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細菌戦
七三一部隊の蛮行

田村良雄1(たむら・よしお)

防疫診療助手 兵長


松花江2(しょうかこう)流域の大都市として古くから知られている哈爾浜3(ハルビン)市の東端香坊4(こうぼう)に,一本の道路がありました,中国人民はこの道路を殺人道路といって心から憎んでいました.

自動車で三十分も走ると道路はしだいに狭くなり,いままでまっすぐに来た道路はここで急に曲がって平坊5(へいぼう)駅に向かっていました.この曲がった道の付近を注意してみると草の茂みの中に一本の道路があり,これが七三一部隊に通ずる道路でありました.

この道路に面している見渡すかぎりの草の中には,麦の刈り取りの跡を残したうねがずっと続いており,また草原のところどころに平和な家庭をいとなんでいた家が火をつけられ,焼き払われ,焼け残った柱が日本侵略者の蛮行を訴えるかのように立っていました.

かつては平和な農民の耕地.刈り取りののどかな歌声の聞こえたこの地を,日本侵略者は024一九三八年五常6(ごじょう)県より駐屯地をここに移し,石井7部隊と名前を変え,中国人民を銃剣で住みなれた土地から追い出したのみならず,点在した村落を五ヵ所に集め,『保護部落』と名前をつけ,秘密保持と奴役(どえき)の必要から中国人民をここに監禁し,中国人民のいっさいの自由を奪い,外部とのいっさいの往来を断ち切り,このような荒れ野原の無住地帯をつくったのでした.それ以来,この神聖な土地は細菌戦部隊の演習場と化し,実り豊かな田畑を猛毒細菌で汚染し,平和と独立のために闘っていた中国人に対する細菌実験による死刑場に変えたのであります.

人類であるなら許すことのできない細菌戦を任務としていた七三一部隊は,ことさら秘密の漏洩(ろうえい)を恐れておりました. 本部の入口には関東8軍司令官の許可なき者は何人と雖(いえど)も立入りを禁ず』の立て札が立っており,灰色の三階建ての四角のビルは一見ふつうのビルと変わりはありませんが,一里四方には深い段々掘り,高圧電流をめぐらし,つねに人の生命を狙う悪魔のうなり声をたてていました.細菌戦首魁(しゅかい)石井四郎9「ドイツ式の『秘密建築法』を採り入れたのだ」とうそぶき,建物の中に中国人民を監禁し細菌実験をもって殺害する二棟の秘密監獄があり,ここを管理する班を特別班と言っておりました.その外の少し離れたところにコの字形の建物があり,ここに二本の滑走路が平坊駅の方向に延びており,これが細菌をバラまく航空班でありました.

全世界の人々が人類を病魔から救おうとして血みどろの闘いをしているとき,日本侵略者はこの医学の成果を逆用し,一九三九年には,ソ同盟,蒙古人民に対して大々的な細菌戦を推し進め,一九四0年以来は細菌戦の手段をもって中国人民を消減しようと企図し,中国人民の頭上に猛毒細菌をバラまき,死と病苦の中に陥れ,人類歴史上いまだかつてない大犯罪をあえて行ないました.これ025にも飽き足らない日本侵略者は,一九四二年四月,またもや大々的な細菌戦を画策し,猛毒細菌の製造と研究に血みちをあげてきました.


六時を回ったばかりではまだ誰も来てはいないのでしょう.建物全部が死んだように静まりかえり,挨をあびた鈍い常夜灯の光が,ところどころ消毒薬の水たまりをつくっているトロッコ線のあるたたきと,鉛色の高圧滅菌機や溶解釜を照らしています.ときどき地底から聞こえるうめきのような温度を調節する孵卵(ふらん)室の音に混じって,特別班からであろう,ガチャリガチャリ,足の鎖を引きずる音が不気味に聞こえ,腐った培養基と消毒薬の強烈な臭いが鼻のしんから頭の髄へとずきんずきんしみこんできます.

いつもより早く出てきた私は,細菌工場の廊下を左に曲がり,培養のうずたかく積まれてあるうす暗い間道を手さぐりで歩いていました. ゴツンゴツンと自分が歩いている足音を誰かが追いかけているような錯覚を起こさせ,何度もふりかえりましたが,もともと誰もいるはずがありません.その中に私の眼の前に三日前にペスト菌を注射し,ペストに感染させた中国人の憎しみに燃えた顔が大写しに現われ,「鬼子(クイズ)」「鬼子」とペスト菌を注射したときのそのままの姿で迫ってきました.

