Springe direkt zu Inhalt

13

起訴状

昭和三十一年四月に入って間もない頃だった. 午後の運動をすませて帰ってくると,「重大な発表があるので,筆記用具を持ってスピーカーの前に集まりなさい」と看守がふれて回った.今年に入ってからもう何度も,昨年暮に取りつけられた廊下のスピーカーの下で,いろいろな注意を伝達されていた.

「重大発表」だというので若干異様な感もあった.誰もが帰国の発表じゃないかという,淡い期待を持っている様子だった. それはまたソ連1以来の悪い癖でもあったのである. 相当長い時間待たされた. 廊下に薄暗い電灯が灯り,普通なら夕食も終わる時間になってやっと金源少佐の元気な声が,スピーカーを通じて流れてきた.

「今日は皆の身分について,中華人民共和国全国人民代表大会常務委員会の決定を発表する.みなはよく聞いてこの決定を学習しなさい」と言って読みはじめた.

「目下わが国に勾留中の日本戦争犯罪者は,日本帝国主義のわが国に対する侵略戦争中に,国際法の準則と人道の原則を公然とふみにじり,わが国の人民に対して各種の犯罪行為を行い,わが国の人民にきわめて重大な損害をこうむらせた.かれらの行った犯罪行為からすれば,もともと厳罰に201処して然るべきところであるが,しかし,日本の降伏後十年らいの情勢の変化と現在おかれている状態を考慮し,ここ数年来の中日両国人民の友好関係の発展を考慮し,また,これら戦争犯罪者の大多数が勾留期間中に程度の差こそあれ改悛の情を示している事実を考慮し,これら戦争犯罪者に対してそれぞれ寛大政策にもとづいて処理することを決定する.ここに目下勾留中の戦争犯罪者に対する処理の原則とこれに関する事項を次の通り定める」

金源2少佐はゆっくりゆっくりとここまで読んで一息ついた. 今まで背を丸めて忙しそうに鉛筆を走らせていた一同は,ほっとした顔つきで鉛筆を置いた.十一年間待ちに待ったその言葉が,今やっと聞こえてきたのである. 張りつめていた心の糸が急にゆるんで,一瞬ボーッとなった私だった. 妻や子供の顔がにっと笑って,頭の中を走り抜けて消えた.

「一,主要でない日本戦争犯罪者,あるいは改悛の情がわりと著しい日本戦争犯罪者に対しては,寛大に処理し,起訴を免除することができる.」

「罪状の重い日本戦争犯罪者に対しては,各自の犯罪行為と,勾留期間中の態度に応じて,それぞれ寛大な刑を科する」

ことまで聞いた時私は「もう充分だ」と鉛筆を置いた. 金源少佐は続いて二項,三項,四項と裁判の手続きについて読み上げていたが,今の私にとっては,それはもうどうでもよいことだった.ただ最後の第六項

「六,刑を科せられた犯罪者が,受刑期間中の態度良好の場合は,刑期満了前にこれを釈放する202ことができる」

だけが,空ろな耳の底にかすかに残った. 金源少佐の発表は終わった. 大きな心の動揺に考えもろくろく纏まらないまま,私は就寝時間の九時まで討論会を司会しなければならなかった.

だがその夜の司会は難しかった.第一,学習委員会の人々はみんな不起訴確実の人々である. だから一千名中にわずかしかいない受刑者の心情なんか眼中にないのである. また私の組のほとんどの者も,これで「帰国は時間の問題」と受け取っているのである. まあ言って見れば,心は欣喜雀躍,すでに故郷に帰ってしまっているのである.

「釈放まで何日くらいかしら?」

そんな話をしたくてたまらない人々と

「俺はどっちだろう?寛大な刑と言ったってはっきりせんじゃあないか」

と心配している連中との話し合いである.みんな口先だけでは

「殺されるべき命を………」

と言う. それはもう助かったという前提で言っているのである.私はというと,まことにお話しにならないのである. 一昨年二十八年九月自殺を決意した時には

「無期でもいい.生きているということは,どんなにかありがたいことだろう」

としみじみ思った私である.自殺を思いとどまった時は「判決を待ってからでも遅くはない」と本気で考えた私である. 老婆の告訴文を読んだ時は,生きる資格はないと思った私である.また3203先生から学習組長を命ぜられた時は

「死刑にはなるまい.だが受刑者の学習を指導させられるだろう」

と覚悟していたのである.だから今日の発表は予定通りで,別に驚く必要もないはずである. しかるに私という人間はどうしたことか

「みんなと一緒に帰りたい」

のである. 鬼界が島に残される僧の俊寛にはなりたくないのである.

