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22

人間と鬼
農民を火あぶりにし生き埋めに

松尾富男1(まつお・とみお)

曹長


波清のうねりのように,いくすじも岩山の起伏する山東2(さんとう)省莱蕪3(らいぶ)県と博山4(はくざん)県の県境,その山間に点在する村落では,昨日まで秋のとり入れに忙しかった.老幼男女のはずんだ歌に微笑を浮かべて,収穫を楽しんでいた村人の温和な顔は,今日は血の気を失い,憎悪と死の恐怖が,四年間の抗日の戦いに生き抜いてきた"しわ"に暗くきざまれていた.

また日本軍が侵入してきたのだ!!カーキ色の軍服,血走った幾百の眼が飢えたけだもののように不気味な光を放ち,狭い村の小道や藁葺き屋根の下をうごめきまわっている. 「バリバリ」叩き割られる扉,「ガチャンガチャン」打ち壊される金物の音にまじって,「畜生,逃がすな」「こっちだ,こっちだ」「撃ち殺せ」人間の皮をかぶった悪魔の怒声!! 「アイヨ,アイヨ」はらわたをえぐる,年寄り,女の悲痛な叫び,幼児の甲高い泣き声.隣りの西要関5に,もうめらめらと火の手があがった. 258灰色の朝もやに包まれていた莱蕪県茶葉口6(さようこう),要関一帯は一瞬にして修羅の巷と化してしまった.それは一九四一年九月中旬であった.太平洋戦争発動のため,日本帝国主義者は是が非でもその兵站(へいたん)基地としての華北7(かほく),山東(さんとう)の確保が早急な問題だった.だが,その山東では日ましに燃えあがる抗日の火,八路軍の息つくひまもない急襲によって,各地の分屯隊はひとたまりもなく,つぎつぎと陥とされた.十二軍司令官土橋一次8は遮断壕の構築や偽軍の増強にとあわてふためき,抗日根拠地に対する"掃討"を行ない,徹底した三光政策で解放区の覆滅(ふくめつ)を企図したのである.このいわゆる『博西(はくせい)作戦博山西方地区の作戦]もその一つである.

「働けそうな男は全部縛ってこい.家畜糧秣は一匹一粒たりとも残すな.あとは住めないように家財道具,鍋釜,鋤鍬(すきくわ)まで全部叩き壊してしまえ!!」これがつねに「焼くな,犯すな,殺すな」を口にし「日本一の赫々」(かっかく)たる戦果をもつわが旅団)と,ことあるごとに豪語していた悪名高い独混十旅団長少将河田健太郎9が,私の所属する四五大隊に出発のさい命令した言葉である.

私は小隊長納谷10少尉の伝令兵として中隊を離れ,一中隊に配属になったが,松尾浜田11隊の名誉を汚すな.お前は下士官候補者であることを忘れるな」 "首斬り浜田とあだ名のある中助[中隊長の蔑称]の浜田中尉の言葉がつねに私の頭から離れなかった.そうだ,よその中隊の中でひとつアッという手柄をと,作戦の最初から私は一物も見のがすまいと,ずんぐりとした体の小隊長につきまとって行動していたのである.

村落東側の小高い住みなれた丘の上に,村を守ろうとふみとどまったのか?それとも若い者の足手まといになると考えとどまったのか?五十歳を越した老人老婆の二十数名が一つによりそい259「私たちは農民です,悪いことはしていません」と代わるがわる訴えている.その前に軍刀を握りしめ,肩を怒らせた納谷小隊長と私が血走った眼つきで睨みつけている.胸さきに突きつけた私の銃剣が,九月の陽光にギラギラ不気味な光を放っている.二間[約三・五メートル]離れたところに,同年兵の西浦12が引金(ひきがね)に指を入れたまま,あたりを警戒しており,ときどき農民たちに銃口を向け,威嚇していた. 「てめえら,言わぬか!!八路軍の隠匿兵器があるはずだ,隠さず出せ!!」と吠えるような納谷の声に,「言わぬとぶち殺すぞ!!」と私はつづけた.一瞬,百姓たちの見合わす顔に困惑と恐怖がただよった.