「畜生!」 私は,滅茶苦茶に手をふり,足をふり,払いのけようとしてもがき,あちらこちらの培養罐にぶち当たりしながら,やっと蒸溜室と冷却室の間にある板で仕切られた雇傭人室に転げこむように入りました.真っ暗な雇傭人室の奥のほうにうす暗い電灯が一つともり,その下に四,五人の作業衣を着た人間が,車座になってなにを話しているのか顔を寄せ合っていました. が,私を026将校とでも間違えたのか,側に置いであった肉エキスの瓶をあわてて床下に隠すと,雇傭人が隊内の『機密』に関する話や,上官の悪口を話しているときに不時(ふじ)の進入者に対処するごまかしのあの手で,大声で笑いはじめました.同類の笑い声を聞いて正気にかえった私は,中国人に恐れおののいている格好を見られはしなかったかが気にかかり,平静を装おうとしてフーッと太い息を一つすると,落ち着いた声を出そうと気を配りながら,「なんだ,細菌の上前をはねていたのか」と車座の側に近づいて行きました.

「なんだ,田村10か?おどかしやがって」と,暗やみから近づいていった私を見た四十過ぎの柄沢11班の雇員,長島次郎12が,床下にさつき隠した肉エキスを出しながら,さもいまいましそうに怒鳴りつけると,なお言葉を続けて「なあ,田村!!将校さんは一瓶十五円もするというこれを一ダースでも二ダースでもおおっぴらに持ち出してよ,嬶(かかあ)とベチャベチャなめ合うこともできるが,こっちとら………」「軍馬,軍犬,鳩,雇傭人というこの雇員は,こんなときでなければなめられないというんだろう」,田部井13班の玉井14が長島15の言葉をとってチャチャを入れました.

私は集まっている顔ぶれを見て古参雇員のときどき口にする彼らの情報交換だと知ると,すぐに特別班に入りたくない気持ちも動き,出て行けと言われるまで,なにを話すのか聞いてやれと思い,腰を下ろしました.

『機密をもらしたものは極刑に処す』と毎日言われ,極刑に処されても異論はありません,と一札を入れているが,上級に上手に立ちまわって点数をとるには部隊が現在なにをしているかを知る必要がありましたし,それよりも自分の行なっている仕事がいかに『極秘』であるかを話すことに027よって,こんなに上級から信頼されている人間だと自慢したい雇傭人の共通の心理から,日直のときに各班から集まってこそこそ話をするのがつねとなっておりました.

肉エキスを湯呑みに流しこみ,お湯をつぎこみ,一口飲んだ柄沢班の十年組と言われる技手候補の奥寺16雇員が上目づかいに私を睨みながら, 「オイ,田村,最近なにをこそこそやってるんだ,ここでいっさいを言え」と,いざりよってきました. 奥寺の奴,俺が課長の直接命令で動きまわっているのを知ってやいているのだ,と感じた私は,内心得意になり,「話すことはできませんね,極秘ですからね」と,うそぶきました. 「なに極秘,馬鹿野郎,俺たちのやってることはみんな極秘だ,青二才のくせしやがって」奥寺はますますいらだち,どうしても言わせるぞとばかりに詰めよってきました. 奥寺がじれればじれるほど,私は得意になり,数日来から頭の底にあった中国人に対する恐怖心は,より残酷に,より残忍に生体実験を行なう功名心に変わっていきました.

奥寺の見幕(けんまく)をなだめるように, 「待て奥寺雇員,田村は特別班に入っているだけだ,それよりも早く玉井から遠征隊の情況を聞けよ,時間がなくなるぞ」.今日集まった目的が一九四二年春,部隊長石井四郎の直接指揮の下に華中華南地区に細菌をバラまきに行き,最近帰ってきた遠征隊のことにあったらしく,ほかの三人もそれをせきたてた.

「うん,よし」 奥寺雇員は先任雇員の威厳を示すかのようにうなずくと, 玉井雇員, 杭洲(こうしゅう)で女を買ったことなどぬきにして話すんだぞ,いいか」.遠征隊の情況を聞いて私は生つばを呑みこみ,耳をすましていざりよりました. 遠征隊が帰ってきてからというもの,課長も班長もいらいらして班員を毎日のように怒鳴りつけるのがいっそうはげしくなり,部隊全部がガタガタしているように028感じていたからでありました. 《なにかあったんだ》 聞きたいものだと考えていました. 「話すけどなあ,これは秘中の秘だぞ,バレようもんなら首の台がとぶからなあ………」 生白いブクブクした顔の玉井は声をひそめて話しはじめました. 一九四二年の三月に遠征隊を編成し,本部を上海(しゃんはい)漢口(かんこう)に置き,ここを拠点として細菌をバラまいたんだ」

