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潘陽1裁判

翌日私たち二十七名は,宿舎のすぐ前にある豪勢な法廷に呼び出され,全員起訴の宣告を受けた.その日私たちは新中国服に着替え,宿舎の前に勢揃いしてから,元総務庁次長古海忠之2さんを先頭に[元総務長官武部六蔵3さんは病気で倒れていたので,別室で病床裁判を受けていた]一列に並んで法廷の後ろの隅から入って行った.赤色の厚い絨氈を敷きつめた広い法廷の後ろ半分と二階いっぱいに,傍聴に来ている中国人がぎっしり詰まっていて,傍を通る私たちの顔を,敵意に満ちた眼で見つめていた.その眼とかちあうと,私は思わず眼を伏せた.

少年の頃だった. 郷里高知4の刑務所前を通りかかった時,今裁判所で死刑の判決を受けたばかりだという強盗殺人犯が,沿道の人々の冷たい視線に囲まれながら,深く編笠をかぶって刑務所の門をくぐる所を見たことがあった.ふとそれを思い出した私は

「あ~あ,とうとう思っても見なかった大罪人になり下が ってしまったのか」

と情けなかった. 満堂の視線に追われながら私たちは,傍聴席についた.記録映画でも撮っているのかライトが私たちの動きを離さず,撮映機を持った人々が私たちの前後を走り回っていた.

やがて人々の動きもにぶくなり,法廷は咳(せき)一つ聞こえない静けさにもどった. 私たちの席の219ななめ前,ちょうど法廷の真中に当る所に,マイクをたくさん取りつけた被告台があった. その被告台を取り囲むように二メートルくらいの間隔で無腰の兵隊が不動の姿勢で立っていた.だいぶ時間がたったような気がした. 突然誰かが

「起立ッ!」

と号令をかけた. みんないっせいに立ち上がると,一段と高い正面[私たちからは左上]の壇の上に,最高人民法院特別軍事法廷の裁判官の一団と,それをはさむように左右の一段下に,検察官の一団と,弁護士の一団が入廷して着席した.検察官の起訴状の朗読はあったが,求刑はなかった.

それから私は一週間近く,ほとんど何もしないでごろごろしていた.法廷では一日に二人くらいづつあの被告台に立たされて,厳粛に裁かれて いたのである.

「立派な認罪態度とは,心から死刑を要求することである 」

考えることは毎日このことばかりである.しかし寛大政策の発表では,「それぞれ寛大な刑を科する」となっている.

「寛大にと言えばたぶん死刑はないということだろう.それがわかっていて死刑を要求するなんて,はたして真面目な態度と言えるだろうか」

これはなんと言っても,寛大政策を信じない態度である.それでもよいだろうか. 死ぬのは誰だって恐いと5中尉は言った.私だって恐くて仕方がない. それなのに死刑を要求する. 私はまだ,「不惜身命」とか,「死を鴻毛の軽きに」という,虚勢の迷路から抜け切っていないのではなかろ220うか. それにこの場合は「死刑を要求して軽罰を願う」ことにもなりかねないのである. まことにきたないことだ. だったら正直に軽罰を願うか. いや,それだけはとてもできぬことだ.ではいっそのこと

「必ず平和のために闘います」

と誓おうか. しかしこれは刑がきまり,余生があるとわかった時の言葉である.

いろんな迷いが頭の中を通り過ぎる.しかし私はそのたびに

「犯した罪は万死に価する.ほんとうにそう思うんだった ら,こんな迷いはないはずだ.中国の政策がどうであろうと,素直に死刑を要求すればよいではないか.これを芝居ととられようが,いんちきと言 われようが,そんなことはどうだっていいじゃあないか」

そうだ,それが正しい.これこそが自分に嘘のない態度だ. そうしよう,それ以外の道はないと決心して落ちついた. だから心の中にいろんな悩みも去来はしたが,撫順6を出てから の私の行動は,常にその方向に踏み出していたのであった.

七日目の朝,崔中尉が入っ てきた.

「君の裁判はたぶん明日の午後になるだろう.陳述を求められるだろうから準備しておいた方がいいだろう」

と知らせてくれた.無雑作にベットに腰をおろして

古海の態度は実に立派だった.さすがに総務庁次長をしただけあって,実にしっかりしている」

221と絶讃した. 私は「どんな態度でしたか?」「どんなことを言いましたか」 と,喉から手が出るほど聞きたかったが,口に出すことはしなかった.