だが,その奥底に光る眼光は少しも変わらない.息づまる沈黙の中にわずかにずり出た病みあがりらしい男が「大人,私たちはなにも知らない農民です,このとおりです………」と節くれだった太い指と真っ黒い両手をつき出して訴えた.

「わからない?よくわかるようにしてやる!!」と眼をむいた納谷は私をあごでしゃくった.本能的に銃剣片手にその男に飛びかかった.ほとんど同時にズズッと私の眼に老人老婆,子を抱く女の数名が「他的有病(タアデユウピン)[彼は病気です]と叫びながら男をかばった.その眼は火のようだ.

「撃ち殺すぞ!!」と西浦が槓桿(こうかん)[弾を装填するレバー]をガチャガチャして怒鳴った. 「ち,畜生,ふざけるな」 うろたえた私は,夢中で銃剣を振りまわして軍靴で蹴り上げた. 「アイヨ,アイヨ」と数名が傷ついた.私はやっと男に近づくと,その男の肩を力いっぱい,二つ三つ,殴りつけ,胸ぐらをつかんで納谷の前に突き倒した. 「ふふん!ちゃんころ[中国人の蔑称]め,驚くなよ」 せせら笑った納谷の軍刀がキラリと光り,鞘(さや)を離れた.男の顔からスーッと血の気が引いた. 「白状せよ!!260小銃弾一発でもよい,言えば助けてやる,どうか?」猫なで声で迫る納谷. 「私たちは農民です,ほんとうになにも知らないのです」 真っ向からぶつかってくる農民の声は静かであるだけに,たまらない威圧を感ずる.

「このちゃんころ!!叩き斬るぞ!!」 吠えた 納谷の軍靴が男の顔面をはげしく蹴った. 「アッ!!」 鉄鋲(てつびょう)[軍靴の底についている鋲]が食い込み,裂けた箇所から流れる血が変形した顔を染める.だがその眼は射るように私たちに挑みかかっていた.武器を持たぬ人間の迫りくる言いようのない威圧に,じっとしていられず,いらだった私は,素早く水筒の水を納谷がおうへいに突き出す軍刀のみねに流すと,踵(きびす)を返し,苦痛にあえぐ農民につめ寄った.片手で銃剣を突きつけ,左手で男の髪を鷲づかみにし,ぐいとねじ上げ,首すじを伸ばさせた.病気のためか,男はもう動作でこそ反抗はしなかったが,その体じゅうより発する不屈の気配を私は全身に感じた.

急にざわめく村人のなかから,「彼は農民です,助けてください………」血を吐くような叫びが潮のようにつづいた.斬殺の迫りくるを知った村人は,涙にくもるその顔を何回も何回も地面にすりつけて嘆願した. 「うるさい,死にたくないなら兵器を出せ」と怒鳴る.ギラギラする白刃と銃剣,自分を狙っている銃口の前にも,村人はひるまず死への抗議をつづけた. 「よく聞け!!お前たちが兵器を一挺でも出せば助けてやる」 男の首に白刃をあてた納谷は,「いやなら叩き斬るぞ!!」とうわずった声でわめいた.

泰然としていた男は「鬼子!!われわれは中国農民だ,知らないことは絶対に知らないのだ!!」と,きっぱりと言いきった. 「な,なに,このちゃんころ!!」と吠える鬼子に囲まれた男の眼に憤怒の炎261が燃えていた.

「私たちは農民でなにも知らない.彼も知らないのだ!!」と村人たちの火の塊りのような叫びのなかで,「えい!!」業をにやした納谷の悲鳴に似たかけ声とともに白刃がきらめいた. 「バサッ!」 ぬれ雑巾(ぞうきん)を叩きつけるような不気味な音とともに剣先は地面を斬りつけていた.男の首が五尺[約一・五メートル]くらい前方に飛び,青ざめた顔がゴロゴロと転がって横向きに止まった.同時に首のない胴体が「ピュッ」と血をふき上げながら前にのめって,そのまま動かなくなった.

