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処刑
抵抗する捕虜を始末する

川田孝1(かわだ・たかし)

伍長


済南2(さいなん)の市街には,中国労働者の押す一輪車や大車が夜中までギイギイ苦しげに鳴りつづいた. こうした市街の一角に,墨(すみ)黒々と済南憲兵分隊」の看板を張り出し,三階建て四棟の建物に,煉瓦塀をめぐらし,太い二本の門柱には夜中もあかあかと電灯をともしていた.その受付口には日本軍各機関はもちろん,領事警察,中国警察からの情報,保安警務報告,旅館の宿泊届けにいたるまで毎日山積みされた.

〈街頭行き倒れ 原因・餓死 住所氏名・不明〉この種の書煩は憲兵隊に用はなかった. 生きているしゃべる人間が入用だった. しゃべることだけが入用だったから,しゃべったあとは用がないから殺した. しゃぺらなげれば役に立たないから殺した.憲兵は成果があがらず手持ち無沙汰になると,また上部から『00の情報調査せよ』の命令があれば,宿泊届けをめくって何県何市と地名210を拾い,職業年齢を選んで,「これでもあげてみるか」といった調子で襲いかかっていった. 理由は………理由は,「中国領土に生活を営んでいる中国人」であった.

一九四三年十一月初めの夕食後のことであった. 私は留置場監視長として富田3一等兵を監視につけ,机に寄りかかって雑誌に読みふけっていた. 「バシッ」 「走ッ(ツオ)[歩け] 一人の中国人が一階から地下留置場の石段を一歩一歩と降りてきた. 竹刀(しない)を握りしめた前畑4軍曹がつづいた. 「すぐ連れにくるから監視しておけ」 「ハッ,留置名簿は」 「あとだッ,言うとおりにしてればいいんだ」 前畑軍曹はとがった声を残して,せかせか石段を引き返していった.

狭い房内に押しこめられた人いきれ,南京虫と虱(しらみ)をつぶした臭い,拷問の血と化膿の臭い,大小便の臭気などが一つになってムッとしながら,底冷えのする留置場の廊下に,中国人はやや下向きに立っていた.二十六,七歳か,目立って肩幅は広く筋肉が盛り上がり,見るからに頑強な五体,五尺四寸[百六十センチ強],若古した藍色のズボンに白のシャツ,黒の太い帯をしめてるが,すでに上衣の紐釦(ちゅうこう)はちぎれ飛び,首すじに数本の傷跡が蒼黒くヒクヒクと痙攣していた. はだけた胸も顔も陽に焼けて,野良に生まれ野良に働きづめてきた土の臭いをただよわせて,じっと立ったまま考え深く留置場の情景を見まわしていた. 「ハハ,こいつ,お釈迦みてえに"おでこ"に瘤(こぶ)があらあ,こんな手形があったんじゃ,思いことはできねえぞ」 私は瑚笑を浴びせながら富田一等兵を監視にあたらせ,内股までさぐったうえに帯を取りあげ,「座れッ」と,ドンと肩を突いた.

彼は横眼で私を睨んだまま動かなかった. 「支那人は支那人らしくしろッ!憲兵隊に来ていることを知らねえな………富田,引っぱっていけ」 私はまた机に寄りかかり雑誌を引っぱり出した. 「ちょっと211手伝ってくださいよ,川田さん」 青田6通訳が拷問室から声をかけてきた. 「またのびたんか………一杯や二杯の水を飲んだからって,チェッ,一言言えばいいものを,面倒をかけやがって………」

私は梯子(はしご)や縄,竹刀,バケツ,ヤカンなどの散乱した拷問室の水たまりの中でくずおれている中国人の濡れた細い手首の片方をつかむと,青田と一緒にコンクリートの廊下をズルズルと留置場に引いてきた.頭はダラリと後ろにたれ,白い眼が力なく電球に向けられ,水を吐いたあとの胃液が白紫の唇からダラダラと頬のくぼみをつたい落ちた. 「今夜もつかね,川田さん」 「ウン,奴らに預けておけば,支那人同士でけつこうもたせるよ」 私は格子の戸口に引きずっていくと,「そーれ,おみやげ持ってきたぞ」と,暗い一房内から差し出されている十数本の手の中に投げこんだ.

