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自供

私という男はまことに勝手な男だった.勲章が欲しい,早く出世がしたいと思っていた時には,「あれも私が関係したことだ.これにも私が参加しているので………」と,本気になってその功績の分け前にあずかろうとしていた. ところがそれが犯罪に問われそうになってくると,「関係したとはいっても,ただ手伝っただけのことだから,責任だなんて………」と考えていて,それだけで逃げおおせると思っていたのである.だがもう万事休してしまった.あの功績調書の中には周永久1軍の参謀長を逮捕した」「ラマタラハン2の激戦で周永久軍に壊滅的な打撃を与えた」と書いてあるはずだった.

昭和十年といえば東三3潘陽4吉林5熱河6の三省]の占領を終わった関東7軍が,その余勢をかって侵略地域を長城8線にまで拡大しようと,熱河省の省長湯玉麟9に無理難題を吹きかけ,とうとう熱河作戦と呼ぶ侵略行動を行ってから,まだ二ヵ年とたっていない頃だった.

今まで綏東10県として 勢河*熱河*省に属し,湯玉麟の統治下にあったこの地帯は,占領後旗制が敷かれ,興安西省[蒙古行政区]に編入されたのであった.この県の農民たちはこれを不満とし,熱河作戦のあまりにも電撃的な侵攻のため退却するいとまもなく,武器弾薬を砂漠に埋めて四散した湯玉麟092軍の銃を掘り出して武装し,いたるところで農民軍を編成してゲリラ活動を行っていた.

元この県の自衛団長をしていた周永久という人物がこれらの農民軍を結集して約二千の抗日義勇軍を編成し,八仙筒11というところにあった旗公署[蒙古の県庁]を襲撃し,山守参事官[蒙古地区の副県長]以下十六名の日本人を略して総反抗の火蓋をきったのは,その年の七月十五日のことであった.

私が内務担当副参事官として奈曼旗に入ったのは,事件が起きて二ヵ月目であった. 兵火に焼かれた旗公署は弾痕を残した土塀だけになっており,まだ煙の出そうな真黒く焼けた柱が,土塀の隅の方にうず高く積み上げてあった.私たちは着任したその日から旗行政の立て直しに取りかかったのである.

その頃はすでに日本軍,「満洲国」軍,隣県の警察討伐隊がたくさん入り込んでいて,盛んに周永久軍を追い回していた. 周軍は我に数倍する討伐隊との正面衝突を避け,二つか三つの小部隊に分かれ,主として南方の山面地帯で遊撃していた.旗公署の前の街道は日本軍や満洲軍が機関銃や小銃を担いで,土煙をあげながら南方に向かっていた.

その頃蒙政部の方では旗公署を旧綏東県庁の所在地八仙筒から王府12の方に移し,人心を一新しようという方針[まず蒙古民族の人心をつかむ]を打ち出していた. 王府という所は代々この旗の王様[蒙古人]が住んでいたところで,立派な建物も残っていたし,旗公署としてそのまま使うこともできたので,一石二鳥の利もあった.ただ心配なのは六十キロの道中には至るところに「生きた砂漠」093[風が吹くと移動する砂波-若干背が生えて移動しなくなった死砂決と区別されている]が横たわっていて,自動車の運行に支障が起きはせぬかということであった.

私はさっそく七騎の蒙古人警察官をつれて,砂漠を避けて通る道を探すとともに,王府の見取図をとってくるために出発した. 途中二日かかった. 四日目の早朝帰途についてまだ一時間とたたない時だった. 王府のすぐ近くの大きな生きた砂漠を一つ越えた所で,夜をこめて駆けてきた一騎の警察官に出会った. 興安13西省警務課長磐井文雄14[退役大尉]の遣わした伝騎で,文面には

王府南方四キロの地点に三間房15という部落がある.そこに寧中孚16という男がいるから逮捕して帰れ」

というのであった.実のところ私は全く当惑してしまった. 大学を出てからまだ一年とたっていない私には,およそ人を逮捕するなんていうことは,生まれてはじめてのことだったからである.しかし命令は絶対であった. 私は馬首を転じてその部落に向かった.