「アイヨ」 村人の悲痛な声が一段と高まり,山々に悲しく消えていった.村人たちは地面を叩き,胸をかきむしり,こぶしを握りしめ,もだえ泣いた.この惨状をわが子に見せまいと,そのしなびた胸の中にぐっと赤子を抱き,泣き叫ぶ母親………その恨みの顔の下に小さな丸い赤ん坊の手がピクピク動いていた.

「白状しろ,白状しろ」 私は,体を寄せ合って抗議する群れに向かってヤケクソに怒鳴ったが,村人の抗議の波にのまれてしまった.獰猛(どうもう)な眼をむき出した納谷は白刃を振りまわしながら「静かにしろ,静かにしろ,兵器を出せ,出さねばみなこうしてやるぞ!!」と怒鳴りたてたが,それもまたなんの用をなさず,かき消されてしまった.

「畜生!!ウム,あいつを連れてこい」 六十歳近い老人に白羽の矢が立った.ぐっと寄りそっている村人のなかに「突き殺すぞ」と銃剣構えて躍りこんだ私は,低い声でうめく老人を引きずり出した.老人や村人がなにを言ったのか,夢中になっている私にはわからなかった.警戒兵の西浦の銃口が私の行動を容易にした.

262「アイヨ,アイヨ………私は年寄りでなにも知らない」と叫ぶ老人の骨だらけの腰を,「白状せよ,白状せよ」 私は床尾板(しょうびばん)[銃の台尻]と軍靴で気ちがいのように殴りつけ,蹴り上げた.だが,老人の言葉は変わらない.その眼はさっきの男と同じであった.この眼の前にはどんな残虐手段も懐柔も恫喝も効き目はなかった. 「畜生!!この強情っぱりめ,おだぶつだ!!」 納谷が吐き捨てるようにつぶやいた.

「隊長殿,今度は自分が突き殺します」と私は胸をそらした.じつのところ,私は殺されても白状しない中国人がそら恐ろしくもあった.こいつらを殺してしまわねば,自分が殺されそうな気すら感じていた.同時に隊長の前での"勇敢な人殺し"が私自身の出世を保証することだと心得ていた.だが,小隊長には別の考えがあった.日本軍将校としての権威を高めるには"鮮やかな首斬り"が野戦軍隊の公認であった.が,さっきのためし斬りは,力あまって地面まで斬ってしまい,部下の手前,首の皮のみ残す"模範的首斬り"にならなかった.常日ごろ,日本武士道精神の典型『葉隠れ武士』をもって自任する納谷には堪えきれぬ恥でもあったのだ.

私の"勇敢な申し出"に納谷は「ウン,よろしい」と部下が中国人を殺すことに興味をもっていたことに満足しながらも,「一人くらいではもの足らん.もう一度斬る」と,おもむろに威厳を示し,ギョロリとその眼が残忍な光を放った.私は地べたに頭をすりつけている老人を蹴とばし,「打殺了(ダシャラ)[ブチ殺すぞ]と襟をつかみ,引き起こした.

「私たちは農民だ.なにも知らないものをどうするのだ!!老人の眼は怒りにふるえている.首と胴が断たれていく,その惨状が再びくりひろげられようとする雲行きに,村人たちは「農民だ」263「どうして殺すのか!!」と狂ったように救いを求めている.純朴な村人たちは,百姓であれば許してもらえるのではないか?そのわずかな望みを願っているのだろう.だが,私にそんな考えがみじんもあろうはずはなかった.どんな手段をとっても隠匿兵器を探しださなくてはならぬ.軍隊はだれかれの容赦なく殺すことが正義であり,そのことのみが私自身にとって栄誉であると信じきっていたのだ.

