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強制労働
殺人長屋に押し込めて酷使

大西馨1(おおにし・かおる)

大尉


私は作業場の丘に建つ将校室で,当番がつくった手料理を肴(さかな)に,ちびりちびりと杯を傾けていた.ふと,窓に眼をやると,はるかの丘に,二百人ばかりの男がこっちへ向かってくる.私は,《奴(やつこ)さん来たな》とうなずいて,なおもよく見たら,帽子をかぶらず,服はちぎれて,ところどころ素肌が見えている.それどころか,ひどくよろよろと仲間の肩に蹴(すが)ってくるのもある.私は眉をくもらせた. 《この連中で任務を完遂できるだろうか》と危ぶんだがすぐに, 《なーに,ほかに百人の農民がいるのだし,どちらにしたって,俺の言うなりに動く支那人だ.二人や三人殺したってかまうことはないのだ》と考え直し,先ほどの憂いは吹っ飛んだ.

この一群の男は,抗日軍の捕虜である. 五月から半年,鈴木2中隊で,湿地に道路をつくった.一昨日検分した軍司令官飯村3中将から鈴木中尉は,「大変よくやった」と賞詞(しょうし)をもらったが,この捕虜は159戦友の二百の遺体を千葉4高地に葬って,今日は重い足を引きずって,私の中隊へ分けられてきたのである.

捕虜を収容した長屋は,十日ばかり前に完成した幅一メートルの通路を五十メートルほど掘り,両側に二メートルの寝床をつくり,乾草(ほしぐさ)を敷いた材料こそ新しいが,家畜の住まいにも劣る,光の入らぬ通風の悪い,お粗末な長屋である.もらった一枚半の毛布にくるまって彼らが寝ついたのは,夜中を過ぎてからである.明日は,多分,休みだろうと,うとうとしているところへ,枕元で,「オイッ,起きろ,作業を今日はやるんだぢ」と気の荒い日下部軍曹が,着剣した兵二名を率いて,声の抜け場のない長屋で怒鳴った.

捕虜は,眉をしかめながらもなにをしでかすかわからない相手の剣幕に,痛む体を一生懸命かばいながらはね起きた. 「おい,食事だぞ,とろとろすると便所へ行く暇もないぞ」 出された食事は,缶詰の空缶に盛られた一握りの高梁飯(コーリヤン),おかずは見当たらない.捕虜は互いに顔見合わせながら,《なんだ,食事食事と言うが,これが食事なのか,こんな粗末なものを食わされて仕事したらどうなるだろうか!》と憂いの顔をしながら,言われるままに食事の箸をとりはじめた.それから数分もたたないうちに私たちは,大便している捕虜をせき立て,裏の石山へ連れていった.そこで掘り崩してある石を台車に積みこむのだ.

"北満の冬"は寒い.身をきるような寒風がこの丘をめがけて四方から吹きつけてくる. 「石を車に積め!!」 浅川5中尉の命令に捕虜は石を握ったが,手袋なしではどうすることもできない.思わず「冷たい」とかけた手を離し,仲間と顔見合わせているところに, 「なにをとろとろするのだ.のけ,160これっぽっちの石だ.見ろ,このようにやるのだ」 水田6兵長は防寒手袋をはめた手で石を抱えて車に放りこんだ.そして捕虜の一人を捕えるや,横びんたをいやというほど張り,すたすたと次の台車へ歩いていった.殴られた捕虜はきっとなって水田兵長の後ろ姿を睨んでいたが,やがて黙々と石を積みはじめた.

「先頭車から出発!!」 先頭車の四人は枠に手をかけ,不規則に曲がった軌道に気を配りながら押していった.そこらは急傾斜で台車は矢のように飛ぶ. 長浜7上等兵は,「おい,ここからは一人で舵をとって下るのだぞ,うまくブレーキをかけんと脱線して車を壊してしまうから気をつけろ,ええか,わかった!!」

四人の捕虜は心配そうに見ていたが,《なるほどこれは殺人道だ,ひどいことをさせやがる》と憤りの眼で睨んでいたが,やがて一人の青年を選んで三人ははらはらしながら振り返り振り返り歩いていった.青年は仲間の三人に代わってブレーキの棒を差しこみ,ぐっと力を入れてブレーキをかけて点検してみたが,やがて唇をぐっとかみしめ,決死のまなざしを前方の軌道にはしらせながら,矢のように疾走する台車の上で,揮身の力を振るってブレーキをかけながら下っていった.あとの捕虜もこれに見習ってはらはらしながらつぎつぎに本道へ下っていった.こんな殺人の場所,少しでも油断すればブレーキの環がはずれ,脱線か振り落とされて死か,軽くても重傷である.私はこれを平気で強いたのである.

