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汚された泉
井戸へ放り込み惨殺

杉本千代吉1(すぎもと・ちよきち)

大尉


秋の空はあくまで澄んで高く,箒雲(ほうきぐも)が真っ赤に染まっている.ひらけた高梁畑には,いまさつきまで野良仕事にいそしんでいた農夫たちの姿も消え,アカシアや楊柳(ようりゅう)にかこまれた村々から,もう,うす紫の煙が立ちのぼりはじめていた.

弾丸の音一つしない丘,村,行く先々の「村人の接待」で菓子,卵,煙草,饅頭(まんとう)と,しこたま食らいこんで気をよくした私は《これこそ思威ならび行なわれる無敵皇軍の姿である》そんな考えを抱きながら小石の多い田舎道を歩いていた.それはラジオや新聞がヒステリーのようにABCD包囲陣をわめきたて,山東2では一二軍司令官土橋一次3が直々指揮して幾百万の中国人民を酷使し,津浦4鉄路両側の肥沃な土地に延々数千キロにおよぶ遮断壕を掘りはじめている一九四一年十月上旬のことである.

泰山5で有名な泰安6県城から西南二十キロあまりの夏張7(かちょう)という田舎街にしている私は,中隊長 130 山野8中尉とともに「宣撫(せんぶ)行軍」に出,東牛荘(とうぎゅうそう),劉門荘(りゅうもんそう)といくつかの村荘をまわり,夏張に向かって帰りがけだった.

「日本軍の姿を見て逃げる奴はあやしい奴だ.捕えろ」 中隊長の一声,静かな晩秋の空気がひづめの音にかき乱れ,まきあがる砂煙が二,三百メートル右手の畑を行く人影をまたたくうちに包んでしまった.

いくらもたたないで,騎馬兵は四十前後の農民をひきずってもどってきた.頬からあごにかけて生々しい鞭の痕を痛そうに片手で押えながら,農民は土だらけの体を,恐ろしさのあまりがたがたふるわしていた.

「おい!」 当番兵の運んできた高梁桿(カン)にどっかと腰を下ろした山野は軽くあごをしゃくった.こうしたことに慣れきっている兵隊たちは,待っていたとばかりバラバラ飛びだすと,よってたかって農民の体を探しだした.キセルと刻み煙草の入った手製の布袋,そして火打ち石が地面に放りだされた.

「………」 わけのわからないことを口にした農民は,よろめきながら節くれだった大きな手をひろげて二,三歩私のほうににじりよった.夕日を浴びるその掌(てのひら)は,分厚い皮膚でおおわれ,長年土と親しみ辛苦の深い皺が刻みこまれていた.

《なんだこの野郎,俺が新参だと思ってなめたか》 内心無性に腹が立った.しかし山東に来てわずか半月あまり,どうしていいのか私はあわてて中隊長を見た.

そんなことは百も承知だ……….無表情で煙草をふかす山野のくぼんだ眼が,農民の体を蛇のように131なめまわしているのに気がついて,くさいこの農民の前でうろたえる自分がたまらなく恥ずかしかった. 「おい,あったぞ………」 農民の腹のあたりをさぐっている兵隊が声をあげ,うすよごれた布の包みを引き出そうとした. 「あ………」 やるまいとして思わず体をひねろうとする農民の腰に,横から銃の台尻がとんで,ガクッとその場に膝を折ってしまった.

「ザマを見ろ,馬鹿野郎」 素早く包みを手にした兵隊はもどかしげに開け出した.褐色の粉がバラバラ落ちて,中から出たものは,はげしい野良仕事もいとわず,父親が,せめて遊びざかりの子ど たちには………と愛情のこもった食べのこしの高梁煎餅の半分であった.それは農民にとってはかけがえのない貴重なものであった.

