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中国人民の告訴文

検察官の意見書に捺印してからの私は,なおいっそう憂鬱になっていた. やはり「厳重な処分を要求する」がこたえたのである.

1さん,いったい何があったんだい?」

と心配してくれる同室の二人にも,一週間近くだまりこんでいた.話す元気が出ないのである.

だがその後私に対する呼び出しは,ぱったりやんでしまった.おそらく取り調べが一段落ついたということだろう.

昭和二十九年の三月の終わりか四月のはじめ頃だった. それまで上坪2中佐がずっと餌(えさ)[主としてパン屑]をやり続けてきた親雀が,小雀を連れてやってくるようになった. 硝子窓の中ほどにある小窓を開けると,ぱっと屋根の上に散ってしまうが,餌をまいて小窓を締めると,やがて二羽,三羽と降りてきて餌をついばむのである.

「おいッ,さんあそこにびっこがいるだろう」

ある日上坪中佐がこう言って私を呼んだ. なるほど二十羽ぐらいの群のはしつこにいる小さな奴が,びっこをひいていた.

139「あいつなあ,とても人の好い奴だよ.いつもほかの奴に餌をとられるんだ」と言ってから

「ほら,あいつ,あいつ!びっこの右にいる黒みがかった奴,あいつはとても意地悪なんだ」

どうやら上坪中佐はもう,小雀の顔を全部覚えてしまっているらしかった.

「ほら,またびっこの餌を取りやがっただろう.悪い奴だ.さんみたいな侵略者だよ」

と変な冗談を言うので,

「おいおいッ,ひどいこと言うなよ」

と私が抗議してもへらへら笑いながら

「あんな奴,今に死刑にしてやらんにゃあ」

と,独りで憤慨しているのである.

私たちは五時が起床だった.だが雀たちはずっと早起きで,眼を覚ました時にはもう窓下にやってきていて,チョンチョン私たちを呼んでいた.

さん,俺なあ毎日一尺ぐらいずつ餌を窓下に近づけてまいているんだよ」

その日さっそく昨夜(ゆうべ)の残飯をまき終った上坪中佐は,私をつかまえてこんな話をしていた. それから二週間ぐらいたった頃

「ほら,窓のすぐ下にきているだろう」

140という. なるほど五,六羽の小雀が窓硝子のすぐ向こうの窓べりで,チョンチョン餌をあさっているのである. 私が動くとすぐ逃げたが,一番あとまで逃げないのはあのびっこの小雀だった.それからのちは朝早くからやってきて,硝子をコツコツ叩いて餌をねだるようになっていた. 顔を近づけてもあまり逃げようともしない. 私はふと

「われときて遊べや親のない雀」

という一茶の句を思い出して苦笑した.こんな牢獄で一茶を気どってみたって,味もそっけもなかったからである.

小雀が大きくなってどこかに飛んで行ってしまった五月のはじめ頃から,この狭い裏庭には名も知らぬ雑草が一面に芽を吹いてきた.満洲の雑草の伸びは早い. 六月に入ったらもう六十セシチ近くになっていた.

ちょうど窓の右端の前方,そうだ最初にびっこの小雀を見つけたあたりに,ひときわ伸びた箒草(ほうきぐさ)の一群が繁っていた.その手前にヒョロヒョロと伸びた一本の鳳仙花が,真赤な花を一輪だけつけて,じっとこちらを見ているのに気がついた. 今朝咲いたばかりのようだつた. 私はそれから毎日,一度か二度は必ずそれを見るようになっていた.

それから一週間もした雨の目だった.その鳳仙花は茎もだいぶ伸び,蕾もたくさんつけたが,最初の花はもう根本(ねもと)に散っていた. 私はふと

「そうだ,自分も今にあの花弁のように散るのだろう」

141と思った. なおよく見ると右に伸びた小枝の五枚目の葉のつけ根にふるえていた. 花になるにはまだ四,五日はかかりそうだつた.

「うん,彼奴(あいつ)が散るのとどっちが早いか」

私はその蕾に賭けてみた.そして毎日その蕾の成長を見ていた.

