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20

(きも)だめし
捕えた農民をよってたかって蜂の巣に

三神高1(みかみ たかし)

教育助手,伍長


「もう少しで村だ!頑張って歩け!だらしのねえ野郎だ!落っこちたら死んじまうぞ」

耳元にガミガミと怒鳥り散らす分隊長の声に,三神は,銃を左肩より右肩に替え,水の中へつかったようこぐっしょりと汗でぬれた体に痛く食いこんだ弾入れをゆすりあけた,一望千里の黄色みがかった麦畑を見まわしたが,眼に汗がしみ,村があるのかないのか,ボーッとしてわからなった,ただ無性に喉が乾いて水がほしかった.真夏の太陽がジリジリ焼けるように照りつけ,その中を行軍する長い部隊は,まるで大蛇がのたうちまわるようにあえぎながら歩いている.

一九四二年八月上旬,独立歩兵四二大隊五十君2(いきみ)部隊は山東3(さんとう)省臨清4(りんせい)-館陶5(かんとう)-邱6(きゅう)県一帯にかけて大掃討戦をつづけていた. 館陶県からさほど遠からぬこの辺一帯は,八路軍と農民との関係が密接に固くむすばれているため,日本軍がどこに行っても人の子一人いず,みな非難していた.八路軍を236探し求め,空っぽの村をいくつも通り抜け,約九里[約三十六キロ]近くは歩いたろう.

やっと三神の眼に棗(なつめ)の木に囲まれた百戸ばかりの村が見えたときだった.果てしない麦畑も西瓜(すいか)畑に変わり,班長や古兵は,喧嘩腰で畑に飛びこむと西瓜にかぶりついた. 《うめえことしてやがる,俺も》」と,喉から手の出るくらい水気がほしかったが,初年兵は誰一人として飛び出さなかった. 三神も足が棒のように重く動かなくなった. ただ《教官から許しがあればいいが》と考える三神は,「落伍する奴は放っておくぞ」と馬上で怒鳴る,チョビひげをなでている教官に眼をやった.

幾日かの炎暑中の行軍で,日射病,下痢患でバタバタ倒れたのは,決まって初年兵だった.その原因は,泥水を飲み,水気のものなら畑の中のなんにでもかぶりついたからだ. 古兵のように自由に飛び出せない. 許可がいるのだった. 《村に着いたら………休める.もう少しだ,死んでたまるかつて,グソ………》三神は心につぶやく. 彼の眼先におふくろの顔がチラッとかすめてまた消えた.村の輪郭がはっきりしだしたころ,部隊は,村を大きく包囲しはじめ………ぴたっと止まった. 「停止」 分隊長のドラ声と一緒に,四角ばった顔が三神たち六,七名の初年兵のほうに大きくゆれた.

「男は全部捕えるんだ.家畜も集めろ.いいか,出発にさいしては火をつけるんだ」 こんな命令はどこの村へ入るときでも伝達されていたし,またそのとおりやってのけた三神は,師団命令とはわかっていたが,くたくたに疲れている体にまた一仕事かと思うと腹立たしくもあった.

「突っこめ」 銃を振りまわし,分隊長が先に村に向かって駆け出したのにつづいて,いっせいに村に躍りこんだ. 三神もその中に足の痛みも忘れて飛びこんでいた. 老婆や子どもの泣き叫ぶ声が豚の鳴き叫ぶ声と入りまじって聞こえてくる.

237「オヤ!人がいる………おもしろい」 すっかり有頂天になって初年兵仲間の伊藤7と一緒に駆けずりまわった. そのあとから大林8が駆けつけてきた. 泥靴と銃剣の侵入に,あっちでもこっちでも避難するのに遅れた男女の悲痛な叫びが,三神の耳元にころがりこんでくる. 一軒の泥家に飛びこん大三神の前からパッと飛びたった鶏が,けたたましい鳴き声で屋根に飛び上がった.

「クソ,びっくりさせやがる」 ドキッと後ろに一歩退いた三神は,小銃を取り直し,水がめの中に二人は代わるがわる首を突っこみ,水を飲みこむと,その家の打穀場になっている庭のほうに駆け出した.あわてて避難したのか,土造りの家屋とならんだ小さな小屋に,取り残された騎馬が眼隠しされたまま,何事も知らないようにせっせと石臼を引いていた. その石臼から黄色みがかった粟の粉がバラバラ引き出されていた. 「チェッ,のんびりしてやがら!」 殺気だった三神の銃剣が前足にとんだ.膝を折った驢馬は立ち上がろうともがいたが,引き臼はぴったり止まってしまった.