「俺たちの培養した細菌はどうだった」 奥寺は自分の作った細菌が気になるとみえて言葉をさえぎった. 柄沢班の細菌は正直なところ使いものにならないという話だ,雑菌が多いので運送の途中に腐るし,腐らなかったペスト菌ときでは毒力がないしよ」 「そうか,それでいちばん効果のあったのは何班のだ」 玉井は指を折りながら,「第一は班だろう.班ではコンペイトーとか甘納豆の中に脾脱疽菌(ひだつそきん)を入れて飛行機でそれに落下傘をつけて投下したんだ.それで子どもの体がくちゃくちゃになって,相当死んだらしいよ」 「第二は田中班の蚤だろう」 「うん,そうだ,ペスト蚤はいいことはいいが,俺たちの細菌戦をやっていることが蚤をつけたネズミをそのまま何回も落としたことから,みんなバレちゃったんだ」 「そりゃほんとうか,大変じゃないか」 「ほんとうだとも,解放日報という新開にはペスト蚤を播(ま)いた方法がそのままのっているし,それに写真までついているんだ」 「そうなると今後の細菌大量生産はどうなるんだ」 みんな長島と同じことを考えたのか?この場のいちばん先任である奥寺の顔を見た.

「バレようがバレまいがそんなことに変わりがあるもんか,バレたとなりゃあ,もっと毒力の強い細菌を培養して,どんとバラまくだけの話だ.どうだ玉井,そうだろう!!」 「ああ,それで最近丸太が運ばれてくるんだな」,さっきからみんなの話に聞き入っていた人事班の島田が,「ところで029金井,特別班の色(エロ)パンフレットは刷らないのか」 「一部くれというんだろう,この助平野郎,写真班に行っては色写真をくれと言う!」 どいつもこいつも金井から色写真,色パンフレットをもらっているくせに,君子顔して笑い出しました.

部隊長石井四郎二木班の性病実験のために,また,中国人の堅決(けんけつ)な英雄的な細菌戦に対する反抗を恐れ,彼らを骨抜きにして実験を推し進めようともして,色写真,色パンフレットを作らせておりました. 「中国人にはどうにもならないんだ,色気がないのか,パンフレットをやっても色写真をやっても見もしないで引き裂いてしまうし,いまじゃ色写真も色本も役立たずだ」 「ほんとうに丸太というのは不思議だなあ,色気はないし,鉄砲玉も恐ろしがらないときては」 「だから始末が悪いんだ,色気がありゃあ,少しゃ,おとなしくさせることもできるんだがなあ」

みんなそれぞれ残酷な生体実験を行なって,中国人を殺害しているので,同じようなことを言います. 「人間にそれも若い男に色気がないなんて考えられるかよ,馬鹿な」 人事班の島田はどうしても信じられないらしく一人ひとりの顔を見回しています. 「それがほんとうなんだよ,島田,俺も初めはお前のように考えて,いま田村が実験している奴に一度はロシア人の女,その次は中国人の女を入れて,俺は錠穴からジーッと見ていたんだが,女が入って行くとすぐ二人が手を握り合ったんだ,俺はしめたと思ったんだ,そのとたんにどうだと思う,その男は狂ったようになって『鬼子,貴様らはなんの罪もない女子どもに対してもこのような非人道なことをするのか,絶対に許すことはできない.必ず貴様らを消滅する』と怒鳴るんだ.女を入れたらおとなしくなるどころか,ますます反抗心をあおり立てちゃったんだ」

030私の眼に,人類を消滅させようとする細菌戦を身をもって制止しようとする中国人の姿がうつるはずはなく,《こんな奴らをうまく実験に使ってこそ俺の腕の見せどころだ,こんりんざい決して臆病風なんか吹かせないぞ》私は時計に眼をくれると,ほかの者にはわからないようにそっと抜け出し,研究室の階段を上がって行きました.二,三階を占めている研究室の全部が狂気じみた殺人実験に血みちをあげておりました. 研究室は動物の屍臭(ししゅう)と血の臭いが充満し,私は研究室に入ると数日前から注射したネズミやモルモットを見回しました.汚物で汚れた毛並みを逆立て,くたりとなった動物がうごめいております. 人が死ぬ,動物が死ぬ,人間としては悲しむべきことが,細菌戦の手先である私にとっては喜びでありました.これらのことは細菌の毒力の強いことを意味するものであり,自分の立身出世とつながるものでありました. 私はひとわたり動物を見通し終わると,《毒ガスも素晴らしいぞ》とほほえみながら,死んだネズミの腹を裂き,脾臓,肝臓をとっては培養しはじめました.

