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検察官の意見書

それから半ヵ月ぐらいたって私は他の部屋に移された.気分でも変えて考えて見ろということだったのかも知れない.

ハルピン1時代そうとう長い期間,一部屋で暮したことのある小野寺広元2[元関東3州警部]さんと,シベリア4以来の顔なじみだった上坪鉄一5憲兵中佐四平6街地区憲兵隊長]と一緒になった. 二人は青い顔をしていて元気がない.特に小野寺警部はしょげている.

「いったい,どうしたんだ」

と聞いてもろくすっぽ返事もしない. 上坪中佐が代わって,

小野さんはなあ,取り調べが暗礁に乗り上げているんでご機嫌ななめなんだよ」という.その言葉でやっとくすりと笑った小野寺警部は

「弱ったよ7さん,なんかいい知恵ないかいな?」

と聞くのである. 私もあきれて

小野さん小野寺さんの略称]がやったことじゃあないか.他人の俺に何ができると言うんだ!」

「そこを助けるのが友情というもんじゃあないか?」

128口では冗談にごまかしているが,顔はそうとう困っているようだつた.

小野寺警部は当時大連で騒がれた中国共産党の放火暴略事件の弾圧に関係していたとか,していないとかで,もう検察官を三人も代えて頑張っているのだそうだ.

「で,ほんとうはどうなんだ?」と聞く私に

「俺にもわからなくなったんだよ」

と頭をかかえるのである.

「どうしてそんな事になったんだ」

「あの朝のいっせい検挙にさ,俺は確かに行かなかったと思うんだけど,行ったと言う男があるらしいんだ」

小野寺警部は特高課に席を置いていたが,始めからこの事件の担当者ではなかった. その点は検察官も認めているのだそうである.

「そんなことならはっきりしないという方がどうかしているよ.俺のようにさ,各県から上がってきた公文書に盲判を押していた事件が多いのだったら,思い出せないということもあるだろが,君のは君自身行動したかどうかなんだろう.それが思い出せないでは通らんよ」

私がこうきめつけると小野寺警部は,人一倍大きな頭を横に振って

「検察官もそう言うんだ.だけどあの朝,暗いうちに出発して,誰と誰を連れ,何街の誰の家在,129こうして襲ったはずだと毎日詰め寄られているとだよ.報告書を読んで[回覧]知ったのか.別のこそ泥をつかまえに行った時のことなのか[こんな事はたびたびやっていた],それとも俺が応援の意味で出動していたのか,何が何やらわからなくなってきたんだ」

と言うのである. 若干誘導訊問臭いとも思ったが,これでは他人の口をはさむ余地もなさそうなので

「それで小野さんはどう返事する気なんだ?」

「どうもこうもないさ.明日が大詰なんだ.もう仕方がない,出動したことにするよ.だけどなあ!出動状況など細かくついてこられるとおてあげだしなあ………」

と暗い顔をする. 上坪中佐が横合から

「だから小野さんはだめだと言うんだ.もっと科学的に分析して見てだなあ,確信のあることを言わなきゃだめだよ」

と非難する.

「そう言ったってさ,出動しなかったという立証ができないんだから」

と言いかけると

「その態度がいかんのだよ.半信半疑のまま認めたら恨みが残るだけじゃあないか.それでは正しい認罪は出来ないし,人間転変もできっこないよ」

と食ってかかるのである.

130なかなか正論をぶつ上坪中佐も青息吐息だった.取り調べはすでに終わっていて,最後の総括書も仕上がり捺印もすんでいた.

「儂はもういかんと思ったので,最初からみんな自白したんだ」

と言いながも,

「絶対に死刑になる」

といってしょげているのである.

「儂は鶏寧8(けいねい)でつかまえたスパイを十三人も,石井9部隊に送ったんだからなあ!」

と言う. 石井部隊というのはハルピンにあった細菌戦の秘密研究部隊のことだった.

「しかし君はそれだけなんだろう.僕の十分の一にも足りないよ」と気安めをいうと

「いやだめなんだ.絶対だめなんだよ.石井部隊と言やあ世界的にも有名な犯罪部隊なんだ.それに石井中将は今アメリカに行って細菌戦研究を指導しているそうだ.中国が参戦[朝鮮10戦争]してから奉天11錦州12方面に,菌を持った蚤や蚊をバラ撒いたといって大騒ぎしている時なんだ.これに関係した犯人がこうしてつかまっているんだろう.一人や二人死刑にせんことにゃあ第一中国の人民が承知しないよ」

と言って一歩も引かないのである.言われて見ればもっともなような気もする.

それから一週間くらいすると,小野寺警部はとても朗らかになっていた. 放火謀略事件に参加131したと認めた当座は,青い顔をして盛んに細部の創作に吐息をついていたが,ある日朝から呼び出されたまま,夜の十二時になっても帰ってこなかった.翌朝顔を見るとにこにこしているのである.

「どうしたんだ」

と聞くと大きな頭の後ろに手を当てて

「いやあ,昨日はこてんこてんにやられたよ」

と言う. だが言葉とは反対に眼は笑っているのである.