「ワッハッ………こいつも戦果だ!伊藤,お前,頼むぞ!」 「よしきた」 むき出した獅子鼻をこすりながら,伊藤が櫨馬に近寄ったとき,東側の畑のほうで牛の鳴き声が聞こえてきた. 「オィ,人がいるぞ………あちらに」 大林のすっとん狂な声に,「それっ」とばかりに三人の乱れ足がドタドタ飛び出していった.

村はずれの茄子(なす)も,胡瓜(きゅうり)もひからびて,死んだようにうなだれている.乾ききった畑に掘り返された水引きの溝だけが,二すじ,三すじ………真新しい土の肌をのぞかせて,黒々と隣りの村まで長くつづいている.その中をいましがたまで野良仕事をしていた夫婦者の百姓は………兵隊たちの侵入に………七つ八つの子どもの手を引き,大きな牛を追いたて,畑を横切って駆けていく姿が大きく238見えた.

「パン,パン」 静けさを破って,三神の銃から白い煙を吐いた瞬間,親子は立ち止まって振り返ったが………すぐ地に伏せた.黒い髪を乱した女の藍衣が大きくゆれ,子どもを抱きかかえるようにして家の中に飛びこもうとした. 「パン,パン,パン」 つづいて二,三発の銃声が,親子三人の前進をさえぎってしまった. そうしておいて三神は,壕の中で親子三人がひと塊りになっているところに近寄るなり,「動くと撃ち殺す」と怒鳴りあげ,胸元に三本の銃剣を突きつけた.

背の高い農民は三十を少し越したくらいだ.いかにも頑強らしく節くれだったでっかい手で牛の手綱(たづな)をしっかり握り,妻や子どもをいたわるように見まわし,兵たちのほうに向き直ると,ゆっくりした口調で,「我是老百姓(ウオスラオパイシン)[私は百姓だ]と言った. 小さいが射るような声に,三神はギクッとして,三人が互いに顔を見合わせ,銃をガチャガチャさせながら,一歩一歩用心深く親子のそばに近寄った.

「こらっ,貴様,民兵だろう!」三神はがなった. 「不対,我老百姓(プトイ,オウラオパイシン)[違う,俺は百姓だ] 農民は自分は農民に間違いないことを示すのか,ゴツゴツと筋ばった手で肩の力こぶの上にのった鋤を下ろし,麦藁帽を脱いだ.真っ黒に日焼けした顔は黒光りして………頬骨の張った顔,額からは埃だらけの顔にいくすじもの汗が流れ落ち,眉毛の間から流れる汗は,見開いた二つの眼に痛々しくしみこんでいた.

壌から駆け上がってきた女は,前にたれ下がった乱れ毛をかき上げながら,夫のそばに近寄り,つぎはぎだらけの木綿服の腰から色あせた手拭いを手渡した. 「チェッ,しゃれたまねするねえ!」

239大林の泥靴が男より老けて見える妻の肩先にとんだ. 「アイヨー」 妻はやせ細ったしわだらけの手でやっと体を支え,夫に救いを求め,三人の日木兵を睨みつけた. 農民の男はコメカミがふるえ,大きな足を二,三歩踏み出し,妻をかばった.そして兵隊の三角につり上がった眼が牛にそそがれたのを見て,略奪されるのではないかと心配げに牛を見つめ,大事そうに牛を二,三度なでまわした. 男は顔を牛の首すじに寄せた.

「ヤ,ヤイ,そ,その牛,よこせ!」どもりながら伊藤が牛の手綱に手をかけた. 「不行!(プシン)[だめだ!]

声は低かったが,憤りをこめたはげしい調子で男が言った.男の休はノソッと牛に近寄った. 農民は,伊藤の手を払いのけ,ぶるぶると手綱を太い赤銅色の腕に固く巻きつけた. 《死んでも渡すものか》と反抗にみなぎっている男の顔色はサッと変わって,伊藤を睨みつけた.

