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専任指導員崔仁杰中尉

部屋を変わった頃から私たちの監禁生活が,次第に緩められてきていた.部屋のドアが開放されて,自由に廊下に出て便所にも行け,隣室を訪れることもできるようになった. だがまだ廊下の両端にある頑丈な扉はしまっていて,許可がないかぎり外出することは許されなかった.

また自主的な学習委員会を持つことも許されるようになった.学習委員として八木春雄1満軍中佐が,文化,体育委員として橋本岬2満軍憲兵中佐が任命され,私たち佐官組を指導することになった.

ハルピン3時代から進歩組に入っていた者の中から,数名の者が学習組長に任命され,三部屋が合同して学習討論をやるようになった.各部屋には従前通り室長がいて,学習組長会議や室長会議が頻繁に持たれていた.

こんな組織がどうしてできたかというと,今までは主として取り調べを通じての,検察官の個人的な指導だけだったのだが,これからはわれわれも自ら進んで組織を作り,組織内で相互に積極能動的な批判,自己批判をやり,罪に対する認識を深めようというのであった.

もちろんこの学習委員会の主導権は,若い兵隊さんたちが握っていた.この組織そのもの,これらの人々が請願して作ったという経緯(いきさつ)もあったようだし,佐官組には一年もその余も後から150できたので,若い人々の組織に参加した格好になっていたからだった.

しかしもっと決定的なことは,若い人々は資本主義のきたない思想に汚染された期間が短かく,素直に中国人民の指導を受け入れ,罪に対する認識も進んでいた.おまけにかれらの多くは労働者・農民の出身だということであった.

各部屋の室長は毎日一回,その日にあった室員の言動を学習組長を通じて学習委員の方に報告していた.学習組長と学習委員はこれによって,組員の具体的な思想状態[解決しなければならぬ不平不満,誤った認識等]を掌握し,討論計画をたてるのである.われわれはこの室長の報告を「反映」と呼んでいた.

私は佐官組の中でも「注目すべき極反動」の一人とみなされていた. シベリヤ4でもそうだつたが,中国に移管されてからも,さまざまな反抗を試み人々を煽動してきたのだから,誰を恨む筋合もなかった.また事実極反動と言われても仕方がないほど,考え方も行動も遅れていたのである.

私は先日老婆の告訴文を読んで涙を流した.そのかぎりでは侵略の罪の深さを思い知ったのである. 普通一般の犯罪だったらその場で翻然として生まれ変わり,翌日からは「人をして驚かしむる」ほどの態度がとれるのだが,この侵略罪のような犯罪となると,しかく簡単なものではないのである.

私はすでにいっさいの泥を吐いてしまった.後は処罰を待つばかりである. だが私の考え方は昔のままである. ただし若干は,罪に対する感覚,悪いことをしたという自覚は芽生えはじめているが,151まだほんの芽の段階でしかない. これで果して裁判に臨めるだろうか.


私はだいぶ前から,室長のやっている反映がおもしろくないのである.どう考えても「友人を売る告げ口」としか思えない. だからこんな事をする室長は男の風上(かざかみ)におけない人物としか見えないのである. 批判についても同じことだった. 批判するならもっとおだやかに,相手に反感や反発を感じさせないように,静かに,諄々と話すべきではないか.大勢で取り囲んで大声を張り上げ,ぼろ糞に罵倒するなんてもってのほかだ. 人には誰にでも自尊心がある. 自分にも必ず過ちはあるはずだ. 相手は必ず「お前だってこの間も」と考えるだろう. だから批判する時には必ず「俺にだって………」と前置きしてから,謙譲な姿勢で語りかけるべきではないか. これでは批判ではなくて非難ではないかと思えてならないのである.

佐官組を担当している指導員の崔仁杰5中尉は口癖のように

「反映も批判もみんな友人の汚ない思想を治すための親切な行為なんだ.侵略につながる友人の思想錯誤に,怒りも憎しみも感じないようで,人間転変という大事業を,どうやってやりとげようというのかね」

と指導するのだが納得できないのである.学習委員会からは

「批判自己批判は人間改造の有力な武器である.反映工作もまた一種の批判活動である」

と指導するのだが,いくら考えてみても,一応理屈としてはわかるのだが,実行する勇気が出ない152のである. これではとうてい極反動のレッテルは取れそうにない.

