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毒ガス実験
八名の農民を生体実験に

三上忠夫1(みかみ・ただお)

軍曹


もう八月の中旬だというのに,泰山2(たいざん)のふもとの赤煉瓦の建物の前に,冬外套を着,九五式の防毒面をかぶり,五,六十名の兵隊が整列している.太陽がカンカン照りつけるその下で,「フーフー」と,大きく肩で息をしながら不動の姿勢をとっている.体じゅうの汗が背中の外套をとおし,びっしよりとぬれて略帽のすそに白い塩をふいていて,呼吸をするたびに防毒面の頬が引っこんだり,出っぱったりして,眼ガラスが全部息で曇っている.

真正面の土堤の上に立った教官富山3少尉が片手に軍刀を持ったまま,この様子をじいっと見ていたが,「ガス無し面取れ」と言うが早いか,もう小銃を両足の股にはさんだ兵隊たちは,素早く面を顔からもぎ取るように脱いでいた.汗でぐっしょりぬれた顔に四本の締め紐の跡が真っ白くついている.みなホッとしたような,緊張したような顔つきで立っている. 「午前の演習終わり,午後は094兵器被服の手入れ,解散」……… 先任の篠原4軍曹の指揮で敬礼が終わった. 「分かれ」 「ご苦労さん」……… 「ご苦労さんです」と一斉に内務班に入った.

ここは独立混成一0旅団四五大隊の初年兵ガス教育隊であった.教官の富山少尉は大隊の最古参の少尉で,大隊長の中村からいつも「今年のガス兵には徹底した教育をしろ」と言われていた. 富山少尉も,もう中尉になるかならぬかの境で,大隊長に機嫌をとるのが大変だった.

今日はちょうど土曜日だ.兵器被服の手入れが終わった内務班では,寝台の上やら机に向かって,みなが『ガス防護教範』を一生懸命読んでいる.班付の山内5兵長と村木6上等兵が二人で,煙草をふ かしながら窓の側でなにやら話している.

「助教助手集合」 教官室のほうで叫ぶ声がして出て行ったかと思うと,すぐ内務班長の篠原軍曹が「全員そのまま聞け.いまから出動する.服装は出動の乙だ.いまから二十分後に出発する.行く先はあとで話す.早く準備しろ.山内7兵長はすぐ本部ヘ行って赤筒[注・クシャミ性の一時性ガス]を十本受領してこい」 「ハッ」……… いままで静かだった内務班は急にざわめき出し,まるで蜂の巣をつついたような大さわぎをしながら,出動準備にとりかかった.

泰安8(たいあん)から西方十一キロ,岩流店9(がんりゅうてん)を富山10小隊の五十数名が包囲したのは,それから三,四時間後であった. 「おかしいな,確かに五十人ばかりの八路がはいったという情報だったんだが………」 村外れの畑の中の一本木の側で,連絡係の村木11上等兵の顔をジロジロ見ながらいまいましげな顔つきで,小隊長の富山12少尉がじりじりしている. 「ようし,八路に逃げられたら仕方がねえ,村の中を徹底して掃討だ.各分隊に伝達しろ」……… 「ハッ」 側にいた伝令の尾崎13一等兵が村のほうへ駆けだした.

095村木と尾崎を腰もとにひっつけた富山少尉は真っ赤な顔をし,プンプンしながら村の中央の広場に立っていた. 「村長はどこへ行ったんだ」とがなり立てている.しばらくすると銃剣を持った十二,三人の兵隊に,四十歳前後の老百姓が七,八名追い立てられてきた. 「オイ,八路はどこへ行った,いつごろ来た」 富山がいちばん前にいる老百姓の胸ぐらに軍刀の鞘(さや)を突きつけた. 「我的不知道(ウオデプチドウ)[私は知らない]……… 「なにが不知道だ,この野郎,ふてえ奴だ,早く言わねえか」 富山が軍刀の鞘で突き倒した.

「アイヨ」 あおむけにひっくり返った老百姓は起き直って,地べたに頭をぶっつけるように「我的老百姓不知道(ウオデラオバイシンブチドウ)[私は農民でなにも知らない]と,残りの老百姓もみな声をそろえて言うのに,「ようし,わからなかったらわかるようにしてやる」 「全員村外れの丘の上に集合しろ」……… 伝令の尾崎がまた村の中で怒鳴りはじめた. 「そいつらをあっちへ引っぱっていけ」 「ハッ」 側にいた警戒兵がまた,老百姓を銃剣で丘の上まで追い立てた.

