Springe direkt zu Inhalt

12

 

参観学習

月日は容赦なく過ぎて行った.

今までは一日一日が長くて長くて,身の置き所もないように感じてきたのだが,昭和三十年の一ヵ年は,それ討論だ,それ運動会だ,それ文化の夕だといったふうに,追いまくられているような気持の中で暮れた.学習委員会の主催する文化・体育の行事は,私たち全員の気持ちを大変明るいものにしていた. もちろんその根底には,学習が進んで世界観が変わってきさえすれば,帰国 できるという希望があったからである.

今までになく豪勢なご馳走攻めの正月が終わって間もなくのことであった.私は北京1から時折り指導にやってくる譚2(たん)先生に呼びだされた. この人には取り調べの前,民族論でやり合ってから一,二回呼び出されて,心境を聞かれたり,考え方についての指導を受けたりしていた.今日は管理所長室の深々とした応接椅子で向き合って座らされた. いつ見ても色白の面長な,なかなかの貴公子である. 崔3中尉も同席していた.

「君はなかなか小賢(こがしこ)い男のようだね?」

話はのっけからこんな調子である.私はあまり驚かなかった. 取り調べ開始以来,こんな場面に183は 慣れっこになっていたからである.

「はあ,どうも人に悪く言われたくない男で,虚勢を張ろう とする態度がとれません」

といずまいを正して恐縮した.

「どうもそのようだね.もっと小賢 (おおがしこ)くならにゃあいかん!」

と前置きして,ハルピン4以来の私の行動を,実例を示して分析しはじめた. 私は

「よくもまあたんねんに調べたものだ」

と感心したが,指摘を受ける内容はあまりとっぴなことではなかった.というのはこの欠点は学生時代から気づいている悪い癖で,何とかしてなお したいと苦心惨胆,ある時期は菜根譚という本の中から

「暴富貧児休説夢 誰家竃裡火無烟」 [にわか成金らしいホラを吹くな.どこの家の竃にも煙はあるわい]

という句を選んで口ずさんでみたり,しまいには中国人の大官に書いてもらって,床の間にかけて毎日ながめていたりしたのだが,いっこうにききめがなかった.悪い癖をなおして人によく見られたいのだから,なおるはずもなかったのである. 私は,時には名を挙げるために,とてつもないことをやったりするのである .

譚先生の話は

184「世界平和は人気取りの行為のなかからは生まれてこない.自己犠牲的なはげしい闘争のすえ,やっとかちとれるものだ.君はまずなんと言おうと正しいと思ったら頑強にやってのける男にならねばならぬ」と言うのだった. なにか良い妙案でも聞けるのかと神妙にしていたが

「いいでしょう.君は明日から学習組長をやりなさい.今度 は組員を指導するという闘争の中で,私が今指摘した欠点と取り組んで見なさい」

と言ったまま,私の返事も聞かずに

中尉とも よく話し合ってみなさい」

と言い残して出て行ってしまった.私は口あんぐりだった. 最初は私一人のためによくもたんねんに資料を集め勉強したものだと,中国指導員の熱心さに頭が下がっていたのだが,さんざん叱ったあげく,今度は学習組長という積極分子になれというのである.共産党員ともなれば「変わったことをするものだ」とも思った. 崔中尉は

「どうだね?進んで引き受けなさい」

と言うのである.

「君は今中国人民から大切な任務が与えられたのだ.これは 出世でもなんでもないんだ.先生は君 が偉くて賢いから,大衆を指導してみろと言われたんではない」

「指導ということはだね.人と人との対等な関係を変えて, 支配,被支配というきたない関係に置きかえることではない.学習組長になってみんなを指導するということは,組員が相互に185学び合うという学習を組織することなんだ.平たく言うなら ,討論会の世話をすることだ.組員たる大衆の利益に服務するということだ」

「俺はいったいどこまで逆立ちしているんだろう?」 私はそう思いながら部屋を出た.

私は学習組長になった.部屋も最初に十三人で入った部屋に移された. 時々正しくない組長ぶりを発揮して,組員からこっぴどく批判されたこともあった. だが世界情勢の変化の方向を学習したり,自分たちの過去や現在の行動に潜む思想錯誤を取り出して,お互に批判し合う学習の中で,私たちの逆立ちは 少しづつとれていった.