「おい白状するか?どうか?」 私に引きずり起こされた老人の首を,納谷が白刃のみねで軽く叩いた………ゴクリ,と老人の喉の筋肉が上下し,結ぼれた口から火を吐くように「一言も言う必要はない.殺せるなら殺せ!!」若者のような力強い叫びがほとばしり出た.私は再びドキッとした.そしえ耳を疑わざるをえなかった……… 中国人は命が惜しくないのだろうか.兵隊ならまだしも,ふつうの百姓が……… そう思うと背すじにすっと冷たいものの走るのを感じて,たまらない圧迫感とが錯綜(さくそう)した.だが,「中国人は死にぎわがよい,奴らは迷信かつぎで殺されてもまた生きかえってくると信じこんでいる,馬鹿な奴らだ」という,中隊長の訓話が頭をすーとかすめた.フフン,劣等人種め,思いなおした私の眼に,「よし!!いい度胸だ」と青すじ立てた納谷が老人の首に白刃を構えるのが眼にうつった.眼をむいた納谷は村人を睨みつけ,「どうか!!言わないか!!」と怒鳴った.

「私たちは農民だ,なにも知らないのにどうして殺すのだ」 はね返すようにひびく村人の叫び,「ち,畜生ども」とゆがんだ納谷の口が裂けて「エイッ」白刃が再びきらめいた.

鮮血の地面に老人の白髪頭と痩せた胴が転がった. 「アッ,おじいさん………」 血を吐くような村人の264叫びのなかに「ドクッ,ドクッ」と頭のない首からふき出る真っ赤な血が,乾いた地面に吸われていく……….老人が手向かってきたら一突きにせんと,真正面より銃剣を突きつけていた私は,ほっとして剣先を村人のほうに向けながら,「よく斬れました」と納谷に注目した. 納谷は部下に向けた眼に満足の笑みを浮かべていた.

血だまりの中に,首のない二つの人間の体がこぶしをぐっと握ったまま,うつぶせ,血の出きった真っ青な二つの人間の頭が曇り気味の大空に,鈍く照らされている.いまのいままで生きていた同胞の変わりはてた亡骸(なきがら)にそそがれている,失神したような村人の数個の悲しみの瞳が,一人,二人,三人,つぎつぎと火の玉のような眼光となって,納谷と私に,そして西浦に迫ってくる.その眼にはもう涙はなく,真一文字にぐっと結ぼれた口は憎しみでやたらに痙攣していた.そして村人のいっそう固く寄りそった,しめつけられるような威圧を感ずるこの静寂に,私はもう堪えられなかった.

「白状しろ,白状せずば,皆殺しだ」 吠えたが動揺は隠せず,声は喉に引っかかって出なかったので,あわてて撃発装置にした小銃で腰だめ射撃姿勢をとった. 西浦も槓桿をガチャガチャさせながら「撃ち殺すぞ」と怒鳴った.

「こいつらをしめても無駄だ.もっとほかを探そう日」 納谷は不機嫌そうに軍刀の血のりを拭いながら私に命じた.ムシャクシャするが,もう隠匿兵器どころでないことを見てとっているらしい.それでも二度めの首斬りで威厳を保ちえたことには満足でもあるらしく,軍刀を二,三回,大げさに振って,銃剣を握り返す私の前方を,さっさと歩きだしたが,ときどき,ちらちらと後ろを振り返る.265 《野郎,強そうなことばかり言うが,大したことはない》 私はそう思いながら,納谷のあとから丘を一気に駆けおりた.なにかに追いかけられている恐怖感で何回も振り向いたが,後ろに西浦がいるのを確かめるだけで村人のほうを見る気はしなかった.