「全くぺちゃんこさ.お前は外に出て半時間くらい頭を冷やしてこい言われてなあ」

上坪中佐が膝を乗り出して

「嘘がばれたんと違うか」

と聞くと

「そうなんだよ.もう十一月だろう.夜風は身にしみてこたえたよ」

と言う. さっきからしきりに「やられた」とか,「こたえた」とか言うが,少しもこたえているふうには見えなかった.話はこうだった.

あの謀略事件に最初から関係し,計画指導した高田13という元警部補が

小野寺警部はこの事件には,いっさい関係していない」

と証言したのだそうである.それを知らない小野寺さんは検察官から

「今一度よく考えて見ろ.いったいどうなんだ?」

132と何回聞かれでも

「いや,確かに参加しています」

と言い張っていた.夕方近くなってとうとう高田警部補と対決させられた.そうなると小野寺元警部補の創作はこっば微塵に砕かれてしまった.

「中国人民を愚弄するにもほどがある」といって外に出されたというのである.

私たらは何も刑の大小をきめるために取り調べられているのではなかった.問題は上坪中佐が言っていたように,いかにして正しい認罪をするかにあったのだ.そのためには飽くまでも,いいかげんな妥協,心にもない事実の承認は許されないのである. もう一回言うなら「正しい認罪」をするためにはまず,納得の行く事実の承認が前提となる.しかもそれを承認するのは誰でもない自分自身なのである.


昭和二十八年も十二月に入って,取り調べが始まってから九ヵ月余りたっていた. 上坪中佐の部屋に移されてからも,まだ残っていた保安局の犯罪や,今までの供述の中でつじつまの合わぬ箇所を修正するために,しょっちう呼び出されていた.

この日私は,二週間ほど前から書かされていた「犯罪総括書」を持参していた. それは百三十枚にのぼる尨大なものになっていた. 検察官はそれを受け取ってバラバラめくりながら

「どうだね.うまく書けたかね?」

133「はいっ,総括しているうちに自分が,とんでもない罪人だということが,つくづくわかってきはじめました」

と,初めて認罪らしい言葉で答えた.どうしたことか今日は,検察官以外の者は一人もいなかった.

「そうだろう,とにかく事実をじっと見つめ,前後矛盾のないように整理していったら,人間は誰でも事実の相互関係に思いをいたすようになるもんだ」

検察官は私がわかる程度のやさしい単語を拾って話してくれた.時折りわからない言葉もあるにはあったが,前後の関係からなんとか理解できた.

「時に,北村14という警尉がいたのを覚えているかね.たしかに君の部下だったはずだよ」

注-姓も階級も任地も偽名を使った

と聞くのである. 私はちょっと思い出せなかった.首をかしげていると

「ほら,君の三江時代に方正15県の特務股長をしていた男だ」

私はやっと思い出した.色の白い中年の,鼻の下にちょび髭を蓄えていた男だった. 私が大きくうなずくと

「その男は討伐に出るたびにだよ.殺害した中国人の脳味噌をスキ焼にして食っていたんだ.知っていたかね」

私は驚いた. また一つ残虐な犯罪が増えたのかと思ったからである.だが検察官はさり気ないふうに

134「知らなかっただろうねえ.いくらなんでもこんなひどいことは,表面上は禁止していただろうから」

「はあ,はじめて聞きました.全く言語道断だと思います」

「しかしだよ.よく考えて見たまえ.君も本質的には 北村 と何も変わらない男なんだよ.ただ君は北村のような機会にあぐり合わなかっただけの違いなんだ.帝国主義者のすべては皆同じ穴の貉(むじな)なんだ.他人の労働の成果を盗むような人間は,必要とあらばどんな悪いことだってやるんだ.現にそうだろう.他国の領土を盗ったって平気だし,他国の財物[地下資源も含む]を平気で略奪するし,それに逆らう愛国者を殺害したって平気なんだ.北村のような脳味噌をスキ焼にするような人間が出たって,何の不思議なことでもないんだ.君も北村も,そういう社会に生きていた普通の人間なんだ」

「これが中国人民の帝国主義者の本質に対する見方なんだ.そして北村という人間と,君という人間がどういう本質を持っており,どういう社会の中でからみ合っていたかという,事物の相互関係をちょっと分析してみたまでだ.わかるかね?」

さすがの私ももっともだと思った.そして「ここが一番大切なところだ」「もっと聞いておかねば」という態度を示した.