「な,なに!この野郎!なんだその面は」 「反抗してみろ,こん畜生!」 背くなって面をふるわせる伊藤の横から,大林が農民の顔を思いきりげんこで殴りつけた.顔を打たれ,よろよろと休が横に倒れた夫の前に,女の細かい両手が怒りにふるえて立ちはだかった. 母の膝下の子どもは,「ワーッ」と泣きだした.

「この餓鬼(がき)!」 「えい,じゃまするねえ………このアマ!」 三神は女の髪の毛を鷲づかみにつかんで引きずり倒した. 乱れた髪が浅黒い顔にいくすじもまとわりつくのを,顔をぶるぶるふるわせた彼女は地面より立ち上がり,膝を地につけ,夫や子ども,牛を代わるがわる見まわし,声のつづくかぎり……… 「この牛は親子三人の命の綱,これを取られたらこれから先,親子はどうして生きていくことができるのか」と言葉のわからぬ兵隊に手まねで必死に訴え,哀顔をつづけた.

240「とぼけるな!俺の知ったことじゃねえ,くそったれめ」 三神は足元に執劫にからまる女の乳房のあたりを蹴り上げた.ひっくり返る女が「ウーッ」と胸を押え,苦しみ這いまわるのを見向きもせず,三神は牛に近寄った.

「オィ,伊藤,この牛,保安隊に預けてこいよ」 三神は,どう見てもピンをははねられても,五百円にはなると胸算用をしていた. 殴られ蹴とばされながらも必死に牛を持っていかせまいと反抗をしたが,ぶっつり手綱は切られ,牛は兵たちの手に奪いとられてしまった. 「アイヨ!我的牛啊(ウオデニユイア)[うちの牛だ] 泣き叫び,地に這いまわる母の足元に子どもは転がりこみ,いっそうはげしく泣きだした.

「なんてうるさい餓鬼だ,やかましいやい」 三神はいきなり七つ八つの男の子の頭を軍靴の踵(カカト)で蹴り上げた. 子どもの頭は裂け血がパッと散り,母親の胸を染めた. 泣き叫ぶわが子をヒシと抱きかかえた彼女は,よろよろと立ち上がると,「鬼子!(クイズ)と罵り叫び,つばを三神に吐きつけた. 怒りのため紫色の唇をわなわなとふるわせ,形相を変えて罵る女の顔に,三神はどきっと立ちすくんだ. いまにも喉笛に食いつきそうな女の形相に顔をそむけた. 三神はこぶしをぶるぶる胸元でふるわせ,牛のそばで妻や子どもの泣き叫ぶ姿に立ちはだかっている男に気づくと,恐ろしきを感じ,大林や伊藤をせき立て,男の背後に銃剣を突きつけた.

「ヤイヤイ,てめえは教官のところまで行くんだ」 三神は男の肩を銃尾でこづきまわした. 「我不去!為甚麽(ワオブチュイウエイセンマ)[俺は行かない!なにをするんだ] 抗議する男は身動きもしなかった. 「この野郎!殺されてえのか!」 憤りに顔をグッとねじ向けた男を,三本の銃剣はこづきまわした.……… 重く足を運ばす夫241に,妻はしゃにむに足にかじりっき,行かせまいと取りすがった.そして大声で泣きだした. 「うるせえ,このアマめ」 兵隊の銃剣は情け容赦なく,おいすがる妻子に銃口を向けた.

「クソッ,ついてきやがるとぶつ殺すぞ!」 三神は怒鳴りあげると,大林と一緒に銃口を女の胸元に向けた. 農民の男は静かに妻を振り返った. 死んでも離すものかと,銃口が胸元に向かっているのも恐れないで,抱きかかえる妻の腕にソッと手を置いた男は,二言,三言なにか言った.そして子どもの頭をなでてなにかささやいたが,名残り惜しそうに何度も何度も振り返り,歩きだした. 妻子はなす術もなく,たった一つ取り残された研(と)ぎすまされた鋤をかかえて地に伏し,夫と牛が追い立てられていくのを,悲しみと憤怒の涙で見守っていた. なまぬるい風がその悲しみと憤怒をのせたかのように土砂を吹き散らし,兵隊たちにおおいかぶさっていった.

