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3

焼け火箸
拷問のあげくに斬首(ざんしゅ)

佐藤五郎1(さとう・ごろう)

分隊員,上等兵


山東2(さんとう)省の南部にある沂洲3(ぎしゅう)というのは,城壁に囲まれた町で,津浦4(しんぼ)線を東に三十五里くらい入ったところの町である.人口八万くらいで,城内は東西南北の四つの城門に通ずる大きな道路がある. 城内には兵団高橋5部隊が南門に通ずる道路にそって駐屯し,営門には着剣した歩哨が立っている.部隊に並んで三井洋行と記した大きな看板をかかげた三井物産の分店が,付近の中国商店におおいかぶさらんばかりに立ち並んでいる. このような田舎の町にも日本財閥は手を広げていたのだった.また,西門6大街(さいもんだいがい)には,日本軍沂洲憲兵派遣隊と記した看板を門にかかげた憲兵隊が駐屯している.

時は一九四五年六月の中ごろだった. 太陽は西門城壁を半分に隠し,城壁からのぞいた太陽は憲兵隊前の西門大街を鈍い光をはなち,重苦しく照らしていた. 街路を通る老若男女のまなこはすべて憲兵隊に注がれていた.その中に一人の老婆がいた. 額には深く刻まれた労働のしわと,固く小籠(かご)042 を握ったしわの手は憎悪に燃え,ふるえていた. 重苦しい光の中に老婆の眼もまた憲兵隊に注がれた.折りから吹くなま暖かい夏風は街路を吹きさらしている. コンクリートの壁で囲まれた憲兵隊の中から,不気味な鐘の音が聞こえてきた. その音は付近の民家を乱すごとく流れていった.この鐘は憲兵隊の夕食の合図だ. 補助憲兵たちは各々の内務班からある者は下駄をつっかけ,ある者はシャツ一枚で,思い思いの恰好でやってきた. 早くから食堂にきた補助憲兵たちは隊長と班長が食堂に来ていないので隊長と班長の話をしている.

「おい,久保7!隊長殿,さきほど外に出たようだが,どこに行ったのか」

「うん,隊長殿か,軍人倶楽部(くらぶ)に行くと言って出ていったよ」

「そうだ,なんだっていきごろ軍人倶楽部になんか行ったんだい」

「べつに仕事なんかありぁしねえよ,今晩はおそらく泊まりだろうよ」

「チェッ,面白くねえ」

高本8はぶりぶりしながら食台に座った. 高本はまた班長の食台を見ると,梅田9伍長の姿も見えないので,「おい,久保!班長もいねえじゃねえか,班長もどこかに行ったのか」 「班長か,班長はいつもの例でやっているよ,これだぞ」 胸を後ろにまわし,拷問の恰好で説明した. 梅田伍長といえば,拷問になると気が狂った野良犬となる狼のような男である.

高本はまた拷問を受ける中国人のことをきいた. 「おい,あの男は八路か,なんだい」 「なんだか知らねえが,班長は容疑者だって汗出してやっていたぞ」 「ふうん,班長はよく容疑者だって言うけれども,ところでネタ上がったのか」 「ネタか.ネタ上がるどころじゃねえよ,老百姓だって一言 043 も言いやあしねえよ」 「そうか,班長はこの前だってそうだったじゃねえか.百姓だか容疑者だかわからねえなあ」

話しているところに佐藤10一等兵がやってきた. 泥棒鼠のような格好をして,古年兵の顔をうかがうと,だまって食堂の入口をくぐった.官姓名を言わず入ったのだ. この姿を見た内務係補助高本は,だまって入る佐藤一等兵を見逃してはおかなかった. 高本は中隊でも何回となく初年兵教育の助手をやったことのある現役の四年兵である. 彼は,兵隊のビンタを取らないと,その日のめしがうまくないと言われた,兵隊泣かせの古年兵であった.

「こら,佐藤 大きな声をはり上げ,まわりの者を脅かすように怒鳴った. 「ハイ」 佐藤は虎に狙われたウサギのようにおどおどし,立ち止まった.