七時に中国人の体温を計る時間になっておりました.私は動物がこのくらい死ぬほどの毒力ならば,《丸太も死んでいるに決まっている.昨日のような反抗もするまい》と,消毒室に器材をとりに走りこみました.特別班の入口にある鉄の大門を開け,出入許可証を渡して,私は中国人を監禁している二棟の中の一つである七棟に出ました. 前のほうから担架をかついだ二人の防菌衣姿の男が飛び出してきました.担架の上には,いま誰かの手によって殺害された,腹をたち割られ,頭を叩き割られ,脚を切り裂かれ,肉の塊りとされた中国人がのせられており,血がしたたり落ちておりました.この惨殺体を見た私は,《早いとこやりやがったな,何班だろう》と,将校のよくやるあの031手で頭を下げ,中をのぞきこみました. 惨殺体を見送った私は足早に三日前にペスト菌を注射した中国人のいる十二号に近づき,半分おそるおそる中をのぞきこみました.中国人は私の注射したペスト菌によってもだえ苦しみ,血を吐いて床の上にうつ伏せに倒れていました.

「フフ………」 私は《くたばりやがった,しめた》とばかり錠を開けさせると,中に入りこみました.私の進入を知った中国人は血のしたたりの中から顔を上げ,血に染まった顔でじっと私を睨みました. なんの抵抗力もないことを知った私は,「畜生,くたばりぞこない」と,はいていたゴム長靴の先で,どっと蹴とばしました. グーグー中国人の口から真っ赤な血が床を染めました. 「鬼子(クイズ),一定復仇(イーテンバオチュウ)[鬼奴,俺は必ず報復するぞ]中国人は満身に血をしたたらせ立ち上がろうとしましたが,力なくどっと倒れました. 「いまに八つ裂きだ,これでもかぶっておけ」 私は持ってきた消毒薬を中国人の全身にぶちかけ,捨て台詞(ぜりふ)を残すと彼の憎しみをあとに出て行きました.

私が出口に近づいたころ,反対側から実験の直接指揮者である宇田清技手がひょっこりやってきました. こんなに早く宇田が来る理由はないがと,シゲシゲと彼を見ているのを感じとったのか,宇田は私の視線を避けようとさえしました. これは秘密の,人に話せない『仕事』をしているときによくとる態度なので,きこうともせず彼のあとに従いました.

宇田はなにかそわそわしているようでしたが,後ろをふりむくと私の耳もとに口をよせ,「面白いことをするんだからつき合えよ」言うが早いか私の腕をつかむと,もと来たほうへと足早に歩きはじめ,裏側のとつつきの監房の前に行き,「いいか,ここで将校が来るかどうか監視してろ」. 彼は物入れから私物の鍵を出すと錠穴に差しこみました. 監房の錠を開けるには特別班の班長か日直の032許可が要るのに,なんだろうと思いながら中をのぞくと,コンクリートに薄い布団を敷いた上に二十六,七歳と思われる面やつれのした断髪の婦人が,耳をすませて外部の音を聞きとろうとするかのように座っておりました.

人の子と生まれながら,母親をしたう子どもの心情を理解しておりながら,子どものことを心配し,民族の前途をうれえて侵略者に反抗してきた偉大な母親を,なんの理由もなく死刑の判決を下し,もっとも残酷な細菌戦実験の手段をもって殺害しようとするだけではなく,侵略者はこの母親を辱めようとして襲いかかっていきました. 「幹甚麼(カンションマ)[なにをするんだ]と婦人の顔はより蒼く,眉はつり上がり,唇は憎しみにわなわなとふるえておりました.六尺に三尺の犬小屋に入れられ,栄養失調と拷問で体の自由を失っている婦人に抵抗する力があるはずがなく,一片の人間の最低道徳さえもち合わせない侵略者に組み伏せられ,獣欲の犠牲となりました.