だがだいたいのことは察しがついた.あの暴露大会の時,古海さんは 「いっさいの責任は私にある」という 態度をありありと示していたからである.

「各省から来ている傍聴席の人々も,君たちの態度を実に 熱心に見守っているよ」

崔中尉は何気 ないふうに話題を変えた.

「ええッ,あの人たちは各省から来ているのですか?」

私は眼を丸くした.

「そうだよ.あの人たちは,帰ったら君たちの態度を,逐 一省民に報告しなけりゃあならないんだからね」

私がまだ驚いた顔を消さないでいると

島村はまだ自分の犯した罪の重大性を認識していないようだね.六億の中国人民は,今,重大な関心をもってこの裁判を見守っているんだよ.法廷の状況や君たちの言葉の一つ一つは,毎日ラジオで放送されているんだ」

「君たちの裁判の記録映画も撮っているだろう.あれを中央政府はこれから全国で映写して,人民に納得してもらわなければならないんだ.大変なことだよ」

222「君たちの裁判をいつやるかについても,中央政府はずいぶんと苦心したんだ.ソ連から移管された当時にでもやって見たまえ.それこそみんな死刑だよ.そうしないことには人民が承知しなかっただろう」

私はまたしてもどすんと背中を叩かれた気がした.

「僕は何も大げさなことを言っているんではないよ.君も覚えているだろう.君たちが乗ってきた汽車の窓硝子は,全部新聞紙で外から見えないようにしてあっただろう.汽車がどの駅で停まっても,すぐ歩硝がとび出して厳重に警戒していただろう.そうそう,君たちは 新京の街で人影一人も見なかったはずだ.撫順の駅についた時も,駅の周囲から管理所までの道を,きわめて厳重に警戒していただ ろう.あれはだねえ,君たちを人民が襲う危険性が大いにあったからなんだよ」

と言ってから,何かを思い出したようにそそくさと出て行ってしまった.私は崔中尉の靴音が遠ざかるのをぼんやりと聞きながら

「そうだ,三年前,明日の裁判にいっさいを賭けて,自殺を思いとどまった俺じゃあないか」と思った.


とうとう裁かれる日がやってきた.

今日は私はただ一人先日通った道を通って,被告席まで行かなければならなかった.私が法廷の隅に姿を現わすと,傍聴席の何千という眼がいっせいに私に集中した. 私はとても眼をあわす勇気223はなかった. しかしその怒りと恨みの視線の矢が,うつむいて歩く私の頬にひりひりと刺さって来るのである. 「悪いことをした」と自覚する者のみが感ずる恐怖の視線である. 千二百万の同胞を殺害された恨み,長年にわたって占領され,侮辱され,迫害され続けてきた「民族の怒り」の視線である. 被告席にただ一人ぽつんと座っていても,この視線は私の背中を射続けていた. こんな眼の中で私はしごく自然に

「そうだ!ほんとうに私は生きる資格のない人間なんだ」

「罪におののく自分が,人民の怒りの前に恐れおののく, 当然のことだ.これを恐れないとしたら人間ではなかろう」

「すべてをこの恐れおののく人間らしい感情から出発しよ う.それでよいのだ.悪いことを悪いと感じ,恐いと感ずる当り前の人間から出発しよう」

私はこんなふうに思いながら,膝の上にきちんと揃えた十本の指を見た.もう虚勢ではなかろうかとか,恥ずかしいとかいう盲念妄念*消しとんでいた .

やがて私は被告席に立たされ,裁判官から型通りの訊問を受けた.私は不思議に落ちついていた. 一つ一つを聞きわけ,ゆっくりと考えて答える事ができた. ライトは私を捕えて離さなかった. 映写機を持った数人が近よったり離れたりしていた.

「起訴の事実に相違ないか?」

「相違ありません」

224「起訴の事実について何か意見はないか?」

「ありません.ただここに起訴されている事実は,私が十 一年間に犯した罪のほんの一部に過ぎません」

「自分が犯した罪行について,今どのように思っているか ?」

崔中尉が咋日言ってくれたのはここだと思った. 私は生唾を一つぐっと飲み込んでから,通訳が困らないようにと,ゆっくりゆっくりと話しはじめた.