「貴様何年兵だ」 「ハイ,二年兵であります」 しまった,見つかったと思った. 高本は食台を立った. 「なに,二年兵はだまって入ることになっているのか!馬鹿者」 高本は食台を離れるや,佐藤に近寄ると顔面を殴りつけた.

「だまって入るところは空き室だけだ,わかったか」 「ハイ,わかりました」 もつれた口調で言った.

「官姓名を言って入ってこい」 また食堂の入口に立たされた. 佐藤一等兵,食事にまいりました」 官姓名を叫ぶたびに襟章が気にかかった.

「よし,入れ」 許しを得た佐藤一等兵は,頬をさすりながら食台に歩いて行く. 高本を囲んだ二,三の古年兵は口をそろえたように,「初年兵は殴ると強くなるんだ」と言う. 「アハハハ」………笑いがあがった. 《畜生,二年兵になっても初年兵あつかいをしやがる,いまに見ていろ.》 佐藤はそう 044 考えたがどうすることもできなかった. 《星だ,星だ,星を増やすことだ》と考えると,盛った飯を無造作にかきこんだ.

飯を食っているところへ、炊事場の裏のほうで怒鳴る声が聞こえてくる. 「誰かいないか,誰かいないか」 班長の声だ. 佐藤一等兵はほおばった飯をつめこむと,佐藤一等兵行ってきます」 誰に敬礼するともなく,大きな声をはり上げ,頭をペコリと下げた.その声を聞いた久保上等兵はあわてたように,「おい,佐藤と言った.

「ハイ」

「竈(かまど)に火箸が焼いてあるから持っていってくれ,班長殿に頼まれたんだ」

「ハイッ,わかりました」. 返事を残すと炊事場に走って行った. 佐藤は炊事場の入口にくると,佐藤一等兵,炊事場に用事があってまいりました」うす暗い炊事場の中をキョロキョロ見回し,大きな声で怒鳴ったが,古い兵隊の返事はなかった.竈の脇に煙草を吸っていた二人の奴役夫(どえきふ),呂11(ロ)と玉12(ギョク)がしきりに笑いながら話していた. 佐藤は呂と玉の笑い声が馬鹿にしていると感じたのだ. いきなり二人のそばに走り寄ると,

「貴様たちも馬鹿にしやがる,この野郎」と,座っていた呂を蹴りとばした. また立ち上がろうとする玉の顔面を,こぶしで殴りつけた. 蹴られ殴られた呂と玉は,こぶしをふるわし,怒った口調で佐藤に言ったが,なんのことか少しもわからなかった. 二人の顔を見て中国語まじりの口調で,「掃一掃没有的(ソウイソウメイユウクデ)サンピンケイだぞ[掃除をしていないからぶん殴ったんだぞ]」と,怒鳴りつけた.二人の奴役夫,呂と玉は口をかみしめていたが,顔を見合わせるとなにか口にしながら,炊事場を 045 出ていった. 残された佐藤は思い出したようにイロリを見ると,ヤカンの湯は音をたててわいていた. 脇には気味悪いように火箸が突き刺さっている.

佐藤は火箸を見ると,腰にはさんだ手拭いを取り出し,火箸に巻きつけると,鷲づかみにして炊事場を飛び出した.炊事場から拷問のところまで十メートルくらいしか離れていない. 佐藤は炊事場を飛び出したものの,吊るし上げた男を見ると,思わず足が前に出なくなった.こんなことで星を増やすことができるかと考えると,夢中で火箸をたずさえ,班長の前まで走った.

「班長殿,佐藤一等兵まいりました」 梅田は,火箸を見るとニタリと笑いを浮かべた. 吊るされた男はひきしまった筋肉に骨格のととのった,いかにも農民風と思われる男で,年のころ四十歳くらいであった.額には深く刻まれたしわと,頬には三日月型のしわがあり,固く結んだ唇を痙攣させ,佐藤と梅田を睨みつけていた. 吊るした木のまわりには,梅田一人でほかの者は誰も見えなかった. 彼は一人で木に吊るし上げたんだ.

