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対ソ感情

私たちはソ連1に対して激しい反感,いや敵意とさえ言える感情を持っていた. このことは私たちの人間改造に,大きな障害となっていた.

この「反ソ感」については,学習がはじまって以来ずっと討論を続けていた. ある時は全体討論をやって火花を散らした. またある時は静かに,室内討論をやって解決しようとした.しかし私たちの反ソ感は根強く,なかなか解決しそうになかった. 口先だけでは一応解決したかのように言っている連中でも,腹の中ではソ連を嫌っていた. というのは,この反ソ感は私たちが実際にこの眼で見,この身体で体験した事実に基づく感情であったからである.

「日本とソ連は不可侵条約を結んでいたではないか.ソ連の苦しい時日本は守った.ところが日本が苦しくなるとソ連は破った」

これは敗戦当時から一貫して抱いてきた敵対感情だった. 「今に見ていろ,きっと仇は………」 という考えは,敗戦以来の誓いみたいなものになっていたのであった.

ソ連軍のあの様(ざま)は何んだ.強盗,強姦,殺人,あれで帝国主義の軍隊がどうのこうのと,悪口を言う資格がどこにあるか」

170これは敗戦当時誰もが見た生々しい体験なので,結論はどうしても「社会主義の国だってやってるじゃあないか.戦争とはこういうもんだよ」となり,勝てば官軍だが,負けたら悪事は全部引き受けさせられるんだ.これが世の中というもんだ. となるのである. これでは認罪も糞もあったものではない. それで誰言うとなく「これじゃあまるで赤色帝国主義じゃあないか」と考えるようになっていた.私たちは中国に移管されてからも,ずっと悪口を言い通してきでいた. ところが取り調べが終わってからは

ソ連の悪口はもう言うまい.反映でもされたら大変なことになる」と考えるようになっていた.

私も敗戦のあの時,わずか一ヵ月の間にそうとうひどい目に会っていた.ソ軍が進駐してくると新京2の街はたちまち,カービン銃を抱いた兵隊でいっぱいになった.敗戦を経験したことのない日本人は他国の軍隊の占領下で,どうしたらよいのか見当もつかず,ただ呆然としている頃だった.

私はある日昭和二十年八月二十日頃],玄関にトランクを横着けにした四名の兵隊に押し入られ,めぼしい物はすっかり持って行かれてしまった.私に拳銃をつきつけて両手を上げさせたかれらは,押し入れからトランクや行李を引っ張り出し,まずその中の物をそこら一面に投げ出し,その中から金目になりそうな物を物色し,再びトランクに詰めはじめた.その中には部下の奥さんから預かった物もあった. 子供たちの洋服もあった.

ちょうど五歳になったばかりの次女紀子3の赤い洋服をトランクに詰めようとした時だった. それ171まで私の足にしがみついて見ていた紀子が,バタバタと走り寄って

「これ!あたいんだ」と叫ぶとその赤い洋服にしがみついたのである.はっとした私だったが,さすがの荒くれ兵士もにっと笑って返してくれた. 私の足下に帰ってきた紀子が,大した金目のものでもないその洋服を,胸いっぱいに抱きしめている姿を見下ろすと,私の目には大粒の涙がポロポロこぼれた.

「いやあ,あんなに情なかったことはありませんでしたよ.わずか五歳の女の子が堂々と闘っているのにですよ.この父親は両手を上げたまま何もできないんですからねえ」

私は見舞に来てくれた人をつかまえては,こうくやしがった.

その翌々日だった.裏の棟[二階建の官舎]には朝からソ軍の目動車が横づけになっていた. 私の隣りに住んでいる鈴木4さんという画家の話によると,「ソ軍の運転手が二人やってきて,今朝から飲んでいるんですよ.あっちの家,こっちの家と渡り歩いてね」とのことだった. 昼過ぎになった頃だった. 「バーン」という拳銃の音がして,たくさんな人々が散って行く足音がした. 不審に思って飛び出したところ,画家の鈴木さんが裏の方から息せききって走ってきた.

「何かあったんですか?」と聞く私に

「ソ軍の将校に手まね,足まねで言いつけたらですねえ.いきなり踏み込んで飲んでる運転手をやったんですよ」と言うのである. 私は驚いた.

「まさか自国の兵士を?」

172と思ったので急いで裏に回って見た. 家の近くには猫の子一匹いなかった. ただ五十メートルぐらい向こうに日本人の黒山がこちらを見ていた.私が音がしたと思われる階下に立った時,コツン,コツンとゆっくりした靴音をさせて,大きな肩章をつけた五十がらみの上品な将校が降りてきた. 私を見るとにっと笑ったまま西の方に歩いて行った.右手には抜き身の小型拳銃を持ったままである. ところが棟の西端の階段の下まで行くと,立ち止まってしばらく二階を見ていたが,やがてまたゆっくりと上がって行った.するとまた「バーン」という音がした. ゆうゆうと降りてきた将校はもう拳銃を腰にしまっていた.