それから小半端刻(とき)経って,東要関(とうようかん)から次の村落へ通ずる小道を,納谷と私は歩いていた.まだ兵器が見つからないいらだった気持ちも手伝ってか,納谷はずんずん先へ行く. 「オヤッ」 前方の右側の畑の中に人影が見える. 納谷も私も一段と歩を早めた. 「百姓だッ」 サクッサクッ,畦にそって百姓は相変わらず鋤(すき)を動かしている. 《しらばくれて通すつもりだな》 私は自分で勝手に解釈すると,腹を立てて今度は大声でわめいた. 「来来〈らイライ〉[こっちへとい] 驚いたように男は顔をあげると,黒くなった手拭いで汗を拭きながら静かに近寄ってきた.その悪びれない態度が無性に癪にさわった. 「しらばくれるな,馬鹿野郎」 近寄ってくる男の顔面に私の左こぶしがつづけざまに二つ三つと飛んだ.

「大人,大人,我的老百姓(ウオデラオバイジン)[タイジン,私は百姓です] ヨロヨロとよろめく体を踏みとどめるように男は叫んだ. 納谷が上からおおいかぶさるような格好で男にきいた. 「オィ,八路軍はどこへ行ったんだ,兵器のありかを教えろ」 「俺は百姓でなにも知らない!!」

「なんだとッ」 納谷は気色(けしき)ばんで怒鳴った. 「白状すれば助けてやる」 納谷の顔を見るや,私はむ心得たように男の胸元へ銃剣を突きつけた. 「でなければ,殺すぞ」 言葉を切って納谷は反応をためすように男の顔に見入った.アブが羽音を立てて,二人の間を飛びまわると,大地に突き立ててある鋤の柄に止まった.

「なにも知らない.俺はほんとうに知らない」 なまりのある言葉で,男はなんべんも同じことを266くり返した. 納谷の一刻がピクッと引きつるように痙攣すると,三角の眼がグッとつり上がった. 「この野郎ッ」 軍靴が下から見上げるように訴える男の顔を蹴り上げた」 「アアッ」 のけぞった男の顔を押しえた手の間から血が腕をつたわって,野良着を赤く染めた.血を見た男は一瞬間本能的に顔から手を放すと,次に飛んでくる軍靴を,肘を前へ突き出して防いだ.軍靴の鉄鋲が顔面に食い込み,額の肉は裂け,紫色にはれ上がった.眼のふちから鼻すじ,口元へと亦い血が糸を引いている.体といわず,顔といわず,泥靴は,仮借(かしゃく)なく飛んだ.背を丸め,肘を張って,左右に休を動かして身を守ろうとする男の姿に私はいらだった.

「くそッ,拷問だッ」 銃の負革を肩にかけると,小銃を背にまわした私は,男の土と汗にまみれた上衣を引き裂いた.土の労働にきたえられた健康そうな筋肉が露出した.なにか殺意に似たものがムラムラッとわくと,私は男がさっきまで耕していた鋤の柄を手にした.ボクッ,力いっぱい背中を殴りつけた.男は苦痛にゆがんだ顔を私のほうに振り向けようとしたが,そのままのけぞって倒れた.こぶし大もある棍棒はつづいて踊った.

「頭を殴るな」 納谷がそばから口を山した. 「簡単に殺したんでは兵器が出ない.殺すにしても音をあげるようなやり方でやれ」 これが彼の戦地仕込みの処世訓なのだ. 「苦しけりゃ,言え」 ボクッ,肩先,腰骨,手,足,ところきらわず棍棒は乱れ飛ぶ.若い屈強な男の肉体に食いこむ.手応えに酔いしれたようになって,私はさらに棍棒を振り下ろした. 「この野郎,これでもか」 「ウーム」 怒号とうめき声が肉体を破壊する鈍い音と交錯して,あたりの空気をふるわせた.

初めは大きく抵抗をっつけていた男の動きが眠に見えてゆるくなった. 「待てッ」 食い入るように267見ていた納谷が声をかけた.荒々しい息を吐くと,私は棒を杖にして,倒れている男の姿に眼をやった.さっきまでの健康そうな肉体は破れ,皮膚の間からジクジクと血がふき出し,それが倒れるたびに土にまみれ,顔も肌もどす黒く変わった.大地に突っぱった両の手を頼りに,男は肩で大きく息をついた.