寧中孚の家は部落でも大きな方で,すぐ見つけることができた. 私は土塀の外側の四隅に一人づつと,門のところに一人の警戒兵を立たせておいて,気のきいた二人の警察官をつれて中に入って行った.正面の一番大きな棟にびっこの小男がいたが,私が入って行くのを眼敏く見つけ,愛相笑をしながらとび出してきた. 私はいきなりその小男に拳銃を突きつけ

寧中孚はいるか」

と聞いた. こんなむちゃなやり方ってあるものではない.こう聞かれたら誰でも「私です」とは094言わないだろう. 男は驚いて

「今ここにはいない」と答えた. 私はすかさず

「どこに行ったのか」と聞くと

赤峰17へ教課書を買いに行って留守だ」

と言下に答るのである.私はすっかり信用してしまった. 話によると寧中孚は小学校の校長先生在しているのだそうである.

「あなたの名は?」

「私は寧中という者で,寧中孚の兄だ」

と答える. およそそんな名の兄弟なんてあるものだろうかと,心中多少は不審には思ったが,私にはこれを見破る力はまだなかった.

「ちょっと話があるから,旗公署まできてくれないか.実はあなたの弟のことで聞きたいことがあるんだ」

と拳銃を股にしまいながらこう相談すると,その男は気軽く承知してくれた. 「弟がいないので兄をしょっぴく」 これも素人ならではやらぬことだろう. 彼は馬小屋から馬を引き出し,鞍も置かないでさあと言はんばかりに跨がった.もちろん私は縄なんかかけなかった. 門を出ようとした時だった. 突然左手の棟からとび出してきた十二,三歳になる女の子が

「お父さんを連れて行っちゃあいかん」

095と,私の洋服のすそにしがみついて泣き叫びだした. 私は困ってしまって

「お父さんは悪い人ではない.すぐに帰ってくるから………」

と言いたいんだが中国語にならないのである.ふと宣伝工作用にと,たくさん銀貨をポケットに忍ばせていたのを思い出し,それを鷲づかみにして女の子に握らせた. すると女の子はますます大きな声で泣きわめきながら,いきなりその銀貨を私の顔に投げつけた.

その夜は王府で泊った. 心の底から兄だと信じ込んでいる私は,王様の賓客室で二人枕を並べて寝た.夕食の時は客人として上座に座らせ,酒まで出してもてなしたのである. おまけにモーゼル一号拳銃を枕元に置き,何の警戒もせずぐっすり眠むったのであった.

翌朝王城の大門を出ようとすると,今日は不思議なことに附近の住民たちが,手に手に「満洲国」の国旗を持ち,道をはさんで私を見送っているのである. 先頭にいた若い商務会長がうやうやしく進み出て

「副参事官,寧中孚は悪い男でないから許してやってくれ」

と嘆願するので笑いながら

「あれは寧中孚の兄だ.すぐ帰ってくるよ」

と言うと

「いや,あれが寧中孚なんです」

と言って三拝九拝するのである.私は驚いて

096「おいッ,早く縄をかけろッ!」

と蒙古兵に命じた.

旗公署では門の所に磐井警務課長が出迎えてくれていた. 私が晴々とした顔で寧中孚を引き渡すと

島村,出かしたぞ.奴は周永久軍の参謀長なんだ」

と言って肩を叩いてくれた.これは後になって聞いたことだが,寧参謀長は言語に絶する拷問の中で,一人の同志の名も語ることなく,どこから手に入れたのか錆びて鋸のようになった包丁で首を挽き切り,留置場を血の海にして自殺したという話だった.

注 物語りが示すように,この話には一つだけ不審な点があり,私自身今思い出してもひやっとする事件である.いろいろ考えて見るに,寧中孚という人は誰かに讒訴されてつかまえられはしたが,実際は何もやっていない真面目な校長先生だったのではないかと思うのである.でなかったら私は必ず王府の寝室でかれに殺されるか,逃げられるかしていたに違いないからである.


