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善良な僧侶を警察の特務に

岡田袈裟二1(おかだ・けさじ)

吉林2市警察庁保安科科員警射補


先日,私はある反革命分子が,かつて日本軍隊のために特務として利用され,中国革命が勝利した後になっても,その足を洗うことができず,発展する中国のなかで,人々が幸福になればなるほど中国が発展すればするほど,かっえて彼自身は苦しんでいた,という新聞記事を読みました.そこで私は,もうすっかり忘れていた一つのことを思い出したのです.

それはかつて私が中国の平和な美しい農村で,村人から尊敬され愛されていた一人の僧侶を警察の特務にしてしまった事実です.この僧侶が,いまはきっとこの反革命分子のように毎日を苦しんでいるのではないかと考えると,私はどうしてもこのことを明らかにしなければならない気持ちに責められます.そしてこのようなことは,中国を侵略した日本の軍隊や警察では,日常茶飯事のように行なわれていたことです.


251それは千九三九年七月ごろのことです. 私は,当時,吉林(きつりん)市警察庁で外勤警察官をしていました.

このころはちょうどノモンハン事変の最中でした. 長白3(ちょうはく)山を中心に反満抗日軍の戦士が活発に活動していたときでした. 金日成4将軍や楊精宇5(ようせいう)将軍,そのほか多くの反満抗日軍の支隊は,毎日,日本軍の駐屯地や兵舎や警察署や森林警察隊に反攻を加えては,次から次へと打撃を与え,ノモンハン事変の後方攪乱と東辺道6(とうへんどう)地区[旧満洲の朝鮮7に接する地区]の略奪開発を妨害しておりました.このとき,私はこの抗日軍を鎮圧するために,関東8軍が中心に組織した全満洲の日本軍と警察力を動員した『東南部地区粛正工作』というのに参加するように命じられました.

私は吉林省 楡樹9(ゆうじゅ)県の警察官で編成された楡樹警察討伐隊の小隊長になりました.そして吉林省敦化10(とんか)県の腰旬子11(ようじゅんし)村というところに行きました. この村は松花江12(しょうかこう)の上流で,周囲は密林に囲まれていますが,河沿いに少しばかり平地が延びていて,なかなか景色のよいところでした.その年の春,近くの山中に点在していた人々が追い集められたらしく,県令で出された『村落防衛』『警備補強』という名で無理に築かされた,高さ一丈[約三メートル]あまりもある,真新らしい土の臭いのぶんぶんする土塀があり,四隅にはトーチカの飛び出した,集中営のような村でした.この中に百五十戸ばかりのあばら屋が密集させられておりました. 私は二万人の隊員にまじって,この村落に駐屯することになったのです. ところが,私たちが到着した夜から,毎晩のように抗日軍の反抗を受けました.編成したばかりの隊でもあり,隊員の名さえおぼえていないのに,毎日命からがら夜明けを待つというありさまでした.

そこで私をまじえた日本人の幹部六名は,どうにかして抗日軍の情報を得ようと,八方手をつくし,252策略をめぐらしたのですが,どれもこれもみな失敗してしまいました.そのはずです. 中国の土地で中国人民を捕えて殺そうというのですから,中国人民が本当のことを話すはずもないし,ましてやまとまった情報など手に入らないのは当たり前のことでした.そこで私はあることを思いついて隊長に話したところ,隊長は二つ返事で許可してくれたのです. というのは,以前にも吉林省の樺田13県で,私はその手を使って抗日軍の"討伐"をやった経験があったのです. そのとき,ある村で私は思いがけぬことに出会いました. 誰言うとなく,「今夜は襲撃がある」という噂が村じゅうに伝わるのです. このことが警察隊員の耳に入り,警察隊は万端準備を整えていると,かならずその夜は"襲撃"があるのです. そこで私は隊員に命じて,出所を内偵させました. そこで意外なことに,この村の僧侶が占いをしたのだということがわかりました.ところが,別の隊員の一人が,「隊長[私に],あれはこの村の村長で大地主の奴が,抗日軍が入ってくるとひどい目にあうので,だから奴は僧侶に占いをさせて襲撃があると宣伝するのですよ」と報告してきました.