「おい,八路軍はどこにいる.兵器は?正直に言ったら助けてやるがどうだ」 納谷は語調をやわらげ,猫なで声できいた.苦しそうにあえいでいた男の顔がグッとあがった.キッとして納谷を見つめた眼ははげしい怒りに燃えている.

「野郎ッ,反抗していやがるな」 私は再び棍棒を握りしめた. 「オイッ,正直に言ったら助かるんだぜ」 納谷がもう一度きいた. 「知らない」 答えは同じであった. 納谷は予期しない頑強な反抗に面白をつぶされたように怒鳴った. 「よし,どうしても言わせるぞ」 語尾がうわずって私にはよく聞きとれなかったが,そんなことはどうでもよかった.棍棒はうなりをあげて,また男の体に挑みかかっていった.どのくらい殴りつづけただろうか,男はまったく動かなくなった.気絶してしまったのだ.

「隊長殿,強情な奴です」 額の汗を拭いながら,いまいましそうに言った私は,《こいつ,八路かもしれない》と思った. 納谷は不機嫌そうに押し黙ると,男のそばに寄っていった.転がすように脇腹を二,三回蹴ってみた.あおむけに倒れた体は動こうともしない. 「フーム,骨を折らせやがった.チェッ,おい,焼くか」 舌うちのあとに言った言葉がよくわからなかったが,とにかく「ハッ」と返事だけはした.

268「焼き殺してやろう,オイッ,あれを持ってこい」 納谷が指さしたのは,畑の隅にうず高く積まれた粟殻であった.私はさすがにドキッとした.度胸がないと見すかされたら大変だ. 納谷の顔をまぶしそうにそらすと,「ハイッ」と答えて駆けだした.やがて気を失った男のどす黒くはれ上がった体の上に粟殻が,まばらに積まれた. 納谷はマッチをすると,私の持つひとつかみの粟殻に火をつけた.私はそれを手早く四方に移した.乾ききった粟殻はパチパチと音を立てて燃えあがっていく.炎が男の体を包んだ.ジュウジュウとただれるような異臭が鼻をつく……….

「アッ」 いままで動かなかった体が静かに左右にゆれ,手足を曲げ,また伸ばしはじめた.そしてその手は体の燃えこげた箇所をゆるやかにかいている.好奇心にかられて見ていた心の奥底に恐怖に似たものが頭を持ち上げ,思わず声をあげた. 「ホウ,気絶していても神経は通っているんだな」 炎の反射を受けて半顔を赤く染めた納谷の,幽鬼のようにどんよりにごった眼がこっちを向いた. 「ハッ,そうであります」 平然たるそぶりをつくろって私が答えると,納谷は,うすい唇をあけて冷たい笑いを浮かべた.炎は男の首に移った.口がもぐもぐ動き,右手………つづいて左手が喉笛をかきはじめた.だんだんと手に力が入り,早く動く………男の眼があいた.炎の中からその眼はなにかを求めているようであったが,首を曲げると私と納谷の姿をその視線の中にとらえた.キッとして見すえた眼の光を,私は直視することができなかった.腰から下が,ガクガクする. 「アアッ」 私は背中の銃を下ろすと,ギュッと汗ばんだ手で握りしめた. 納谷が一,二歩あとへさがった.

男が立ち上がった. 「日本鬼子!」 絶叫すると,彼は一気にはね起きたのだ.燃えている粟殻と火の粉がバッとあたりに飛び散った.まったく予想もしない出来事だった.射るような眼光,ギリギリと269食いしばった口,男の顔はグッと迫った.

納谷の顔からサッと血の気が引いた. 「なに………なにを」 あわてて軍刀を握りかえたが,その手がこきざみにふるえた. 「ワアッ」 一瞬驚いて私は後ろへ飛びさがった.パチパチと火の粉を振り立てて,男の姿が私の眼の前を横切った.猛烈な勢いで走り去っていく後ろ姿に,私は初めて我に返ったようにあわてた.ゾッとする恐怖感がうすれると同時に,前にも増して憎しみがつのっ大.