昭和三十一年の三月がやってきた. 外はまだ厚い雪にとざされていたが,太陽の光りは次第になごんできていた. そんなある日,私たちは突然,昨年の夏若い人々で作った立派な野外劇場の前に集められ,金源少佐から

「諸君は明日から,潘陽5方面の参観学習に出かけることに決った.諸君は中国の発展状況をよく観察し,過去の中国との対比の中から充分学習するように………」と伝えられた.私も驚いた. およそ囚人に見学を許すなんて考えてもみなかったことだったからである. みんなの顔には「いよいよ帰国も近い」という確信にも似た喜びがむき出しに出ていた.その点になると私は若干違っていた.

参観隊はその場で編成された.私は第二中隊第二小隊の副隊長だった. 小隊長は月崎6という若い186兵隊さんだった.参観中はこの人が何もかもやってくれたので、私は一般隊員となんら変わることはなかった.

第一日の午前中は、瀋陽7の入口撫順8の方から]にある第二機械工場を見学した.この工場はもと日本軍の小さな自動車修理工場だったんだそうだが、今はとても大きく拡張され、見たこともない新式の旋盤がずらりと並んでいた.

「あれが日本人が残して行った旋盤です」 工場案内人の指さす一隅に、三メートルも高い所に取りつけた長い鉄棒から、たるんだベルトが五つか六つ下がっていて、その下に黒々とした貧弱な旋盤が廻っていた.

工場内のいたる所の壁には、標語や呼びかけや、批判や自己批判、社会主義競争の挑戦や応戦のビラが、所せましとばかり貼られてあった.それらのぴちぴちした貼紙に取り囲まれて、旋盤工たちがしごくのんびりと働いていた. そののんびりに気づいた時私は顔を赤くした.私にはやっぱりまだ「職工たちは社会主義競争の下で、くたくたになって働いているのではなかろうか?」という疑いが残っていたのだった.

三日目は前日より一時間も早く出発した.今日は合作社を見に行くというので、貸切りバスの中にアコーディオンやハーモニカを持ち込み、大声で歌いながら雪の広野を突っ走った.みんなの頭187の中にはもう囚人という意識はなくなっているかに見えた. バスは潘陽の街を突っきり,再び広々とした雪野原に出てから小一時間も走って,とある部落の前に停まった.そこが大青村9の合作社のあるところだった. そのあたりは一面に真白い雪をかぶった畑に,小さな堆肥の山が黒ぐろと並んでいて,すでに春耕の準備が終わっていた.私たちはまず部落のはずれにある小学校の講堂で,日焼けした大兵の劉10村長から話を聞いた.

「私は11という者 です.君たちがここを支配していた頃は,地主の家で豚追いをしておりました.父がその地主に借金をしておりましたので,八つの時からやらされてい たのです」

村長はまず自分の生い立ちを紹介した.

「日本鬼子(リーペンクイズ)[日本人のこと]はたくさん警察官を連れてこの村にもやってきました.そして私たちが汗水流して作った穀物を,根こそぎかっぱらって行きました.わ ずかに食い扶持を残せたのは,日本鬼子のお先棒を担いで百姓をいじめた地 主だけで,多くの者は大豆粕を買ってきて飢をしのぎました.穀物を作った百姓が,穀物を食うことが出来ない政治をやったのは,中国の歴史が始まっ て以来のことで,どんなに悪い帝王でもこんなことをやった例はありません でした」

村長の声には次第に熱が帯びてきた.