宇田の強姦するのを見ていた私は,まるで狂った犬のようになり,錠穴から鍵を抜きとると隣りの監房に差しこみましたが,回そうとしても回りません.じりじりした私は,のぞき穴から中をのぞくと,二十四,五歳と思われる中国婦人が二歳くらいと思われる子どもを胸にしっかと抱き,こちらを見つめておりました. 子どもがおろうがおるまいが,どうでもよい私は,錠を開けようとしましたが,合わない鍵では開くはずはありませんでした.クソ,クソ,私は力一杯鍵を抜きとると,次の監房の錠穴に突っこみました. ガチャリと音がしたと思ったら,難なく聞きました.中に三十歳くらいと思われる痩せおとろえ,立つ気力もなくなっている婦人が壁にもたれていました.目はどんよりと力がなく,顔ははれているようでもありました.

033私を見た婦人は,顔に嘲るような笑いを浮かべながら「你(ニイ)甚麼事,(ションマス)[お前はなんの用だ]と,言い終わるとガックリと頭を壁にもたれ,眼をつぶりました.人が来たら具合が悪い,早いことやってやれ,私は婦人に近づきしゃがみこむと肩にだきつこうとしました. 婦人は眼をつむったまま布団から手を出し,私を払いのけようとしました.

その手には指がなく,先のほうに黒い骨がついていました. 吉村班の凍傷試験の結果を見た私は,これは引っかかれる心配はないわいと,今度は力まかせに婦人を横倒しにしました.婦人は体を支える力もなく,どかりとその場にあおむけに投げ出され,指のない手が虚空をつかみ,痛さにもだえるように顔をしかめ,どんよりした眼はかっと見開かれ,憎しみに燃えた眼を投げかけました.

「フ,フ」………私は飢えた狼そのままに,ころがされた婦人をなめるように眺めまわしました.

灰色になった"病衣"から露出されている足の片方はかかとのところからなく,片方は指が全部なく,黒い肉となり骨が出ております. 《だるまならちょうどあつらえ向きだ》 私はあおむけにされ失神したようにいっさいの気力を失い,なんの抵抗する力もなくなっている婦人の前にひざをつくと,婦人の裾を力まかせにまくり上げました.婦人はあらんかぎりの力を出して体の向きを変えようともがき,羞恥と憎しみに燃えた眼は怒りを増し,火を吐くばかりでありました.

婦人は凍傷試験で手足をもぎとられ,いままた二木班の第四性病の研究のモルモットにされ,残酷に殺害されようとしているのでした.婦人の下腹部に目をやった私は,下腹部から鼠蹊(そけい)部にかけて赤紫にはれ上がり,ウミが床一面に流れているのを見ました. 「チェッ,畜生」 獣欲を満足することができないと知ると,婦人の腰を力まかせに蹴りとばして出て行きました.

034「馬鹿野郎ッ,こんなものに手を出して………早く消毒しろッ」顔にうす笑いを浮かべて出てきた宇田"実験中"と書いた札をさしながら,嘲るように私をなじりました. 「馬鹿な,こんなものに手なんか出すものか」 私はいらいらした怒鳴りつけたいような気持ちを押えながら,特別班の解剖室に入って行きました.

解剖台の上は解剖が終わったばかりらしく,"血流し"には真っ赤な鮮血が流れ,下に置かれているガラス瓶の中にポタリ,ポタリと落ちていました. 大きな解剖刀は中国人の鮮血を吸って真っ赤な血糊がついています. 「オイッ,田村,俺は電話してくるから器材を消毒しておけ,すぐ始める からな」宇田は出て行きました.

プツリ,プツリと滅菌器の中の器材がたぎっているときに,課長大木啓吾少佐と班付の細島宏中尉が全身をゴムの防菌衣に包んで入ってきました. 「始めよう」との大木の命令で,細島は目でメスを渡すことを合図しました.メスをなんに使うのかわからないままに渡すと,今度は止血鉗子(かんし)を出せと合図しました. 細島がメスと鉗子を持っている間に,中国人が担架にのせられて運びこまれました. 今朝,私が消毒薬をぶちかけた中国人は,死んでも死ななくても今日解剖する予定になっていたのでした.中国人の顔は紫色にはれ,そこは血がべっとりっき,担架の上にしたたり落ちておりました. おそるおそる近づいて中国人の顔をのぞきこんだ大木「オイッ,早くカンフルをうて,いまのびたら実験できなくなるぞ」,側に突っ立って眺めていた細島は,「ハア」と言うと,「カンフル二本」と指を二本出して注射することを私に命じました. 中国人の着ていた黒ずんだ病衣の襟首を握った特別班の八坂が,力まかせにふりまわしました. "病衣"は裂け,意識を失い臨死の035中にある中国人はガタリとタイル張りのたたきに叩きつけられました.