一九三九年[昭和十四年]私は 三江 依蘭県の共産党を弾圧しました.私はその時自ら現地に行って弾圧を指揮しました.」

「私が現地についた時は,すでに依蘭街の警察署 の薄暗い留置場は,無実の罪に問われた平和な人々でいっぱいになっていました.私はその中に肩で風を切って入って行きました.そしてもっとき つく拷問しろ!どんな方法でもよい.徹底的に絞り上げて泥を吐かせろと命じました」

「たちまち依蘭の警察署からは,いきり立った警察官の怒号,容赦なく打ちおろす鞭の音,苦しみもだえる被害者のうめきと絶叫が,門前を通る通行人にも聞こえるほどでありました.この声は必ず,心配の余りひそかに様子を見に来ておられた家族の方々にも聞こえたに違いありません.夫の悲鳴,父の絶叫を聞いた家族の方々の心情は,まさに断腸の思いであったに違いありません」

「しかるに私はこの苦痛の絶叫を,平然として聞いていました.いやむしろ小気味よいとさえ思って聞いておりました.私はこの事件の拷問だけでも,四人の方々の尊い命を奪っております.225しかし私は豚か犬が死んだくらいにしか思っておりませんでした」

「私は昨年長男の死を聞きました.妻からの手紙を手にした日には,運動場の片隅に行って人知れず泣いた私でありました」

ここまで言った時急に声がつまり,涙が頬を伝って流れはじめた. 「いけない.自分の子供の死に」と思ったが,どうすることもできない. 私はポケットからハンカチを取り出し鼻水を拭いた.そして「いいんだ,これが私の実力なんだ」と思い なおした.

「私は鬼でありました.自分の子供の死には涙を流して悲しむのに,他人(ひと)の子供の死には涙一滴流さない鬼でありました.殺害した人々には必ず両親があり,最愛の妻があり,可愛いい子供さんがいるということは明々白々なことなのに,私はこんな簡単な真理にも気がつかなかった鬼でありました」

また新しい涙が滂沱(ぼうだ)として流れはじめた. 私はまた急いでハンカチを取り出さなければならなかった.

「帝国主義の野心に満ち満ちた私は,平和に暮している中国の人々を殺害しても,侮辱しても,圧迫しても,財宝を奪っても,それが自分の立身出世につながり,日本帝国主義の利益につながりさえすれば ,なんのとがめも感じない人面獣身の鬼でありました.これが侵略者としての私の本質であり,同時に日本帝国主義者の本質であったのであります.」

「私は今やっと,中国人民の長年にわたる温かい,そして辛抱強いご指導によりまして,226自分自身の本質を知ることが出来ました.私は今,心の底から,私の十一年間にわたって犯した数々の侵略の罪を悔悟しております .そして心から罪万死に価すると感じております.生きる資格のない鬼だと思っております.そしてどうか………」

と言いかけて,二,三歩後退し,絨氈の上に両手をついた.ふんわりとした絨氈の温かい感触が妙に掌(でのひら)に残った.

「裁判長さん!どうかこの私を厳罰に処して下さい」

と言って深々と頭を下げた.そして急いで後ろの傍聴席の方に向きなおり「中国人民の皆さん!………」

と叫んだ. 厳罰を要求しようと思ったのである.ばたばたと一番近くの歩哨が走り寄って,私の発言を制した. 私が再び被告台に立った時裁判長が

「意見はすべて本官に申し述べなさい」

と命じた.


これが私のせいいっぱいだった.何の悔いも残らなかった. どういう判決になろうと,中国人民は私の罪の認識と罪の深さに応じた決定をするだろう.

それから五日ほどして第三回目の公判があった.その時は全員出廷して一人一人被告台に立ち,最後の陳述を行った. それが終わると弁護士の弁論があった. 私の弁護士は

227「本来特務科長は警務庁長の補佐役なので,責任はむしろ 庁長にある.その点充分斟酌してほしい」の一点 にしぼって弁護してくれた.

ここにきた時配布した起訴状には,検察官が私たち一人一人に対して,どれだけの求刑をしているかについては,何も書いてなかった.たぶん前もって知らせるのはまずいと考え,わざと抜いたのだろうと思っていたのだが,その後もいっこうに求刑しないのである. とうとう私たちはそのことを知らないまま,最後の日を迎えたのである.


昭和三十一年七月二十日

その日は一生忘れることのできない日となった.私たち二十七名は,三列に並んで,水を打ったように静まり返った法廷の真中に立たされた. 正面の一段高い所には裁判長を中心に三人の裁判官が,右前には検察官の一団が,左前には弁護団の一団が,いずれも直立不動の姿勢で立っていた.私たちの後には全国から派遣されて来ている各省の代表が,ぎっしりつめかけていた.