功績調書第一号の中には,この寧参謀長の逮捕のほかに,それから約一ヵ年の後,私が隣りの旗 アルカルチン に転出して一週間もたたないうちに,奈曼旗 の方から追い上げられてきた約四百騎の 周永久 軍の本隊に対し,奈曼旗の警察討伐隊長伊藤初太郎18巡官[当時の警部補]の率いる百二十騎に便宜を与え,一度興安嶺の山中に逃げ込んだが食糧がなくなったので,再び平原に出てきた周軍を追撃し,最後にはシラムレン河の渡河点ラマタラハンに追いつめ,渡河中の周軍約二百名以上を097斃すという打撃を与えたこと,またこの討伐期間中につかまえた潜伏兵二名を,旗公署の裏山で射殺した事が書いてあった.私はそれらの事実を一気に自供した後

「長い間嘘ばかり申し上げていて,まことに申訳ありませんでした」

と,探々と頭を下げた.当然私は,三ヵ月もの間さんざんてこずらせたのだから,「馬鹿野郎!」と一発,大目玉をくうものと覚悟していた. 検察官はただ

「うん,君もだいぶ変わってきたようだ.今日は疲れただろう.少し早いがこれで終わりとしよう.次は三江省のことを調べるからよく考えておきなさい」

と言っただけで帰してくれた.実のところ私はほっとした.


三江省というのは「満洲国」の東北端にあり,北は黒龍江19を,東はウスリー20江を隔ててソ連21に接し,まんなかを松花江が貫流しており,開拓団で有名な佳木斯22(チヤムス)を中心に,一市十五県の大きな省であった.ここに三江省粛正工作と名づけて,多くの日本軍[第四師団部山下邦文23中将]「満洲国」軍,「満川国」警察討伐隊が結集し,「北満」の一角三江の広野に大殺りくを開始したのは,昭和十二年の暮頃からであった.

日本政府関東軍]「満洲国」建国の当初から,この地に開拓団を入植させる目的で,農民の土地家屋を二足三文の値段で強制的に買収していた. 土地を追われ住家を失った農民はこれに憤激し,多くの抗日義勇軍を結成して有名な土龍山24事件を起すなど,各地で県公署,警察署その他の植民地098統治機関を襲撃して反抗していた. このようなわけで三江省一帯は,建国の当初からもっとも治安の悪い所とされていた.

一方日本軍は,昭和十二年七月芦構橋25事件を口実に,関東軍の大軍を長城線を越えて中国国内に侵攻させるという,いわゆる日支事変と呼ばれる新たな侵略戦争を開始していた.こうなると関東軍はどうしても,軍の後方を脅やかすこれらの抗日軍[抗日第二路軍-軍長周保中26][抗日第三路軍-軍長趙尚志27][戴洪賓28謝文東29らの農民軍]をせん滅し,南方侵略に対する後顧の憂を一掃しなければならぬ必要に迫られていた.

私が赴任した昭和十四年の一月頃は,ちょうど昨年いっぱいの大討伐が一段落ついて,相当な打撃を受けた抗日軍は小部隊に分散し,時に山岳地帯に根拠地を移し,時に出撃して県公署や警察署を襲って遊撃するか,地下に潜って再建工作に専念しようとしている時期であった.

私が三江省警務庁特務課長として赴任する時,治安部次長薄田美明30氏は

「これからの三江省は特務警察が腕をふるう時期に入っている.しっかりやってくれたまえ」

と言って私をおだてた.私は大いに光栄に感じて赴任したのだったが,やはりここで起きる重大事件の多くは武力衝突を伴っていたし,かれらの地下工作は警察や警察討伐隊の内部に指向されていたので,地表に現われた時は直ちに反乱,蜂起となったため,ほとんど警備課長の主管事項ばかりだったと言っても過言ではなかった.