「よし,よこせ」 佐藤から火箸をひったくるように奪うと,その人の顔に近づけた. 中年のこの男は三日月型の頬を痙攣させ,こめかみに血管が浮き出し,頬の皮膚をぶるぶるふるわせた.

「どうだ,言わねえか,貴様の身上はちゃんとわかっているんだ.八路の行動を言え」 気の狂った野良犬が怒鳴った. 中年の男は顔を横に曲げるとぶっきらぼうに,「我的好老百姓的八路軍不知道(ウオデハオラオパイシンデパーロチユンプチドウ)[私は善良な百姓で八路軍のことは知らない] その言葉を耳にするや否や,持った火箸は振られた. ジュー,ポクン,一回,二回続けて殴った. 大骨を打つ音と,皮膚を焼く音がたつ.人間を焼いた青白い煙が上がった. 人間を焼いた悪臭は付近にただよった.

046「貴様言わねえか,この野郎」 続けて焼いた. 吊るされた中年の男の脇の下からは,黄色い粘液が出血と混合してにじみ出る. 歯をぎりぎりさせ固く結んだ唇をふるわせ,憤怒に燃えた眼球は梅田の顔をじっと見ていた. 梅田の手でこの木に吊るし上げて殺した中国人は,一ヵ月に少なくとも三,四人はいる. そればかりでない.水攻めの拷問をやると必ず幹兵団に引き渡し,初年兵の実的刺突(じってきしとつ)で殺した. また,梅田はどら声をはり上げた. 「貴様,まだ言わねえか」 かすれたどら声でわめきたてた. しかし,その男はいっこうに口を開こうとはせず,いまの顔色とは違う,頬に隠れたくぼんだ眼を大きく開き,梅田の眼をじっと睨みつけている.

「この野郎」 持ちかえた火箸は下腹部を焼いた.ジュー,ジュー,また煙が上がった. 煙と悪臭に酔った梅田はニタリと笑い,何回となく繰り返した.腹は赤黒色の斑点に変わった. 吊るされた腕の筋肉を固くはると,木にこすりつけるように体を前後に大きく振った. 木の枝はがさがさと音をたてた. 梅田は火箸を持ったが前に出ることができず,重心を後ろにかけている. また火箸をあてんとしたとき,中年の男の左足はさっと横に振られた. 梅田の持った火箸は地面に落ちた. 梅田の肘を蹴りとばしたのだ.火箸を落とした梅田は歯ぎしりしながら,体を後ろに引き,左右に振るような格好であわてだした.

「この野郎,なめやがったな」 うめき声ともつかないかすれ声をはり上げ,脇にぼさっと立っていた佐藤一等兵を見ると,怒鳴りつけた.

「こら佐藤,こいつのズボンを取れ,言わなけりゃ言わせてやる」 「ハイ」 ふるえる口調で返事をすると,吊るした中年の男のズボンを夢中になって引っぱったが,簡単にはずすことはできなかった.

047 二回,三回,必死になって引っぱった. 引っぱるたびに木の枝はがさがさと音をたてる. 同じように体も左右にゆれた. しっかりと腕をはったその男は顔を左に曲げると,ズボンを引っぱる佐藤一等兵の横面に青い痰を吐きかけた. 痰は佐藤の左の頬をベットリとぬらした. 吐きかけられた痰は頬を伝わり憲兵腕章に流れ落ちる.

「畜生,貴様」 気の狂った野良犬はやっとのことでズボンをはずした. 佐藤はズボンをはずすと,その場を逃げるように退き,軍服の袖で吐きかけられた痰を拭った.それを見ると梅田はあわて,ふるえた体をおおいかぶさらんばかりに,「なんだ,だらしのねえ野郎だ」わめきたてながら,「よし,今度は言わせてやるぞ」分厚い唇をふるわし,火箸を拾い上げようとした.それを見た佐藤は,「班長殿,自分にやらせてください」 先ほどの失敗を取りもどそうとしたのだ.

「なに」 佐藤の顔を見ると,「お前にできるか」 「班長殿,自分が言わせてみせます」 必死になって火箸を取ろうとする佐藤の顔を見るとニタリと笑い,「よし,やれるだけやってみろ」 佐藤は火箸をひったくるように奪うと,近寄っていった.