室長の林数馬6少佐は相変らず,室員の言動を大小となく反映していた時には私の間違った発言や不満な言動などが,討論のテーマとなって帰ってくることもあった.

私もこの人には歯が立たなかった.うっかり牽制でもしようものなら,ずばり反映されてしまうからである. こうなると私はカタツムリにならざるを得ないのである.学習中の発言も用心し,報告されても差しつかえない程度にお茶を濁すか,それとも心にもないうまいことを言って,さも進歩しているかのように見せかける以外には,とるべき方法もないように思えるのである.

前途に死刑が予想される身であるだけに,うっかり雑談もできないのである.こんな生活はまことに窮屈でおもしろくないばかりか,真面目な思想改造にはかえって逆効果となっているように思えるのである. そう気づいても言えないのがもどかしい.私は時折り

特館さん!室長ともなればいい気なもんだねえ,白分のことは反映しないですむんだからなあ………」

と,室長会議で留守をしている時など,細々と唱いたりしていた.しかしこんな心にわだかまりを持った生活は長続きするものではなかった. なぜならここの生活は世間一般のように,面白くない相手なら近寄らないようにし,たまに会ったら世間話でごまかせる生活ではない.いやでも応でも朝から晩まで顔を突き合わせているのである. おまけに毎日半日以上も討論するのである. 腹に一物あれば必ず態度にもあらわれ,言葉のはしに出てくるのである.

153私はある日の討論の席上,とうとうこのことを持ち出した.

「室長が毎日反映を出していることは,まことによいことで,そのことに反対するのではない.しかし今はおたがいに思想を改造しようと努力しているんだろう.反映しなければならないような言動に気づいたら,まず本人を批判してから反映すべきではないか」

私がこう言うと特館局長もだまってはいなかった.

「僕もそう思うなあ,室長が隅っこで何やらごそごそ書いている時にゃ,全くおもしろくないよ.それに本人によく確かめて見ないことにゃ,誤った反映になるかも知れんじゃないか」

こうなると二対一である.室長は鼻の頭に汗をかいて

「いやあ,僕は何も君たちの悪口は報告していないよ」

と,心にもないことを言わなければならなくなってしまった.

翌日私は崔中尉に呼び出された. まだ三十歳にもならぬ眉目秀麗なこの中尉は,日本語が私よりも正確な朝鮮系の党員で,革命ゲリラにも参加した人だという噂だった. 涼しい眼元に笑みを浮かべながら医務室の隣りの小さな部屋に私を案内した.

「どうかね?近頃どんな事を学習しているかね?」

と遠まわしに聞いてきた.私にはもうわかっていたので

「はあ,反映について若手意見を持っています」

真っ向から受け答えた.中尉は笑みを崩さず

154「ほーお,どんな意見かね?」

私は一部始終をそのまま話して

「これでは反映の意義も死んでしまうし,思想改造にも役立たないと思いまして」

とつけ加えた. 相手が充分話し終わるまで辛抱強く聞くのが指導員のやり方である.この中尉も例外ではなかった.

「君の言っていることは正しい.反映が障害になって発言しなくなったり,嘘の発言をするようになったのでは,反映の仕方に若干問題がある.反映を出す時には君の言うように,少なくとも本人を批判するだけの勇気を持ち,その発言の真偽を確かめてからやるだけの誠意がなければならん.そのかぎりでは君の言うことは正しい」

と言うのである. 私は若干「そのかぎりでは」が気になった. こんな言葉の後は必ずどかんとくるからである. 果せるかな中尉は私の不安に答えた.

「しかし君の言うことは根本的に間違っている.いったい君は反映や批判をよいことだから,続けてやってくれと言っているのかね,それとも弊害が多いからやめてくれと言っているのかね」

と聞くのである. こんなふうに聞かれると私は弱い. 「そうじゃあないんだ.まだわれわれの思想的力量では弊害の方が大きいからなんとかなりませんかと言っているのだ」と言いたいのだが,どうも弁解になりそうで言い難い.それじゃあどう答えようかとためらっていると,「どっちなんだね?」と催促された. だいぶきつい語調だった. この一言でどすんと背中を叩かれ,思わずほんと155の事を言ってしまった子供のように

「はあ,実のところあまりおもしろく思っておりません」

と言ってしまった.イエスかノーか? 一体どちらの立場に立っているんだと詰め寄られたら,どうしてもこう答えざるを得なかったのである.

