Springe direkt zu Inhalt

18

逮捕
妻を拉致して,夫を誘いだす

松原俊三郎1(まつばら・しゅんざぶろ)

監督警射・捜査主任


《かまうもんか,叩き壊して入れ》……… 私が表入口ドアに体をぶちつけると,刑事たちも飛んでくるなり,ドアを蹴破って乱入した. 私は素早く中仕切りの壁にぴたりと背中をつけ,拳銃を奥の部屋のドアに向けながら,注意深くあたりを見まわす.三名の刑事が炕(オンドル)の焚き口,かまどに身を伏せ,ほかの二名は水がめを楯にして,それぞれモーゼル一号拳銃を同じドアの方向に向けて息をこらしている.蹴破った表入口からは零下四十度の外気が白雲のようにもうもうと舞いこんでくる.

私が劉万全2(リュウマンゼン)刑事にめくばせすると,彼は奥の部屋 に向かって,「俺たちは警察だというのに,まだわからんのか,早くけろ」大声で怒鳴ったが,まだなんの返事もない. 「ぐずぐずするならぶつ放すぞ………日本人も来ているんだ」と言うが早いか,バンバンと拳銃が火を噴いた.二発の銃声とともに戸棚の茶碗が散った. 部屋の中からは突然火のついたように赤ん坊の泣き声が聞こえてきた. 「抵抗217するなら中にぶつ放すぞ………手をあげて一人ずつ出てこい,命は別けてやる.中に何人いるのだ,早く言え」

中からは,「誰もいません.私と子どもだけです」という怒りにみちた甲高い若い婦人の声がし,刑事たちの眼がいっせいに私に注がれた. 「よーし,女だ,入れ」 劉万全と高鵬挙3(コイホウキョ)がドアに飛びついたが,なかなか開かない. 業をにやした崔鵬程4(サイオウテイ)が,南の壁ぎわから鋤(すき)を取るが早いか,ドアめがけてガンガンと叩きつけた.と,鋤はめちゃめちゃに折れ,扉も壊れてしまった. 六名はどっと部屋になだれこむと,壁を背に,赤ん坊をしっかり抱きしめた二十五歳くらいの婦人が,白昼不青の闖入者に怒りに燃え,片手に鋏を持って,寄らば一突き,と身構えている.

「動くな!!」 六挺の拳銃がいっせいに婦人を狙った.一瞬,婦人は小腰をかがめ,胸深く赤ん坊を守り,蒼白な顔は怒りにふるえ,稲妻のような眼光が,射すくめるように私の眼前におおいかぶさってくる. 《なにくそ,反抗するか!》 私は炕に飛び上がり,婦人を防寒長靴で蹴り倒した.

《なあんだ,女一人か》 私はほっとして室内を見まわす. 倒れた婦人のそばには,刺しかけの草鞋(わらじ)の底や底切れが散乱している.土間の隅には,高さ・幅五十センチに長さ一メートルくらいの衣装箱が一つ,その上に茶碗が一つと破れ布団が二,三枚重ねてある.壁に包米(トウモロコシ)が四,五本吊り下がっている以外にはなんにもない. がらんとした四メートル四角くらいの小さな部屋である. 「おい,女,お前は張春生5(チョウシュンセイ)の女房か………お前の亭主は馬の大泥棒で,八路の犬だということは,ちゃんと情報があがっているんだ.亭主がどこへ行ったか,早く言え」 「私,知りません」 婦人は吐き出すように言うと,くるりと背を向けた. 「野郎!なめたな………こらっ………日本の警察で年季218を入れた,しかも勲七等・功七級の柔道の先生がどん百姓の女房になめられてたまるか.あとで泣き面かくなよ………おいみんな家探しだ」 私は衣装箱に向かって歩き出すと,崔鵬程はさっきの折れた鋤の柄で,壁や土間をどんどん叩いて検査を始め,馬徳祥6(バトクショウ)は坑の破れアンペラをまくり上げている. 私は衣装箱の上から,茶碗と布団を土間に投げ飛ばし,ふたをあけてみると,古着やボロが入っている.その上の小さな籠に鶏卵が三個入れてある. 私は土間に投げつけると卵は割れてしまった. 婦人はそれを見ると坑から土間に飛び下り,「アッ!なにをするんだ,この卵は私が病気のため,乳不足で赤ん坊に飲ませるんだ」そう言うと籠を拾い上げようとした. 「なに,こんなもの!ウンウン」 私は防寒長靴でぐしゃぐしゃに踏みつぶしてしまった. 婦人は「ああっ,鶏はいま卵を産まないんだ」と言いながら,必死に私の足にしがみついた.