拷問は二十分,二十五分とたっている.中年の男は体をまっすぐに伸ばし,呼吸するたびに焼けただれた皮膚を破るように骨が浮き出して見える. 「貴様,言わねえか」 目をつり上げた佐藤一等兵は吊るした農民風の男を見上げると,大腿部と下腹部をところきらわず殴りつづけた. 「これでもか,言わねえか,この野郎」 大腿部と下腹部は見る見るうちに赤黒い斑点に変わり,火ぶれになってはれ上がった皮膚からねばった粘液が出た. 「この野郎,これでもか」 殴られでも焼かれでも,いっこうに口を開こうとはしなかった.

048 気の狂った野良犬佐藤一等兵の声は,夕闇をけって付近を乱した.この様子を見ていた梅田伍長はなにを思い出したか,佐藤,やめろ」と,どら声をはり上げた. 佐藤は梅田の声に自分に気がついた. 「よし,言わなけりゃ,最後の手段だ」 どら声で静かな口調で,梅田は殺すことを考えたのである. 佐藤一等兵がわめき声をたてている姿をさっきから煙草(たばこ)をつけて見ていた.

やたらに煙草を吸ってはふき出している.……… ぶらりと下がった中年の男に近寄ると,吸った煙草の煙を吊るしたその男の顔にふきかけた. 「どうしても言わねえか」 ふき出す煙草の煙を佐藤一等兵に向けると,あごをしゃくり上げ,「おい佐藤,縄(なわ)をとけ」

「ハイ」佐藤は木の後ろに回ると,縄を引き裂くようにしてといた. 縄はずるずると音をたてる. 体は,「どすん」横に倒れて落ちた. 佐藤は倒れた中年の男を起こすようにくくった縄をといた.

囲く閉じた唇をふるわせ,ひきしまった顔を痙攣させ,立っている梅田伍長を見上げ,睨みつけた.

「この野郎」 睨みみつける顔を長靴(ちょうか)で蹴とばした. だが,その男は蹴られた顔面を片手で押え,また睨みつけた. 梅田はあごをしゃくって言った.

「おい,佐藤,こいつ,ぶっこんでおけ」

「ハッ」

留置場に連行しろというのである. 佐藤は落とした火箸を拾い上げると,「この野郎,起きろ,歩け」せきたてるようにわめきたてた. 死んだようになったその男は,脱がされたズボンをおもむろにはき直し,焼けただれた体に衣服をまとった.右手で着直した衣服をつかみ,左手で顔面を押え,その場から静かに立ち上がった. ここから留置場まで二十メートルくらい離れている.049 よろめき歩行できないこの男に二人の野良犬はわめき声をはり上げ,無理やり強引に引き起こし,蹴とばし殴りつけながら留置場に連行する.さきほどからこの様子を見ていた炊事の奴役夫呂は吊るした木の下に走り寄ると,縄を拾い上げ,なにごとかつぶやき見送っていた.

留置場に連行すると,さきほど日直を交代した久保上等兵がついていた. 梅田に異状の有無を報告した.

「おい,久保,こいつ,ぶちこんでおいてくれ」 「ハイ」 返事をすると留置場の鍵をガチャンガチャン,音をたてて開け,よろめく中年の男を蹴とばした.

「今晩一晩考えろ」 その男を部屋に残し,音を立てて鍵を閉めた.うす暗い留置場からほかの中国人の憤怒の叫びが聞こえてくる.

それから五日後の午後五時ごろだった. 大下13上等兵は三名の補助憲兵は,城内巡察を終え,憲兵隊に帰隊した.受付には補助憲兵高本がついている. 大下上等兵は三人の補助憲兵を連れて受付室に入った.

「おい,隊長殿いるか」 「おおいるよ,お前たちが帰ってくるのを待っていたんだ.いま中庭でこれだぞ」 手を首にあて,いまから斬首をやると言うのである.首を斬るといった言葉に思わず三人は顔を見合わせた.