今度は私には眼もくれず,真っ直ぐにさっきの人だかりの方に歩いて行った.一番前にいた女の子の頭を撫でてから,そのまま街角に消えてしまった.


シベリヤ5での五ヵ年は腹がペコペコで,寝てからでも食べ物の夢ばかり見ていた. いくら食っても満腹しない夢だった.みんなは骨と皮になっていた. お風呂の時にうしろから見たら,お尻の穴がおヘソのように丸見えだった. だがお腹だけはプクーンとふくれていて,絵で見た餓鬼そのままだった.栄養失調で死んで行った友人は数えきれないほどだった. 私もハバロフスク6で八ヵ月も入院した.

「あーあ,なんでもいい.とにかく腹いっぱい食ってみたいもんだ」

寝ても覚めても働いていても,考えていることはこのことだけだった.草むらに転がっている173赤い煉瓦がパンに見えたり,道路の丸い石とろが馬鈴薯に見えたり,走っている小豚さえうまそうに見えた.

私の友人の一人は工場の帰り,薄暗くなった雪の路上で凍った馬鈴薯を一つ拾って大喜びをした.電灯のない収容所の真中にあるペーチカの,焚口の上の鉄板で焼いていたら,ひどい悪臭を放つ馬糞に変ったので大笑いになったことがあった. ウラル7の山奥のオーロラの見える収容所でおこった笑えない今様ぶんぶく茶釜だった.

私たちはなんでも食った.犬も食った. トカゲも食った. 猫と鼠を食ったが案外うまかったと言う人にも出会った. 「うまいから食ってみろよ」と,焼いた蛇を何度もすすめられたが,これだけには手が出なかった.野草も手当り次第食った. そのため,腹をこわして下痢をし,かえって瘠せてしまった人も何人あったか知れない. 私もウスチ,カメノゴロスク*ウスチ・カメノゴロスグ*8で野草の若芽を塩漬にして食ったら,ひどい下痢をおこして入院してしまった.

「いつになったらこの苦しみから解放されるだろう」

ある日曜日,カメノゴロスク9の収容所の庭の芝生に寝転がりながらこう言ったら

ソ連を去るまでは駄目だよ」

と,長春10県の副県長をしていた滝本実春11先輩がこう言っていたが,まことにその通りだった.


前にも言ったように,これらはみんな事実であった.この眼で見,この耳で聞き,この肌で174感じとった事実だった.だからこの事実に対する認識を解決しないで,ただ頭から

「お前らは悪口を言わんがために言っている」ときめつけられても,納得できることではなかった.問題はこれらの事実の歴史的諸関係,言い換えればどんな状況の下で,どのようにして起こったのか,またその事実をどちらの側[階級的立場]に立って理解するかにあったのである. それには長いことかかった.

はじめ学習委員会の方からの指導は,ソ連軍が満洲でやった数々の略奪行為は,「絶対に略奪という筋合のものではない.人民が奪われていた財物を,自らの手に奪い返した行為だ」というのだった.なんでも指導に従っていさえすれば無難だし,階級的だと考えていた私たちは

「うーん,なるほどそうだ」

とさっそくとびついた.そして口角泡を飛ばして

「俺たちの月給も,もとはと言えば人民から略奪した血税だった.だからその月給で買った物はみんな略奪品なんだ.それを奪い返したソ連兵の行為は,正義の行為だったんだ」

と論じたてた. 誰一人反対する者はいない.だがそう言った御本人でさえ,どうもうまく腹に納まらないのである.

「第一俺たちは何もソ連の人民を搾取した覚えはない.いくら階級的国際主義だと言っても,少しこじつけ過ぎはしないのか?」

という疑問が湧いてくるのである.第二には

175「じゃあ人民軍が反撃して資本主義国に攻め込んだとしたら,どんなに略奪をやったって勝手次第だ.みんな正義な行為だと言えるだろうか」

と考えるのである.誰かがそのことを言い出すと「進歩分子」をもって自負している連中が躍気*躍起*になって

「そうだ,構わないんだ.他国を侵略し,財物を奪ったわれわれではないか.そんな不平をいう資格がどこにあるか?」

なるほど認罪の心境はその通りかも知れない.しかしそれは相手を納得させる理論ではなくて,罪人を言い負かす言葉に過ぎないのである. ある日私たちの討論を聞いていた12中尉が 「君たちは変なことを言ってるようだね.階級的立場から物を見るという発想はわかるが,この問題がそんなふうになるのかね?」

と言いだした. しばらく誰かの発言を待っている様子だったが,誰も何も言わないので

「じゃあ僕の意見を言って見ょう.君たちが言っているように,盗られた財物がどんな過程をへて,君たちの手に入ったのかを分析することは大切なことだ.しかしだよ.一応その社会で是認されていた方法で君たちの所有物になった品物をだ,銃をつきつけて略奪する行為が,正義の行為だなんてどうして言えるのかね」

中尉は続けた.