「教官殿,こいつ,農民に化けて,うまく網の目をのがれようとしていました」 「おおよし.そこに座らせておけ」 教官となにか話していた分隊長月形9軍曹のしわがれた太い声がすると,あたりにいた兵隊たちは飼いなれた犬のように,主人がなんとも言わないのに,銃剣でまわりをとりかこんだ.そしてものものしい警戒のなかで農民の拷問が始まった.

「なに,知らない?うそを言うとお前のためにならん.八路の行方を知らせることはお前のためになることだ,ええか………」 チョビひげはニタッと笑って一歩乗り出し,わざと農民の鼻先に煙草を突き出し,「サア,煙草でも吸え,それから言え」と言った. 「不要!(プヨウ)[いらない!]と農民は顔を横にそむけた.その眼は異様に輝き,睨み返した. 「ワハハハッ,なにを恐れるか,恐れることはない.日本軍はお前たちが平和に暮らせるように,この暑いのに討伐をしているんだ.八路軍の行方242を知らせることは皇軍に協力することであり,妻や子のためなのだ」 通訳の酒井10上等兵は,教官の言うとおりのことを切々と節をつけて言った.しかし,農民はなんとも答えなかった. いや,その眼には火を吐くような怒気と憎悪がほとばしった. チョビびげは分隊長をあごでしゃくった. 突然,分隊長の革のバンドがビューンとうなって農民の背に食いこんだ.

「畜生ッ,強情者めッ」 パシッ! 「言わなきゃあ,言わしてやる」 帯革は幾度もうなって食いついた. そのたびに農民は力を入れて全身をくねらせた.

「こら,民兵だろう,お前は」 またひとしきり帯革がめちゃくちゃに飛んだ.皮膚が破れ,血がにじみ,切れた唐から鮮血がたらたらと胸に線を引いて流れた. 「我不知道!(ウオプチドウ)[俺は知らない] ぐっと歯をかみしめて射ぬくような農民の眼が光った.

「なにッ,知らんッ?」 殺気立った分隊長の腕がまた振り上げられようとしたが,その腕は農民のその形相にぐっと食い止められたために,たじろいでおろされたように三神は思った. 三神は手に汗をべっとりと握っていた. そしてゴクリと生つばを呑みこんだ. 農民の体はさっと力が抜けたようにその場に崩れ,苦しいうめきが三神ゃあたりの兵隊たちを押えつけるように流れた.

「突かせますか?」 月形軍曹の声がすると,チョビひげ少尉のあごが動いた. そしてその眼が自分のほうに向いているのを三神は見た. 「お前は優秀だから,実的刺突(じってきしとつ)のときはいちばん先にやらせる」と日ごろ言っていた分隊長が,いまチョビひげ少尉となにか相談をしだした. 《だが,あんな丈夫な奴,うまく突き殺すことができるだろうか?もし突きそこなったらどうしようか?いやそんなことはない》 不安と動揺が去来する三神の脳裡に,うす暗い晩秋の庭で薪割りをしている243親父の姿が………日の丸を振った子どもや村人の顔などが幾重にも幾重にも重なり合ってかけめぐった. 三神ヅ!貴様,なにをもさもさしとるか!」 チョビひげ教官に怒鳴られ,ハッとした瞬間,頭のてっぺんから足の爪先までカッと熱くなり,眼先がクラクラするのだった. 《そうだ,こんなことでご奉公がにぶっては親父に申し訳ねえ,親孝行することは国に忠義をつくすことだ》 そう考え直したあとに,分隊長のしゃがれ声がおしかぶさってきた.

三神一等兵!その野郎を向こうの棗の木の下まで連れていけ」 「お前に殺させる」 《やっぱり俺にきたか》と思うと三神はおどおどしながらも,ほかの者より自分が特別優秀であると考え,同僚を見まわし,農民を追い立てた.すると農民は,汗のしみた,あてつぎだらけの襦袢(じばん)から,良民証[所持者の身の安全を保証する証書]を取り出し,眼の前で八つ裂きに引き裂いて,大地に叩き投げた. 紙きれが風に狂って舞い散っていった. 「ワッハハハ………あきらめたか」 チョビひげの笑い声がした.

村の中央に一本の太い交通壕がある.その中心地から少し南に寄ったところに五つ,六つ,穴が準備されていた. その横に何年たったかわからぬ古い大きな棗の木が一本,枝をしっかり広げて赤い実を結ばせている.農民は立ち止まると三神を振り返った. 「殺されることは恐れぬ.最後に煙草を吸わせろ!」と言った.