「そのために飢死した者はこの村だけでも七人ありました. たくさんな人々が乞食になってこの村を出て行きました.私たちはその頃再成衣といって,メリケン粉の袋で作った着物を着ていました.十八歳にもな った年頃の娘が腰に麻袋を巻いただけで,人前にも出られず家の中に 188閉じこもっていたのです」

「あの頃三人寄って話をしていたら,秘密会合をやっていた と言いがかりをつけられ,誓察に引っぱられて行きました.そして片輪になるほどひっぱたかれて帰ってきました」

「この村では三百人近くの若い働き手が,労工供出だといっ て引っぱり出され,どこか遠い北の山の中で,陣地構築の苦役に使われました.ろくろく食事も与えられず,激しい労働で倒れても薬もくれず,多くの 人々が飢と疲労で死んでしまいました.終戦後村に帰ってきた者は,半分に も足りませんでした」

「ところが今はどうです.私たちは腹いっぱい飯を食ってお ります.週に三回はお米のご飯を食べています.もう私たちの国家には,日本人以外の者は米を食うべからずというような,そんな法律はありません」

「あの頃この村で,潘陽の中学校 [旧制今の高等学校] に通っていた者はわずかに二人でありました.それもみんな地主のどら息子ばかりでありました.今では誰の子供でも能力があって希望 しさえすれば,合作社の費用で進学しており,三十七人もの学生が 潘陽で勉強しております」

「今はもう日本鬼子は打倒されました.それと結託してわれ われをいじめた地主たちも打倒されました.私たちは中国共産党の行き届いた指導の下で,明るい幸福な未来を見つめ,張り切って働いております.生 産はすべて共同でやり,大きな養豚場も作って種豚も五頭買い込んでおりま す.養鶏場も作って一千羽近くの白色レグホンをを*を*飼いはじめました」

189「病気になったら誰でもただで診察してもらえます.薬も無 料だし,入院も無料です」

「この部落の裏には細長い池があります.そこで咋年から魚 を飼いはじめておりますが,来年はその池のそばに二千人も入れるクラブを建て,立派な養老院も作る計画であります.池の岸には柳を植え,水ぎわに は蓮の花を咲かせ,美しい小舟もたくさん浮かべます」

劉村長は楽 しい未来を思い浮べてか,うっとりとした眼つきで話していたが,急に緊張 した顔になり

「私たち中国の農民は平和な環境を欲しています.私たちの 夢を実現するためにも平和が必要なのです.しかしこの平和は私一人で闘いとれるものでもありません.中国人民,日本人民,世界人民が一致団結し, 不断の努力をもって侵略主義者と闘ってのみ,はじめてかちとれるものであ ります.私は諸君がほんとうに前非を悔い改め,一日も早く平和の守り手となってくれることを,心から希望してやみません」

劉村長のほとんど一時間半にわたる話は終った. 原稿一つ持つでなく誰に聞かせてもわかる話が,次から次へと湧き出てくる. 劉村長の話 が終わった時,私たちの間には,溜息ともうめきともつかぬ感動が,一つの 静かなどよめきとなって漂っていた.

午後は合作社の施設を見学した.図書館,病院,養老院,種畜場,改良農具の倉庫等を見てまわった. いずれも充分とはいえないがこれからという新生息吹がぴちぴちと躍動して いた.

帰りのバスの中はだいぶ薄暗くなっていた.わざわざ私のそばにやってきて座った崔中尉は

190「どうだったかね?」と聞いた. 「あの村はやはりたいした村ですねえ.もうちゃんと堆肥を 畑に配り終っていました.昔は雪がとけてもなかなか手が回らなかったもんですが」

と言ったらきつい顔をして

島村はまだ中 国人民を信用していない」

と言うのである. 私が啞然としていると

「そうじゃあないか.君は僕たちがこのあたりで一番進んだ 模範村を見せたと思っているのだ.だがね,今はどの村でもあれくらいのことはすませているんだよ」

私は「しまった」と 思った.「言ってよかった。また一つ考え方を改めることができた」 と思うべきなのに,なかなかそう思えないのである.


参観学習の第四日目,私たちは撫順12炭坑の露天掘りの見学に出かけた. 一通りの見学を終えたのは午後の三時頃だった.私たちが大きな講堂でお茶をご馳走になっている時だった. 金源13少佐が入口に立って

「今ここで働いている婦人労働者の方素栄14さんという方が,ぜひ皆さんにお話したいことがあるという申し出がありました.こ れから聞くことにいたします」

と伝えた. 皆しーんとなった.しばらくすると通釈用の紙と鉛筆をさげた崔中尉に案内されて,小柄な,三十歳あまりの陽焼けした婦人が入ってきた.演壇に登ったがにこりともしない.