底冷えのするコンクリートの片隅で額に瘤のある中国人は膝を両手で抱え,背を丸くしてあごを膝にのせるばかりにしたまま,何かに濃かれたようにじっと耳をすまし,つぎつぎと起こる留置場内の情況の奥の奥を見つめているようでもあった.

「どうか,異状ないか」 前半日直の篠山6曹長が地下に降りるのも面倒くさいとばかりに,階上の戸口から猪首(いくび)を突っ込んで怒鳴った. 「ハイ,留置場勤務中,異状ありません」 「よーし,しっかりやれ」 「ハイッ,つづいて服務します」 私は瘤のある中国人に手錠をかけ,足枷(かせ)をかまして,仮眠所に入ってしまった.

翌日,朝から留置場の奥から,歌とも叫びともつかない腹底から絞るような声が聞こえてきた. 「朝っばらからにぎやかだな,細木7 留置名簿と日誌を整理していた細木上等兵は,赤い眼で私を見なれがら,「一晩じゅうあのとおりで寝られずよ」と言い,開いた日誌をよこした. "言動に特別注意し,212逐一前畑軍曹に報告すぺし,他の留置人との関係及び動向に注意し,厳に会談を禁じ,適宜(てきぎ)処置すベし"か………よーしわかった,それでなにか特別のことあったのか」 「よく聞いてみろ,毛沢東8(マオゾウトン)って言うから」 「なんだい,マオゾウトンってのは」 「八路の親玉らしいぜ」 細木も自信なげであった.私は人員点検に奥に入っていった. 歌声が留置場にこだましてひびき返っていた. 第三房の格子の間から両手が外に引き出され,鋼の手錠が手首に食いこみ,分厚い大きな手が紫色に変わっていた. 「この野郎か」 あの瘤のある顔の真ん中だけが三寸角材の格子からのぞかれた. ふと歌がやんで,彼の眼が私を憎々しく刺すように腕んだ. 「どうだ,ざまあみやがれ」 私は彼を留置した翌朝のいましさが頭をもたげ,手錠を力まかせにグイグイ引っ張った. 「ウーン,ウーン」 彼は痛みにたえるうめきを洩らした. 「ハハ………いい気持ちだろう」 私は高笑いした. 先日の朝,欠け茶碗にチョボッと塩ののった高梁を「飯だ」と言って,私は彼の鼻先に突き出した. 「いらない」 彼は横を向いた. 「なにッ,ありがたくいただくんだ」 私は高梁を鼻に押しつけた. 「俺たちのつくった高梁だ………俺を殺すまでの命つなぎの飯はいらない」 茶碗を投げつけようと振り上げた私の手を,彼は冷ややかに見て言った. 「ウヌッ」 私は夢中で銃架に駆けた. ハッと気づいたとき,彼は石段を一挙に四,五段も飛び上がっていた.

「ワーッ,逃げた!」 仰天した私はわめきながらあとを追った.門のところで憲兵と向かい合っているところに,ようやく追いついた. 私は留置場に引きずりこんで手錠足伽をしたうえに帯草で彼をきんざんに殴りつけたのである. 殴るたびに「ウーン,ウーン」と歯を食いしばるのを見て快感をおぼえ,ますますはげしく殴った. 彼は身をそらしてなにかを叫んだ………それを合図のように,留置場の213中国人が大声で歌をうたいだした.

「黙れッ,黙らんか!」 私は竹刀を振りまわして,格子から出ている手首を叩いた.一瞬声はやみ,息を呑んでまた叫びだした. 各房から中国人の数十の眼が私のほうをじっと睨んでいるのを感じると,カッとなってめちゃくちゃに各房の格子を叩いてまわった.歌は夜になってもやまなかった. すでに二度三度,この情況を報告してあるのに,「よく情況を見ておれ」と言うだけでどうしろとも言ってこない.あるいは特務をこの中に入れているのかもしれないと考えたが,このままではなにか起こりそうで,じっとしていられない焦燥にかられた. 二十四時ごろ,保安科の山下9曹長が肩を怒らしながら,「どうか,情況は」とずかずか入ってきた. このときとばかり私は輪をかけて報告した. 「麻縄の丈夫なのを持ってこい」 山下は言い捨てて奥に入っていった. 「しめしめ」 私はすっ飛んで一束の麻縄を持ってきた. 私は山下と一緒に,ちょうど彼のつま先が床にすれすれになる程度にして,手錠をはめたまま手首を縛って,天井に吊るし上げてしまった.さらに猿ぐつわをはめた. 格子をはさんで体は中に両腕は廊下の天井に………苦しみうめく声が猿ぐつわをついて洩れた. 「これで一安心だ」 私は手をはたいて机にもどると,明日の外出先の情欲を描きながら,靴の手入れや襟布の交換に余念なく準備を始めた. そして六時間にわたり彼を吊るし上げたまま,上番者に申し送った.それから数日後,幾度かの水拷問と殴打にその男の服はちぎれ,血が黒くこびりつき,異様に突き出た頬骨の皮膚は破れ,肉が崩れていた. 手錠と足伽で手も足も格子に堅くしめられていた. 「どうだい」 嘲笑してわざとらしくのぞきこんだ私の顔に,その男はペッと格子の間からつばを吐きかけてきた. しかし,口の中はすでにつばも出ないほど乾き,憔悴(しょうすい)しきっていた. それでも,その日も214一日じゅう,高く低くとぎれる声をふりしぽって歌い叫んだ.