「おい,行こう」 大下はあごを上げ,三人に合図をした. 四人の補助憲兵は受付室を飛び出し,中庭に走って行った.中庭に来てみると,高田14上等兵が盛んに中庭の片隅に穴を掘っている. 穴は高田の腰もとくらいも掘られ,盛んにシャベルを振っていた.まわりには高さ三メートルの 050 コンクリートの壁で囲まれ,壁にそって煉瓦(れんが)造りの大きな家屋が立っている. 穴を掘っているところから三メートルくらい離れたところに,五日前吊るし上げの拷問を受けた中年の男が紺色の上着を着て座っている.そばには隊長の青山15が軍刀をつって立っている. 通訳の金本16は拳銃をケースから出している. 四人の補助憲兵は青山17の前に走り寄ると,整列し巡察報告をする.

青山の前に整列した野良犬どもの顔を,座った農民風の男は後ろを向き大きく呼吸をしながら睨みつけていた.左顔面には梅田伍長に蹴られた傷あとが紫色にはれ上がっており,ものすごい形相だった. 巡察報告が終わると,「よし,ご苦労,解散」青山の声に四人はその場を立ち去ろうとした.

「おい,佐藤

「ハイ」 隊長に呼ばれ佐藤一等兵は"ひかがみ"を伸ばして立ち止まった.

「兵器を納めて急いでこい」

「ハイ」 返事をすると佐藤は銃架に走った. 兵器を納めたものの,また斬首場に行くと思うと足が前に思うように出なかった.こんなことで隊長に認めてもらうことができるか………と考えると夢中になって斬首場に走った.

佐藤一等兵まいりました」

「よし,高田18と替われ」 顔を横に振りあごをつきだして命じた.さきほどからシャベルを振り,盛んに掘っていた高田は,佐藤一等兵が来たので,やれやれといった格好でシャベルを休め見上げていた.

「上等兵殿,ご苦労さんです,自分が交代します」 穴に飛びこみ,高田と交代した.穴はかれこれ 051 一メートルくらいに掘り下げられている. 佐藤はシャベルを振り,掘りはじめた. 掘りはじめた佐藤を農民風の男はじっと睨みつけていたが,なにか隊長の青山に話している声が聞こえてくる. 殺されることを知ったのだ.

「隊長殿,こいつの身内が内にいるから会わせろと言っています」

通訳の金本の声だ. 青山は首をかしげていたが笑いを見せると,「よし,警察に呼ばせろ」 通訳は思いがけない答えに,「隊長殿,いいんですか」 青山の顔をのぞきこむように言った.

「よろしい,呼んでよこせ」青山は身内の顔を見せると,この男が泣きつくだろうと考えたのである.通訳は偽(にせ)警察官蒋19(ショウ)を呼ぶと,城内にいるこの男の身内を呼ぶように命じた. 蒋は返事をして斬首場を立ち去っていった. 座っている農民風の男は蒋が身内の人を呼びに行ったのを耳にしたのかその場を立ち上がり,着ていた上着とズボンを脱ぎだした. それを見た通訳は拳銃を振り上げ,上着を脱ぐこの男に突きつけ,「你的幹甚麼(ユイデカンションマ)[お前はなにをするのだ]と言った.

男は微笑を浮かべ,脱いだ上着とズボンをていねいにたたみ直している.シャツ一枚になった中年の男はまた静かにその場に座った. 死んでいくのに着物は必要ないというのである. 中年の男はまたなにか隊長の青山に向かって言った.

「隊長殿,こいつの身内が来るまで待ってくれと言ってますよ」 通訳はまた隊長に話した. 「そうか,いいだろう」 青山はニタリと笑いながら,煙草を取り出して火をつけた. なんとかして八路軍の秘密を探りだそうと考えていたのだ.中年の男はたたんだ上着とズボンをしっかりと握り膝の上に置き,穴を掘る佐藤を睨みつけていた. 蒋が呼びに行って時間は十五分くらいたったときだった.