「討論より考える時間が欲しい」

このような私になっているのだった.


この発表があってから,私たちの生活環境はめまぐるしいほど急速に変化していった.発表の翌日,私たち十八名の者は佐官組から切り離され[九名づっの二組に分けられ],別棟で学習することになった.顔ぶれから見てもいずれ劣らぬ連中ばかりである.

「これが裁判組だ」

ということは誰も気がついたが,それを言い出す者はなかった.学習組長は,案の定私と同時期に組長になった溝口嘉夫4[元ハルピン地方検察庁検事]さんと私であった. 崔5中尉からは

「引き続いて寛大政策について討論しなさい」

という達しだった.しかし溝口さんと私は

204「どういう姿勢で裁判に臨むか」

について討論しておきたかった.しかし二人とも,「何も正式に裁判組だと申し渡されたわけではないので」というわけで遠慮することにした. 若い兵隊さんたちの部屋からも,佐官組の部屋からも,時おり朗らかな笑い声がもれてきていた.


裁判組の者があまり暗い顔をしているからか,それとも今のうちに進歩した若い人々と一緒に住ませ,かれらの生活態度を見習わせておくためか,まもなく私たち佐官組全員[裁判組も含めて]は解散させられ,若い兵隊さんの組に分配された.

こうなると私たちは閉口した.かれらの生活態度はとても厳しく,その上規律正しかった. 布団の畳み方が少しばかり角が立っていなくても,少しばかり時間がかかりすぎても,びしびし批判された. ぬいだ靴が少しばかり曲っていても,たちまち大声で指摘された.私は

「これじゃあまるで,旧軍隊そのままじゃあないか」

と思った. しかしそれを言う勇気も出ないほど思想的なへだたりを感じ,精神的にもたたきつけられていた.特に軍隊生活の経験のない私は,何をやらされてもうまくできなかった. 一生懸命やっているつもりなんだがどうにもならない.

「俺たちは今それどころではないんだ.静かに考える時間を与えてくれないか」

と言いたいんだが,私は批判と指摘の雨の中で,整頓,整頓できりきり舞をさせられていた.

205昭和三十一年六月二十一日,今日は私たち一千名のうち,約三分の一の三百余名の者に,不起訴の処分が言い渡される日であった.私たちは全員朝早くから勢揃いして,撫順6市内にある旧日本人女学校の講堂に出かけた.

講堂の裏庭にある白楊の古木は校いっぱいに緑の葉をつけ,六月の朝風にさらさらと音を立てていた.その下で私たち裁判組は別の隊に分けられた.

今日不起訴を言い渡されることがきまっている若い兵隊さんたちは,こらえきれない喜びを顔いっぱいにかみ殺し,今日の判決とは何の関係もない話に打ち興じていた.だが裁判組の私たちは隅の方で,ただ黙々として立っていた. 私はそんな自分を叱ってみた.

「多くのものが許されて帰国するというのに,なんで喜んでやれないのか.こんなことで立派に裁判が受けられるのか」

と. だがやっぱりだめだった.いっこうに心がはずんでこないのである.

広い講堂の二階は,傍聴につめかけた中国の人々でいっぱいになっていた.私たち裁判組は一番後から入って最後列に座らされた. 心細いことこの上なしである. しばらくして

「一同起立ッ!」

の号令の下に検察官や赤十字の責任者たちが壇上に姿を現すと,急に厳粛な空気があたりを包み,しわぶき一つ聞こえない法廷になった.ただ映写機のライトだけが忙しそうに,壇上の人をとらえたり離したりしていた. 軍服姿の最高人民検察員張鼎承7代理王子平8検察官はおごそかな口調で

206「常務委員会の決定にもとづき以下の者の起訴を免じ,ただちに釈放することを宣告する」

と宣告して三百余名の人名を読み上げはじめた.呼ばれた者はみな「はいっ」と元気な返事をして立ち上がった. 読み終わった時,呼ばれた人々の間にはげしいざわめきがおこり,すすり泣きが全員を包んだ.するとライトがいっせいにその方に集中し,カメラマンが走り寄っていた. そのざわめきを制するかのように検察官が感想の発表を許した. 三百の手がいっせいに上がった.誰もが

「二度と銃をとり,中国の人々と戦うことはしません.死ぬべきでない人が死んで行った.この人々は幸せな社会をみることはできない.ところが,当然死ぬべき私たちが生きて国へ帰り,やがて身内の者と再会しようとしている」

これを思うと胸が引き裂かれるようだという者もあった.罪の事実を述べて泣き叫ぶ者もいた.