岩流店の東北方の小高い丘の上の窪地に八名の老百姓が肩をつき合わせながら座っており,その正面に全員集合した.

「全域掃討異状ありません」 「なにか目ぼしい奴はいなかったか」 いまいましげに富山が篠原のほうを見て言った. 「ハッ,おりません」 「そうか仕方がない,こいつらをいまから赤筒をたいてガス実験をしながら搾ってやれ」 「ハッ」 篠原が青白い顔に,苦笑いを浮かべながら答えた. 「各分隊から二名ずつ警戒兵に立て,残りは全部こいつらをとりまいて輪をつくれ」 富山が大きな声で怒鳴った.何みな窪地に座っている八名の老百姓を中心にとりまき,銃剣を構えた.……… 「いいか一人でも 096 逃げ出したら突き殺してしまえ」……… 五十数本の銃剣の林に取り囲まれた老百姓は,不安と恐怖におののいている. 「面をかぶれ」 小隊長の令がかかった.みな一斉に防毒面をかぶり,また銃剣を構え直した. 「畜生,一歩でもそこを動いたら突き殺すぞ」……… 「準備はいいか」 「ハッ,準備終わり」 篠原が答えた.

「点火準備」……… 小隊長の声とともに,藤原14軍曹が二本の九三式中赤筒を老百姓の座っている風上五メートルくらいのところに点火準備をした.生ぬるい南風が囲みの中に流れこんで,五十数名の眼がその赤筒に集中され,真ん中に座っている老百姓は肩と肩をよせ合ってひと固まりになり,ちょっとでも体を動かしただけでも五十本の銃剣が鈍く光った.

囲みの最前列に銃剣を構えていた私の両手がかすかにふるえた.……… 「点火」……… 小隊長の声とともに,ガチャリガチャリと音がした瞬間,二本の赤筒からモクモクと吹き出た煙が,一メートルに広がり,二メートルに広がり,三メートルに広がって,真ん中に座っている老百姓を全部煙で包んでしまった.

「アイヨ,アブーッ」 いままで肩と一肩をつき合わせていた固まりが急にとけたかと思うと,地べたに頭を叩きつけるように,パタッ,パタッと両手を顔に当て,うつ伏した. 「畜生,動くな」……… 私は銃剣を片手に持ったまま,老百姓の側によって,「畜生,座れ,座れ」と声をふるわせながら手真似をした.

「ちょっとでも動かすな,三上15,そんなことでは手ぬるいぞ,引きずり起こせ」 小隊長が大声で後ろから怒鳴り立てた.はっとした私はもう一歩踏み出し,老百姓の座っている中に入った. 「畜生,097顔を上げろ」 私は座って地べたに顔をすりつけている老百姓の襟首をぎゅっとつかみ,ぐうっと引き離した. 「アイヨ,我是老百姓(ウオスラオバイシン)と言ってなおも顔に手を当てようとするのを,横腹を泥靴で力まかせに蹴った. 「アッ」 ななめ後ろにあおむけになって倒れかけるのを,また襟首を持って引きずり倒した.

一分三十秒………二分,………山内16兵長が赤筒の煙の出口で時計を見ている. 「アイヨ………」……… 両手を顔に当てて地べたにこすりつけ,もだえ苦しむのを見て,「フフン,態(ざまあ)見やがれ,どうせこいつらは愛護17村だの治安18地区だのと言ってたって,ろくな情報ももってきやしねえ,これでたくさんさ,ハハハハ………赤筒もなかなか効き目があるなあ」……… 篠原と藤原の声が,防毒面のガラス越しに聞こえてくる.……… 七,八名の兵隊がどやどやと中に入ってきて,地べたに伏せようとする老百姓の襟首と手を持って「畜生,顔を上げる」……… 「アッ,アッ………」 あまりの苦しさに押えられている兵隊の手を払いのけ,上半身を起こし立ち上がろうとするのを,「コン畜生,逃げる気か」しゃにむにあおむけに引きずり倒した. 「ドサリ」 あっちでもこっちでも苦しさにもだえ,立ち上がろうとする老百姓の手を押えつけた.