検察官の手に功績調書第二号が入っているものと思い込んでいた私は,こと三江省の犯罪に099関する限り,隠しだてなんかする気持は毛頭なかった. 記憶するかぎりのことを供述したのだったが,検察官は「まだ隠している」といって追及の手をゆるめなかった. 私はほとほと困ってしまった.

私は昭和十四年二月[着任して一ヵ月日]依蘭31県の共産党の地下組織を一網打尽にしていた. これはこの県の小学校の一教員,徐という人物を中心に組織されていたものであった.元来このような事件はことの性質からいっても,何の物的証拠を残しているものではなかった. おまけに当時の三江省の日系幹部の気持はすさんでいた.一年余りの血なまぐさい大討伐をやり,多くの部下を失ったにもかかわらず,共産軍の出没はいっこうに衰えそうにはなく,小規模にはなったものの毎日といってよいほど,どこかで戦争がおきていたからである.この事件も単なる密偵の聞き込みだけで,直ちに検挙に踏み切ったのである. だからただ拷問だけで泥を吐かせ,それをたぐって芋蔓式に次から次へと検挙するという,乱暴きわまるやり方だった.

取り調べ期間中,私は二度ほど現地に行ってみた. 依蘭街の警察署前を通ると,警察官の怒号と被害者の悲鳴が,道路まで聞えてくるほどだった.こうなると逮捕された方でも必死である. 裁判の時,自己を有利にするため有名な知日分子や,知名な高官を道づれにしようと,でたらめを言うのである. 依蘭県の行政課長もその犠牲者の一人で,わずか一晩の拷問で虐殺してしまった. 多くの有力者は続々としてハルピンに難を避けはじめていた.

この事件は私が三江省を去ってから一年後に,検察庁の方で「証拠不充分」という理由で不起訴にしていた.私はこのことを知っていたので,大したことにはなるまいとまっさきに自供したので100あった.

次に自供したのは,「満洲国」の徹底した秘密警察機関であった保安局の三江省地方保安局責任者として,対ソ謀報工作を指揮したこと,防牒工作と称してソ連スパイを検挙し殺害したことであった.

つかまえたスパイの大部分は[多くの場合中国人]逆用といって,そのスパイの知っているかぎりのソ連事情[軍の配置としての規模,構築している陣地の構造,ソ連軍の動き等]を調査した後,若干の偽情報を与えてソ連に帰し,再び入国する時新しい情報を持ってこさせるように指導していた. しかしそのスパイの逆用が危険になってきた時とか,逆用の価値が無くなった[相手の操縦者に感づかれ,得るものが少なく,失うものが多くなった]と認めた時とかは,誰の認可を得る必要もなく現地で勝手に殺害していたのであった.また現地での殺害が具合が悪い[他の謀者に知れるのをおそれる]ような時には,特務機関長[日本軍]に頼んで,ハルピン郊外の平房にあった七三一部隊に送り細菌戦攻撃の研究用モルモットとして殺害[私は三名送った]してもらっていた. 私は在任中この保安局関係のみで三十名近くの人々を殺害していたのであった.

また私は在任期間中,三江省の所在地である佳木斯に,三島32化学研究所」という秘密収容所を作った.完成してから四ヵ月目に離任したので,私がここで行った殺害は二,三名であったが,この収容所での取り調べ,拷問,殺害はその後もずっと引き続いて行われており,特に敗戦の時は収容していた十数人を毒殺した上,家に火を放って逃亡していた.

101最後に自供をはじめたのが特捜班の犯罪だった. 特捜班というのは,討伐がおこわれるたびにその討伐隊に随行させ,共産軍の宿泊した部落を徹底的に捜査し,これと連絡のあった者[手引きした者]とか,傷ついて潜伏している者を捜し出して逮捕し,取り調べる任務を持った特務部隊であった.正式には,調べた結果怪しいと思った者は後方に護送し,慎重に調べて検察庁に送ることになっているのだが,討伐隊がぐんぐん前進するので,後方に送るのも連れて歩くのも足手まといとなるため,その場で射殺した者もそうとうあった.ただしこの場合の報告書は必ず逃亡を図ったのでとか,抵抗したのでとかいう理由書きが必要であった.