驚いた三神は眼を白黒させながら,チョビひげ教官に問うた. チョビひげ少尉はギョロッと茶色の眼玉を光らせ,農民にそそいだ.額に青すじを立て,眼を吊り上げて軍刀を握りしめたが,兵隊の前でそのあわてぶりを見抜かれまいとするように,チョビひげをなでながら,「武士の情けじゃ,244吸わしてやれ」と言った. しかも,《こやつより,俺がもっと剛胆(ごうたん)だ》というように,分隊長に目くばせした. そして「よく警戒しろよ」とあたりの兵隊に言った.

むーっとするような真夏の陽が入道雲の間から不気味に,二十数本の銃剣を照らし,四方八方からいまにも襲いかかっていくような態勢のなかに,農民は悠然と引き裂かれた襦袢の前をかき合わせ,痛む腕や腰をさすりながら棗の根元に座りこみ,おもむろに腰から煙管(キセル)を取り出した. その煙管は無惨に折れていた. 煙管をジーッと見つめていた白髪まじりの農民の眉毛が,憎しみにピクピクと動いて兵たちを腕みまわした.

農民は,手垢で汚れ光っている唐草模様の煙草袋の紐を解き,煙管を袋に突っこむと,手を休めてじっと袋を眺めた.袋を固く握りしめたこぶしで,ねっとりと血のついた唇を拭きとり,パッと血のまじったつばを吐き出した. チョビひげも月形も大林も三神も,そしてみんながぎくっとし,眼を皿のようにして,恨み呪うごとく吐きつけられ,そばの石にへばりついた血の塊りと農民の顔に等分に視線を向けた.農民はなおも落ち着きはらって,膝の上の袋から火打ち石を取り出し,カチッカチッとゆっくり鳴らした. あたかも彼をとりまく日本兵たちの姿は彼の意識のなかにはまったくないようだ.ぐっと吸いこんだ煙,その煙を静かに吐き出し,またうまそうに吸いこむ顔に太陽が照りつけ,にじみ出る汗は傷跡にじわじわしみこんでいった. それでも農民は拭おうともしない.ただ大空を眺め,吐き出した煙を見守っている.

どうしたことだろう,このむごたらしい兵隊たちの仕打ちのなかで,この農民の顔にかすかなほほえみが浮かんだ.だが次の瞬間,みるみる頬をこわばらせ,天空を見つめた. 「孩子啊(ハイズア)………你一定要(ニイイーテイヨウ)245復仇吧(フチョウパ)[わが子よ………お前はかならずこの仇をとってくれ] その眼に大粒の涙が光っていまにもこぼれ落ちそうだつた. 《殺される寸前というのに,なんだってこんなに落ち着きはらっていられるのだろう》 三神は恐怖にかられ,無理に歯ぎしりをしながら,「どん百姓め,早く吸いやがれ」とがなり,農民に飛びかかり,破れ軍靴で肩先を蹴りつけたが,はずみをくってひっくり返った. まるで小犬が吠えたてて獅子に飛びかかったような格好に,とりまく真っ黒いひげ面がどっと大声をあげて笑った. 三神はしまったと思ったが間にあわなかった. 「馬鹿野郎,勝手なまねするねえ」 分隊長の雷のような声が,チョビひげの顔をうかがいながら怒鳴りつけた. 「なんて情けない奴た」と自分で自分をいましめ,ひっこもうとするのを,今度はチョビひげ教官が椅子にふんぞり返ったまま,でっかい口をあけて怒鳴りつけてきた.

「意気地なしめ,あわてることはねえ」 平静をよそおった声に,三神は体がどんどん固くなっていくような気がするのだった. そんなことにおかまいなしに,農民は相変わらずスパスパ吸いこんでは吐き出し,黒くヤニのたまったがん首を"たこ"だらけの掌(てのひら)で叩き,煙草のホクを落とし,太い節くれだった親指で器用に転がし,次のがん首に押しつけ,その手を見つめ,肩で大きく呼吸をついた.彼の"たこ"だらけの太い手,ゴツゴツした手………農民はじっと掌を見つめ,開いては握り,開いては握りした. ふとその手が動かなくなったと思うと,農民の瞳からポタリと涙が落ちた.いくつもいくつもつづけてポタポタと落ち,乾ききった黒土にしみこんでいった.