まさにこの広い講堂は感激のるつぼと化してしまった.

だが最後列にいる私たち二十七名の者だけは,この雰囲気に溶け込むことができず,蒼い顔を伏せて,ただ寒々と座り続けていた.

その場で赤十字の方に身柄を引きとられたこれらの人々は,翌朝国友学習委員に涙ながらの惜別の言葉を残して,新装の姿も軽々しく,八の字に開いた戦犯管理所大門を出て行った.

「第二回目の釈放もすぐだそうだ」

若い人々は公然とこんな話を交わして浮き浮きしていた.だが夜の討論となるといつもの様にはげしかった. というよりむしろ激情的だった. 涙を流して友人の釈放を喜び「自分は死刑にされるベき罪を207犯した人間だ」と懺悔するのである.

私たちは,若い人々といっしょになったのは六年目だった.そのせいかも知れないが,どうも彼らの動きが額面通りに受けとれないのである. 何かこう「もうすぐ釈放」を予定して,何かを競い合っているように見えてしかたがないのである.予定するのが悪いというのではない. しかし予定の嬉しさの中から,あんな激情的な「懺悔の涙」が出るのだろうかと,不思議でならないのである.

第一回釈放組が出発した翌日の夜だったと思う.学習委員会の方から,「裁判の厳粛性について」というテーマで討論するよう指令された. 若い人々は相変らず涙を流してその厳粛性に感動したと言い,友人の釈放を喜び,自己の罪を懺悔するのである.その発言の一つ一つについては何の矛盾も感じないのだが,厳粛に対する感じ方がみんなと違っているせいか,私には厳粛と喜びが統一しないのである.

島村,お前どうなんだ」

と学習組長が私の発言を促した.私はしばらくとまどった.

「なんでも感じたことを話してみろよ」

と,生活組長が重ねて催促した.私はとうとう話したくない話をしなければならなくなった.

「皆さんも御承知のように,私は近く裁判を受ける者です.こうなったのは皆さんより罪も重く,思想も低いからだと自覚しています」

208私は相変らず,卑怯な前置きをひとくさり並ベておいてから

「しかし私は一昨日の法廷では,その厳粛さに強く打たれ,来るべき裁判を思い,胸が凍る思いがしました.だから私には皆さんのように,涙を流して友人の釈放を喜ぶ情感は出てこなかったのです.私は皆さんの発言が不思議でなりません.皆さんは何かこう近き将来の帰国を予定した喜びの涙の中で,厳粛とか,悔恨とかいう言葉を弄んでいるのではありませんか」

と言ってしまった.私は当然万雷の批判が襲いかかってくるものと覚悟していた. だが誰も発言しない. 生活組長と何か打ち合わせていた学習組長は

「討論はこれで打ち切る」

と宣して出て行ってしまった.

私の発言はその夜のうちに,学習委員会の方で問題になったようだった.二十分もしないうちに小川一朗9委員が私を呼び出した. 私は今一度私の発言の要旨を説明しなければならなかった.私の感触では「誰の発言が誤っているというのでもないが,こうも基盤の違った二つのグループを同室させ,同じテーマで討論させることが適当かどうか」

むしろ問題はその方にあるように受けとれた.


翌朝溝口嘉夫さんがやってきて,

「今,八木10さん[佐官組の学習委員]から話があったんだがねえ」

209と前置きして

「裁判も近いことだろうから,君らどっかに集まって,心構えについて話し合っておいた方がいいんじゃないか」

と言うんだが,どうするかと相談を持ちかけられた.今の私にとって必要なことはまさにそれだけだった. 私は言下に賛成した.