私はこのような報告は月七回から八回は受け取っており捺印もしていた.しかしいつ,どの討伐で,何人くらいをと詰め寄られると,全く覚えていないのである. 検察官の追及はまことに厳しかった.

「人を殺させておいて忘れたですませると思うか」 まことにその通りである. 全く返す言葉もない.

「忘れたということ自体が,中国人民を人間と思っていなかった証拠だ.犬か豚を殺すくらいにしか考えていなかったのだろう」

どう言われても申し聞きのできることではない.だが事実私の見たものは,カーボン紙を使って書いた一枚の報告書だけだったのである. 当時も覚えようとしなかったし,今は全く見当もつかないのである. 私の取り調べはまたまたここで二ヵ月ばかり足踏みしてしまった.


102この間私はかつて錦州33省の地方保安局要員をしていて,当時われわれの学習委員をやっていた大畠伊三郎34委員の率いる十四,五名の旧部下系統の警察官から,五十六時間,飲まず食わずぶっ通しのはげしい暴露と批判を受けた.もちろん検察官も援助者も同じように飲まず食わずなので,これを拷問というわけにはゆかない. かれらは口を聞けば

「お前は認罪する気がないから思い出せないんだ」

とつめよりながら,かれらが自ら犯した犯罪を述べて

「これもお前の命令でやったことだ.忘れたとは言わせないぞ!」

と言うのである. そんな追及の中で,依蘭県にいたという若い警尉が[多分,県が独自で行った討伐の時にあった事件だろうと思われるが]なんでもその夜泊った家の主人が怪しいという密偵の耳打ちがあったので,土間に引き据えて調べて見たところ,いよいよ共産軍の連絡員に違いないとわかった.

「俺はその場で袈裟斬(けさき)りにして殺した.家族の見ている前でだぞ!」

と泣きながら私に迫った.しかし私にはそんな話は全く初耳だったし,そんな討伐があったことも知らないのである.だがこの五十六時間の昼夜兼行の援助を受けたお陰で,私はやっと特務警察の報告書からは,いくら考えても思い出すことはできないが,今まで警備課長の主管事項だとして逃げていた,討伐という角度からたぐって行けば,ある程度正確に近い数字がつかめることに気がついた.ということは,私にはやはりかれらの言う通り「なんとしてでも思い出さねば」という103熱意がなかったばかりでなく,主観的にはどうであろうと,客観的には「忘れたことまで思い出す馬鹿がどこにあるか」という意識があったからであった.

私は着任してからおきた大きな討伐と,その原因について拾い上げはじめた.


湯源35県城襲撃事件

昭和十四年の三月,私が三江省に着任してまだ西も東も見当がつかない頃だった.一夜抗日第三路軍の軍長趙尚志の率いる主力部隊約二百五十名が,湯源県城を襲撃するという事件がおきた. 湯源県というのは省都佳木斯の前を流れる松花江をはさんで対岸にある県で,県城は八十キロメートルくらい川上にあった.この戦闘は城内に県の警察討伐隊や日本軍が駐屯していたので,城壁の内外から小銃で撃ち合っただけですぐ終わったが,知らせを受けた省の島崎36警務庁長は鶴37警務課長,村上38警備課長を伴い,自動車十数台に手兵を乗せてその夜のうちに応援に駆けつけ,翌朝は直ちに趙軍の追撃に移った. もちろん私も隣県の樺川39,鶴立40,依蘭の三県から狩り集めた特捜班を湯源県に送って応援せしめた.

趙軍の逃げ足は早く,なんの遊撃も行わず,まっすぐに雪の小興安嶺に入ってしまったため,討伐はわずか二日で終わったばかりでなく,一回の戦闘も交えることが出来なかった.私はこの時は留守居格で省公署に残っていたが,討伐終了後湯源県の特務警察が,襲撃の前夜趙軍が城外の一部落を宿泊所として使ったことを耳にした. そこでその部落の青少年を一網打尽にして調べてみたところ,104そのうちの約二十名近い者が何らかの形で趙軍と連絡していたり,手引きしていたりしていた事実がわかった. これを聞いた日本軍の駐屯部隊長はかんかんになり

「まことに怪しからん奴らだ.この戦闘で日本軍は歩哨兵を一人戦死させた.仇打ちだ.すぐ引き渡せ」

と強引な交渉を持ちかけてきた.こうなったらもうどうにもならぬのが当時のならわしだった.