やがてその静寂を破って裁判長の判決文の朗読がはじまった.日本語の訳文もあわせて読み上げられるので二百頁に余るものである. 元総務庁長官武部六蔵7さんから始まって二十八名の罪状は,だいたい起訴状と同じものであった. 私たちは三時間余も直立不動の姿勢で聞いていた.最初の間は緊張そのもので一字一句聞き逃すまいと耳を澄ませていた.

一時間たった. まだ八名くらいしか終わっていない.足がだんだん痛みだした. 一時間半もする228と足が棒のようになってきた.

「殺害された中国人民のことを考えて見ろ!これしきのことがなんだ」

何回も心で叱っていた.しかし足はすでに知覚を失ってしまっていた二時間半たった頃だった. 私の真後ろに立っていた元憲兵中佐堀口政雄8さん[元来病弱な人だった]が,多分脳貧血でも起こしたのであろう,私と鹿毛繁太9[元錦州10市警察局警務課長]さんの間に倒れかかってきた.私もともに倒れる所だったがやっと踏み止まってこらえた. わずかに肩を張って支えながら歩哨の方を見た. こちらを見ているが動くわけにはゆかないのか,依然として直立不動の姿勢を崩さない.

判決文は進んでいる.

私の足は堀口さんの重みまで支える力はもうない. 頭までボーッとなりはじめた.その時やっと隊長と歩哨の二人が駆け寄って堀口さんをどこかに連れて行ってくれた. だがそれからの私の足は一層つらかった.

各人の罪状を読み終わった裁判長は一段と声を張り上げ

「以上述べた所を総合してみれば,本件各被告人は日本帝国主義がわが国を侵略した戦争の期間に,日本帝国主義のわが国に対する侵略政策を遂行し,日本帝国主義のわが国に対する侵略戦争を支援し,国際法の規範と人道の原則を踏みにじり,いずれも重大な罪を犯した日本戦争犯罪者である.もともと厳罰に処すべきが当然であるが,しかし本法廷は各被告人が勾留期間中,程度の差こそあれ悔悟の態度を現わしているこ とを考慮に入れ,又各被告人の犯罪の具体的な情状に従い,229ここに日本が中国を侵略した戦争中における戦争犯罪者で目下勾留されているものの処理に関する中華人民共和国全国人民代表大会常務委員会の決定の精神とその第一条第二項の決定にもとづき,各被告人にたいし,それぞれ次の通り判決をくだすものである.」

「一,被告人武部六蔵11禁固二0年に処する.」

「二,被告人古海忠之12禁固一八年に処する.」

「三,被告人斉藤美夫13禁固二0年に処する.」

「四,被告人中井久二14禁固一八年に処する.」

「五,被告人三宅秀也15禁固一八年に処する.」

「六,被告人横山光彦16禁固一六年に処する.」

「七,被告人杉原一策17禁固一八年に処する.」

「八,被告人佐古龍祐18禁固一八年に処する.」

「九,被告人原弘志19固二八年に処する.」

「一0,被告人岐部与平20固一五年に処する.」

「一一,被告人今吉均21禁固一六年に処する.」

「一二,被告人宇津木孟雄22禁固二三年に処する.」

「一三,被告人田井久次郎23禁固一六年に処する.」

「一四,被告人木村光明24禁固一五年に処する.」

230「一五,被告人島村三郎25禁固一五年 に処する.」

「一六,被告人鹿毛繁太26禁固一五年に処する.」

「一七,被告人築谷章三27禁固一五年に処する.」

「一八,被告人吉房虎雄28禁固一四年に処する.」

「一九,被告人柏葉勇一29禁固一五年に処する.」

「二0,被告人藤原広之進30禁固一四年に処する.」

「二一,被告人上坪鉄一31禁固一二年に処する.」

「二二,被告人蜂須賀重雄32禁固一二年に処する.」

「二三,被告人堀口政雄33禁固一二年に処する.」

「二四,被告人野崎茂作34禁固一四年に処する.」

「二五,被告人溝口義夫35禁固一五年に処する.」

「二六,被告人志村行雄36禁固二一年に処する.」

「二七,被告人小林喜一37禁固一二年に処する.」

「二八,被告人西永彰治38禁固二一年に処する.」

「以上各被告人の刑期は,判決の日から起算し,判決前の 勾留日数一日は刑期一日として算入すする*する*.本判決は最終判決である.一九五六年七月二十日

「中華人民共和国最高人民法院特別軍事法廷」

231「審判長  賈潜40 審判員 揚顕之41 審判員軍法上校 王許生42

と読み上げて結んだ.私は嬉しかった. 足の痛みもいっぺんに吹き飛んでいた. 法廷を出るまでは神妙な顔をしていたが,外に出て澄み切った青空を見上げた時は,はじめて「与えられた命」に対する喜びが腹の底からこみ上げてきた. と同時にまた中国人民が示してくれた「寛大政策の重み」が,ずしんと胸にこたえた.