カンフルを注射し,足かせ手かせで固定された中国人はカッと目を見開き,この凶行を確かめるかのように首を回しましたが体の自由がきかず,無念の涙を目にたたえながら天井の一点を見つめ,乾ききった口からは凶行を追及する叫びを発しようとしたのでしょうが,声にはならず,口をわずかに動かしていました.

中国人の首をなでまわしていた細島は,右手のメスでズバリと中国人の頸動脈にそって切り下げました.血がジューッと流れ出ました. 中国人はペスト病の苦しみと,切りさいなまれた痛さで首を左右にふりましたが,そのたびに顎にかかっている首かせが食いこみ,ガクリと首をたれ,失神しました.私はあわてて血を拭きとりました. 止血鉗子を握って待っていた宇田は鉗子で傷をかきまわし,頸動脈を見つけるとカチンカチン両方から血管をはさみました. 細島はメスの背で中国人の心臓部を叩き,「ビタカン二本」と叫ぶと中国人の頸動脈を切断しました.

心臓にビタカンフルを注射しても,中国人はもう動きませんでした.口許がかすかに痙攣していました. 頸動脈から鮮血が,私の持っている三十CCのコルベンの中にポタリポタリと流れ出しましたが,しばらくするとピタリと止まりました. 「ビタカン四本」 少し離れたところでこの残虐行為を指揮していた大木が叫びました. ビタカン四本うっても中国人の鮮血をしぼることはできませんでした. 中国人は「鬼子ッ」と憎しみの火と燃える一言を残すと,スーッと顔色が変わり,呼吸(いき)をひきとりました.

「解剖刀をよこせ」 細島は解剖刀を逆手に握ると,上腹部から下腹部へ下腹部から胸部へと036得意然として切りさいなみ,骨鋸をひいて肋骨をひき切り,内臓の全部を露出させました.てんでに細菌培養の白金耳とシャーレを握り,内臓の露出されるのを待っていた三人は,人肉にむしゃぶりつく飢狼そのままに白金耳を焼いてはジューと中国人の体を焼き,より多くの中国人民を殺害する細菌菌株を作るために,培養基にぬりたくりはじめました.二十分後には中国人の肉体は,切って切って切りさいなまれ,血のしたたる肉の塊りとして解剖台上に散乱しました. 私たち四人はこの惨殺体を見て満腹した狼のようにフーッと太い息をすると,大木細島,字国,私という順に隣りの休息室へともぐりこみました.

大木細島は将校室にしけこみ,休息室には私と宇田の二人が残りました. 宇田は消毒薬でビタビタにぬらした防菌衣を脱ぎながら,「オイ田村,いまの丸太の肺を見たか,肺ペストには間違いないが,四日目でまだ完全な致死の状態ではないんだ」 「そうすると原因はなんですか」 「彼らの反抗による絶食だ,奴らの,俺たちの細菌戦を行なわせまいとしての反抗だよ」……… 反抗すれば叩き殺すまでの話じゃないか………口には出さずに私は宇田の眼を見ました.

「奴ら八路軍には確かに俺たちよりも優秀な予防注射液ができてるんだ.石田技師の話によると生菌ワクチンではないかというんだが,どうしてもそれよりも毒力の強い細菌を培養しないことには細菌戦にはならないんだ」 宇田はアルコールでガーガーと口をゆすぐと言葉を続け,「毒力をウンと高くしないでみろ,感染して死んでいくのは,俺たちと友軍の兵隊ということになるんだ.細菌戦はもともと共倒れは避けられないんだがなあ」 「細菌戦は共倒れ」と口の中でブツブツ言いながら,私は夢中で全身に消毒薬を浴び,アルコールをガブリと口の中に注ぎこみました.

037「オイ準備だ」と言いながら入ってきた課長大木は,いつになく顔に笑いを浮かべながら,「今度やるのは須藤良雄だ,いいな極秘だ」. 私は,もう少しで手に持っていた指頭消毒器をとり落とすところでした. 大木は私の表情から,なにものかを汲みとろうとして,ジーッと鋭い眼で見つめておりました.この眼は私に特別班の出入りを許可したときの眼でした. テストしていることを感じとった私は,内心の動揺を押えて平静を装い,「そうでありますか」大木の顔を見ました.

「よし,お前も一人前になった.須藤良雄をここに入れておいたのも,みんな天皇陛下の御為だなあ」 大木は珍しく私の肩を叩き,自分で防菌衣を着はじめました. 須藤良雄は第四部第一課の雇員として,最近のペスト菌の大量生産でペスト菌に感染し,私は病院に入院しているものとのみ思っていたのでした.それが中国人を監禁し,細菌実験を行なう特別班に入れられているのでした. 私はなにがなんだかわからず,自分の頭を叩きさえして解剖室に入りました.