052呼びに行った蒋は,一人の農民風で年のころ三十七,八歳くらいと思われる男を連れてもどってきた.すると中年の男は身内の人が来たことに気づくと,後ろを振り向きなにか叫んだ. 連れてこられた農民風の男は,飛びつくように座った男と抱き合った. たしかに肉親の兄弟のようであった.しっかりと握った二人の手はぶるぶるとふるえている. 抱き合った二人はそばに立っている三人の野良犬どもの顔を睨みつけ,かみしめた唇をふるわせ,鋭い眼っきは青山の眼に注がれた. それを見た青山は通訳にめくばせし,座った中年の男に近寄り,「どうだい,八路のことを言ったら帰してやるが,言わないかい」と,なだめるように言う. 青山の顔を睨みつけると,「鬼子,日本鬼子」鋭い声で叫んだ.連れてこられた農民風の男もなにか叫んだ.

「よし言わねえか,最後だ,おい金本 通訳にめくばせをする. 金本は二人に近寄ると,「歩け」かすれた声をはり上げた.

わめきたてる金本を見上げた二人の中年の男は中腰に立ち,近寄る金本の眼を睨みつけると立ち上がった. 金本は体を後ろに引いた.足は地から浮いてふるえ出した. それを見た青山は「おい高田 「ハイ」返事をすると高田は二人に近寄り,農民の肩を後ろから引っぱった.

「走(ツオ).農民は引っぱる高田を睨みつけている. 通訳は拳銃を取り出し,二人に向ける.拷問を受けた男は身の危険を感じたか,歩む足どりを止めると,ぬいだ着物を農民に握らせた. しかし,農民は衣服を握ったが帰ろうとはしなかった. 両足をしっかりと地につけ,毅然(きぜん)として青山と金本を睨みつけている. 青山は通訳にめくばせすると,金本,早いところ帰せ」睨みつけられた顔を通訳に向けて命じた. 金本は拳銃を農民に突きつけ近寄った.

053「走」.だが,いっこうに動こうとはしなかった. 金本は拳銃を空に向けると,一発パンと射った.脅かしなのだ. 拳銃の音に偽警察官蒋と玉が走ってきた. 金本は二人の警官を見ると,あごをしゃくり上げ,連れて帰れと命令した. 蒋と玉は顔を見合わせたが,農民の背後から両腕を抱きこんだ. 金本は農民にまた拳銃を突きつけると,警察署の留置場に連行しろと命令した. 二人の警官に押えられ,拳銃を突きつけられ,どうすることもできなく,引きたてられる農民は,何度も何度も立ち止まっては,「鬼子,鬼子,日本鬼子」と,叫んで行った.

拳銃の音に穴からはい上がった佐藤一等兵は,「隊長殿,穴の準備終わりました」. 青山は思い出したように,「よし,時間だ,こいつの目を隠せ」と高田と佐藤を見て合図をした. 佐藤はすばやくこの男に近寄った.

「走」 穴のわきまでせきたてた. 高田も佐藤のせきたてる声にあいづちを打って,「この野郎,手こずらしやがる,走!」. 中年の男は,吠える二人の野良犬の顔を睨みつけながら穴に進み寄った. 佐藤は腰にはさんだ手拭いを取り出すと,顔に巻きつけた.

金本は刀の柄(つか)に手をかけている. さきほどのふるえた姿をおおいかくさんばかりに,「隊長殿,自分がやりましょう」 小さい声で軍刀を抜いた.

農民風の男は通訳の声を耳にしたのだ.目隠しをはずすと,後ろを振り向き,通訳の軍刀を下げた顔をものすごい形相で睨みつけている. 男は青山に目を向け,またなにか話した. 隊長の青山に斬ってもらおうというのである. それを聞いた通訳は………歯をぎりぎりさせ,「なに,この野郎」もつれた口調で近寄った. それを見た青山はニタリと笑うと,「待て,いい度胸だ」 青山は,軍刀を054ふるえながら抜いた. 軍刀を抜く青山を見た農民風の男は微笑を浮かべると,真剣な顔にもどり,なにか歌か詩か………と思われるものを歌いはじめた. 高田は青山が軍刀を抜いたのを見ると,ヤカンの水を軍刀に流した.