191「私は方素栄と言いま す.この炭坑で働いている労働者です」

と自己紹介してから,婦人特有のかん高い,よく透る声で話し始めた.聞いているうちに私たち一同は蒼白になってしまった. 話の要旨はこうである.

昭和六年九月, 自ら作った偽装部隊に日本軍の兵舎を攻撃させておいて,これを中国兵がや ったと言いがかりをつけ,電灯を明々とつけて休んでいる北大15営の兵舎を,潘陽と撫順の両方面から狭撃し,その後戦線を拡大して東山16省全域に侵略の兵を進めている頃だった.

日本軍のこのような無理無体な侵略と,これに対して無抵抗主義をとり続ける張学良の態度に憤激した愛国者たちは,いたるところで武器をとり,抗日義勇軍を編成して総反抗に立ち上がっていた.こうした騒然たる情勢の中で一夜,北大営の攻撃に重大な役割を果した撫順駐屯の日本軍兵舎が急襲されるという事件がおこった. 翌朝になって調べて見ると,この襲撃部隊は前日郊外にある平頂山17という部落に泊って,襲撃の準備をしたということがわかった. 守備隊長はかんかんになり

「匪賊を泊めておきながら通報しないとは何事だ.部落全員 が通匪に違いない.みな殺しにしろ」

と,威丈高になって命じた.狡猾な日本軍は憲兵と打ち合わせ,もっとも有効な,もっとも損害の少ない 方法で,部落全員を惨殺しようと計画をした.

「写真を撮るから全員広場に集まれ!」

部落を大部隊で遠巻きに包囲しておいて,銃剣をつけた憲兵が戸ごとにふれて回った.夕飯を192す ませたばかりの部落の人たちは,突然現れた物々しい武装の憲兵隊に肝をつぶさんばかりに驚い中にはあわてて逃げ出そうとした者もあったが,すぐそ の場で射殺されてしまった.

方素栄さんのお父さんも窓からとび出したが,三歩と歩かないうちに射殺されてしまった. 彼女は当時七歳だった.冒険をしたら孫たちの命が危いと気づいたおじいさんは,右手に三歳になる弟さんを抱き,左手で方素栄さんの手を引いて外に出た.朱に染まって倒れているお父さんの死骸に取りすがって泣いているお母さん は,おじいさんにたしなめられて,生まれたばかりの赤ちゃんな抱いて後に 従った.

広場への道はおびえきった老若男女が,泣き叫ぶ子供たちの手を引いてぞろぞろ歩いていた.広場は銃剣をつけた日本兵で取り囲まれ,蟻のはい出るすきもなかった. その環の所どころに粗末な文机が置いてあり,黒い布をかぶせた写真機のような物が乗っかっていた.人々は次から次へと,その包囲の環の中に座らされた.

やがて部落の方の罵声もおさまり,二千名に近い人々が集まり終わった時だった.突如隊長のかん高い号令とともに,机の上の黒い布が取り除かれた. 出てきた物は黒光りのする無気味な機関銃だった. 二千人の人々が「あッ!」と言って腰を浮かせた瞬間,その機関銃がいっせいに火を吹きだした. 身に寸鉄を帯びない部落民である. 土煙をあげて襲ってくる銃弾の雨の中で,みんな悲鳴をあげて倒れて行った.

193方素栄さんのお母さんは,赤ちゃんを胸に抱き締めて機関銃に背を向けた瞬間,無慈悲な弾は赤ちゃんもろともお母さんの胸を貫いた.おじいさんは二人の孫を抱いて横向いたが,すぐうッ!と言って孫を放り出しうつ伏した. 弾がおじいさんの横腹を貫いたのである. しかし気丈なおじいさんはすぐ起き上がり,にじり寄って方素栄さんの肩をつかみ,腹の下に押し込むとそのまま動かなくなってしまった. 生温(ぬる)いおじいさんの血が方素栄さんの顔といわず,手といわずたらたらと流れ落ちた.弾は方素栄さんにも数発[七ヵ所]あたった.だが幸いみんなかすり傷だった. 子供心にも危険を感じた方素栄さんは, 痛さをこらえて死んだふりをしていた.