本道は四人でゴトゴト押していくのである.この付近一帯はなんの取柄もない湿地で,人々の顔が見られなかった.だがこ年前,梅津8軍司令官[関東軍司令官]の命令で国境へ通ずる幅員十メートル161の大道が中国人民二万余人の血と汗じよって築かれたのである.現に,あたりの大ムリン河の運河は,中国の捕虜が真っ黒になって麻袋に詰めた土を肩に担ぎ上げている.

鈍いきしみの音をたて走っていた台車が,ゴトンゴトンと音をたて脱線した.四人は「畜生」と言いながら軌道の曲がりを見て,急いで車体をつかんで引き上げようとしたが,時すでに遅く,下村9曹長が飛んできて,「コラッ,なにをもさもさしているんだ,そんなことで車が上がるか」と軍刀の鞘を握って四人の背を,腰を,やたらにぶん殴った.二人の捕虜が台車にかけた手を離してぐっと下村曹長を睨みつけた. 下村曹長はその憤りにたじたじとなって一歩退いた.そのとき,隣りの台車から三人の捕虜が飛んできて,仲間の怒りをなだめながらやっと復線したので,台車の列は再び,きしみの音をたてて進んでいった.これを見て馬に乗った浅川中尉は,「おい,もっと馬力をかけろ,のろいぞ!!」と怒鳴った.

台車を押す捕虜の下半身はひどいかさぶたで皮膚の色はなかった.車を押して歩くたびに,膿(うみ)で固くなったかさぶたが綿袴(めんこ)[木綿のズボン]にすれて剥がれ,真っ赤な肉がすれて引き裂かれる.痛さをぐっと我慢して,一生懸命押しているのであった. 浅川中尉の声に兵隊たちは車の辺りに寄ってきて,「もっと力を入れて押せ」とせき立てた.

やっと苦労を重ねて,十二キロ離れた目的地へと着いた. 「おい,石を下ろせ」 息もつかせず積み荷を下ろすと,吹きさらしの中で食事を始めた.綿衣とは名ばかりでちぎれて布から綿がはみ出していた.ある者は毛布やセメント袋を纒(まも)っていた.一握りの高梁飯,それさえも土を掘るスコップに盛って寒さにふるえながら食うのであった.そこにはかぎりない不満と憤りの声が交わされていた162が,吹雪がそれを打ち消していた.だが日本兵は毛の帽子に覆面し,毛の外套を着てふくれ上がって,一軒家で煮た飯をうまそうに食っていた.

「おい,食い終わった者は明日の炊事の野草を刈れ」 下村曹長は飯を口いっぱいほおばってむしゃむしゃさせながら怒鳴りつけた. 《この野郎,どれほど俺たちをこき使えば気がすむのだ》と,捕虜たちは憤りの視線を下村曹長の面上に投げつけては,鎌をとって湿地の中の野草を刈りに立っていった.こうして吹雪に追い立てられ,疲れた仲間と野草を積んで,長屋に帰ったのはもう夕方であった.だが,空缶一杯の高梁飯は,空腹を満たすにはあまりにも少なかった. 「チェッ」 「起きてりゃ,よけい腹がすく」と捕虜は綿衣を着たまま薄っぺらな一枚半の毛布にくるまって,野草の中に転がったものの,皮膚病の傷口がチクチク痛んでなかなか寝つかれなかった.こうしてまんじりともしないうちに夜が明けた.戸外は夜半から降りはじめた雪が線路を埋めていた.

「今日一日休ませてくれ」と張(チョウ)中佐の申し出に,「作業は予定より遅れている.明日二日分一度にやるなら,今日休ましてやる」と鎌田10中尉は不可能な条件をつけてあっさり片づけた.

「では,台車を三十両に減らしてください.ご承知のように病人が多いし,大雪ですから」 「私には減らす権限がありませんから」と言ってこの当然な申し出を退けてしまった.私は三義屯(さんぎとん)に根城を構えて,十日に一度くらい現場に顔を出し,兵隊たちをとらえて「お前たち,南方の戦友に負けないようにやれよ,奴らに弱みを見せてはならんぞ,仕事をよくやらん奴にはびしびし気合いを入れろ.奴らの命など問題にならんからのう」と言うのが口癖であった.私の言葉は効き目があった.