そんな事があってからすぐだった.私はまだ呼び出された. 今度は監獄の中の一室で,日本語のうまい見知らぬ検察官らしい人が待っていた.

島村,今日から保安局罪悪史を書いて見ないか」

といきなり相談を持ちかけられた.私は即座にことわった. 書けるはずがないからである.

「私の犯した罪行なら書けますし,すでに陳述も終わっています.しかし保安局は内部でも横の連絡は全くありませんでした.どの課がどんな仕事をしていたかくらいのことなら知っていますが,具体的にどんな事件を,どのように取り扱っていたかになると,まったく何も知っていません.こんな程度の知識で書いて見たって物の役には立ちません」

と言う私に

「十人近くの旧部下をつけてやるから,よく検討して編纂して見ないか」

と言ってきかないのである.どうやら若い人々が集まってやり始めたのだが,手におえなくなったので,お鉢が私の方に回つできたらしいのである. それらの人々にも会って話し合っても見た. みんな現地の防謀専門の特捜班長[スパイ操縦者]ばかりなので,巨象の鼻については詳しいが,142全体のことについては何も知らぬ人ばかりなのである.

「やれるだけやって見るという姿勢が大切だ」

と言われたのではどうにもならない.とうとう引き受けさせられてしまった. 私はそれから毎日この部屋に出勤して,四ヵ月間書いた. 四百枚を下らない大部なものになったが,当時小耳にはさんでいた常識話を書き連ねたもので,まったく期待とは遠いものであった.

私はこの保安局の罪悪史を書きながらも,鳳仙花の成長を見るのを忘れはしなかった.私が賭けた花はとうの昔に散ってしまっていたが,私はまだ生きていた. そこでまた一番高い蕾に賭けた. そのうち鳳仙花は雑草とともに刈り取られてしまった. それでも私はまだ生き残っていた.

上坪中佐の部屋にきた頃から,部屋に室長がきめられ,時おり学習討論をやるようにと催促された. 私は保安局罪悪史を書きはじめてからは,めったに討論には参加しなかった.時に参加しても,室長である上坪中佐はこんなことが苦手らしく,あまり深刻な問題についての討論はやろうとしなかった.

「裁判はいつ頃あるんだろう」

「死刑の判決もあるんだろうか」

なんていう,裁判についての占いが多かった.そして大概の場合,私と上坪中佐の「死刑先陣争い」で終わっていた. そうなると小野寺警部はいつも聞き役にまわった上に,遺言の伝達役にされていた.

143その頃若い人々は真剣な批判会を持ち,人間変革に精進していた. 所用で棟外に出た時など,各部屋から洩れてくるはげしい怒号が,手に取るように聞えてきた.中には泣き叫びながら自己批判している者もあった. だが佐官組にはまだ,こうした動きは出ていなかった. 多分取り調べが完全に終わってなかったからだろう.


昭和三十年二月になって,佐官組全体の部屋がえが行なわれた. 私は廊下の反対側にある林数馬3林一馬 という歩兵少佐が室長をしている部屋に移された. そこには特館義雄4という双城5街の警察局長をしていた人がすでに来ていた.二人ともシベリア以来まったく面識のない人だった. 寒い満洲とはいえ,暖房のよくきいた南側のこの部屋には,冬の澄みきった空から部屋いっぱいに太陽が差し込んできていて,ぽかぽかと春の陽気が漂っていた.

私はその翌日呼び出された.今度は顔見知りの通訳官がただ一人座っていた. 私を笑みで迎え入れてくれた通訳官は,時折り見かけたあの部厚な告訴文の綴り三冊を私の方に押しやり

「今日からこれに目を通し,一枚一枚にサインしなさい」

と言ってポケットから煙草の箱を取り出しながら

「いいかね,ゆっくり読みなさいよ.間違っていると思うものにはサインしないでいいからね.………」

と言い捨てると,何か忙しい仕事でも待っているのか,そそくさと出て行ってしまった.