「えい!うるさい"あま"だ!」 どんと防寒長靴で婦人の胸を蹴ると,婦人は「ウウウウ」と悲鳴をあげて倒れたが,立ち直ると苦しそうにもだえた. 怒りに燃える眼は,じいっと私を睨んで,つづいて箱の中から投げ出す着物や布切れを見て,歯を食いしばっている.私が手の挨を叩いていると,外から史獄山7(シガクサン)と高鵬挙の二人が,真新しい自転車を一台ずつ押しながら,部屋に入ってきた.

「人間は見当たりませんが,表の物置きに自転車が二台もありました」 「これはよい自転車だ,近ごろちょっと手に入らん代物だ」 私は彼らの前に近づいて小声でそっと, 「これは持って帰るんだ………いいか,俺の古いやつはお前らに払い下げてやる………わかったか」と言った.二人は顔を見合わせると,ずるそうに居をかすかにゆがめて笑った.

「この自転車は夫が百姓の傍ら,自転車修理で生計を立てているんだ.これは,近所の人から修理219を頼まれた,大事な人さまの預かりものだ,返せ」と突然,怒りにふるえる甲高い声が私の耳をついた. 「うるさい,警察はお前の指図は受けん!エーイ,面倒くさい"あま"だ,手錠をかけてしまえ」 史獄山が飛びかかって手錠をはめようとするや,婦人はパッと身をひるがえして炕の上に身を避けた. 劉万全は追いかけて腕をねじ上げ,手錠をはめてしまった.婦人は「放せl」と手にかみつこうとした. このとき,泣きやんでいた赤ん坊が,また急に火のついたように泣きだした.婦人は「あっ,坊や」………手錠のかかった両手を伸ばして赤ん坊をキッと抱き上げ,頬ずりをしながらいくすじもの涙を流して唇をかんでいた.

「空手で帰っては科長に面子が立たない,亭主がいなければお前が身代わりだ」

じいっと手錠を見つめていた婦人が,私のほうを向き直ると,居ずまいを正して土下座し,額を土にすりつけ,「大人(タイジン),私はいま病気です,夫張春生に用事があるなら,夫が帰ったらきっと斉斉哈爾8(チチハル)に連れていきます.なにとぞ手錠をとってください,子どもも死んでしまいます」と何回も何回も,額を土にすりつけて,手を合わして拝んでいる. 「ハハハ………だめだ,泣き落としの手は古い」氷のように冷たい声が部屋いっぱいにひびいて,外からは一陣の寒風が婦人の乱れた髪の毛をゆり動かしている. 「さあ汽車におくれたら大変だ.早く引き立てろ」

婦人は立ち上がって反抗した.刑事たちは手取り足取りで,表に待たしてあるソリに引きずり上げて,足錠をかけてしまった. 婦人は足錠をはずそうとすれば,手はぴたりぴたりと凍りついてしまい,手の皮はむけ,血が流れ,ソリに凍りついた.家の中から赤ん坊を持ち出した崔鵬程が婦人の手に投げつけると婦人は仕方なくボロ布団に赤ん坊をくるみ,もう一枚で自分の体を包んだ.悲しそう220な赤ん坊の泣き声は,寒気をついて,私の耳に抗議するかのようにひびいてくる.私は道案内のために引っぱってきた,この北安9(ほくあん)省依安10(いあん)県長陽鎮11(ちょうようちん)村の村長に向かって, 張春生が帰ったら,お前が責任をもって斉斉哈爾に連れてこい.そしたら女房子どもは帰してやる.今日から十日間,一九四二年二月十日まで待ってやる.もし逃がしたら,お前は家族もろとも同罪だ!わかったかな!」 そう言い残すと,泰安鎮12(だいあんちん)の駅に向かって四時間ソリを飛ばした. 三頭の馬は,零下四十度の北風吹きすさぶ北満の広野を,蹄から吹雪のように雪を巻き上げて,走りつづけた.私は顔に針を刺すような痛みを感じ,思わず毛皮外套で深く顔を埋めて婦人を見ると,婦人の頭髪は真っ白に凍り,顔の色は真っ赤になり,そして紫色に変わってしまっていた.しかし婦人は自分の肌に赤ん坊をぴったりとつけ,泣けば胸をはだけ,乳を飲ませながら,じいっと居をかんで私を睨んでいる.