朝食後私たちは野外劇場前の広場の片隅に集り,転がっている石ころを弄びながら,そのことについて話し合った.だが誰も発言する者がいない. そこで私が

「当然死刑か厳罰を要求すべきだと思うんだが」

ときり出した. しかし誰も何も言わない.一人溝口さんが賛成しただけだった. みんなは寛大政策が打ち出され,「それぞれ寛大な刑を科する」と言っているのに,「そんな芝居じみたことを言うのはおかしい」と考えているのかも知れなかった.

集まってからまだ十分もたたないうちに看守がやってきて「君たちはすぐ荷物をまとめて講堂に集まりなさい」

と伝えた. 講堂に入って人員点呼を受けたら,須郷11元憲兵少佐が除かれた. 受刑するものとのみ思っていた須郷少佐が,中風に病んだ不自由な足も軽々と出て行く後姿を,私たちはたまらない羨望を込めて見送った.将官組の方からは古海忠之元総務庁次長,今吉均12元警務総局警務処長,三宅秀也13元奉天省警務庁長などの顔も見えていた.

210それから一時間もしないうちに私たち二十七名は,大きなバスに乗せられて撫順戦犯管理所を後にした. 親しかった人々に一言の挨拶もできず,家族たちへの伝言一つ頼みもせずに出発したのは淋しかった.永遠の別れになると思いこんでいたからである.

六月末の太陽は広い道路のアスファルトの上に,まばゆいばかりにさんさんと降り注いでいた. 大きな楡(にれ)の古木やネグンド楓(かえで)の黒ずんだ葉が,街道をはさんでギラギラと輝いていた.緑の風が開けっ放けしの窓からさらさらと流れ込んでくる. この道は今年の三月見学の時,四回も往復した潘陽への街道であるが,感懐はあの時とまるで違っていた

私たちはみんな黙りこくっていた.珍しい機械を積んだトラックとすれ違っても,美しく着飾った娘さんを積んだ大車[馬車]を追い抜いても,ちらつと横眼をくれるだけで顔も向けなかった.刑を受けたらもう撫順には帰ってこないだろう. どこか遠い省の監獄に入れられ,そこで強制労働をやらされるに違いないと信じ込んでいたのである.

車は名も知らない潘陽の街角を幾つも回って,とある赤煉瓦の建物の前に停まった. 労働者の宿舎らしいその家は南側に長い廊下があって,その廊下に入口を持つ十畳敷くらいの個室がいくつも並んでいた.私は二階の一番奥の,一つだけ南側に張り出した個室に入れられた. 部屋の中はがらんとしていて,机と椅子とベットが一個ずつ置いであった.


管理所では一度も食ったことのない上品な夕食をすませ,明るい電灯の下で考えるともなく,211今日一日のめまぐるしい出来事に思いを馳せていた. それにしても,広場での話し合い[裁判を受ける態度]だけは結論を出しておきたかったと惜しまれてならなかった. しばらくすると崔中尉がにこにこしながら入ってきた. 手には白い表紙の百頁もありそうな本を持っていた.

「何を考えているのかね」

崔中尉は気さくにベットに腰をかけてこう聞いた.

「裁判を受ける姿勢について考えていました」

私が正直に答えると,

「まあそれにかけなさい」

と椅子を指さしながら

「姿勢って何のことかね?」

「死刑を要求すべきだと思いまして………」

と答えた. だが中尉はそれがまるで聞こえなかったとでもいうふうに,手の中の本を私に渡して

「まあいいでしょう.人間誰だって死ぬのは恐いもんだよ」

何日か前撫順で「共産党員だって,不当な理由で殺されるのはいやだよ」と言っていたが,今日はこう言っただけで

「ゆっくりこれを読んで見なさい.もし納得出来ぬ箇所があったら僕を呼びなさい」

と言い捨てると,いつに似ずしごく事務的な態度で出て行ってしまった.私は中尉のその212「長居は無用」といった態度の中から,ちらつと

「言ってはいけないことを言ったのかな」

と思った. 本の表紙には大きな活字で,「起訴状」と書いであった. 私はびっくりした. まさか百頁にも近い罪状とは思っても見なかったからである. だが開けて見てほっとした.これは元総務長官武部六蔵14さんを筆頭に,私たち二十八名の起訴状の綴りだった.私の名前は十五番目にあった. 他の人々は相当たくさん起訴されているのに,私のはわずかに一頁とちょっとで,しかも三江省の特高課長時代の一年三ヵ月の罪状だけしか起訴されていなかった.