ちょうどそのとき,東村落はずれの方向でダダダダ………けたたましい重機関銃の音とともに,「ワーッ,ヮーッ」という喚声が,押しかぶさるような入道雲にはね返ってひびいてきた. 「ワッハハハ246………機関銃中隊でもやりおったか」チョビひげが言った. 兵隊たちもハッとしてその方向を振り向いた. 農民はつと立ち上がりざまに煙管を左手に持ち直し,右のこぶしを固く握りしめ,大きな足を一歩前に踏み出して喚声の方向に視線をなげ,涙をふるった.その眠はランランと輝き,踏みしめた足はかすかにふるえていた. この様子を見ていた分隊長はやにわに飛びかかり,農民の煙管をもぎ取って地べたに叩きつけた. 折れたがん首がチョビひげ教官の鼻先をかすめ,火の粉が飛んだ. 「アッチチチ………馬鹿野郎」 青すじを立て,足をパタパタさせてあたり散らした. 「なんだ,その面」 分隊長が恐ろしくなって農民の前に立ちはだかり,三つ四つつづけざまに殴りつけた.

チヨピひげがまた怒鳴りたてる. 「馬鹿者ッ,早く目隠しをせい」 三神はいよいよ本物の人間をと思うと,またいっそう胸の動悸が高鳴り,奥歯がぎいぎい音をたて,静めようとすればするほど体じゅうがワナワナふるえた.彼は,何者かに押されるように農民の背後にまわり,四人がかりで両手をくくり,棗の木に縛りつけた. そして今度は血のしみた襦袢を引き裂き,目隠ししようとした瞬間,毅然と,しかもさげすむような口調でこう言った. 「不怕,鬼子必須復仇(プパ,クイズピフフウチョウ)[こわくない,お前ら,かならず仇をとってやる]

首を振ってはねのけた布切れ,額の小じわが二,三本にまとまり,太く探くきざみこまれ,その下から毅然とした眼,何者にも恐れを知らぬ闘魂が兵隊たちの心胆を貫くように見すえている. 三神はますます恐怖におそわれ,ゾクゾクと悪寒を感じ,首すじの毛が逆立った. 「エエイ,こん畜生!なめたことをぬかすな」 農民の向こうずねに編上靴が飛んだ. 後ずさりする三神にまわりの兵隊たちが,「やれ,やれッ」とあおりたてる.

247チョビひげが軍刀を引き抜き,空中で躍らせながら,「突き殺せ」と命令した. 「ワア!」 三神は無我夢中で突っ込んだ.だがその銃剣の手元は狂い,肩先に「カッ」と剣先が二寸[約六センチ]ばかり突き刺さった.刹那(せつな),鮮血が流れ,農民の肩がピクピクと痙攣しはじめた.

「なんだッ,その突き方は」 分隊長の革帯が,三神の頭にいやと言うほどぶち下ろされた.「しっかり構えて突くんだ」 「ハイ」 「くたばれッ」 失敗を挽回しようと飛びこんだ三神の銃剣は,またしても左腕に狂った. 「馬鹿者ッ,胸を突くんだ」 歯ぎしりしながら分隊長が怒鳴る. 農民はなおも毅然として,引きしまった顔に真一文字に結んだ口,炎のように燃える眼で兵隊たちを睨みつける.その眼が傷口にそそがれた. 三神はもう半ば泣き面で恥もなにもかも忘れて飛びかかっていき,三本目の突きが左脇腹にズップリうす気味悪い音をたてて刺さると同時に,銃剣と軍服に血しぶきを浴びせかけられ,あたり一面に飛び散った.

「それッ!突っ込め」 チョビひげが怒鳴る.

大林一等兵が二,三人の兵隊をおし分けてめくら滅法に駆け出して突っ込んだ. 銃剣が喉を貫き,棗の木にささり,銃から剣が抜けた.そのとたん朱に染まった農民は,満身の力を口に集め,腹の底からしぼりだすように「鬼子」と叫ぶと,首をがっくり折った.その叫びをチョビひげは愉快そうに笑いながら眺め,「成功!初年兵全員,度胸だめしだ,順番に突っ込め」と言った.