「チェッ,こんなもの………クソッ」 あてが外れて,兵隊は力まかせにそれを地面に叩きつけるが,それでもあきたりず,どたどた軍靴で踏みにじった.足元で崩れ散る煎餅を見る農民の顔には,瞬間,はげしい怒りの色が浮かんだが,静かに眼を閉じてしまった.農民にはそれが堪えられなかったのである.

「なぜ逃げたのだ………お前は八路に通じているにちがいない………おい」 とがった頬骨のあたりに陰惨なうす笑いを浮かべた山野中尉は,軍刀の"こじり"で,はだけた農民の胸先を「グッグッ」と,鋭くついた.低いすごみのある声……… は,はあ,これが拷問のときのコツだな……… 私は山野中尉の手元から眼を離さなかった.

「いいえ,私は百姓です.家に帰ろうとしていたのです.どうか許してください」 顔を真っ青にして,132後ろにのけぞろうとする農民の背中に,「この野郎,図太い奴だ.言え,言わんか」小林9伍長の鞭が肉をさきちぎるようにピュンピュンとうなった.そのたびに農民は頭を両手でつつむようにして堪えていた.軍刀や鞭,獰猛(どうもう)な幾十かの眼玉に取りかこまれ,たまらない不安と堪えがたい苦しみの中から,「私は百姓です.どうか許してください」崩れる体を両手でやっと支えながら,農民は頭を地面に叩きつけるようにして,何回も何回も繰り返していた.その眼には大粒の涙をいっぱいたたえて……….だが,私はそれを聞き入れようとはしなかった.そんなことはどうでもよかった. 「うるせえ………この野郎」 私はつかつかと出て,農民のわき腹を思いきり蹴りあげた.

「ウウッ………」 うめき声をあげて横に倒れる農民を横眼で見ながら,うまくいって内心得意になった私は煙草に火をつけた.

昨日,泰安よりの帰りに,六郎坂10(ろくろうぎか)の村落で,農民親子二人を斬殺(ざんさつ)してケロリとしていたこの人斬り山野が,今日はどんな方法でやるのか.まるで見世物でも見るような軽い気持ちになって,私は次に現われるものを興味深く見守っていた.

「おい,白状しないか.八路はいつ来たのか」 いつものきまり文句とともに鞭が執拗に農民の背中にからみついた.うめき声をあげてのたうちまわる農民,紺の仕事着がボロボロに引き裂かれ,雨の日も風の日もたゆみなく働きとおしてきたたくましい体は,血と土でどす黒くなり,はげしい息づかいの中で農民はなおも一生懸命に哀願しつづけている.

「ピシッ………ピシッ」 冷酷な鞭は休むどころかさらにひどくはげしく農民の体をなぐった.小さなうめき声をあげ,歯をくいしばる農民の日やけした顔は,血と脂汗と泥でものすごい形相に変わり,133石のようにこぶしは固く握りしめられていた.そのさまが私にはたまらなく面白かった.ゲラゲラ笑う兵隊たちの中で,私は煙草をくゆらせていた.

草の葉ずれや驢馬(ろば)を追う鞭の音にも「八路軍だ」とうろたえまわる日本兵も,いったん身に寸鉄(すんてつ)も帯びない平和な農民,女,子どもの前に立つと,こうしてたちまち牙をむき出して飛びかかったの だ.

「畜生………なかなか強情な奴だ………」 たけだけしく立ち上がった山野中尉は,農民の襟首をいまいましそうに握り,十メートルと離れない井戸端に引きずっていく.長い年月の間,働く人々から愛され親しまれてきたこの井戸,野良仕事をする一家の楽しい憩いの場所であったこの井戸端,それを鬼畜の日本兵どもは恥知らずにも,死刑場にしようとしているのだ.

農民は必死になって山野の手から逃れようと試みたが,鞭と泥靴で散々痛めつけられた体では,どうすることもできなかった.会心の笑いをうかべた山野中尉は,「この野郎,水でもくらえ」農民を力まかせに井戸の中に突き落とした.これが彼の初めからの計画であったのである.