「君も近頃だいぶ変わってきた事は認める.だがまだまだ真の認罪にはほど遠いようだ.君にはまだ,自分は戦犯だが盗人のような破廉恥漢ではないという考えがあるだろう」

135と,さっきの北村の例と同じ性質のことを聞かれた.いくらなんでもそれぐらいのことには気づいたが,その次の話がどう展開するか聞きたかったので,大きくうなずいて見せると

「そうだろう.だったら一つ、君が中国に侵略して以来の十一年間に,どれだけの物資を奪ったか計算してみたらどうかね.そしてだ,君が軽蔑している盗人がその十一年間にどれだけの物を盗み得るか見積って比較して見たまえ.そしたら君がどれほどの盗人かはっきりするだろう.君が軽蔑する盗人は生活に困窮したあげく,人眼をはばかり,夜中にこっそりやっていたのだ.悪いことだと知りつつも,生きるためにはそれ以外の方法がなかったのだ.しかし君たちはどうかね.白昼公然とやってのけ,何が悪いんだと言わんばかりに,ふんぞり返っていたのだ.どうだね.良心の一片すら持ち合わさない破廉恥漢というのはどっちの方だと思う?」

「君とのつき合いも一年近くなったなあ」

と独り言のようにつぶやいて,長いあいだ雀の飛びかうさまを見入っていた.そこまで言った検察官はしみじみした口調で,

「君に話したいことは山ほどあるんだ.今日は通訳もいないんでうまく言えない.くれぐれも前途を悲観せず,学習に励んで,光明の道をかち取りたまえ.いいかね」

これが張儀16検察官の最後の言葉だった.


昭和二十八年も暮れて二十九年の春を迎えた. 三月の末になって久しぶりに呼び出された.総括136を出してから何の音沙汰もなかったので,だいぶ気にはなっていたのだが,いざ呼び出されるとなるとやはりいい気持はしなかった.

部屋は前のところだった.今日は若い別の検察官が座っていて

「これに眼を通して,間違いがなかったらサインしなさい」

と,一冊の書類を私の前に置いた.すこぶる事務的である. 開けて見ると中国文で書いた私の犯罪の総括書で,最後に検察官の意見書がついていた.

私はこれが事実上の起訴状になるのだろうと思いながら[実際はそうでなかった],丁寧に頁をめくり,一枚一枚にサインして行った. 紙には見覚えのある張儀検察官の達者なペン字がぎっしり詰まっていた. 内容は大体,私が書いて出したものと同じだったのでわかりやすかった.私自身「これはどうだったかな?」と疑念を抱いたような所は,全部削ってくれてあった.

とうとう最後の意見書のところにきた.紙一枚の短文である. まず眼に入ったのは冒頭にある

「島村三郎.この者は悪名高き偽"満洲国"特務領導の一人………」

という文句であった.私はぞーっとした. 一瞬「死刑」という活字の影が頭の中を駆け抜けた. それ以後の文章はほとんどわからなかった.新中国の新しい漢字を達者に崩した字である. それに今まで読んできたところとは違い,私の知らない内容の文章である. 私は「死刑」とか,「厳重処分」とかいう字がありはせぬかと,そればかり気にして見て行った. 最後にきてぎくっとした.

「本官はここに………本名に対し厳重なる処分を要求する」

137と結んでいたからである. もちろんこの厳重処分という字が,ただちに死刑につながるとまでは思わなかった. しかし「厳重という言葉には死刑も含まれている」とも思った. 青い顔をしてサインを終わると検察官はだまってそれを受け取り,書記官をともないさっさと出て行ってしまった.いつも親切にしてくれる通訳官が一人残って

島村,問題は今後の君の態度にあるんだ.気を落さず学習しなさい」

と慰めてくれたが,その声は今の私の耳には窓外を吹き抜ける風にも似てうつろだった.

 

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1 meist ハルピン od.  ハルビン geschrieben: Harbin, Stadt nördlich von Xinjing, Hauptstadt der Provinz Heilongjiang
2 Onodera Hiromoto, 元関東州警部
3 Guandong, alte Provinz
4 Sibirien
5 Kamitsubo Tetsukazu, Oberstleutnant, 憲兵隊長 von Jining bzw. des Stadtbezirks 街地区 Siping
6 Siping (chinesisch 四平市, Pinyin: Sìpíng Shì) ist eine bezirksfreie Stadt im westlichen Teil der nordostchinesischen Provinz Jilin. Siping ist der Sitz eines Apostolischen Vikariats der römisch-katholischen Kirche.
7 Shimamura Saburô, 副県長 von Baicheng und Zhaozhou (= Sh. Saburô); geb. 1908, Verwaltung Geheimpolizei; im Juni 1956 in Shenyang zu 15 Jahren verurteilt, im Dez. 1959 entlassen; Vorsitzender des Vereins der China-Heimkehrer (Chûren); 1976 gest.
8
Jining --- Vermutlich ist gemeint: Jìníng (濟寧), bezirksfreie Stadt in der ostchinesischen Provinz Shandong.
9 Ishii Shirô, 1892-1959; Generalleutnant in der Einheit 731, verantwortlich für bakteriologische Experimente und Menschenversuche
10 Korea
11 Fengtian, früherer Name der Provinz Liaoning, wurde unter japanischer Herrschaft wiederbelebt, nach 1945 abgeschafft.
12 Jinzhou, Industriestadt in der Provinz Liaoning
13 Takada, 元警部補
14 Kitamura, 警尉 (fiktiv)
15 Fangzheng, Kreis in Heilongjiang
16 Zhang Yi, Untersuchungsrichter 検察官