144朝日のいっぱい差し込むこの部屋には,例のだるまストーブが勢いよく燃えていて,そのそばにはうずだかいまでに石炭を入れたビール箱が置いであった.私はまず煙草に火をつけ,プーッと太陽の光線の中に吹き込んでから,その煙の向うの硝子窓の外に眼をやった. いつものようにたくさんの雀がやってきて,例の高梁幹(こうりゃんかん)の垣根で大騒ぎをしていた.

「あれからちょうど二年になる」

と思った. あの時は見当のつかない前途に怯えながら見た雀だった.

「何糞ッ!白状なんか金輪際」とも思って見た雀だった.「雀君,金輪際どころか全部吐いてしまったよ.変わらないものは命がけの不安だけだ」

私は無心に騒いでいる雀にこう話しかけて頁をめくった.たくさんな人の字がぎっしり詰っていた. 四センチ近くもある部厚な綴りが三冊もあるんだから,三,四百人の人が書いたものに違いない. 私はそれから九日間,毎日ここにやってきて読み続けた.

三江6省の各県の被害者が書いたものもあった. 特に肇州7県のものが多かった.だが蒙古関係のものはあの「功績調書」だけだった. 中には革命後の県長や,県の党書記が調査した報告書もあった.

私が捺印した公文書の焼け残りも数枚綴り込んであった.

被害者の父母兄弟の書いた告訴文には,必ず肉身が殺害された当時の状況を事細かに書いてから

島村三郎を八つ裂きにしても飽き足りない.どうかこの日本鬼子(リーベンクイズ)を死刑にして私たちの恨みを晴らして下さい」

145と書いてあった. 私はその「死刑」という文字を見つけるたびに,ぎくっとした. 三江省の特高課長をしていた頃,同室にいた直接の部下孟慶和8警尉も私を告発し「死刑」を要求していた.あの童顔の若い警尉が私のことを,こうまでに書くのかと胸が痛んだ. 文全体の調子から見て,どこかの刑務所で思想改造にいそしんでいるらしく思えた.

死刑になったはずの肇州県の金警尉,郭警佐の二人もかれらの陳述書のいたる所で,私のことについて触れていた. 私が自殺を賭けて頑張った斬首事件は,これを警護した郭警佐が暴露していた.

「横暴な日本鬼子島村三郎は,このようにして中国人民の生命を,まるで犬ころでも殺すかのようにして奪い取った」

二人はこうして私を憎み,恨み,そして自分自身をも売国奴と罵って死んで行ったらしかった.糧穀出荷についての訴えもたくさんあった. 私が肇州県副県長時代,自分の成績を上げようとやっきになり,多くの警察官や村長を督励してやったあの糧穀出荷運動の下で,いかに多くの農民が苦しみ,悲惨な境遇に追い込まれていったことか,と今さらのように驚いたのである.ある告発者は自分の父が警察官から,「まだ隠している」と攻め立てられ,とうとう井戸の中に飛び込んで自殺したと訴えていた.

せつせつと訴える被害者の怒りと憎しみ,悲しみと恨みの一字一句は,頁をめくるたびに私の胸をかきむしり,ゆさぶった.私は今さらのように,私がかって平然としてやってのけたこと,国家146のためだと思ってやっきになってやったことの一つ一つが,これほどまでに中国人民を傷つけ,悲しませ,怒らせ,不幸におとしいれていたのかと愕然とするとともに,自己の行為の残虐性,侵略統治の残忍性を思い知らされたのであった.

最初私の心は,火鍋の上の蟻みたいに,死刑という字を見つけるたびに右往左往うろたえていた.だがだんだん読み進むにつれて「死刑にしてくれ」と書いた頁を開けたまま,じっと考え込むようになってきた. そして最後には,先日来の憂鬱はどこかにけし飛んでしまい,「殺されても仕方がない.いやそれが当然だ」と思うようになってきていた.

「私の祖国日本をどこかの国が侵略して私の息子を,娘を殺害したとしたら」 「私の財産,私の国の地下資源,私たちの作った穀物を奪って,本国に持ち帰ったとしたら」 「私の生れた県の要所要所に軍隊を駐屯させ,私の県の副知事に異民族が座り,私の町の警察署長に侵略者がなったとしたら」 私はどうするだろう. 私の兄弟も友人もどうするだろう.

