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その後

中国に対する血腥い侵略戦争の歴史的な一つの幕引きでもあるこの裁判は,潘陽1,太原2の二ヵ所で行われ,各々二回,計四回で終わった.

特に太原の法廷では,敗戦後も閻錫山3軍に身を投じて革命軍と戦った,日本軍の将校たちを中心とする裁判であったため,かれらは侵略の罪と反革命の二重の罪を問われ,刑もそれなりに重かった. [通算される判決前の勾留日数が,私たちより約五年少ない]

潘陽[軍人関係]裁判 八名昭和三十一年六月九日より十九日まで]

鈴木啓久4 陸軍中将[師団長] 禁固二0年 

藤田茂5 陸軍中将[師団長] 禁固一八年 

佐々真之助 陸軍中将[師団長] 禁固一六年 

上坂勝6 陸軍少将[旅団長] 禁固一八年 

長島勤7 陸軍少将[旅団長] 禁固一六年 

船木健二郎8 陸軍大佐[聯隊長] 禁固一四年 

榊原秀夫9 軍医少佐 禁固一三年 

鵜野晋太郎10 陸軍中尉 禁固一三年

太原[北京関係]裁判 一名昭和三十一年六月一十日より一十一日まで]

富永順太郎11 華北交通株式会社総裁室 禁固二0年 

太原[反革命関係]裁判 八名昭和三十一年六月一二日より二十日まで]

235城野宏12 陸軍中尉 禁固二0年 

相楽圭二13 陸軍大尉 禁固一八年 

菊地修一14 陸軍大尉 禁固一八年 

永富博之15 軍曹 禁固一五年 

大野泰治16 県参事官 禁固一三年 

笠実17 県顧問 禁固一一年 

神野久吉18 県警務指導員 禁固八年

潘陽19[満洲国]関係裁判 二八名昭和三十一年七月一日より二十日まで]

計四十五名であった.判決後北京方面の見学を終わって,全員撫順戦犯管理所に集結され,新しい学習委員会を作り,管理所長金源少佐,専属指導員崔仁杰中尉の指導の下で学習にいそしんだ.

学習は主として「政治経済学[資本論の要約]」「実践論」「矛盾諭」「人民内部の矛盾を正しく処理する問題について」その他新聞に載った中国幹部の報告書,世界情勢等について,これを日常の具体的行動や思想錯誤に結びつけ,時間をかけて討論するという方法で進められた.

受刑者は,次々と刑期満了あるいは減刑による釈放で帰国した.そして昭和三十九年四月九日斉藤美夫,富永順太郎,城野宏の三名の帰国を最後に全員釈放されたのであった.


昭和三十四年十二月,私は岐部,長島,溝口の三氏とともに釈放された.

この日講堂には日本人戦犯,中国人戦犯が全員出席していた.私が釈放の宣告を受け,感想を述べるよう求められた時,中国人戦犯の中から溥傑20さんがつかつか出てきて,私と並んでマイクの前に立った. 溥傑さんは六尺豊かな兄の溥儀皇帝とはまるで違い,とても小柄な人だった.私はいつもこんな時に思いおこす,あの肇州県文化村の老婆の告訴文のことを話して罪を詑びた.私は心から236中国人民に感謝しお礼を述べた.そして

「帰国後は必ず戦争に反対し,平和を守り,日中友好のために闘います」

と誓った. これは私が殺害した中国人民と,そのお母さんたちに対する誓いでもあったのである. 溥傑さんは私の言葉を一語一語ていねいに通釈してくれた. ところが私の感想の発表が終わると同時に,多くの中国人戦犯が金源少佐に発言を求め,感情をこめていろんなことを述べはじめた. むずかしい中国語を使うので私にはなんのことかよくわからないのである.すると最後に近く,席に帰っていた溥傑さんが発言を求め,私にわかるような中国語でこんなことを言った.

「私たちは今まで,日本人戦犯は資本主義社会に帰って行くのだから,また人を殺したといっても敵国人を殺したのだから,日本の人々は誰もとがめだてしないだろう.その上私たちのような売国奴でも,民族の裏切者でもないのだから,私たちとは立場も違い,反省も決意も違うものとばかり思っていた」

「ところが今日島村さんの話を聞いて,全く私たちと同じ反省をしているばかりでなく,私たちよりもずっと深刻に反省し,将来に対しても固い決意を持たれていることを知った.私たちは一同深い感銘を覚えるとともに,今後一層学習にはげみ,一日も早く真人間となるよう努力する決意である」

と,自分自身の感想とも,みんなの発言の総括ともつかぬことを言ってくれた.

237私たち四人はその日のうちに撫順を発った.例の大門で別れを告げた時,金源少佐は私の手を握って

島村さん,あなたは個人英雄主義に注意しなさいね」

と言ってくれた.

 

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1 Pangyang, Provinz, siehe Dongsan

2 Taiyuan, Hauptstadt der Provinz Shanxi 山西, Gefangenen- und Umerziehungslager
3 Yen Hsi-shan (Hanyu Pinyin: Yán Xíshān; Wade-Giles: Yen Hsi-shan), 1883- 1960; Warlord in der Shanxi-Provinz, der nach 1945 auf nationalchinesischer Seite kämpfte.
4 Suzuki Hiraku, Generalleutnant, früherer Kommandeur der 117. Division, 1956 in Shenyang zu 20 Jahren verurteilt
5 Fujita Shigeru, 1889-1980, Generalmajor der 59. Armee, 1956 in Shenyang zu 18 Jahren verurteilt, 1958 entlassen, nach der Rückkehr erster Vorsitzender des Vereins der China-Heimkehrer (bis 1980).
6 Uezaka Masaru, 陸軍少将, im Juni 1956 in Shenyang zu 18 Jahren verurteilt
7 Nagashima Tsutomu, 陸軍少将, in Shenyang verurteilt
8 Funagi Kenjirô (eigentlich 健次郎), 1956 in Shenyang zu 14 Jahren verurteilt
9 Sakakibara Hideo, 軍医少佐, in Shenyang verurteilt
10 Uno Shintarô, Oberleutnant, 1956 in Shenyang zu 13 Jahren verurteilt, 1958 entlassen; hat 1991 zweibändige Autobiographie veröffentlicht.
11 Tominaga Juntarô, 華北交通株式会社総裁室, in Taiyuan zu 20 Jahren verurteilt, im April 1964 entlassen, 1969 gestorben
12 Jôno Hiroshi, 陸軍中尉, in Taiyuan zu 18 Jahren verurteilt, im März 1964 entlassen, 1985 gestorben
13 Sagara Keiji, 陸軍大尉, in Taiyuan verurteilt
14 Kikuchi Shûichi, 陸軍大尉, in Taiyuan verurteilt
15 Nagatomi Hiroyuki, Feldwebel, in Taiyuan verurteilt
16 Ôno Taiji, 県参事官, in Taiyuan zu 13 Jahren verurteilt, im Sept. 1963 entlassenKasa Minoru, 県顧問, 1956 in Taiyuan zu 11 Jahren verurteilt, im Dez.1961 entlassen
17 Kasa Minoru, 県顧問, 1956 in Taiyuan zu 11 Jahren verurteilt, im Dez.1961 entlassen

18 Kanno Hisakichi, 県警務指導員, im Juni 1956 in Taiyuan zu acht Jahren verurteilt
19 Pangyang, Provinz, siehe Dongsan
20 Pu Jie, jüngerer Bruder von Pu Yi