「そうだろう.君は室長のやり方の小さなまずさを取り上げ,そこを攻撃することによって反映工作そのものに打撃を加え,やめさせようとしているんだ.いやそればかりではない.根本的にはその背後にある批判活動を怖れ,つぶそうとしているんだ」

と言うのである. 私はとんでもないことになってしまったと後悔した. 崔中尉はやめない.

「もちろん反映する側では君の言うように,正々堂々とやるように心がけねばならない.しかし考えて見たまえ,今の君たちの思想程度でそんなふうにやれる人物が何人いると思うかね」

私にはこの言葉一つで,返す言葉はなくなっていた.

「私が間違っていました」

と素直に謝った. しかし中尉はなかなかやめてくれない.

「また佐官組の全員は一応罪の事実を承認し終わっている.そして刑の裁きを待つのみと観念しているようだ.これでは暗い前途があるのみだ.君たちはこれから,自ら犯した罪の思想的根源をえぐり出し,一つ一つ点検し,なぜこんな事をするようになったかを探究し,突きとめなくてはならないのだ.こんな大変なことが反映や批判のたすけなしに,一人でやれると思えるかね」

156中尉の言葉は次第に熱を帯びてきた. 私もなるほど一人で考えていたんでは,つまるところ「休むに似たり」になってしまうだろうと思った.

「反映をスパイ視し,警戒する君の思想の本体は,中国を警戒し敵視する思想なんだよ.君はまず認罪しようとする自分でなく,拒んでいる自分の本質をつかまなくてはならない.いいかね.人間転変とは自分のきたない思想の一つ一つを改めて行くことなんだよ」

崔中尉のかんで含めるような指導はそれからも続いた. 私の考えることなすこと,みんな逆立ちしているのである.だがよく考えてみるとやはり,金源少佐,張儀検察官の言葉の範囲を一歩も出てないのである.

先日,崔中尉は「真人間に生まれ変わるということは,認罪を拒んでいる自分を見つけ一つ一つつぶして行くことだ」とも言ったが,認罪を拒んでいる自分が,「今度はこれ」「その次はあれ」というふうに,本棚から書物でも引っぱり出すように並んではいないのである.思想は必ず言動になって現われる. その瞬間に捉えて叩き直す以外に方法はない. 批判は喜んで受け入れ,批判は積極的にやる. その中で一つ一つつぶされてゆくのだ.そうだ. この方法しかない. とにかくやってみることだと決心した.

それからの私はもう,用心深く身構えている自分ではなくなっていた.思いきってやってみると,思ったほど苦にもならないし,反映も次第に気にならなくなってきた.


157昭和三十年の四月も終わりに近づいていて,高い塀に囲まれた監獄の中にも遅い春がやってきた.

いつも気になる北山の古塔のあたりにも,時折りかげろうが揺れはじめていた.そんなある日,私たちは崔中尉の指揮の下で幾組かに分けられ,運動場の隅々に花壇を作ることになった.その日はとくにポカポカと陽が照りつけていて,少し馬力をかけて鶴嘴でも振ろうものなら,額から汗が流れ出すほどの陽気だった. 私は十名ぐらいの仲間と一緒に,ちょうど私が寝ている獄舎の南側の窓下に,一メートルぐらいの幅の長い花壇を作るための土起しをやらされた.

「裏庭を掘り返していた連中がなあ,白骨を堀り出したと言って大騒ぎしているよ」

と,煉瓦屑を捨てに行く誰かが,こんな話をまき散らして行った.その庭は昨年私たちが小雀と遊んだり,秘かに鳳仙花の蕾に命を賭けてみたりした庭で,あまりにも狭いので運動場としては使えず,今年はそれを耕して全部花壇にすることにしたのである.私はそんな話にはあまり関心がなかった.