健康をはじめ,天候や道具ともに恵まれた条件がないのに,作業は予定どおり進んでいったのである.163私は貧しい百姓の家に生まれた.仕しをきらって軍隊に入ったが,すかしの紋章の入った辞令とピカピカの肩章に有頂天になって,《そうだ,真面目にやって恩給をもらい,老後を安楽に》と一生の方針を決定したのである.天皇や三井11,三菱12のために忠実に真面目に働き,また他人に働かすことが私自身の成績を上げ,立身出世と恩給生活を保証するものであったが,このことのため,この捕虜にどれほど苦労と悲しみを背負わせたことであろうか.

このようにして,六十余人の捕虜を栄養失調と皮膚病で廃人同様にした.街にはちゃんとした陸軍病院があったが,私は一人として入院させなかった. 浜野13衛生兵に荒っぽい傷の手当てをさせた.週一回来診する井本14軍医は,捕虜が着物を脱ぐのにふうふう言いながら,やっと青白い骨に皮をかぶせたような肌を出したのを,「ウム,よし」と肩の上を手で押えて見たきりで,聴診器は一度も使わなかった. 《なんだ,馬鹿にしてやがる》と口の中で言いながら,患者は痛そうにしてやっと服を着るのであった.

井本君,彼らはずいぶん苦しそうだね」 私がそう言うと,「いや支那人という奴は,偉い人が来ると,ああ大袈裟にうなるのですよ」と井本は言った.私と軍医は,かっと眼を見開いて私たちを睨みながらうなる患者と,そして悪臭の満ちる長屋をそそくさと逃げ出して将校室の椅子によりかかって,虎林15(こりん)の料亭の噂話を始めだすのである.

その夜,長屋では江蘇16(こうそ)省と安徽(あんき)省に父母や妻子をもつ貴(キ)と曹(ソウ)の二人が誰にみとられることもなく,はげしい憎しみにかっと眼を見開いたまま息を引きとった.飢えと寒さ,苦しくはげしい労働,そして病む苦しさ,これには死以外の道はない.生きるための出路はただ一つ,死を賭して驚戒線を164飛び越え,殺人長屋から脱出することであった.中間を何人もみすみす殺された捕虜たちがこの道を選んだことは当然のことであったが,私はこの報告を握って地団駄踏んでくやしがった.が,どうすることもできず,虎林憲兵隊に通報しておいた.そして衛兵の梅本17軍曹や江藤18伍長に,「おい,しっかり警戒しろ」と癪(しゃく)にさわって,憂さをぶっつけた.

十日ばかりたったある日,四人の捕虜が虎林西方の村で毛布を売っているところを,憲兵隊員に逮捕されて送られてきた.癪にさわって仕方なかった私は,「見せしめのためだ,衛兵所の柱に縛りつけておけ」と命令し,飯もろくに与えず,犬ころかなにかのように柱に縛りつけておいた.間もなく軍司令官から「死刑にせよ」と言ってきた.私は会心の笑みをもらしながら,憎さも増し,《どのように殺してやろうか》自慢話に俺もひとつ首を斬ってやろうかとも考えたが,《待てよ,奴らを斬って刃こぼれでもしたら,馬鹿をみる》と,私は銃殺を浅川中尉に命じた. 「もう今度から逃げないから,そして明日から二人で石を運ぶからゆるしてくれ」と捕虜は懇願したが,人を殺すことに最大の興味をおぼえた私が,聞き入れる道理はなかった.

「とぼけたことをいまさら言うな,おい,見せしめのためだ,捕虜全員に見学させろ」と私は狂気のように叫んだ.そして浅川中尉の指揮で,清武19軍曹ら七人がこれにあたることになった.弾をガチヤガチャとこめはじめる.捕虜の一人が「目隠しをとって撃ってくれ」と凛とした態度で私に申し出たが,私は,《往生ぎわに睨まれると,あと味が悪い》と考え,「ならん」と,たったひとつの最後の願いをも退けた.