私は今,生を与えられたのである.しかも中国人民は

「お前が真人間になるには,もう四年が必要だ」

と判定したのである.これからは戦争に反対し,平和を守る人間としての,不動の島村をつくるために,全力を上げて学習しなければならないと思った.

宿舎の階段を登る足も軽かった.

その夜久しぶりに, 金源少佐がにこにこ笑いながら入ってきた.

「どうですか.嬉しいですか」

金源少佐は崔中尉ほどには日本語がうまくなかった.だからそれだけ単万直入でわかり易いのである.

「長々とご指導有難うございました.おかげさまで生を与 えられました.これからは残された四年間を有効に,学習して,心の中の帝国主義を精算し,人間らしい人間になる覚悟であります」

と言って礼を述べた.

232「そうだね.努力して一日も早く第六項[期限前釈放]をかち取ることだね」

と言ってから

「人間らしい人間になるということはだねえ.結局 "事物を道理にかなって処理する人間になる"ということなんだ.他国を侵略することも,人を殺すこと も道理にかなわぬことなんだ.少し常識のある者なら誰にでもわかることで,何もそう難かしく考える必要はないんだよ」

「中国人民は決して嘘は言わない.嘘を言うことは道理にかなったことではないからね.まあ信頼して努力することだね」

と言って帰って行った.

その夜私は,消灯時間が過ぎても椅子に座っていろんな思いに耽っていた.侵略以来の大きな出来事が何の順序もなく,次から次へと去来するのである. しかもその一つの出来事が消えて行くたびに

「よくもまあ!こうして生きていられたもんだ」

とぞっとするのである.いや! まったく不思議にさえ思うのである. 侵略時代のことはさて置いても,中国に移管されてからも,私は反抗の限りを尽してきた. それなのに私は今生きているのである.もう四年もすれば日本に帰すと今日決まったのである.

これはいったい何ということか?

底の知れない寛恕とでもいうべきか.想像を絶した心の広さとでもいうべきか. 満身にみなぎる233プロレタリア人道主義の偉大さとでもいうべきか. とにかく私の命,私の余生は

「中国人民から与えられた以外の何物でもない」

のである. 私は今やっと,その実感がしみじみと腹の底から湧き上がってきたのであった.


翌日十時頃,私たちは来た時と同じバスに乗せられて,三百人の待っている撫順への帰途についた. 遠いどこかの監獄でなくてよかったと思うと嬉しかった.

今日も雲一つない空だった.バスは旧奉天駅の前にあるロータリーを回って,馬車や人力車の姿がすっかり消えてしまった繁華街を,思いっきり走り抜けて行った.城外に出ると左手の方に,昔張学良が作ったという白い大きな第二奉天駅が見えた. 崔中尉が大きな声で

「近日中に君たちの家族が面会に来る」

と伝えた. 私たちはいっせいに拍手した.来た時とは違って生気のみなぎる私たちの顔に,まさにとめることのできない笑いがこみ上げてきたのであった.

 