「征服者の口から叫ばれる民族協和の呼びかけをどう聞き,どう理解するだろう」

私も友人もともに銃をとって立ち上がるに違いない.その戦う兄が,弟が,友人が匪賊だと呼ばれて惨殺される. 私の父は,母は,姉はどれほど怒り,どれほど嘆くことだろう. そしてきっとこれらの人々のように,「必ず死刑にしてくれ」と叫ぶに違いない.

私はアジアのため,日本民族のためと聞き,自らもそう信じて満洲で働きつ申つけた.そしてこのような不幸な人々をたくさん作った. いったい誰が私をこうさせたのか?

147「国家か?上司か?」

「それとも私一人の責任でか?」

私はそれからそれへと関連の糸をたぐっては考え,考えてはまた読んで行った.私は被害者の死刑を要求する告訴文を前に置いて,一面,死の恐怖におびえながらも,私の"罪の客観性",私の"行為の客観的価値"について,少しずつ考えるようになってきていたのである.


告訴文の綴りを読みはじめて七日たった.三冊目ももう残り少なになっていた. 私はこの日の正午近く肇州県文化9村の楊10氏という老婆の告訴文を読んだ.

「今はもう七十五歳になり,誰一人身寄りもないので村人の情にすがって,その日その日を送っています」

たどたどしい文章には土語がたくさん使われているのでとても読みづらかった.私はその拙い文字を一つ一つ拾って読んでいるうちに,やがて全身の血が凍ってしまったかのように,身動きもできなくなってしまったのである.

警佐の奴がやってきて,儂(わし)のたった一人の息子をつかまえて行った時は,眼先が真っ暗になかり,何も食わずに三日三晩,炕(かん)[オンドル式の寝台]の上にうつ伏して泣き明かした」

「村長さんの話では儂の息子は,副県長の奴に斬り殺されてしもうたそうだ.貧乏で嫁も貰ってやれなんだで,儂はそれから一人ぼっちで乞食をして暮してきたぞ」

148「お役人様,今度できたお上は儂らの言うことを聞いてくれるということじゃが,どうぞ副県長の鬼奴を死刑にして下され,息子の讐(かたき)を取って下され」

「これが歳をとって乞食にも出られなくなってしまった婆のたった一つのお願いだ」 [まだ土地改革もはじまらず,養老院制度もできていない頃に書いたものである]

老婆の文字は一字一旬が泣いていた.もだえのたうち,哀願していた. 布団をかきむしりながら鳴咽(おえつ)する老婆の姿が,はっきりと瞼(まぶた)に浮んでくるのである. その瞼の下から悔恨の涙が,そうだ! 被害者に対するはじめての涙が,止めどもなく頬を伝って流れはじめた.

「お婆さん,許して下さい」

私は思わず綴りをつかんでむせんだが言葉にはならなかった.

 

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1 Shimamura Saburô, 副県長 von Baicheng und Zhaozhou (= Sh. Saburô); geb. 1908, Verwaltung Geheimpolizei; im Juni 1956 in Shenyang zu 15 Jahren verurteilt, im Dez. 1959 entlassen; Vorsitzender des Vereins der China-Heimkehrer (Chûren); 1976 gest.

2 Kamitsubo Tetsukazu, Oberstleutnant, 憲兵隊長 von Jining bzw. des Stadtbezirks 街地区 Siping
3 Hayashi Kazuma, Major der Infanterie 歩兵少佐, eigentlich: 林一馬
4 Tokudate Yoshio, 警察局長 in Shuangcheng
5 Shuangcheng, Stadt in der Provinz Heilongjiang, ca. 42 km südlich von Harbin
6 Sanjian, frühere Provinz
7 Zhaozhou, Kreis in Daqing

8 Meng Qinghai (Qinghe, Quinghuo), 警尉, Untergebener Shimamuras in Sanjiang
9 Wenhua, Dorf im Kreis Zhaozhou
10 Yang, alte Frau aus Wenhua