私はこのことを思い出したのです.私はそれまでは《どうでもいいさ,情報さえ早いところ手に入れば,なんでもかまいやしない》という考えでした. このころの私は警察経験も浅く,それ以上利用することなどは考えも及ばなかったのですが,こう毎日やられだすと気が気でなくなりました.そこで私は,この村にも村人の信望の厚い一人の僧侶がおり,この人が易も立てるし,おとなしい人だということを知ったので,一案を企んだわけです. 私はこの計画には相当うぬぼれた自信をもっていたのです.

まず私は,毎日この僧侶のところに遊びに行きました.そして三日目ごろに私は,「どうだね,253あんたの占いでひとつ,抗日軍がいつ来るか,占ってみてくれませんか」と言うと,僧侶は,「そのよけいことは占いには出ませんでしょう」とつっけんどんに返事をしました.私は,内心おもしろくなかったが,「まあ,ひとつやってみてください」と言うと,僧侶は仕方なく占いをやりました.ところが,「じつに長い間安泰である」という占いが出たのです. 私は心にもなくていねいに礼を言って隊に帰ったのですが,その夜が大変だったのです.夜の十二時ごろから村の四方から大勢の抗日軍に攻められて,命からがら夜明けを待ち,大蒲紫河14(たいほうさいか)から歩兵砲や迫撃砲で援護してもらい,どうやらもちこたえたのです.

私は《これこそよいきっかけだ》とばかりに僧侶の家に行きました. まだ朝飯もとらずにいた僧侶に,私はひときわ念入りに朝の挨拶をしてから,「僧侶,昨日の占いはだめだったね,今日はひとつ張り込んで占ってみてください,抗日軍はいったいどのあたりで休んでおるか,ちょっとばかり仕返しをしないと楡樹(ゆうじゅ)隊の名にかかわりますからね」と言いました. 僧侶は恐縮して言葉も出ないで困っていた様子でした.私が腰の拳銃を前に引き寄せたり,日本刀の柄を握ったりするのをチラチラ見ていましたが,急におびえたように尻込みしながら,「とてもそんなことは占いには出ません」と言い出しました.

私は《当然こうくるだろう》と思っておりました. そこでいともていねいに「いや無理にとは言わんが,この村を守るためにわれわれもこうして来ておるのだ.あなたもこの村の人であり,村を守りたいならば,役に立つことをしたほうがいいと,私は思うのです」と,少し機嫌悪げに拳銃を膝の上でいじりまわしながら言いました.しばらくして僧侶は仕方なさそうに,「では今日の十時ごろ254来てください」と言いました.

私はそれですぐ隊に帰り,隊員に命じて豆油を一斤ばかりと塩とメリケン粉を少々と,それからロウソクを何本かお礼だと言って持って行かせました.そして私は,わざと昼ごろになってから僧侶の家に行きました. すると,僧侶は私の顔を見ると笑いながら,さっきの贈り物の礼を言ったあとで,「抗日軍はたしか西南方三キロくらいの地点にいると占った」と話しました. 私は「そうですか」と軽く返事をしてすぐ隊に帰り,隊員六名を百姓風に身仕度さして,その方向に偵察に出してみました.ところがどこを歩いてもそれらしいものは見当たらぬと,隊員は夕方クタクタになって帰ってきました. しかし私は隊長の了解済みでやっているので,このようなことを数回やってみました.そのたびにみなあてがはずれていました. そこで私は今日こそはと,隊員のすご味のある者を二人連れて僧侶のところに行き,家に入る前から大声でどなり立てました.

「僧侶,お前はわれわれ警察隊を抗日軍に売っておる通匪(つうひ)[敵と通じている者]だ.今日はお前を捕えて取り調べ,監獄にたたき込んでやる」

二人の部下は,すでに命じておいたように,僧侶をかんじがらめに縛りあげてしまいました.僧侶は驚いてただブルブルふるえるばかりで,顔は真っ青になってしまいました. そうでしょう,このごろ"通匪"と一言言われると,その人がどんな人であろうと,たちどころに死刑にされ,しかも村はずれで村人の前で,日本人の刀でパッサリと首を斬られなければならなかったのです.僧侶の驚きようはたとえようもありませんでした. しばらくして,頭を土に血のふき出すまでこすりつけた僧侶は,「私は決して通匪ではありません.村の誰からもきいてみてください.真面目な僧侶です.255私は一度だって人さまに悪いことはしたことがありません.人さまにうそなど申したこともありません.真面目に仏に仕えるだけです.どうか命ばかりは助けてください」と,地にもぐりこまんばかりに哀願するのです. 私は内心うまくゆくわいと,胸の動悸をかくしようもないほどでした.