泰安鎮から汽車で四時間,斉斉哈爾に着いたのは,もう真夜中の十二時も過ぎていた.母子を留置場に投げこむと,重い欽の扉をガチャンと閉めた.

それから十日間が過ぎた日の夕方のことであった. 長陽鎮の村長が張春生を逮捕して来ました」 劉万全の異様に光る眼が私の顔を見つめている.

「フフン,それは思う壷だ.効果てきめんというわけだ………すぐしぼり上げるんだ,そして背後関係と共犯を吐かせるんだ.吐いたら片っ端からみな縛り上げるんだ」

こうして水攻め,吊るし上げ,電気,三日間打ちどおしの拷問をつづけたが,張春生は一言も口を制らない. 「よし,こうなったら最後の手段だ!張春生を引っぱり出してこい」

「快走罷(クワイツオパ)[いそげ] 馬徳祥刑事の声が廊下にひびくと,がちりがちり足錠の音とともに,刑事室のドア221がサッと開いて,上半身裸体になった張春生が入ってきた.幅広い一肩,丸太ん棒のような腕,ところかまわず紫色にはれ上がった棍棒の跡に同じ色の鞭の跡が交差し,重なり合っている. 角張った頬,厚い唇,不屈な眼光が焼けつくようにじっと睨んでいる.

「この野郎,反日分子だ,やってしまえ」 私は,そばの壁にかけてある野球のバットのような棍棒を振り上げると,がんがんつづけざまに打ちのめした. 「ウウー,ウーム」 床にのめってまわりくねる張春生をなおもつづけて殴りつけた. 「野郎,少しは思い知ったか,俺の面をよく覚えておけ,甘く見るといつもこのとおりだ.さあ,いまから本料理だ,吊るし上げろ」

刑事が寄ってたかって両手を膝関節の下にくくりつけ,わきの下から鉄棒を通し,机を二つあて重ねた台の中央に吊るし上げてしまった. 張春生は腕の抜けるような痛さに顔をゆがめ,歯を食いしばってもがき,反抗している.十分………二十分,いまはもう暴れる力もつきてぐったりと吊り下がった額からは,大粒の脂汗がにじみ出ては顔を伝い,あごから床に落ちて,床板はまるで水を流したようにぬれている.

「ハハハ………ちょうどよい時期だ………女房に面会させてやるんだ,ハハハハ」 私は劉万全を手招いて耳打ちをした. 「女房に早く共犯を自供するように言わせるんだ.奴も里心を出してきっと図星だ」 劉万全がうなずいて立ち去った.やがて静かな足音がドアの前に止まって,婦人は一歩部屋に入るやこの様子を見ると,ぎょっと立ち止まって,「アッ!春生と叫んだ. はらわたをしぼるような声と同時に,狂気のように夫に駆け寄ろうとしたが,さあーと顔色が蒼白に変わり,全身が痙攣し,大きく前後左右ゆれたかと思うと,「ウウー」と虚空をつかんで,ばったりと床に倒れてしまった.

222張春生ば「アッ,畜生」と一声,かっと眼を見開いて全身のあらんかぎりの力をしぼって反抗し,台をがたがたゆり動かし,そしてあらんかぎりの声をしぼって,「女子どもをどうしようというんだ.貴様,それでも人間か!」と叫び,火のように怒って台をゆすったが,その顔はだんだん苦悶に変わり,ついに動かなくなり,がくりと頭を前にたれてしまった. 「ちぇっ!意気地のない奴だ,夫婦そろってのびてしまった.留置場に運んで水でもぶつかげろ」 私はそう言い残すと,情況の報告のために科長室に向かった.司法科長住永13警佐は太った顔に細い眼をいっそう細くして,冷酷な声をひびかせて言った.