「十五,被告人 島村三郎,男,一九0八年生れ,日本高知県出身,日本京都帝国大学経済学部卒業.」

「日本帝国主義がわが国を侵略した戦争の期間に,偽満洲国三江省警務庁特務課長兼地方保安局理事官,浜江15肇州16県副県長,警務総局特務処調査課長などの職についた.薦任一等.一九四五年九月二十六日に逮捕された.」

「偽満洲国三江省警務庁の保管文書-三警特秘発第九三七九号の記載,被害者韓自源夏文福ら三名と被告人が罪を犯した地方の住民王治林17王桂珍18ら五名,偽満洲国の警察官であった孟慶和19丁福山20ら五名および被告人の同僚であった坂田義政の証言,被告人が罪を犯した地方に於ける調査資料[調査尋問記録一五部]ならびに被告人の供述にもとづいて本院が調査した結果,被告人の担罪事実として証明された主なものは次のとおりである.」

213一九三五年一月から一九四0年四月まで,被告人は偽満洲国三江省警務庁特務科長兼地方保安局理事官として在職中,みずから陰謀計画にもっぱら従事するとともに,また庁長を補佐し,管下各県の警察,特務組織を指導して,中国共産党と抗日救国の活動家と平和的住民をほしいままに逮捕し,拷問し,惨殺した.」

一九三六年一月から十一月までの期間だけでも,わが国抗日救国家と平和的住民二九九五名を拉置逮捕した.そのうち十四名は殺害されており,二七三名は傀儡司法機関に送られている.この犯罪行為は,康徳六年[一九三九年]十二月被告人の捺印がある偽満洲国三江省警務庁の保管文書-三警特秘発第九三七九号「思想対策成果月報」の記載によって証明されており,また被害者夏文福,王式郷21ら三名と被害者の親族劉延玉22,李志珍23ら三名の告訴,地もとの住民王治林,王桂珍ら五名,偽満洲国の警察官であった孟慶和,丁福山ら五名および被告人の同僚であった坂田義政の証言ならびに調査資料[調査尋問記録一五部]によってもそれぞれ証明されている.被告人もまた供述の中であますところなくこれを承認している」

となっていた. 一番心配していた犯罪,自殺を決意してまで自供した肇州県の斬首事件については一言も触れてなかった.

「どうしたことだろう」

私は起訴状を膝の上に置いて考えはじめたがすぐやめた.

「そんなこと,どうだっていいじゃあないか.今大切なことは罪をどう認識し,どういう態度で214裁判に臨むか,それだけじゃあないか」

撫順を出てから雑多なことが頭を去来したものの,心の振りは次第に小さくなってきていた. 「裁かれる」という既定事実がそうさせたのだろう.


その夜はわりとぐっすり眠れた.若い人々と別れて一人で寝たからかも知れない. 眼を覚ました時はもう東窓のカーテンに,六月の朝日があかあかと照りつけていた. 十年ぶりの朝寝だった. 十一時頃になって

「弁護士が呼んでいる」

といって看守に呼び出された. 陳芽輝24という若い弁護士が,すぐ隣りにある煉瓦建の二階の一室で,愛相よく迎えてくれた.私をぷかぷかの新しい肘かけ椅子に座らせると

「どうですか」

と,挨拶とも質問ともつかぬことを言った.これでは答えようがない. どうしたわけか通訳もつれてきていないのである. 私はへたな中国語で弁護土さんも被害者の一人であるという見地から,中国を侵略した罪をていねいにお詑びした.だが弁護士はあっさりと受け流し

「やった事はもう取り返すことはできません.今の君としては深刻に反省し,立派な態度で裁判に臨むことだけです」

と言ってシガレットを一本くれた.すぐそれに火をつけるようマッチをすすめながら

215「私は中国人民から,君の弁護をしろと命令を受けています.君の犯罪については一応書類で知ってはいますが,とにかく書類だけでは真相がつかめないものです」

「遠慮は少しもいりません.僕に話しておいたら有利だと思うことを,何でもいいから素直に話して下さい」

と本論に入った. 私は最初から決心していたことなので躊躇(ちゅうちょ)せず

「申し上げることは何にもありません.先生の御親切は痛いほどよくわかりますが,私の犯した罪は死刑に価するものでありまして,私を有利にするようなそんな材料は,一つもありません」

と言って頭を下げた.私が警戒しているとでも思ったのか

「私は中国の法律で認められた弁護士なんですよ.君と話したことなんか,絶対に他言なんかいたしません.安心して話しなさい」

「どんな小さな事でもいいんです.およそ犯罪というものに弁護の余地のないという犯罪はありません.それは君が一番よく知っているはずです.それを心おきなく話してごらんなさい」

と,心やさしく説いてくれたが,私は黙っていた.口を開けば何を言い出すかわからないという不安があったからである. 弁護士は何回も同じことを言って口を割らせようとした. しかし私は前言を繰り返すだけで,一歩も話を進ませなかった.