たちまち狂気じみた喊声があがり,血まみれの農民の腹の皮が裂け,肉と大腸がえぐり出された.あまりのむごたらしさに,どもりの伊藤は立ちすくんでいたが,教官の顔をちらりと見ると眼をつぶって飛びかかっていった.農民の眼は恐ろしいほどこっちを睨みつけている. 食いついて248いつまでも離れないように,それは兵隊たちをふるえあがらせずにはおかなかった. チョビひげも,分隊長も蒼白な顔を見合わせ,兵隊を怒鳴りとばした. 「エエイ,眼玉をえぐり取れ」 また,五,六本の銃剣が襲いかかり,頭,顔,胸,ところきらわずプスプス突き刺した.チョビひげ教官が,やっと安心したように,「とうとうくたばりやがったか」そう言いながら一肩で大きく呼吸をはずませていた. 《ああ俺は………初めて人間を殺した………》 血のしたたる銃剣が三神の両手の中でガタガタとふるえていた. 《いや俺はもっと強い兵隊になるんだ,これくらいのことでふるえるなんて………》

三神がそう自分を鞭うって分隊長のほうへ振り返ったとき,「やいやい,手前たち,なにをもさもさしているんだ,早くかたづけろ」おたおたしている初年兵に,分隊長の柳の鞭がピシッピシッと音をたてた.あわてて動き出す初年兵が農民の前に近寄った. 六尺[約百八十センチ]余りもある農民の体は蜂の巣であり,血だるまの体から流れる鮮血は黒々と大地に吸いとられていた.

やっとのことで棗の木の下に掘られた穴に引きずり落とした三神は,ホッとみなと顔を見合わせ,生つばをゴクリとのみこんだ. その穴の中に,熟れた棄が一つ,ボタンと落ちてきた. 「ワッハッハア………初年兵,どうだ」 チョビひげの高笑いが生血の臭気のただようなかにひびいていた.

先刻からの空模様はますます黒雲を増し,雷鳴と稲妻が入りまじってはげしく鳴りひびいてきた.

その轟きゆるがす大地の彼方より「モウーッ」とかすかに牛の鳴き声が呪いのように聞こえてきた. 私はいま,十三年前の極悪非道きわまりないこの実録をつづるとき,純真な農民の親子に対して行なった自分の滔天(とうてん)の罪行を見つめ,悔恨の情を押えることができない………. 愛する夫を奪い取り,249父を奪い………愛情を無惨にも引き裂き,平和な生活をし,労働を愛していた農民の生命をなんの理由もなく屠殺(とまつ)し……… 牛をかっぱらい,あとに残った母子の生涯を舞台しにしてしまった. 同じ農民の子として生まれ,土に生きている人間ということを忘却した,まったくけだものに等しい自己の前半生を呪い憤らずにはいられない.また日本帝国主義が行なった侵略戦争を,私は呪い憤らずにはいられない.


筆者からの一言〈昭和五十七年入月

私は仕事の関係でよく地方をまわり,多くの人々と接しているが,あの忌まわしい戦争の傷跡は生々しく,多くの苦しかったこと,悲しかったことを聞かされる.しかし私ども日本軍が中国を侵略し,犯してきた数知れぬ残虐な行為はほとんど語られていない.

私は許されて帰国して以来,つねに自己の体験を語り,反戦平和日中友好を訴えてきた.多くの人々はそれを理解し共鳴してくれる. 十年前,中国との国交回復をどんなに喜んだことか.

しかるに,文部省による教科書検定では,日本の中国への侵略戦争を「進出」と書きかえようとしている. なんたることか. あの侵略戦争を反省するどころか,美化しようとでもいうのか. そんなことはけっして許さない.私たちのあやまちを二度と繰り返させないために,日本の侵略の事実を伝え,反戦平和日中友好の闘いを自らに課した終生の行動として貫くことを誓うものである.

三神高

 

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1 Mikami Takashi, Gemeiner, 教育助手、伍長
2 Igimi
3 Shandong, chinesische Provinz
4 Linqing, Kreis in Shandong
5 Guantao (Guanyao), Kreis in Shandong
6 Qiu, Kreis in Shandong
7 Itô
8 Ôbayashi, Gemeiner
9 Tsukigata, Feldwebel
10 Sakai, Gefreiter