「隊長殿,もうよいですが」 「よし」 浅川中尉の「撃て」の号令で七発の実弾は,泰然自若として165ファシストをあざ笑っていた捕虜をバタバタと倒し,捕虜たちの最期の絶叫はなだらかな丘に散っていった.四人のそばに歩み寄った私たちが見たものは,口の辺りに笑みさえ浮かべた捕虜が,真っ赤な血の池の中に従容(しようよう)と息を引きとっていたことであった.私は《なかなか往生ぎわのよい奴らだ》と感じたが,すぐ踵(きびす)を返した.戦友の無残な殺され方に,憤怒と憎悪に煮えたぎるような感情をこめて突っ立つ捕虜の前に立って私は,「今後再び逃亡する前には,かならず今日のことを念頭においておけ」と言い残し,死体の後始末も指示せず,将校室に引きあげた.

このような労働をさせ,わずか半年ばかりの間に,私は,大昔から代々受け継いだ豊かな土地に平和を願い,親子兄弟睦まじく暮らす人々を,無残にも二十一人も殺害したばかりか,五十余人を廃人同様の体にして第四五野戦道路隊に引き継いだのです.このような罪行は私の罪行の中のただ一つの例にすぎません.と言うのは中国人民をかり集め,これを主体に労働させ,兵士たちにこれを指導するように東条20〈東条英機首相〉らがつくった部隊であったからであります.私はなんという大馬鹿者だったでしょうか?帝国主義者たちの言うことを真に受け,光栄である,名誉であると考え,また自分の立身出世はこの道よりほかにないと考え,なんの罪もない人々をつぎつぎに殺し,中国人民に対してほんとうにはかり知ることのできない罪悪を犯したのでした.


筆者からの一言〈昭和五十七年八月

私は昭和三十一年秋,舞鶴に帰国して一年余り入院し,治療後,製紙機械製造会社に勤め,停年退職後,大成化工[ユニチャームの前身]の建材部に勤め,停年退職後,近所の製材会社に再就166職し,五十三年,会社の倒産とともに離職しました.その間,二年近く闘病のために入院し,また交通事故にもあい三ヵ月ほど入院,さらに右手指四本を切断して入院するなど,波瀾の多い後半生です.

現在,果樹園十アール,野菜畑十アールを耕作のかたわら,川之江21広報委員農協理事,身体障害者団体理事,軍恩役員,氏子総代,老人会役員等を引き受け,微力を尽くしております.もちろん,過去中国における罪行の贖罪のうえに立ち,さらに人間は,われわれはどうあるべきかの自覚により,日中友好反戦平和のため活動しております.

私の兵科は元来工兵でしたが,ソ満国境に広大な湿地帯があり,これに作戦用道路を必要とし,道路隊の創設をみたわけで,これには軍人を少なくし,中国人を使役して道路を構築するよう編成装備されていたわけです.雪どけの春四月から八月まで,東北各地から勤労奉仕隊の名のもとに集まってきた農民を指導して,湿地の土を盛り上げて道路を作り,九月から砂利を運んで敷く作業を,中国戦線で捕虜になった方々を使って作業した手記であり,反省の記録です.すでに三十年近くを経過し,記述内容の記憶も薄れておりますが,中国国民の方々には忘れられない痛恨事でしょう,心からお詫びをしたい.戦争は極力避けるべきであり,とくに他国に 侵略することは絶対不可である.だが,他国が侵略してくれば立たなければならない.若い人たちや一部の大人の中に降伏すればよいという風潮があるが,ソ連の世界戦略,過去の見聞や最近の事例を見るとき,祖国を奴隷化し,過去とは比較できない民族の危機を招来することは必定だ. "備えあれば憂いなし" 世の中すべてバランスのとれた中に成り立つ.

大西馨

 

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1 Ônishi Kaoru, Hauptmann
2 Suzuki, Oberleutnant
3 Iimura, Generalleutnant 中将, Kommandant 軍司令官
4 Qianxie (Qianye, Qianshe), 高地
5 Asakawa, Oberleutnant
6 Suita, Obergefreiter
7 Nagahama, Gefreiter
8 Umetsu, Kommandant der Kwangtung-Armee 関東Guandong
9 Shitamura, 曹長
10 Kamata, Oberleutnant
11 Mitsui
12 Mitsubishi
13 Hamano, Militärmediziner
14 Imoto, Militärarzt
15 Hulin, kreisfreie Stadt
16 Jiangsu, Provinz
17 Umemoto, Feldwebel, Wachsoldat 衛兵
18 Etô, Gefreiter
19 Kiyotake, Feldwebel
20 Tôjô Hideki, 1884-1948,
ab 1940 Heeresminister, 1941þ44 Ministerpräsident, 1944 Generalstabschef ; im Tokyo-Prozeß zum Tode verurteilt.
21 Kawanoe, Präfektur Ehime