その日はそれで別れたが,翌日また呼び出されて同じ問答をくり返えした.私は

「今こそ蟻の一穴だ.ここで弱根を吐いたら,それこそ堤全体が崩壊してしまう」

216と,その一穴を防ぐのに躍気*躍起*となっていたのである. 三回目だったように思う. 私が席につくといきなり

「君,特高課長という職はだねえ,特高警察の最高責任者なんですか.それとも警務庁長の補佐役なんですか.実際の運用はどんなふうにやっていたんですか.そこらあたりを詳しく話してみて下さい」

と聞いてきた. 私はそれを,これこそ蟻の一穴だと考えた.

「実は長い間,私は単なる補佐役なんだから,刑法上の責任はいっさい警務庁長にあると考えていました.しかし今はもうそうは考えておりません.私が計画し,立案し,意見具申しない限り,絶対に犯すことのできない罪なんです.今ここで,すでに日本に帰ってしまった庁長に罪をきせて,私の責任が軽くなるものではありません」

と言ってから

「とにかく,私のような侵略戦争の犯罪人が,被害者の一人であられる先生に弁護していただくなんて,とんでもないことだと考えています」

と言いきってしまった.その日も同じことをくり返して別れた. 実のところ私はほっとした. 心の底には,すがりつきたいきたない気持がいっぱいなのである.

私は私の考える「認罪という水」を掌(てのひら)に汲んで,後生大事に運んでいるのである.少しでも油断すると,少しでもよそ見すると,その水が指の間からこぼれ落ちそうで,おろおろしながら歩いて217いたのである.

 

-----

 

 Die Sowjetunion
2 Jin Yuan, Major, Stellvertretender Gefängnisdirektor 副所長, von den Japanern Kin Gen genannt.
3 Tan Feng, 上級幹部 aus Beijing
4 Mizoguchi Yoshio, Staatsanwalt der Region Harbin, im Juni 1956 in Shenyang zu 15 Jahren veruteilt, im Dez. 1959 entlassen, 1987 gest.
5 Cui Renjie, Oberleutnant, Dolmetscher
6 Fushun, Stadt in Liaoning, Nordostchina, Bergwerke 炭坑; Ort der späteren Kriegsverbrecherverwahranstalt 戦犯管理所.
7 Zhang Dingcheng, 最高人民検察員
8 Wang Ziping, Stellvertreter von Zhang Dingcheng
9 Ogawa Ichirô, Mitglied der 学習委員会
10 Yagi Haruo, Oberleutnant der 満軍, 佐官組の学習委員; hat zweibaendigen Bericht ueber die Gefangenschaft publiziert (抑留記)
11 Sugô, früherer Major der 憲兵
12 Imayoshi Kin, früherer 警務総局警務処長; im Juni 1956 in Shenyang zu 16 Jahren verurteilt, im August 1961 entlassen
13 Miyake Hidenari, Leiter des 警務庁 in Fengtian; zu 18 Jahren verurteilt, im April 1963 entlassen
14 Takebe Rokuzô, früherer 総務長官, der ranghöchste Gefangene, im Juni 1956 in Shenyang zu 20 Jahren verurteilt, wegen Krankheit 1956, kurz nach dem Prozeß, entlassen.
15 Han Ziyuan
16 Jia (Xia) Wenfu
17 Wang Zhilin
18 Wang Guizhen
19 Meng Qinghai (Qinghe, Quinghuo), 警尉, Untergebener Shimamuras in Sanjiang
20 Ding (Zheng) Fushan, Polizeibeamter 警察官 in der Mandschurei
21 Wang Shixiang
22 Liu Yanyu
23 Li Zhizhen
24 Chen Dihui (Yahui), Anwalt