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1 Pangyang, Provinz, siehe Dongsan
2 Furumi Tadayuki --- (1900-1983), gehörte als stellvertretender Regierungschef der von den Japanern eingesetzten Regierung der Mandschurei zu den ranghöchsten Gefangenen
3 Takebe Rokuzô, früherer 総務長官, der ranghöchste Gefangene, im Juni 1956 in Shenyang zu 20 Jahren verurteilt, wegen Krankheit 1956, kurz nach dem Prozeß, entlassen.
4 Kôchi, japanische Präfektur
5 Cui Renjie, Oberleutnant, Dolmetscher
6 Fushun, Stadt in Liaoning, Nordostchina, Bergwerke 炭坑; Ort der späteren Kriegsverbrecherverwahranstalt 戦犯管理所.
7 Takebe Rokuzô, früherer 総務長官, der ranghöchste Gefangene, im Juni 1956 in Shenyang zu 20 Jahren verurteilt, wegen Krankheit 1956, kurz nach dem Prozeß, entlassen.
8 Horiguchi Masao, Angehöriger der Geheimpolizei
9 Kage Shigeta, früherer 警察局警務課長 von Jinzhou
10 Jinzhou, Industriestadt in der Provinz Liaoning
11 Takebe Rokuzô, früherer 総務長官, der ranghöchste Gefangene, im Juni 1956 in Shenyang zu 20 Jahren verurteilt, wegen Krankheit 1956, kurz nach dem Prozeß, entlassen.
12 Furumi Tadayuki --- (1900-1983), gehörte als stellvertretender Regierungschef der von den Japanern eingesetzten Regierung der Mandschurei zu den ranghöchsten Gefangenen
13 Saitô Yoshio, 1890 geb., Generalmajor, im Juni 1956 inShenyang zu 20 Jahren verurteilt, im März 1964 entlassen, 1973 gest.; posthum (1997 von der Tochter herausgegeben)『飛びゆく雲 最後の戦犯は語る』
14 Nakai Hisaji, in Shenyang angeklagt, zu 18 Jahren verurteilt, Sept. 1963 entlassen, 1974 gest.
15 Miyake Hidenari, Leiter des 警務庁 in Fengtian; zu 18 Jahren verurteilt, im April 1963 entlassen

16 Yokoyama Mitsuhiko, Vorsitzender Richter 審判長 des 高等法院 in Harbin; im Juni 1956 in Shenyang zu 16 Jahren verurteilt, im Aug. 1961 entlassen; 『望郷 私は中国の戦犯だった』(1973)
17 Sugihara Kazunori, im Juni 1956 in Shenyang zu 18 Jahren verurteilt.
18 Sako Ryûsuke, im Juni 1956 in Shenyang zu 18 Jahren verurteilt, im August 1961 entlassen, 1971 gest.
19 Hara Hiroshi, im Juni 1956 in Shenyang zu 18 Jahren verurteilt, im Sept. 1959 entlassen
20 Kibe Yohei, im Juni 1956 in Shenyang zu 15 Jahren verurteilt, im Dez. 1959 entlassen, 1994 gest.
21 Imayoshi Kin, früherer 警務総局警務処長; im Juni 1956 in Shenyang zu 16 Jahren verurteilt, im August 1961 entlassen
22 Uzuki Takeo, im Juni 1956 in Shenyang zu 23 Jahren verurteilt
23 Takai Hisajirô, Angeklagter
24 Kimura Teruaki, Angeklagter
25 Shimamura Saburô, 副県長 von Baicheng und Zhaozhou (= Sh. Saburô); geb. 1908, Verwaltung Geheimpolizei; im Juni 1956 in Shenyang zu 15 Jahren verurteilt, im Dez. 1959 entlassen; Vorsitzender des Vereins der China-Heimkehrer (Chûren); 1976 gest.
26
Kage Shigeta, früherer 警察局警務課長 von Jinzhou
27 Tsukitani Shôzô, eigentlich 築谷章造, 156 in Shenyang zu 15 Jahren verurteilt, im Juli 1960 entlassen, 1995 gest.; Verfasser zweier autobiographischer Erinnerungen (1979 u. 1980)
29 Yoshifusa Torao, Oberstleutnant,  Angehöriger der Einheit 731, im Juni 1956 in Shenyang zu 14 Jahren verurteilt, im Mai  1957 entlassen, 1968 gest.
30 Kashiba Yûichi,  im Juni 1956 in Shenyang zu 15 Jahren verurteilt, im Juli 1960 entlassen, 1970 gest.
31 Fujiwara Hironoshin, Angeklagter
32 Kamitsubo Tetsukazu, Oberstleutnant, 憲兵隊長 von Jining bzw. des Stadtbezirks 街地区 Siping
33 Hachisuka Shigeo, Angeklagter
34 Horiguchi Masao, Angehöriger der Geheimpolizei
35 Nozaki Mosaku, 1956 in Shenyang zu 14 Jahren verurteilt, im Jan. 1960 entlassen

36 = 溝口嘉夫Mizoguchi Yoshio, s.o.
37 Shimura Yukio, 憲兵中佐
38 Kobayashi Kiichi, Major der Geheimpolizei von Fengtian
39 Nishinaga Shôji, Angeklagter

40 Gu (Jia) Qian, Vorsitzender Richter
41 Yang Xianzhi, Richter 審判員
42 Wang Husheng (Xusheng), Militärrichter 軍法上校