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あとがき

富永正三1

中国帰還者連絡会会長

『三光』は世にも数奇な運命を辿った本である.いまから二七年前,神吉晴夫2[光文社]によってカッパブックスの一冊として出版されるや忽ちベストセラーとなったが,すかさず右翼の妨害を受け,市場から姿を消した.一昨年夏,森村誠一3氏の『悪魔の飽食』が大評判となっていたころ,これとならんで『新編三光』第一集,第二集の出版が同じ光文社で計画され,第一集が出ると『三光』はふたたびベストセラーとなった.

ところが間もなく『悪魔の飽食』の写真誤用問題が燃え上がった.ときをほぼ同じくして『新編三光』に掲載された写真のうちの一枚に説明の誤りがあることが指摘され,これを契機に『新編三光』は右翼の猛烈な攻撃にさらされることになり第一集は市場から引き揚げられた.このとき第二集は第二校を終えていたが,上記のような事情によってついに日の目を見ることができなかった.

その後,曲折を経て森村誠一氏のお骨折りと晩聲社和多田進4氏の決断によって,第一,第二集をまとめ完全版『三光』として三たび世の中に姿を現わすことになったのである.私たち手記が『三光』の名を冠して世に出るのは,おそらくこれが最後であろうことを思うと,いささか感慨を禁じ得ない.

274「何故いま三光か」については,本多勝一5氏の「まえがき」に引用されている通りで,私たちに道を誤らせた状況がふたたび色濃くなっているからである.

ここに収録されている手記は私たちの体験のほんの一部である.私たちは満洲事変-関東6軍が自分の手で鉄道を爆破,それを中国軍がやったとして事変を捏造したことが戦後明らかになり,その延長上に蘆溝橋7,太平洋戦争がある-を契機とする道義なき対中国侵略戦争の中で非人道の蛮行を重ねたのであった.これが侵略戦争の実態であり,森村誠一氏の「まえがき」に詳述されているように私たちだけが特に例外的だったのではないということである.もちろん,こう書いたからといって,私たちの当時の蛮行がいささかも免罪されるわけでないことはいうまでもない.

私たちは,一九五0年,対中国戦犯としてソ連8から中国に引渡されたのち,必ず酷(ひど)い報復を受け,生きては帰れまい,というヤケクソの気持で中国側に反抗的な態度をとりつづけたのだった.ところが,中国人民・戦犯管制所の職員は,私たちの予想に反し,私たちにいささかの復讐的態度もとらず,一度も侮辱的言辞を使用しなかった. 「罪を憎んで人を憎まず」という中央政府の戦犯処遇の方針を厳守したのである.食事は職員は一日二回の食事であるのに戦犯である私たちには三回与え,病人が出ると徹底的に看護し,重病人は外の病院に入院させるという状態であった.はじめ,私たちはそうした中国側の態度を疑ったが,それが一年,二年とつづくうちに,なるほど人間の取扱いは本来こうあるべきで,かつて私たちが中国人を人間としてではなく虫ケラ以下に取扱ってきたのは間違っていたと自分の過去を見直す眼が開かれていったのであった.

また,「上官[司]の命令さえなかったら」という自己合理化,自己弁護の思想も,殺される被害者275の立場からみれば,上官の命令か本人の意志かの区別は問題にならないこともわかった.

このようにして次第に認識を深めて,最終的には程度の差はあれ,これではどのような刑罰を受けてもそれは当然であると考える心境に私たちはなったのである.このような段階一九五五年どろ]で,本書に収録された手記が書かれたわけだった.自分の過去を断罪する意識の高揚の中で書かれた手記であるため,自分らの悪を極度に強調する傾向があることは否定できない.しかし,書かれている内容は事実であり,それは各手記の後につけられている現時点での筆者の感想でも明らかなことである.

一九五六年春,軍事法廷が設けられ千百余名中四五名[うち九名は太原9組]が起訴され,他は不起訴即日釈放となった. 五六年中に帰国,起訴された人は禁固一二年から二0年[ソ連の五年,中国の六年計二年は刑期に算入]の刑に処せられたが一九六四年[昭和三九年]三名の釈放を最後に,全員帰国した.

なお,後になってわかったことだが私たちの管制に当った職員のある人は抗日戦の参加者であった.また,全員が自分もしくは身内に日本人に酷い目に遭わされた被害体験者をもつ人であったという.そうした人びとは,はじめ私たちの反抗的態度に煮え返る怒りを抱き,ある看守は「奴等を北満の広野にひき出しみな殺しにすべきだ」と叫んだほどだったという.

また,「おれたちは二度の食事で我慢し彼らには三度も食事を与えているのに,あの態度は何事だ!」と食缶を蹴飛ばす者もあり,転勤希望者が相つぎ,所長は中央の方針に従い説得するのに骨を折ったともいう.

しかし,私たちの態度が変るにつれ,職員も政策の正しさに自信を持ち,職務に精励し,それが276また私たちに反映し,政府の方針と管制に当った職員の個人的感情を乗り越えた高度の人道主義精神に触れて私たちは鬼から人間へ立ち帰ることができたのであった.

読者のかたがたが本書に収録された手記によって,日本人は中国で何をしたか,戦争は人間を鬼にすること,また,中国人民が高い道義性を発揮して私たちを鬼から人間に生還させてくれたことをわかっていただけたら幸いである.

最後にこの出版に当たって「まえがき」をいただいた本多勝一氏,森村誠一氏のお二人と出版を引き受けて下さった晩聲社の和多田進氏,それから手記の発表に御協力いただいた会員諸氏に心から感謝の意を表します.

一九八四年三月

 

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1 Tominaga Shôzô, geb. 1914, Vorsitzender des Vereins der China-Heimkehrer
2 Kamiyoshi Haruo
3 Morimura Seiichi (1933 geb. Kriminalschriftsteller, Verfasser von 『悪魔の飽食』)
4 Watada Susumu
5 Honda Katsuichi, verfaßte (nicht erfaßtes) Vorwort zu Bd. 1 und 『中国の旅』
6 Guandong, alte Provinz
7 siehe Luguoqiao 芦構橋
 Die Sowjetunion
9 Taiyuan, Hauptstadt der Provinz Shanxi 山西, Gefangenen- und Umerziehungslager