「どこの国の軍隊だって悪い奴はいるよ.そこで問題はだ,君たち帝国主義の軍隊のやった悪事176と,ソ連軍がやった悪事とで,どちらが多くて,どちらが悪質で,残酷だったかにあるんだ.ソ連軍が略奪したあと君たちの家を焼き払ったり,住民をみんな生き埋めにしたり,恐ろしい細菌戦の試験をするために,君たちをモルモット代りにして殺したり,武器も持たぬ平和な住民を,皆殺しにしたりした事実があったとでも言うのかね」

「君たちは不心得な兵士の個人的な悪事と,軍全体の組織的な,計画的な残虐行為を混同しているのではないか.あの頃のソ連軍の兵士は確かに質が悪かった.優秀な者はみんな西部戦線で死んでしまっていた.機関銃を小脇にかかえて,ドイツ軍の戦車の前に立ちはだかって死んだのは,みんな優秀な共産党員だったのだよ」

東北13地区の解放に入ってきたソ連兵の多くは急きょ狩り集めた軍隊で,社会主義軍隊としての教育を充分受けてない劣悪な兵士だったのだ.だから上級の軍人はそれを取りしまるためにずいぶんと苦労していたはずだ」

「君たちが中国でやった悪事は,君たちが一番よく知っているはずだ.両者の対比の中で,どちらがよい軍隊だったかどちらが悪かったかを考えるべきで,ソ連兵のやる略奪は正しかったなんて考えるのは,まことにおかしな話だとは思わないかね」

「そしてだ,社会主義社会の兵士には一人も悪人はいないとか,一人でもいたら社会主義の軍隊はなっていないとか,そんなふうに問題を立てることこそが,君たちが学習し,改めなければならない恐ろしい考え方なんだ」

177みんなははじめて心からなるほどと思った. 私も,酒を強要していて上官に射殺されたソ連の運転手の話をだした. 新京のいたる所でソ連の略奪兵と,ソ連軍の憲兵が市街戦をやった話も,聞いていたので発表した.そして

「当時は,自国の軍隊同士が撃ち合ったり,上官が部下を射殺するなんて,なんと野蛮な軍隊だろうと軽蔑していた」

ともつけ加えた.

「不可侵条約を結んでおきながら,信義を破って攻め込んだ」

という反ソ感についても,ずいぶんと長い間討論した.当時の私たちには,まだ「信義を破る国」は今後相手に出来ぬ国だし,「信義を破ることが通用する社会」は,許すことのできない社会だったのである.

「日本は守ったのにソ連は破った」

という憤慨は直接社会制度の可否に結びつき,「日本は信義に厚い良国」になり,ソ連は「怪しからん国」になるのである. しかしこれも長い討論を通じて,一歩一歩解決していった.

「元来この不可侵条約は,ソ連にとっては日本とドイツの東西からの侵略という危険の中で,祖国防衛という正義のために結んだ条約であった.だが日本は中国本土その他南方諸国を侵略するために,後顧の憂をなくしておこうとする,不正な目的で結んだものだった」

「だからソ連軍が"満洲国"に進攻してきたのは,日本の侵略を停止させ,中国人民ならびに178南方諸民族の祖国解放という正義に手を貸しただけのことだ」

「満洲国」は日本が侵略して作った国だったのだ.ぞれを私たちは太古の昔から日本の領土だったかのごとく錯覚し,ソ連に裏切られたと憤慨していたのだった.私たちは盗んだ品物を取り返されたといって,憤慨している盗人だったのだと気づいて解決した.

ソ連では徹底的に腹ぺこにされた」

という恨みも討論の中で解決した.その頃ソ連は食糧不足で苦しんでいた. ウクライナ14の穀倉地帯はドイツ軍に荒されて荒野に化していたし,その上耕作に必要な若者は戦争で死んでしまっていた.耕作機械は破壊され,種子にも事欠いていた. おまけに翌年はひどい飢饉に見舞われ,弱り目にたたり目だったことなどか話し合った.

「なるほど無理もなかった」と諒解するようになった.特に日本からの手紙がくるようになってからは,さつま芋の茎を食って生命(いのち)をつないだり,一碗の麦粥(がゆ)をすすり合って露命をつないだ話などが紹介されて「腹べこで苦しんだのは俺たちだけではなかったのだ」と反省した.