北安依安県は抗日連軍王明貴14(オウメイキ)部隊の相当の影響を受けている.あの辺一帯は"治安"が非常に悪ぃ.全部『一色賊(いっしょくぞく)地帯[政側が支配している地区]である.証拠がなかろうが百姓だろうがかまわん.張春生は今日まで頑として口を割らないのは,やはりその影響があることを証明している.ゆえに書類は彼が自供しないなら不必要である.ただ今日までこのように反抗したことを記録すれば,死刑に処する十分な証拠となる.事件送致の準備をせよ.女房のほうはあの病気の状態ではここ数日ももつまい.留置場の中でオダブツになったらことが面倒だ.いまのうちに追い出したほうが得策だ………そうしたまえ」 その声は冷たく壁にひびき渡った.

「引きずり出してしまえ!」 劉万全は婦人の手を,高鵬挙と崔鵬程は後ろから押し上げて,警察局の玄関から外に引きずり出すと,ピシャリとドアを閉めきってしまった.婦人は「夫を返せ!」と狂ったようにドアを叩いている. 「一銭の金もないんだ!」 「私も子どもも病気になっているんだ!」 婦人の泣いて叫ぶその声は,力ない赤ん坊の泣き声と入りまじって北風に乗って聞こえているが,223その声はだんだん力なくうすらいで,ついには聞こえなくなってしまった.北満の凍りつくような夜は深々と更けていった.

翌朝,警察局隣りの中央市場入口前に,吹きだまりの雪に半分体の埋もれた母子の凍死体があった.母は片手でしっかりと赤ん坊を抱いて,片手は虚空をつかんでいる. 誰が手向(たむ)けたか,杖元には饅頭(マントウ)が二つ,道行く人々の注意を引いていた.


筆者からの一言〈昭和五十七年八月

最近はまた,中東やあちこちで大国を中心とするまことにきな臭いにおいがしてまいりました. 広島15や長崎16におとされたピカドンの七百倍もの殺傷力のある原爆があるとか,一発か二発で日本が全滅するとか,いったい世界じゅうの人間はどうなるのでしょうか.

私は二十三歳で現役兵として満洲侵略に引き出され,また支那事変にも二年間,また日本でも警察官,さらに満洲国の警察官として日夜生命を賭して国家のため,国民のためと思って働いてきました.それが一部の学閥や財閥に欺(だま)すされていたことがわかり,いまさら残念でたまりません. 私ももう七十三歳になりました.余すところ何ヵ月か,何年かを戦争を知らない人たちに身をもって戦争の罪悪を知らせなければと決心しております. もう,厳寒のシベリア17で味わった死ぬよりもつらかった労働や空腹,敗戦後の内地でも多くの国民が焼け出され,傷つき,家なく,食なく,さまよい歩いた時代,このような時代を世界じゅうの息子や孫たちに二度と味わわせてはならないと心の底から祈っております.

松原俊三郎

 

--------

 

1 Matsubara Shunzaburô, 監督警射・捜査主任
2 Liu Wanquan (Moquan), Staatsanwalt 刑事

3 Gao Pengju
4 Cui Pengcheng
5 Zhang Chunsheng, chin. Widerstandskämpfer
6 Ma Dexiang
7 Shi Yushan
8 Qiqiha(e)r, große Stadt in Heilongjiang
9 Beian, Provinz
10 Yian, Kreis in Beian
11 Changyangzhen (Zhangyangzhen), Dorf in Yian
12 Taian --- Stadt und Kreis, berühmt durch Taishan; Taianzhen 泰安鎮 Bahnstation
13 Suminaga, 警佐, 司法科長
14 Wang Minggui
15 Hiroshima, japanische Präfektur und Stadt
16 Nagasaki, japanische Stadt und Präfektur
17 Sibirien