「ふーん,するとここらあたりは墓場だったのかな」

ちらっとそう思っただけだった.同じ棟にいる大村忍7さん[ここの元監獄長]から

「何しろこの監獄は大急ぎで建てたものなんですよ.あまりにも急いで治外法権を撤廃したもんだから,建物の方が間に合わなかったんですよ」

と聞いていたので「ろくろく墓場の整理もやらずに建てたんだろう」ぐらいにしか考えなかったからであった. やがて正午も近づいて花壇の整備も一段落ついた.あとは吉日を選んで種を蒔くだけ158となった.私たちは工作組長の命に従って手洗場の方に集まった. 手洗場と言っても大した設備があったわけではない. 運動場の片隅に一メートル近くの水道管が突き出していて,それに蛇口が取りつけてあるだけだった.

今日はたくさんな人がごった返していた.水道栓からだいぶ離れたところに大きな机が置いてあり,その上にきれいに洗った白骨がきちんと並べられていた. シベリヤ時代から積極分子で有名だった村上勇次8元参謀少佐が,青い顔を緊張させて,人混の中を右往左往していた.

私は白骨を一瞥しただけですぐ手洗いにかかった.

島村は物知りだからこれがわかるだろう.この白骨は何かね?」

私の背中で崔中尉の声がした. 何んだか小馬鹿にされているようで不愉快だった.だが中尉はしごく真面目な顔をしているのである. 仕方なしに私は白骨に近づいた. 十五,六歳の女の白骨という以外に,別になんということもなかった. 「考古学者じゃああるまいし,白骨の鑑定なんかできるもんか」と思って離れようとすると,崔中尉は額と後頭部の小さな穴をさして

「これは弾の跡と違うかね」と,だいぶきつい口調で聞いた.私は頭を大きく振って

「弾の跡なら出口の方がもっと大きな穴になっているはずです」

と答えると,人垣を離れて獄舎の入口の方に歩いて行った.途中村上勇次元参謀少佐が,何やら小さな物を大事そうに持って,白骨の出た裏庭の方から駆け出してくるのに出会った.鼻の頭にいっぱい汗をかいて,眼は血走っているのである。やがてうしろの方で

159先生,また一つ指の骨が見つかりました」と上ずった声で報告しているのが聞こえた.

「相変らずのおっちょこちょいだなあ」

私は軽く聞き流して獄舎に入った.

それから二,三目したある夜,私はふと寝床の中で,この白骨のことを思い出してはっとして起き上がった.

あの白骨は敗戦のどさくさにまぎれ,誰かが殺して埋めたものに違いないのである.あるいは暴行後発覚を怖れて殺したのかも知れない. いずれにせよわれわれ侵略者の犯罪の,確固とした証拠品に違いないのである. その被害者たる人の白骨を前にして,「考古学者じゃああるまいし………」と,しゃあしゃあとしていた自分,崔中尉は弾の跡まで示して気づかせようとしてくれたのに,私は何たる態度だったことか.ある日の討論会で大同学院同期生の坂田義政9

「私のこの手からは,殺害した中国人民の血の匂いがする」

と懺悔したことがある.またこの監獄の典獄だった大村忍さんは

「この壁からは,私が惨酷に取り扱った中国人民のうめき声が聞こえてくる」

と深刻に反省していた.もし私がそのような心境になっていたとしたら,すぐそれと気づき,あの白骨の前にひざまずいて合掌したに違いない. 村上参謀のあのうろたえた態度こそが,まさに彼の良心の呵責からくる,いても立ってもいられない心境の表現だったに違いない.

160私たちはもう長いあいだ新聞を見ていなかった. いや,この二ヵ年は新聞どころではなかった.

しかしおかしなもので新聞を見ていなくても,朝鮮戦争が今どうなっているか? 日本はこの戦争にどうかかわり合っているか? 中国の国内情勢は今どう変わりつつあるか?そして一番関心の深い日本と中国の関係が,今どの方向に発展しているかについては,誰に聞くともなしに知っていた.

三月に入ってから瀋陽日報」を手にするようになっていた. 世界や中国の変化,特に日本の状況が詳しく知れるようになったので,討論資料もそれだけ豊かになってきていた.私たちは何回も何回も,日本とアメリカが本質的にどうつながり合っているか? 日本の支配者たちがこの関係をどう利用し,日本をどの方向に押し進めようとしているかについて討論した.そして日本の人民がこれに対してどう対処しているかについては,もっとも重点的に討論した.