シベリヤで行われたひどい吊し上げに対する反感は,依然として佐官組の中に根強く残っていた. ソ連の将校が指導してやらせたのだと考えていたからである.

一人の少佐は「うぐいすの谷渡り」という,旧軍隊で行われていた制裁を受けたと言って,口惜し涙を流していた.

179「褌一つの真っ裸にされてだよ.二附になっている寝台の上を,彼らの罵声を浴びながら跳び渡されたんだ」

「俺はみんなの前で,犬の格好をさせられ,チンチンからワンワンまでさせられた」と口惜し涙を流して話していた. 討論になると進歩分子は

「いや,あれぐらいの制裁は当然のことだ.俺たちは彼らを戦場に狩り出し,殺害しようとしていたではないか」

と主張する. だが,こう公式的な言葉を押しつけられても納得できるものではない.私もシベリヤではずいぶんとひどい目に会った. 作業場などでも肉体的限界を超える酷使[若い兵隊は後棒,私は前棒でノシルカ-担架-を持ち,しかも若い者は二時間おきに交代をし,一日中重い荷物を両手に走らされた]をされ,朝も晩も昼食の時もみんなの前に引きずり出されて,極反動として罵倒された.地獄とはまさにこんなところだろうとさえ思った. 進歩分子の言い分はわからないでもないが,感情的に受けつけるわけにゆかなかった.

「今に見ていろ.日本に帰ったらただではすまさんぞ」という気持はまだとれていなかった. あんな奴らの集りが共産党だというのなら,徹底的に闘ってやると考えていた.

入ソ当時旧軍隊は昔のままの組織だった.だから将校は依然として当番兵を置き,腹いっぱい食って兵士の労働を指揮していたのである. かれらは昔のままの思想を持ち続け,捲土重来の夢を捨てず,侵略思想を鼓吹して軍隊の力を温存し,帰国の暁には再びかれらを戦場に狩り出そうと180考えていたのである.

この環境下で民主主義を感じとった兵士たちが指導権を握るためには

「隊長殿,あなたもどうか兵士なみに働いて,その長靴を脱いでくれませんか」

と嘆願しても,僧侶ガボンの悲劇に終わるであろうことは眼に見えていたのである. 15中佐はこのことについてこう言っていたそうである.

「兵士たちがソ連でやった反軍闘争には重大な欠陥があったと聞いている.しかし,当時その欠陥を避けて通れただろうか」

「軍国主義の教育ばかり受けてきた兵士たちがやっと目覚めて動き出したという時に,旧軍隊的なファッショ的行動がともなったからといって,それを責めることができるだろうか.罪はむしろ,そのように教育した君たちの方にあるのではないかね」

私たちはこの言葉を中心に長い間討論し,一応納得することができた.そしてしだいにそう考えるようになってきた.


私たちは毎日こうして討論した.その場でわかったこともあった. 後になって納得できたものもあった. だからと言って何もかもが解決したというわけでもなかった.

私たちは在ソ五年間のすべての体験を討論したわけでもなかったし,往々にして体験的感覚は論理の遊戯に勝ることが多いからである.もっと端的に言うなら,ソ連で常に見せつけられたひどい181官僚主義的作風の数々なんかは,なんと考えて見ても好きにはなれなかった.

 

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 Die Sowjetunion
2 Xinjing, Hauptstadt der Mandschurei (1932-1945); siehe 長春 Changchun
3 Shimamura Kiko, zweitälteste Tochter von Sh. Saburô
4 Suzuki, Maler 画家
5 Sibirien
6 Chabarowsk Хабаровск, nahe der Grenze zu China. Dort Gefangenen- und Umerziehungslager
7 Ural
8 Ust-Kamenogorsk, Öskemen, Stadt im Osten Kasachstans im westlichen Teil des Altai-Gebirges.
9 Kamenogorsk, siehe Ust-Kamenogorsk
10 Changchun, Hauptstadt der Provinz Jilin; seit 1932 Hauptstadt der von den Japanern besetzten Mandschurei; zu dieser Zeit hieß die Stadt Hsingking (新京; Pinyin Xīnjīng; jap. Shinkyō).
11 Takimoto Saneharu, 副県長 von Changchun
12 Cui Renjie, Oberleutnant, Dolmetscher
13 Dongbei -- die drei nordöstlichen Provinzen (遼寧省Liaoning・吉林省Jilin・黒竜江省Heilongjiang), d.h. die Mandschurei; auch: Dongsan東三.
14 Ukraine
15 Sun, Oberstleutnant, Gefängnisleiter 所長