須藤良雄は特別班員によって真っ裸にされ,解剖台にかつぎ上げられているところでした. 四,五日前までは女の話をしてはキャーキャー騒ぎまわっていた須藤の面影はどこにもなく,骨と皮ばかりになった全身には紫色の斑点が無数にあり,苦しまぎれに引っかいた傷であろう胸一面の引き裂き傷からは血がにじみ出ていました.うつろに開かれた眼には涙が流れ,口をダラリと開けてハーハー苦しそうな息を吐き,そのたびごとにピクピク腹が波うっていました.

大木は,さっきから須藤と私を交互に見ております. 大木の視線に合った私は,消毒薬で須藤の全身を拭きはじめました. 平静を装うために私はできるだけ乱暴に行ないました. 「よし,科学者は冷静であるべきだ」 課長は私を褒(ほ)めたんだな,と感じとった私は,中国人に対したと同じように038消毒薬を浴びせました. 消毒薬の冷たさで正気にかえったのか,うつろな目を見開き左右を見回そうとして首を動かそうとしました.動かすごとに首かせが食いこんでいきました.

「班長殿,課長殿,胸が………胸が………」 顔を歪めもだえたと思うと,グーグー口からドス黒い血を吐き出しました. 「班長殿,班長殿」須藤はこの病気に感染して以来ずっと叫びつづけてきたであろう,治療を要求しておりました.

私の頭の中には,一九三九年中国に侵略してくるときに良雄と仲良くしてやってネ」と,私の手に小さな果物籠を渡してくれた須藤の母親の顔が現われ,それ以来の罪悪の共同の生活が渦をまいてきました. 《助けてやりたい》 "トロンボゲン"止血剤をとろうとする私の手が薬物箱に伸びようとした瞬間,「始めろッ」須藤の全身をつつきまわして検査していた大木の命令がかかりました. 大木の私に向けられた眼は,解剖刀を消毒器から取り出すことを命令しています. 『天皇陛下の御為』 私は須藤を助けようとしていた心を制し,解剖刀を細島に渡しました. 解剖刀を逆手に持って須藤に近づいた細島は,なにを思いかえしたのか,「オイ 宇田技手 ,お前やれ」と,宇田に解剖刀を渡しました.

大木の顔を一目見た宇田は,解剖刀を受け取ると,切るところを見きわめるために須藤の腹をなではじめました. 治療してもらってるんだ,と思いこんでいる須藤はあえぎのなかから,「課長殿,すみません,早くしてください.苦しいです.早く早く」と叫びつづけました.解剖刀を持った宇田の手は,かすかにふるえていました.

解剖台から一歩ひいて眺めた大木は,ヒステリックな声で,「早くやれ」と怒鳴りました. 須藤039成仏してくれ」 宇田は解剖刀を逆手に握ると上腹部に刺しました.

「助けてくれ………ッ」 須藤の口からうめきが洩れると,宇田の手はふるえました. 「その態(ざま)はなんだ」 後ろから一喝を食った宇田は,サーッと解剖刀を下にひくと,かえす刀で胸部の皮膚を裂きはじめました. 血は解剖台の血流しを通じて,下にボタボタ流れ出しました. 「畜生」須藤の口から血をしぼる叫びが出ました.それと同時に,ドウドウ解剖台上に内臓がはみ出,彼は絶命しました. それから数時間後,第四部第一課の研究室で,暗視野にした顕微鏡の下でとび回っているペスト菌をのぞきながら,「これじゃ駄目だ.もっともっと動物体を通過させて毒カを強めろ.いいか細島と,より残酷な生体実験を指令している課長・大木啓吾少佐の言葉を聞きながら,私は未来の将校姿の自己を夢みながら,細菌大量生産に使う菌株を培養しはじめました.

私は非人道的罪業を平然と行なってきた自己を憎みます.このような罪業を再びこの地球上で行なうことを決して許すことはできません. 人類は平和な労働にいそしみ,人類の繁栄を求むべきであります. 侵略者,戦争挑発は人類共同の敵であります.私は非才を顧みず,ここに日本帝国主義細菌戦部隊の罪業の一端を暴露し訴えるものであります.