「アイヤ………」 肺腑(はいふ)からしぼり出た農民の悲鳴が,はげしい水音にとぎれ,走り寄った私の眼に井戸の底でもがき苦しむ農民の姿が,わずかにさしこんだ光線で黒く見えた. 《よし,こんなときに俺の………》 とっさに井戸端の石に手をかけた私の耳に, 「大人,大人,我是老百姓的(ウオスラオバイシンデ)[タイジン,俺は百姓だ] 必死の叫びがわきあがってくる.その声は,あまりの蛮行にはげしい憎しみを燃やした農民が,夕餉の食卓をかこんで待ちわびる,いとしい妻や子ども,そして年老いた両親のために,あくまで生き抜こうとする悲しそうな願いがこもっている.だが私は「じたばたするな,このどん134百姓,いま楽にしてやる」とせせら笑い,石とともに水の中に沈んでいく農民の姿を想い起こしながら,水の中に動く黒影をめがけてただ一発のもとにと石を投げ落とした.頭大の石は一,二回側壁に当たり,はねながら落ちていく.おお命中だ………思わず私は手をうった.だが黒影はさっと石を避けていた. 「ドブン」 大きな水の音,しぶきが側壁と農民の体をバサアと洗った.

「畜生!おい,なにをぐずぐずしているんだ.早く石を持ってこい」 カッとなった私はうっぷんを部下にぶっつけた.軍靴がガサガサあたりを乱れ動いた.

一つ………二つ………三つ………手先に中隊長や部下の視線を熱くなるほど感じながら,狙いをさだめた私は,矢つぎばやに石を投げ落とした.足元の土がバラバラと崩れ落ちる.水音に混じって「ピシッ………ピシッ」と鈍い音.農民の叫びがするたびに「やった,やった」私はたまらない快感にひたってなおもその手を早めた.

井戸水は冷たかった.情け容赦もなく投げ落とす石を農民は夢中で避けていた.全身しびれるような傷の痛み,うす暗い井戸の中で襲い来る睡魔と,たまらない絶望感を打ち砕いて祖国のため,子どもたちのためにと,はげしい鬼子への憎しみのみが胸までつかる水に自由を奪われながら,手足を動かしていた.

「よし,こうなったら二つ一度に落とすんだ.いいか,一,二,三」

頭が割れ,血を吐いて沈んでいく農民の姿を幻想しながら,私は力まかせに石を投げ落とした.土砂をまじえて二つの石があい前後して農民の肩を強く打ち砕いた.ブス………鈍い音,水煙,農民の体はちょっとの間見えなかったが,すぐ頭を出した.くずれそうになる体を,やっと側壁に135支えて見上げるその顔には,かぎりない恨みがこもっていた.チラチラする青白い顔,それが私をたまらなく焦燥にからせた.

「また動いてやがる.図太い奴だ」 私が気負い立って十五,六も投げたときであった.ピシッ,不気味な音,「ウーム」水音を破ってほとばしり出た絶叫を最後にして,農民の体は水の中に消えてしまった.

「フフフ,とうとういっちまったか!人間も案外たわいもないもんだな,杉本11………」 のぞきこみがらあざ笑う中隊長の満足そうな声を耳にして,「ああ,俺もとうとう一人前の将校にな」と,うきうきした気持ちになった私は,「貴様も一緒に往生しろ」とばかり,足元に転がっている草鞋(わらじ)を力まかせに井戸に蹴りこんだ.

金井山12の山頂から吹きおろす秋風が,果てしなく続く平野に農民の悲しみと憎しみを伝えるように静かに吹きはじめ,夕闇があたりをしだいに包んでいった.炭鉱,県城,街,網の目のようにはりめぐらされた幾千幾万の分屯隊が,こうして山東の山野を血に染め,平和な中国人民を悲惨のどん底におとしいれているとき,石炭,小麦,綿花,家畜,ありとあらゆる資源を満載した貨車が車両をつらね,昼夜を分かたず津浦13線を北上していたのである.


