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はじめに

はじめに

この本は,「平和のための大阪1の戦争展」の,貴重な副産物です.

というのは,実は,一九八八年[昭和63]の戦争展に,中国帰還者連絡会から,ナマの手記資料が百十点も出展提供があり,手記の展示コーナーには,連日,超満員の人波が襲いました.中学生,高校生,親子連れの参観者が,たった九日間の会期に,約二0万人も押し寄せ,運営資金の場内募金は百三十万円を突破するなど,熱気をはらんだ会場からは,

「展示だけでは読みきれないから,ぜひ,出版してほしい」

「ぜんぶ読みたいので,手記を貸し出してくれないか………」

という熱心な声々が,初日から,事務局に何百人もの方から殺到してきました.手記の趣旨を生かすためにも,参観者の読みたい願いに応えるためにも,出版するしかない…….戦争展の事務局団体会議と,事務局を置いている機関紙協会の理事会が,共同発行することを全会一致で決め,005中国帰還者連絡会の全面協力を得たのは,九月のことでした.


では,どのようにして,数十年も保管されていた手書きの第一資料=手記が,発掘できたのでしょうか.それは主に,吉岡光三2さん[五三]=仮名の,発掘に心血を注いだがんばりの賜物でした.

戦争展の実行委員会では,年間を通じて,平和や侵略を物語る「証拠の品々」を,人から人を頼って発掘し,証言者を募ってきました. 吉岡さんは,休日を使って,近県の元憲兵のXさん[六八]に何度も電話をかけて,電車で二時間もかかる自宅を訪問して話しているうちに,証拠の品々では,

「……昔,戦犯管理所で書いた反省文が,日本に来ているような,話を耳にしたことがある……」

と,ひと言,洩らした言葉を大切に受け取って,すぐ東京3に飛んだのです.そして,いろんな苦労があって,最後に,中国帰還者連絡会の富永正三4会長の配慮で,手記資料百十点に,ようやく出逢うことができたのです.

出版に際しては,連絡会の方で,執筆者や遺族の方々の許諾をとっていただき,健在な方からは「追加の一言」を寄稿してもらいました.その後,連絡会の配慮によって,約五0点の手記資料を貸与されました.

手記資料の実物は,長い歳月を経て,腿色など用紙の痛みがひどくなっています.手記の真偽を疑われることがないように,入手した手記は,執筆者名を消して,ここに記録を公開し,第三集の発行を予告することにしました.

006アジアの諸民族を侵略し,非戦闘員を虐殺するように仕向けられた天皇の軍隊の実像を,孫子の代まで語りつぎ,永世の崩れぬ平和をともに築き上げようではありませんか.

一九八九年二月

小森孝児5

平和のための大阪の戦争展実行委員会事務局長

 

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1 Ôsaka, japanische Großstadt
2 Yoshioka Kôzô (Pseudonym)
3 Tôkyô
4 Tominaga Shôzô, geb. 1914, Vorsitzender des Vereins der China-Heimkehrer
5 Komori Kôji, Leiter der Ausstellung in Ôsaka