私は部下を叱りつけながら,「どのように通匪したか,いつ,どこで」と,くり返し,打つ,蹴る,殴るで責めたてました. 私自身,彼がそのようなことをしていないのを知っていてやるのですから,その凶悪さと野蛮さはいっそうひどいものでした.僧侶はぐったりのびてしまうまでになりました. 《もうこのくらいでいい》と考えた私は部下の二人を隊に帰してしまいました.そして僧位にしとも同情したように,「あの部下たちが,お前が通匪していると報告してきたのだ.わしはお前がそのような悪いことはしないと思うが,大切なことなのでひととおり調べたのだ.だが,今日のところはわしの面子で許してやる.その代わり,これから毎日一回ずつ占いをして抗日軍の所在を知らせろ.もし,うそいつわりがないときには,お前は通匪でないと,わしが保証する.もし,うそいつのわりがあると,今度こそ許さんぞ.お前は通匪はどうなるか知っておるだろう.まあ,このことは俺一人で誰にも話さんと約束する.わしの面子をつぶさんようにすることだ」 私はさも同情したようにして,かならずこの交換条件を守るように命じたのであります.

僧侶はそれから毎日報告に来ました.私は毎日偵察員を出しました. しかし,かんじんの抗日軍が現在どこを行動しているかという情報は,少しも入手することができませんでした. 私はそれから何度か僧侶をおどしたり,わずかばかりの贈り物をしたりしました.それから僧侶は,毎日,村人の畑帰りを捕まえてはいろいろきいているということを,私は隊員から報告を受けました.

256こうしてついに,僧侶は凶悪な侵略者のために,おどしと"かたり"と武器によって,民族を守る抗日軍が《今夜はこの村落西方二キロの地点に宿営する》という情報を提供させました. 私は翌朝二時ごろ部下五十名を率い,十数名の抗日軍を山谷に包囲し,一名の婦人愛国抗日戦士を射殺し,数名の戦士を負傷させたのであります.戦争屋どもが,いたるところでこのような人をつくり出していることを考えるとき,私はこのことをはっきりさせなければならない責任を感ずるものであります.


一筆者からの一言〈昭和五十七年八月

一九五六年七月七日,終戦後十一年ぶりに中国戦犯の私が中国人民の寛大な処置により帰国,その後,職を探し歩きましたが,某機関の妨害により固定職につくことができず,病床の妻と中三15の長男と小六16の長女の三人をかかえ,やむなく米軍衣料の行商,日用雑貨の行商,鮮魚商,美術商と職を転々,現在,美術商と食堂をほそぼそと営んでいます.

私の帰国出迎えの上田17駅頭で,私の挨拶は,「終生,戦争に反対し,日中友好を確立するために全日本人が戦争に対し反省し,責任をとることであります」というものでした. 私は,いまも戦争反対と日中友好のために努力する,という決心は少しも変わっておりません.

現在,病気がちの妻と長女と私の三人暮らしです.長男は十五年前,二十六歳で八ヶ岳18で死にました.いい息子でしたが.

岡田袈裟二

 

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1 Okada Kesaji, 吉林Jilin市警察庁保安科科員警射補 (Pseudonym)
2 Jilin, Provinz und Stadt, siehe auch Dongsan
3 Changbai (Zhangbai), Berg
4 Jin Richeng, chin. 将軍
5 Yang Jingyu, chin. 将軍
6 Dongbiandao, mandschurischer Regierungsbezirk an der Grenze zu Korea
7 Korea
8 Guandong, alte Provinz

9 Yushu, Kreis in Jilin
10 Dunhua, Stadt in der Provinz Jilin.
11 Yaoxunzi, Dorf in Dunhua (Duihua)
12 Songhuajiang, Nebenfluß des Heilongjiang (Amur), fließt durch Harbin
13 Huatian, Kreis in Jilin
14 Dapuzihe (Daipuzihe), Fluß
15 Okada Jûzô, ältester Sohn von O. Kesaji
16 Okada Koroku, älteste Tochter O. Kesaji
17 Ueda, Präfektur Nagano
18 Yatsugatake, Berg in Präfektur Nagano