「くそッ」 銃を握りしめると,男のあとを追いかけた. 「つ,つかまえろッ」 納谷のうわずった怒号が後ろのほうで聞こえた.速い,まったく速い.あれがさっきまで死人のように倒れていた男だろうか.約三間[約五・五メートル]くらいの距離をおいたまま,男と私は小半町[約五十メートル]も走った………と畑の畦(うね)に足をとられたか,農民は砂煙をあげてぶっ倒れた.すぐ立ち上がろうともがいたが,力つきて動かなくなった……… いっさいの力を出しつくしてしまった農民は,ただ両手で土をかいこむように握り,体で大きく息づいている.やっと追いついた私は無性に腹が立った.飛びついてくるかもしれない男の不屈な魂への恐怖心がそれに入りまじって,わけのわからない罵声を上げた.銃剣を逆手に握り,背後から心臓めがけて突き刺した.瞬間,男は体を横にねじった.ズブリと剣先は右胸部を斜めに通し,心臓をはずれた. 「しまったッ」 私はうめき苦しむ男の横腹を軍靴であれむけに蹴倒し,流れる血潮で真っ赤に染まった胸部の心臓めがけて銃剣を振り上げた.下から張りさけるように見開かれた眼が,射るように迫ってくる.アッ,さっきのあの眼だ. 「畜生ッ」 恐そろしさを払いのけるように眼をつぶり突き下ろそうとしたとき,「待てッ」後ろに追いついた納谷が止めた.私はいまいましげに男の顔を睨みつけた. 納谷は鋤を手にしていた.

270「こいつはなかなか往生ぎわが悪いぞ.生き埋めにでもしてやるか」 憎々しげに言い放つと,彼は男の肩を蹴とばした. 「ハッ,そうでありますか」 私は喉に引っかかった声で答えたものの,内心,《隊長は次から次へいろいろのことを考えるわい,こりゃ,ちょっとやそっとの積極さじゃ,認められないぞ》と思った.入隊後わずか十ヵ月に満たないが,私は下士官候補者としてすでに六名の中国人を銃殺・刺殺の経験をもち,"勇敢"を自負してきたが,納谷にかかったらそんな自己満足はうちくだかれてしまうような気がした.

《くそ,負けてたまるか!!》 私はもう行動に移っていた. 納谷から鋤をひったくるように取ると,くぼ地を利用して懸命に穴を掘りはじめた.またたく間に直径約一メートル五十,深さ十メートルくらいの穴ができた. 「フーム,よろしい」 納谷は満足げに顔をほころばせた.その足元に,焼けただれたうえに突き刺された傷であふれ出た胸の鮮血,血と泥に黒ずんだ顔の男が倒れている.だが,その眼はじっと憎しみをこめて,私を睨みつけているように思えた.一瞬,言い知れぬ気味の悪さが頭をかすめたが,それをガツンとはじき返した.

「この野郎,くたばれッ」 私は思いきって男を蹴とばした.崩れる黒土とともにドスッと無抵抗に近い体が穴の中に落ちこんでいった.起き上がろうとする努力か,もがくように手足を動かしている.上から納谷がのぞきこんで土の塊りを投げた. 「フフフ………烏に食われるよりはましだ,ありがたく思え………」 うすっぺらな唐をゆがめて笑った.

「自分にやらせていただきます」 私はドサッドサッと土を投げ入れた.手,足,胸,みるみる男の体は隠れていく.ついに顔が土で埋まった. 「踏めッ踏めッ」 血に酔う狂人のように,二人は土を271踏み固めては,また土をかぶせた.やがて丸い堆土(たいど)ができあがった.

