしたのである.私はこの言葉を信じ切っていた,全く愚かものであった.


もし誰かが,今なお彼等の言葉を信じているというなら,私は聞きたい.

まず放毒地点から見て,なぜ四方部落に固まれた真ん中を選んで行ったのか?しかも風上にあった兵舎にいる兵隊に防毒面を着けたばかりでなく,馬にまで防毒面を着けておいて,まさか附近の部落に危険がないとは言えまい.この地におった日本軍部隊に同地区附近に立ち入らぬように事前に通報しておりながら,なぜ同地区内の部落に知らせなかったのか.その日の島8聯隊長は将校全員を集め,軍医をして被害情況調査報告を行った後,毒ガスの「効果」を力説したのは,何を意味するか?この事実からして,「意志なき行為だ」などと言えるものではない.事実は明らかに,彼等がいかに綿密周到な計画の下に実行したものであるかを物語っている.

彼等は何のためにこれを行ったか.その主な目的は,ソ同盟に対する侵略の準備であった.

普通の戦闘ではソ同盟の強大な武装力に打ち勝つことはできないことを,彼等にも分かっていた.

そこで侵略の目的を達成するために,国際法を踏みにじり,毒ガスと細菌を使用して,目的を達成する計画を立てたのである.そのために,彼等は逆に「ソ同盟軍は必ず毒ガスを使用するに決まっている046のだから,われわれはガス教育が必要である」と,常にソ同盟を中傷し,その蔭で,公然と毒ガス使用法を兵隊に教育していたのである.

日本軍が毒ガスを使用したことは,以前からのことであった.中国侵略行動中においても,やはり使用したのである.私が所属していた野戦重砲兵第二聯隊第一中隊でも使用した. 一九三八年四月山東省徐州9侵攻作戦中台児荘10の戦闘において勇敢な抗日軍の猛反撃に会い,日本軍は決定的な打撃を受け,一歩も前進できない状態に陥った時だった.

ある日の夕刻,中隊長菊地光明11大尉は,聯隊長木下12大佐の命により,泥溝部落附近の抗日軍陣地に対して,赤弾[チッソク性ガス]十数発を使用し,毒ガスによって勇敢な抗日軍戦士を虐殺し,ついに同陣地を占領したのである.同陣地に突入した歩兵部隊によって,毒ガスで虐殺された抗日軍戦士四名の死体が,部落内において発見された事実か,りして,いかに厳重な被害を与えたかがはっきりと分かる.

このように人類道徳をかえりみず,神聖な国際法を踏みにじりながら,なおも悪辣にも事実を隠蔽するために,やはり多数の発煙弾をガスとともに発射したのである.そして,日本政府は世界に「日本軍隊は決して毒ガスは使用していない」と嘘ぶいていたのである.

残虐と欺瞞陰謀,これが日本軍隊の実態である.

 

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1 Matsushita Masaharu, Oberfeldwebel
2 Saitama, japanische Präfektur
3 Chichibu, Landkreis in Saitama
4 Jinzhou, Industriestadt in der Provinz Liaoning
5 Yamashita Masayoshi, Oberstleutnant
6 Ebihara, Feldwebel
7 Yamashita Masayoshi, Oberstleutnant
8 Shima, 聯隊長
9 Xuzhou, in Shandong
10 Tai'erzhuang
11 Kikuchi Teruaki, Hauptmann
12 Kinoshita, Oberst