私たちが新聞を手にした頃,中国の農村ではちょうど初級合作社がほぼ全国的に完成し,早い地区ではぽつぽつ高級合作社が誕生しつつあった. ハルピンにいたころ見た新聞では,互助組の結成がほぼ終わって,進んだところで初級合作社が生まれつつあったのだが,二ヵ年近くの間に中国の農村はめざましい勢いで社会主義の方向に変貌しつつあった.私たちは今までずっと「共産党の圧制による革命のごり押し」を信じていた. 土地革命→互助組→初級合作社→高級合作社へと遮二無二押しまくっている共産党のせっかちな政策の下で,農民は生命の危険さえ感じながら,ふうふう息を切らして走らされているに違いない.

161「左手(ゆんで)にコラン,右手(めて)に剣とは,回教の専売特許ではなくて,中国共産党のやり方ではないか」

とさえ考えていた.ところが新聞に出てくる数々の事実,農民の発言の内容からみると,農民が自ら熱心に学習し,討論し,自らの力で矛盾を発見し,解決している姿がはっきりとわかってくるのである.

このような学習の中でわれわれも,中国人民の圧力によってやむなく洗脳されているというのは間違いで,実は中国人民[主として指導員]の外部からの刺激を受けつつ,また友人の批判を受けつつ自ら能動的に問題を解決し,自ら積極的に洗脳しているのだ.自分の脳は自分で洗わない以上,納得のできる解決はとうてい得られるものではないと気づくようになった.


昭和三十年五月に入った. 私たち十名近くの者は棟の入口に近い空部屋に呼び込まれ,崔中尉から,日本からはじめて届いた手紙を受け取った. 十年ぶりのことである. 崔中尉はニコニコしながら

「すぐここで読んで見なさい」

と促した. 私への手紙は妻からのものであった.相変らずの下手な字で,別れて以来の生活をかいつまんで書いであった. 約一年余り長春新京にいた間は,生活に困って持ち物を売り歩いて暮した.やっと里に帰りついたが幼ない子供を抱え食べるにも事欠き,子供は子守りに出し,自分162は行商をやって糊口をつないだ. その後は親戚やあなたの友人の情で,銀行に勤めながらどうにかやっているが,生活は楽ではないと書いてあった.下手なその文字の一つ一つに,長い十年の苦労が浸み出ているようで痛々しかった.

妻はまた長女のこと,次女,三女がどんなに大きくなったか,今何をしているか細々と書いてよこしていた.だがたった一人しかない男の子のことについては,何一つ書いてきてないのである.

「もしかしたら鉄彦10は………」 不吉な予感が胸を暗くした.

「じゃあ,一つ感想でも述べあって見ようじゃないか」

崔中尉が,言い出した. 夕食が近づいて部屋の中はだいぶ暗くなってきていた.私のすぐ前に座っていた鹿毛繁太[元金州*錦州*市警察局警務課長]さんが手を挙げて

「私の妻は身体も弱いので,今とても生活に困っています.その日その日のお米にも事欠いていると書いてきています.年老いた妻のこのような苦しみを知って,私は今腹の中が煮えくり返るようです」

「もちろん私は中国人民に対して滔天の罪を犯しました.また日本人民にも多大な損害を与えた人間であります.しかし日本政府としてはですよ,使える時はじゃんじゃん使って罪を犯させ,私がつかまったらいくら老妻が路頭に迷っていても,知らぬ顔をしているのです.私は認罪がおくれた人間です.だからかも知れませんが,全く憤慨にたえません.私の考えは間違っているでしょうか」と言って涙を光らせてみんなを見回した. 私も同じことを考えていた. だがどこか163間違っているような気がするので言えなかったのである. すると進歩分子だった小林喜一憲兵少佐が

「私は鹿毛さんの考えは間違っていると思います.われわれは日本人民に対しても重大な罪を犯しております.それなのに人民の血税をもって妻を救済しろなどと考えるべきではないと思います」と反対した.崔中尉は一人一人「君はどう思う」と聞いて回った.私も聞かれたが,みんな小林少佐の発言に賛成した. 崔中尉はだいぶきつい語調で

「僕は鹿毛の憤慨は正しいと思う.君たちはすでに朝鮮戦争の学習で,米帝国主義が中国を侵略しようとしてどんなにやっきになっているか,その中で日本政府がどのような役割を果しているか,学んだはずだろう.それなのに君たちはこの問題では,認罪を口実に誰を擁護しようとしているのかね?」

と言い捨てると,さっさと出て行ってしまった.それ以上は内政干渉になるので,言いたくなかったのかも知れない.