「アハハハ………」 汗を拭きながら納谷と顔を見合わせて笑った.だがその声が途中でかすれると,私は恐怖でワナワナとふるえた.なんということだ.堆土が動いている.盛った土が大きくふくれ,ぐっとしほんだのだ. 《アッ,生きている》 そう思うと,私は,動かなくなっても眼だけは刺すように光っていたあの農民が,いまにも飛び出してきそうな気がしてならなかった.

「踏め!!踏み固めろ」 うわずった声で納谷が堆土に飛び上がった.バネじかけのように私もつづいた.ふるえる足で「どしんどしん」とはねたが,もう土は軍靴の跡を深めなかった.六,七回はねて堆土より降りた納谷と私は無言のままじっと堆土を見つめた……… 二分,三分,土はまたふくれた. 「ドクッ」 生つばをのみこみ,ぞっとすると私の眼の前で土は再びしぼんでいく.

「えい,くそっ………もう一突き,心臓を突き刺しとけばよかった」 私と納谷をふるえおののかせた堆土も,初めは二分くらいに一回,次には三分間くらいに一回とその間をのばし,その動きもだんだんと小さくなり,最後に五,六分くらいの時間を経て,「オオッ」と叫ばせるように大きく動いてもう動かなかった. 「なかなか往生ぎわの悪いちゃんころだった」 平然とした素振りを示す納谷は,あたりを探るようにうろたえた眼で見まわしていた.

「ハッ,やっとおだぶつしました」 相槌をうつ私の頭に………屈しなかった農民のあの鋭い眼がよみがえってくるのを,どうすることもできなかった.


272筆者からの一言昭和五十七年八月

昭和三十一年復員,澱粉(でんぷん)業に専念,四十二年貿易自由化により廃業のやむなきに至り養豚経営に転業するも公害のため断念,新聞店に勤務,現在に至る.この間三十二年に結婚,二子に恵まれ平和な勤労者として生を楽しむ.しかし,つねに念頭にあるは上述の鬼畜のごとき過去の己れの姿である.朝は日の出とともに,夕ベは星を仰ぎ,土に親しみ,額に汗し,夜は勉学に熱中し,愛する日本,郷土,そしてわが家の幸福を念じていたふつうの農村青年であった私.

「八紘一宇(はつこういちう)の美名のもと,「不言実行盲目的服従」を美徳と教えこまれた若者の行き先は「殺さねば殺される」戦場であり,必然的に鬼畜と化していったのです.

けっして私の父母が同じ農民である中国農民を「殺せ」とわが子に願ったのではない.残虐非道の侵略戦争,滔天(とうてん)の罪行を犯した私は,生涯の責めと償いをせねばなりません.復員時,日本軍によって家族を惨殺された中国人は涙して私に語りました. 「あなた方は,いま,待ちわびている懐かしい父母に会うことができる.しかし,私たち中国人は永遠にそれができないのです.どうか再び銃をとらないでください」と.

真実を知らずに死んでいった戦友が口をきけない以上,生きている私は,生涯戦争を憎み,戦争反対を叫ぶのです.

松尾富男

 

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1 Matsuo Tomio, 曹長 (Pseudonym)
2 Shandong, chinesische Provinz
3 Laiwu, Kreis in Shandong, nach 2-07 vielleicht auch: Regierungsbezirk 地区 Laiwuxiang 莱蕪県
4 Bosan, Kreis in Shandong, mit Kohlevorkommen; Regierungsbezirk 博山西方
5 Yaoguan, in Laiwu
6 Cha-xie/ye/she-kou, Siedlung 部落 in Laiwu
7 Huabei, Nordchina ---Huabei ist die chinesische Bezeichnung für den Großraum Nordchina. Er umfasst die folgenden Verwaltungseinheiten auf Provinzebene: 1. Innere Mongolei 2. Shanxi 3. Peking 4. Tianjin 5. Hebei
8 Tsuchibashi Kazuji, 一二軍司令官
9 Kawada Kentarô, Generalmajor 少将, 独混十旅団長
10 Leutnant
11 Hamada, Oberleutnant, Kompagnieführer, 首斬り浜田
12 Nishiura