けたたましく鳴り響く機関銃の音の中で,二千名の殺陣は数分で終わってしまった.静かになった広場は血の海と化し,人々のうめき声でいっぱいだった. 風一つ動かない平頂山に夕闇が 迫ってきていた.

すると隊長がまた号令した.今度は日本兵が銃剣を逆さにして,虫の息になっている人々のとどめを刺しにきたのである. どたどたと襲いかかる日本兵の靴音の合間に,あちらでもこちらでも「うあッ」という断末魔の叫びがおこった. 刺された瞬間正気を取りもどしたのか,それとも死んだふりして倒れていた 人の叫びか,何の罪もない平和な農民のこの世に残す最後の声だった.

それまでおじいさんの足にしがみついてだまっていた三歳の弟が,日本兵の姿を見てわっと泣き出した.走り寄った日本兵が弟さんの頭にぐさっと銃剣を突き刺すと,方素栄さんの眼の前に投げだした.

194方素栄さんはこ こまで話した時,声をつまらせ,ハンカチを出して涙をぬぐった.

「弟の頭からはどす黒い血といっしょに,豆腐のような白い 物が吹き出していました.その光景は今でも眼に見えるようです」

とむせびながら説明していた. 方素栄さんの話 は続いた.

やがて日本兵の靴音も絶え,後には虫の息のうめきが残るのみとなったが,それも全く消えてしまった.物音一つしない夜がやってきたのである. 気丈な方素栄さんはだんだん冷たくなるおじいさんの腹の下で,一晩中泣きもせずじっとがまんし ていた.

やっと明け方になっておじいさんの腹の下からはい出した方素栄さんは,山を裏に降りて人一人通らない小路に出た. 人里に近づくと日本兵がいそうで恐かったからである.とぼとぼと歩いているうちにだんだん悲しくなり,傷も痛んできたのでとうとう泣き出してしまった. どれぐらい歩いたか覚えていない. 十時近くになって道の向こうから,馬車を走らせてくる小父さんに会った.血だらけになっている方素栄さんを見つけた小父さんは,すぐ平頂山から逃げてきた娘だとわかった. さっそく馬車に積んでいる乾草の中に隠して家に連れて帰ってくれた.

これから方素栄さんの苦しい日陰の生活がはじまったのである. 親切に傷の手当をしてくれた小父さんは,方素栄さんからおじいさんの名を聞いて

「そうか,方老のお孫さんか?それだったら心配せんでもえ え.あなたの伯父さんがすぐ近くに住んでいるから」

195と言ってくれた. その夜方素栄さんは伯父さんの家に引き取られた.しかし伯父さんはとても貧乏な小作人だった. また伯父さんの家には子供が生まれていなかった. 急に女の子が住むようになったとなると,地主に疑われて報告されるに違いないのである.そこで方素栄さんは,昼は高梁畑の中に潜み,夜になってから家に帰ることになった. もし家にいる時人がやってきたりしたら,納屋の中に隠れていて声一つたてることができなかった.遊びざかりの七つの方素栄さんにとっては,こんな生活は何物にもましてつらく悲しいことだった.こんな生活が三年も続いた.

方素栄さんの話 は終わりに近づいた.

「私がなんの悪いことをしたと言うんですか?私のおじいさ んもお母さんも心のやさしい人でした.お父さんは毎日この炭坑にきて働いていました.ただそれだけです」

方素栄さんは再びハンカチを取り出して眼を覆い,顔をくちゃくちゃにして嗚咽した. みんなも声を殺して咽(むせ)ん だ.

「私の三歳になる弟と,生まれたばかりの赤ちゃんが,どこ で,どんな悪いことをしたと言うのですか?どうしてこんな酷たらしい殺し方をしなければならないんですか?」

泣きじゃくりながら話す方素栄さんの抗議は,ほとんど言葉にもならないほどだった. 私は今さらのように,侵略の罪がこんなにも深く,こんなにも長く,中国人民に今もって深い悲しみと怒りか残しているのかと,頭を上げることもでき なかった.