バシャ,バシャ,バシャ,首を斬る刀の流水が不気味に音をたてる. 佐藤一等兵は水の音を聞きながら,「この野郎,往生しろ」はずした手拭いでまた目隠しをしなおした. 青山は農民風の男に近寄った.首を斬る数秒前だ. 座った中年の男を見つめた佐藤と高田は生つばを呑んだ. 青山は軍刀を振り上げた.軍刀の峰は男の首すじを打った.

「ドスン」 気味悪い音がした. 二回目の軍刀が上がった. 青山の持った軍刀の先は小さくぶるぶるとふるえている. サアッと光った軍刀の光と同時に,「ブス」首を斬った音だ. のぞきこむように見ていた佐藤と高田は思わず横に眼をそむけ,地につけた足をがたがたふるえさせている. 「バシャ,バシャ,ドク,ドク」首からふき出す血は穴のまわりを血の海に変えている.

死体は穴の上にまっすぐに伸びて,手足を痙攣させ,頭のなくなった体の首すじから,一メートルくらいの長さの血がふき出ている.穴の脇に立てられたコンクリートの壁は幅三十センチ,長さ一・五メートルくらいにふき出た鮮血で染められた. 隊長の青山はふるえる佐藤と高田を見ると,「なんだ貴様,早くしねえか」人間を食った狼が真っ赤な口を開けて怒鳴った. 「ハイ」 ふるえた口調で返事をすると,二人は死体に近寄り,痙攣する足をつかむと夢中になって穴に引きずりこんだ.

「ヨイショ,ヨイショ」がたがたふるえる足は止まろうとはしない.死体は血の海にずれるようにずるずる音をたてながら穴に引きずりこまれた. 「ドロ,ドロ,ドスン」泥とともに流れこんで穴055に落ちた. 青山がそれを見ている. 「だらしのねえ野郎たちだ」 分厚い真っ赤な口を開けて二人を怒鳴りつけた. 佐藤と高田は顔を見合わすと,「この野郎,手こずらしやがる」すてぜりふを残し,シャベルを手にすると,夢中になって土を穴に流しこんだ.その日から隊内の巡察を行なうたびに,首を斬られた農民風の男の顔が眼に浮かんできた.


筆者からの一言〈昭和五十七年七月

「戦争」,それはどんなに憎んでも憎みきれるものではありません.とくに,それが侵略戦争であればなおさらです. 侵略する軍隊は人間を狂わせてしまいます. 狂わなければ,侵略の目的を達成できないのです. 私もまた,日本帝国主義の侵略者として,数々の非人間的犯罪行為を犯してまいりました.私はいま,私自身の体験を通して,戦争とはこのようなものだということを知っていただきたいと願っており,このようなことが二度と引き起こされてはならないし,引き起こすことを許してはならないと,反戦平和を訴えつづけております.

人間とは本来,平和な生活を築くためにのみ存在するのです.にもかかわらず,戦争もまた人間が引き起こすのです. 戦争を知らない若い人たちに,かつて私たちの犯したあやまちを二度と繰り返さないよう,私たちが犯したあやまちをありのままに正しく理解していただき,平和を築くための糧(かて)としていただき,反戦平和のために手をつないでくださることを願ってやみません.

佐藤五郎

 

 

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Personen & Orte

 

1 Satô Gorô, 分隊員、Gefreiter 上等兵

2 Shandong, chinesische Provinz

3 Yizhou, im Süden von Shandong

4 Jinpu, Bahnlinie

5 Takahashi, Takahashi, 警尉 im 警察署 von Shuanghe; Takahashi, Leutnant

6 Ximen, 大街

7 Kubo, Gemeiner, 補助憲兵

8 Takamoto, 補助憲兵

9 Umeda, 伍長

10 Satô Gorô, 分隊員、Gefreiter 上等兵

11 Lu, chin. Bediensteter

12 Yu, chin. Bediensteter

13 Ôshimo, Gemeiner

14 Takada, Gemeiner

15 Aoyama, Truppenführer

16 Kanamoto, Dolmetscher

17 Aoyama, Truppenführer

18 Takada, Gemeiner

19 Jian, 偽警察官