私は蛮行を手初めとして 四年八ヵ月 もの間,一人でも多くの中国人民を殺し,一挺(ちょう)でも多くの兵器を奪いとろうして,この広い山東省の隅々まで血眼になってあばれまわり,万悪の限りをつ りくしました.いま,私の脳裸にむごたしい拷問で苦しむ農民の姿,最後まで居いつづけ自爆して136いった若い八路軍戦士,猛火に包まれる村々,焼け落ち崩れ去った数限りない魯南魯中の村々などつきることのない罪悪行為がはっきりと浮かんできます.私はいったい,なんのために中国に来たのか,私はなんのためにあの美しい山河を踏みにじり,あの美しい人々をむごたらしく殺してきたのか.自分の歩んできた前半生をかえりみるとき,いたたまれない気持ちで胸がかきむしられるようです.

戦争,侵略戦争こそがそうさせたのです.私は二度とこの罪悪にみちた戦争の災禍を平和な人々の上に与えてはならない責任があるのです.私の手によって殺された人々がいまなにも言えないとき,生きている私はどうしても戦争反対に立ち上がらなければならないのです.


筆者からの一言〈昭和五十七年七月〉

(つたな)いこの文から,戦争の残虐さがおわかりいただけたでしょうか.私が中国の人々に行なってきた非人間的な行為の数々は,もちろん私自身の責任であります.そしてそれは,戦争という計りしれない力をもったものによって,人間性をあますところなく奪い取られ,振りまわされた結果なのであります.この罪は一生涯償うことはできません.故国に帰ってから二十六年の歳月が流れてしまいましたが,ふりかえれば昨日のような思いもします.はげしく移り変わっていく日本の情況の中にポッとおかれた私の毎日は,きびしい生活との闘いでしたが,まわりの多くの方々の温かい援助とはげましによって,いまやっと家内と年老いた母の三人で静かに生活ができるようになりました.

137日曜日になれば,近くに嫁いだ娘が孫を連れてやってきて,大変にぎやかです.嬉々として遊びたわむれるあどけない三人の孫たちを見るにつけ,平和がいかに大切であるかをしみじみかみしめています.そして,この平和な日々がいつまでも続くように,願わずにはおられません.しかしながら昨今,『他国よりの侵略』を口実に,軍備拡張が公然と叫ばれています.そしてそれは,目に見えない死の商人たちの巧妙な宣伝と策動によって,やがて戦争への道に進んで行くような気がしてなりません.戦争の残虐さを身をもって体験してきた私には,どうしてもこれを許すことはできません.次の世代をになう若い人々のためにも,また,私の孫たちのためにも……….

「若い人たちよ,勇気をもって平和の道に進んでください.そして自分の生命を大切にするとともに,それにもまして,他人の生命を尊重してください」

杉本千代吉14

 

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Personen & Orte

1 Sugimoto Chiyokichi, Hauptmann
2 Shandong, chinesische Provinz
3 Tsuchibashi Kazuji, 一二軍司令官
4 Jinpu, Bahnlinie
5 Taishan --- heiliger Berg Chinas, im Osten des Berglandes von Shandong
6 Taian --- Stadt und Kreis, berühmt durch Taishan; Taianzhen 泰安鎮 Bahnstation
7 Xiazhang (Jiazhang), Provinzstadt
8 Yamano, Oberleutnant, Kompagnieführer 中隊長
9 Kobayashi, 伍長
10 Liulangban (Lulangban), Dorfsiedlung 村落
11 Sugimoto Chiyokichi, Hauptmann
12 Jinjingshan, Berg
13 Lunan (Luna) luzhong, Dorf. Lu; Name eines alten Staates, die Heimat des Konfuzius, in der heutigen Provinz Shandong.
14 Sugimoto Chiyokichi, Hauptmann