二十二時過ぎ,拳銃,軍刀,騎銃を携え,憲兵マントをひっかけた前畑軍曹と田島10軍曹が石段を降りてきた. 《奴を出せ》 前畑の眼がそう言った. 《やるんだな》 私は習慣的に直感していた. 体を支える力も失った男をこづきながら角を曲がったとき,前畑と彼は真正面から向き合った.彼の眼は憎しみに燃え,前畑を刺すように腕んだ. 「フン」 前畑は眼をそらして私に,「捕縄をかけろ,手は向こうではずす.鍵を出せ」と言いながら,『仮名某』『八路軍容疑者』のでたらめを書いた白紙の留置名簿を引き裂いて丸めると,いまいましやげに「走ツ[歩け]石段をあごでしゃくった.両脇から抱きこまれた男は,一歩二歩,石段を登りはじめた. 石段と真向かいの五房,六房から無言でこぶしを高く掲げて,涙にぬれた憎悪に光るいくつもの眼が一つになってあとを追った.額に瘤のある顔が振り向きざま「毛沢東万歳(ワンソイ)と,生き生きとした声で絶叫した.

「コラッ」 前畑と田島が本能的に彼の口をふさいだ.

毛沢東万歳」 首を振って再び房内に向かって叫んだ. 万歳,万歳,万歳………すでに死を覚悟した男.房内の中国人たちは,日本軍の残虐な侵略から祖国を土地を家を守る決意をこめた万歳の連呼をもって応えた. 間もなく,トラックのエンジンの音が門からだんだんと遠のいていった.

「どうだ!なにがマオゾウトンワンソイだッ!さわげ,さわげ.いくらさわいだって日本軍に勝てるか,神国日本,天皇陛下万歳だ」

私はわめきながら,格子をバシバシ狂ったように叩きまわった.それは日本が無条件降伏一年九ヵ月前のことであった.


215遺族からの手紙〈昭和五十七年八月=筆者は昭和四十六年十月死亡〉

父が亡くなって十年の月日がたちますが,生前,父がつねに口にしていた言葉があります. 「二度と戦争を起こしてはならない」と自分自身に言いきかせるように言っておりました.

父が中国,ソ連11の捕虜生活のなかでどんな体験をしたか,私は知りません.なんでも話してくれた父が,そのことに関してはなにも語りませんでした. きっと思い出すことも,口に出すことも嫌な体験をしたのでしょう.権力という名のもとに,戦争という狂気の時のなかで,青春を過ごした父にとっては,あまりにもつらいことばかりであったと思います.軍備拡張が叫ばれ,ボタン一つで死と隣り合わせの不条理ないまの時代,父が戦場にいた年齢と同じになったいまの私に,父の言葉が私の胸に響いています.

川田孝氏長男宏12

 

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1 Kawada Takashi, 伍長 (Pseudonym)
2 Jinan (auch: Tsinan) ist die Hauptstadt der chinesischen Provinz Shandong.
3 Tomita, Gemeiner
4 Maehata, Feldwebel
5 Dolmetscher
6 Shinoyama, 曹長
7 Hosoki, Gemeiner
8 Mao Zedong (jap.: Mô Takutô)

9 Yamashita, 曹長
10 Tajima, Feldwebel
11  Die Sowjetunion
12 Kawada Hiroshi, ältester Bruder von Kawada Takashi