筆者からの一言〈昭和五十七年七月

七三一部隊の極悪非道な行為は,天人(てんじん)共に許すことのできない犯罪である. 戦争に科学者の良心を売り渡した「学者」,それも人命を救うことを使命とする「医学者」 「医学徒」の手に040よって,またはその指揮のもとに行なわれた残忍な行為は,戦争犯罪としても『国際法の規範と人道の原則を踏みにじった』悪の典型である. 私は,愚かにもその手先となって,償うことのできない数々の罪行を犯してしまった.どんなに悔んでも悔みきれない.

戦犯拘留から釈放され,帰国して二十有余年,恵まれた生活ではなかったが平穏にその日その日を送ることができた.これも侵略戦争の反省のうえに立って,戦争を許さず,平和を守り抜いてきた日本国民の良識の賜(たまもの)であり,深く感謝している.

私は自分の体験から,侵略戦争を正当化したり美化したりする風潮に断固反対する.

戦争を知らない世代が多くなったことはよろこばしいことだと思う.それは,それだけ平和が続いたことだから. また,この世代の人たちは戦後民主主義教育で育った人たちだから,私たちのように武器をもって他国に侵入し,ほしいままに住民を殺害しておきながら,それをも正義の戦争だというような口車には乗らないと思う.しかし,戦争の実体を知ってほしい. 戦争は邪悪の凝固物だということを知ってくれることを願う.

日本でも最近,緊縮財政の中で軍事費だけが大きく突出し,平和の象徴である福祉が切り捨てられつつある.戦争準備をやめて,その金を福祉に,世界の飢えた人々に,アジア各国との友好に,世界の恒久平和のために使ってくれというのは,多くの日本国民の願望ではないだろうか.

田村良雄

 

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1 田村良雄, 1-02*Tamura Yoshio, Obergefreiter (=篠塚良雄 Shinozuka Yoshio, Mitarbeiter im Film Riben Guizi))

2 松花江, 1-02, 1-09, 1-21, 2-14, 3-1-3, 3-2-1, 3-2-2, 4-2-12, 4-2-14, Songhuajiang, Nebenfluß des Heilongjiang (Amur), fließt durch Harbin

3 哈爾浜賓, 1-02, 2-02, 2-13, 2-14, 3-1-1, 3-1-3, 3-1-4, 3-2-1, 3-2-2, 3-2-3, 3-2-4, 3-2-6, 3-2-8, 3-3-1, 4-2-10, 4-2-11, 4-2-12, 4-2-13, 4-2-14, 5-5-28, meist ハルピン od.  ハルビン geschrieben: Harbin, Stadt nördlich von Xinjing, Hauptstadt der Provinz Heilongjiang

4 香坊,1-02, 2-14, Xiangfang, im Osten von Harbin, heute ein Bezirk von Harbin

5 平坊), 1-02, 2-02, Pingfang, 20 km S von Harbin, heute ein Bezirk von Harbin, Bahnstation an der Labang-Bahnlinie

6 五常, 1-02, Wuchang, Kreis , heute Kreisfreie Stadt 県級市 der Bezirksfreien Stadt 地級市 Harbin

7 石井四郎, 1-02, 1-09, 2-02, 2-03, 3-2-4, Ishii Shirô, 1892-1959; Generalleutnant in der Einheit 731, verantwortlich für bakteriologische Experimente und Menschenversuche.

8 関東,1-02, 1-05, 1-09, 1-12, 1-16, 1-21, 1-23, 2-02, 2-03, 2-13, 2-14, 2-15, 3-1-1, 3-1-3, 3-1-4, 3-2-2, 3-2-4, 4-1-08, 4-2-09, 4-2-10, 4-2-11, 4-2-12, 4-2-13, 5-4-16, 5-4-21, 5-4-25, 5-5-27, 5-5-28, 5-6, Guandong, alte Provinz

9 石井四郎, 1-02, 1-09, 2-02, 2-03, 3-2-4, Ishii Shirô, 1892-1959; Generalleutnant in der Einheit 731, verantwortlich für bakteriologische Experimente und Menschenversuche.

10 田村良雄, 1-02*Tamura Yoshio, Obergefreiter (=篠塚良雄 Shinozuka Yoshio, Mitarbeiter im Film Riben Guizi))

11 柄沢, 1-02, Ezawa

12 長島次郎, 1-02, Nagajima Jirô, 柄沢班の雇員

13 田部井,1-02, Tabei

14 玉井, 1-02, Tamai, 田部井班の雇員

15 長島次郎, 1-02, Nagajima Jirô, 柄沢班の雇員

16 奥寺, 1-02, Okudera, 柄沢班の十年組と言われる技手候補の奥寺雇員