私はやはり妻の手紙が心配になるのである.たった一人の男の子のことについて,なんにも書いてこなかったということは,なんとしても気がかりなのである.

「ひょっとしたら帰国のどさくさの中で,妻からはぐれて迷い子になったんではなかろうか?」

と,とんでもないことを考えたりするのである. 「何を馬鹿な!」と打ち消してみても

長春10で私を探して家出したまま,行方不明になったのと違うかしら」

164とも考えるのである. 寝床の中などでこんなことを考えはじめると,もうそうなってしまっているかのように思い,いても立ってもいられなくなるのである.

実はこう考えるのには多少の根拠があった.今はもう誰から聞いたのか忘れてしまったが,真白なヒマラヤ11の嶺々が夢のように南の空に浮かんでいるウズベックの農場で働いていた時だった. 鉄道警護軍の少佐だった一人の友人が,私と並んで鍬を振りながら,こんな話をしたことがあった.

その人は敗戦の時新京の自宅でつかまえられた. 旧海軍官府に送られて一週間くらい取り調べられると,南嶺12にあった大同学院に移され,そこで一ヵ月近く待機させられた. ここの生活は武官府のそれよりずっと自由だった.元気な者は毎日新京駅に狩り出され,貨車の積み降ろしや倉庫の整理などをやらされた.

私の友人もその中の一人だった.毎日トラックに乗せられて出かけたが,ちょうど南湖の街角に差しかかった時だった.七っか八つの男の子が両手を高く振り振り,躍り上がるようにして

「お父ちゃん!お父ちゃんはいないかね?」

とトラックに向かって呼びかけた.半ば泣いているような,半ば気でも狂ったようなその声に,みんなは思わず顔をそむけた. その子は毎朝,毎晩そこに立って叫んでいた. トラックが遠い街角を回って消えるまで,両手を振り振り叫んでいた.

「俺にもなあ,ちょうどあれくらいの子があったんで,胸が詰ったよ」そう言ってその友人はポロポロ涙をこぼしていた. ところがその南湖の街角というのは,私が家族を残してきたところの165すぐそばだった.

「ええ?その子の顔はどんなだった?」私がせき込んで聞くと

「眼の大きな,色の白い子だったよ」

私は危なく「あっ!」と声を出すところだった. それから後はその子が,一人息子の鉄彦に違いないと思うようになっていた. 私は我慢ができなくなって

鉄彦の消息がない.どうしたのか.もしものことがあったとしても決して驚いたりはしない.ほんとうのことを知らしてくれ.そうでないと,とんでもないことを考えたりするので,今の生活には毒だ」と書き送った.


昭和三十年七月に入っていた. 中国の監獄に五度目の夏がやってきたのである. 私たちの討論学習も次第に油が乗ってきて,時には頑固者[極反動]に対する集中批判[ソ速ではこれを吊しあげと呼んでいた]も行われた.私も二回か三回か受けたが,ソ連とは比べものにもならぬ緩いものだった. 来間隆平13という法務少佐[ソ連以来の有名な極反動]「手を切れ」と言って詰め寄られたこともあった.

一方,学習委員会の指導する文化活動も次第に伸びてきて,時折り夕食後の一時,運動場に出て「文化の夕べ」などをやり,若い人々は愉快そうに踊ったり歌ったりしていた.

その頃日本から松本治一郎14さんの一行や,茅東大学長の一行が訪れて,みんなを慰問して帰って166行った. 私たちの間にはようやく

「このぶんなら帰国も遠いことではあるまい」という安堵の色が見えはじめていた.青かった顔も次第に陽焼けがしてきて,どことなく生気が甦ってきていた.

だが私たち十数人の者だけはその外にいた.というのは松本治一郎さんの一行の来てくれた日だった.私たち十数人の者は突然呼び出され,遠い山の中腹にある立派な煉瓦作りの家に連れて行かれた. そこには見たこともない検察官らしい人が待っていて,その人を中心に討論学習をやらされた.テーマは今まで何回となく繰り返してきた世界情勢で,発言の内容もきまりきった文句を連ねるだけで終わった. そこで五時間近い無駄な時間をつぶし,狐につままれたような顔をして帰って見ると,「おい,お前らいったいどこへ行ってたんだ.松本治一郎さんの一行が来てくれたんだぞ」と詰問されるしまつであった. みんなはニコニコしてはしゃいでいた.