「伯父さんに赤ちゃんができた時,私は初めて子守りを願っ たという名目で,人前に出ることを196許されました.私はそれから日本人を見るたびに,跳びかかってかみ殺してやりたい衝動にかられました.日本帝国主義が壊滅したあの 時は,私のお母さんやおじいさんがやられたと同じように,みな殺しにして やるんだと泣き叫び,多くの人々を手こずらせました」

「しかしそんな時は必ず共産党員が現れ,私を指導してくれ ました.日本の人民は侵略はしない.われわれはその日本の人民と団結し戦争が起きないよう力をあわせて戦わなければならないんだ.またそのために もまず,もう侵略されないだけの強い中国を作らなければならないんだと指 導してくれました」

「今私は党の言うことの正しさを信ずるようになりました. でも今朝日本人の戦犯が見学にくるから案内役をやれと聞いた時は,また動揺してしまいました.そしてどうしても案内をする気にはなれませんでした 」

「私はもうこれ以上言うことはできません.ただ一つはっき り言っておきたいことは,皆さんはもう他国を侵略するようなことは絶対にしないで下さいということです」

方素栄さんの涙ながらの一時間にわたる長い報告は終わった. 前の方にいた若い戦犯はいっせいに壇下に走り寄り,両手を床について泣きながらわびていた.私も行かねばと思った. しかしなんだか後めたい気がして跳び出す勇気が出なかった. それだけ私はまだ,若い人々より遅れていたのである.


197四日間の参観は終わった. 私たちはそれから半ヵ月ほどかけて,参観で得た成果について討論した. 佐官組の大部分の人の頭の中には,劉村長や方素栄さん の話に,「まことに悪いことをしたという反省はあった.だが反面

「俺は幸い事件に関係してなかった」

という第三者的な考え方がひそんでいたのである.

だからまだ若い進歩分子,平頂山事件のおきた頃は,子供でしかなかったこの兵隊さんたちが壇下に駆け寄り,床に手をついてお詫びした行為は,正しい行為だとは思っていなかったのである.私たちははげしい討論を行った. 甲論乙駁,なかなか結論は出なかった.

というのは,私たち佐官組はまだ古い法律観からぬけきっていなかった.だから関係しなかった人々に罪があろうはずがないことになるのである. しかし,事実は日本帝国主義の侵略という尨大な惨事はいたるところでひき おこされるし,それがいつ,どこで発生しようと,私たちはその組織の一員であった以上,責任を感ずべきなのである.

中国人民は決して「あなただけは関係しなかった人だからよい人だ」 とは言わないだろう。

 

 

-----

 

1 Beijing
2 Tan Feng, 上級幹部 aus Beijing
3 Cui Renjie, Oberleutnant, Dolmetscher
4 meist ハルピン od.  ハルビン geschrieben: Harbin, Stadt nördlich von Xinjing, Hauptstadt der Provinz Heilongjiang
5 Pangyang, Provinz, siehe Dongsan
6 Tsukizaki, 小隊長
7 Shenyang, siehe Fengtian
8 Fushun, Stadt in Liaoning, Nordostchina, Bergwerke 炭坑; Ort der späteren Kriegsverbrecherverwahranstalt 戦犯管理所.
9 Daqingcun (Daiqingcun), Dorf
10 Liu, Bürgermeister von Daqingcun (Daiqingcun)
11 Liu, 警察署長 von Shuanghe
12 Fushun, Stadt in Liaoning, Nordostchina, Bergwerke 炭坑; Ort der späteren Kriegsverbrecherverwahranstalt 戦犯管理所.
13 Jin Yuan, Major, Stellvertretender Gefängnisdirektor 副所長, von den Japanern Kin Gen genannt.
14 Fang Surong, Arbeiterin im Fushun-Berkwerk
15 Beida (Beidai), chin. Kaserne in der Nähe von Liutiaogou
16 Dongshan; hier wird wohl eher Dongsan 東三 gemeint sein: die drei nordöstlichen Provinzen, also die Mandschurei.
17 Pingdingshan (jap. Heichôsan); am 16. Sept. 1932 fand hier ein Massaker an der Dorfbevölkerung durch japanische Wachleute statt; Opferzahlen schwanken zwischen ca. 500 (Nishio Kanji) und 3000 (chin. Angaben).
18