「アイヨ,アブーッ」……… 「コン畜生,太え野郎だ,座れ,動くな」 一人の老百姓に二人,三人もよってたかつて背中を蹴る,足を蹴る,五十数本の銃剣の輪がいつの間にか直径わずか四,五メートルの円にちぢまってしまった.

二分三十秒………三分………顔を真っ赤にした老百姓が,「ハクション」と言うたびに,涙と洟(はなみず)が一緒になって流れ落ちる.もう息をすることもできない.ただ体をくねらせもだえ苦しむ.老百姓の額 098 はもう皮がむけ真っ赤な血が流れ出し,その間を鈍く光る銃剣があっちこっちに飛びまわっている.

四分………四分三十秒………もう顔ヘ手を当てる気力も兵隊の手足を払いのけようとする気力をも失った老百姓は,パタッ,パタッ,一人,二人と倒れた……… 五分………赤筒の口元から出る煙がだんだん細くなり,もう四囲を包んだ煙が取り払われた.煙は完全に消えた.

「燃焼時間五分」 山内は小隊長に報告した.……… 「ウン,よし,だらしのねえ奴らだ,ハハハハ」 倒れている老百姓を泥靴で蹴りながら咳いた.兵隊たちは,みな風上に行って面を取った.

「ハクション」 真っ赤な顔をしながら兵隊が,「まだガスが残っているぞ」と咳いた.小隊長と篠原と藤原の三人がなにやら話している. 「全員集合」 みながくしゃみをしながら老百姓の倒れているところに集まった.

「ウン,注目.九三式赤筒,燃焼時間五分間だ.これが世界に誇る日本軍のガスの威力だ.いくら八路軍がゲリラ戦術を使おうが,最後にはこのガスがあるんだ.皆殺しにしてやるんだ.このガスの威力を忘れちゃいかんぞ」 「ハッ」……… 富山は,腰にぶら下げた"ずのう"から『ガス防護教範』を引っばり出し,感心して聞いている初年兵のほうを,ジロジロ見ながら得意満面に言った.……… 「ではいまから現在地を泰安に向かって出発する」 富山の声とともに小隊は泰安に向かって前進した.


筆者からの一言〈昭和五十七年七月

「戦争反対!」,二度とあのような戦争を許してはならないと,私は叫びつづけている.また,多くの人々が戦争には反対だと言っている.しかし,口ではどれだけ言っても,ほんとうに099どれだけの人が徹底して反対できるだろうか?と考えさせられてしまう.

いま,わが国では自衛隊が強化され,軍事費は急増され,再び戦争への動きが強まっているなかで,そうした情勢に流されていってしまわないか,どれだけの人がどこまで反対できるのか,ひしひしと危険を感じている.

私は,自分が犯した戦争犯罪のとうぜんの結果としてのソ連における五年間の捕虜生活の後,中国に移還されて六年間の戦犯拘留を受けた.この厳しい体験のうえに立ち,戦争に反対している.いま,核兵器反対の叫びは全世界的なものとなっているが,地球上から核を廃絶することはけっして簡単なことではない.とくに,戦争を知らない若い人たちが,戦争の実体,その本質をどれだけ理解しているか,戦争がどれだけ罪悪に満ちた残酷なものであるかを知っているだろうか.そしていま,日本軍の行なった侵略戦浄が再び美化されようとする動きが強まっているなかであればこそ,私たちの体験を通じ,戦争の実体を正しく,ありのままに認識していただきたいと願ってやまない.

三上忠夫19

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Personen & Orte

1 Mikami Tadao, Feldwebel
2 Taishan --- heiliger Berg Chinas, im Osten des Berglandes von Shandong
3 Tomiyama, 教官富山少尉
4 Shinohara, Feldwebel
5 Yamanouchi, Obergefreiter
6 Muraki, Gefreiter
7 Yamanouchi, Obergefreiter
8 Taian --- Stadt und Kreis, berühmt durch Taishan; Taianzhen 泰安鎮 Bahnstation
9 Yanliudian
10 Tomiyama, 教官富山少尉
11 Muraki, Gefreiter
12 Tomiyama, 教官富山少尉
13 Ozaki, Gemeiner
14 Fujihara, Feldwebel
15 Mikami Tadao, Feldwebel
16 Yamanouchi, Obergefreiter
17 Aihu, Dorf
18 Zhian, Regierungsbezirk
19 Mikami Tadao, Feldwebel