「元気で今しばらく頑張っていてくれたまえ言ってなあ,涙をポロポロこぼしていたよ」

私にはそんな話はますます憂鬱になるだけだった.

「近い将来,俺には何かがおこる」

と思ったが,誰に相談する術もなかった.


その翌日だった. 文化の夕があるというので廊下の出口まで出た時,看守から一通の手紙を渡された.妻からの返事だった.

167鉄彦は三年前に死にました.自転車に乗っていて,バスにひかれて死にました.あなたに預かった大事な男の子をこんなことで殺して申し訳ありません.報(しらせ)に驚いて勤め先から帰ってきた時は,もう血みどろになって息が絶えていました.あなたが嘆かれると思ってかくしていたんですが………」

妻の手紙は長々と続いていた.下手なペン字が今日はよけいに波打っていた. みんなは新しいポルカの踊りを習うんだといって,若い戦犯の方から派遣された二人の講師を真中に,踊り方の説明を聞いていた.

私はとても踊る気にはなれなかった.ふらっとその環を離れ,隅っこにある花壇の方に歩いて行った. 方一メートルにも足りないその花壇には,鳳仙花がいっぱい生い繁っていて,根本に真赤な花弁が土が見えないほど落ちていた.

「鉄ッちゃん!」

私は一番高いところに咲いている大きな花を見つけて呼んでみた.すると涙がいっぺんにこみ上げてきて,ぼーッと花がうるみ,やがて見えなくなってしまった. 若い講師の一人が走ってきて

「貴様,文化活動をさぼる気か」

と,どすんと私の肩をこづいた.だが私の頬を伝っている涙を見ると,何も言わずに帰って行った.

「子供さんを亡くしたそうだね」

168夕食後崔中尉に呼ばれてこう聞かれた.同情のこもった声だった

「はあ,子供の死を悲しむ資格もない私なんですが………」と低い声で答えた.

「いや,最愛の子供さんの死を悲しまない親がどこにあるかね」

私は崔中尉の言葉を聞いて,また新しい涙がこみ上げてきそうになったが,それをぐっと眼頭にこらえながら

「そうだ,認罪とはわが子の死を悲しまないような,そんな人間になることではないんだ」

と思った. 別れを告げて部屋を出る時

「二,三日ゆっくり休みなさい.文化活動にも参加しないでいいからね.それにもし食欲でもないようだったら,特別食を頼んでやってもいいよ」

と言ってくれた. 特別食だけは固くことわったが,私はもう十年余りいたわりの言葉なんでものは聞いたこともなかった.とくに今日の私には,やさしい言葉が一番胸にこたえるのである.廊下に出た時,今まで見せまいとしてこらえていた涙が,かすかな咽びとともにいっぺんに堰を切った.私は流れる涙をぬぐおうともせず,誰に会っても眼を合わせようともせず,涙のキラキラと輝く一番遠い灯りをみつめて歩いた.

 

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1 Yagi Haruo, Oberleutnant der 満軍, 佐官組の学習委員; hat zweibaendigen Bericht ueber die Gefangenschaft publiziert (抑留記)

2 Hashimoto Misaki, Oberleutnant der 満軍
3 meist ハルピン od.  ハルビン geschrieben: Harbin, Stadt nördlich von Xinjing, Hauptstadt der Provinz Heilongjiang
4 Sibirien
5 Cui Renjie, Oberleutnant, Dolmetscher
6 Hayashi Kazuma, Major der Infanterie 歩兵少佐, eigentlich: 林一馬
7 Ômura Shinobu, 元監獄長

8 Murakami Yûji, früherer 参謀少佐
9 Sakada Yoshimasa, Shimamuras 大同学院同期生
10 Shimamura Tetsuhiko, Sohn von Sh. Saburô
11 Himalaya
12 Nanling --- Gruppe von Gebirgszügen, die Zentralchina von Südchina trennen
13 Kuruma Ryûhei, 法務少佐, ソ連以来の有名な極反動
14 Matsumoto Jiichirô (Haruichirô)
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