その二十名はその日のうちに城外で射殺されてしまった.

こんなわけで私は最初から,この事件は私の犯罪だとは思ってもいなかったのであった.


通河41県共産党の破獄事件

昭和十五年九月の終わり頃,通河県の警察官の幹部[警尉]の中に共産党員がいて,一夜看守を殺して鍵を奪い,県法院の監獄に繋がれていた五十名近い犯人を釈放するとともに,その足で県警察の武器庫を襲って完全武装し,県興農合作社の日系事務長を血祭りに上げて逃亡するという事件をおこした.

この時は私も上村42警備課長とともに現地に乗り込んで指揮をとった. 蜂起軍はすぐ裏山に入り小興安領を越えて入ソしてしまったので,討伐による損害を与えることはできなかったが,通河県の特捜班は県城内外の人家に潜んでいる連絡員や関係者を逮捕し,拷問し,少くとも五名以上の者を,佳木斯から出張してきていた地方検察庁の検察官に送り,全員死刑に処した.


105富錦43県の破獄事件

昭和十四年十二月佳木斯の川下にある大きな県富錦県の監獄に収容していた約六十名に近い政治犯が,一日看守を殺して若干の武器を手に入れて脱獄し,近くにある県公署を襲って執務中の鈴木44総務課長を殺害し,武器庫に入って全員武装した上,日満軍警に対して市街戦を演ずるという事件がおきた.この事件も島崎庁長は今村45警務課長を現地に派遣して事件の処理を指揮せしめたので,これも私の犯罪とは思っていなかった.

ところが先日のあの五十六時間の暴露批判の時,当時この富錦県の警務課長をしていた則松夢吉46警正が「この事件は島村特務課長が指揮したもので,まぎれもない島村の犯罪だ」と言い張ったので私と長い論争の結果,やっと誤解はとげたが「特捜班の犯した罪は,本来島村の責任にあるもので,誰が指揮しようとも島村の責任は免れない」と主張し,私もそれを納得したのだった. 富錦県の特務警察は民下に潜伏していた脱獄者十数名を逮捕し,取り調べ,全員送検して死刑に処した


八虎里47(パフリ)の蜂起事件

昭和十五年一月のはじめ,佳木斯の背後にある小さな駅八虎里に駐屯していた警察討伐隊の一箇大隊が,一夜日系警察官[指導官]二名とその家族を殺害して蜂起するという事件がおきた.106隆起軍は氷の張りつめた松花江を渡ってソ連に逃げ込む計画だったらしいが,運悪く白皚々(はくがいがい)の雪野原に延々と足跡を残していた事と,里一色の外套を着た大部隊であったため,たちまち日本軍の偵察機に発見され,それに誘導された日満軍警の討伐隊に挟撃され全滅してしまった.特捜班は投降兵や負傷兵十数名を逮捕し,取り調べの結果全員を送検したが,そのうち五名を死刑に処した.

死刑執行に立ち合った加藤角市警正は

「さすがに奴らはしっかりしていました.最後に言った言葉はですねえ,今に中国人民はお前らをこの刑場に引き据えて,今日の俺たちと同じように処刑するだろう.その日はもう遠くはない」と,毅然として言っていましたと報告していた. これ以外にも


三江省中原48湿地帯の掃蕩昭和十四年五月

方正49県における戴洪賓軍との戦闘昭和十四年六月

完達山50系の大掃蕩昭和十四年七月頃]

ウスリー江川中島での戦闘昭和十四年七月

撫遠51県国境警察隊員の蜂起入ソ事件二件昭和十四年十二月一月

羅北52県黒龍江江岸の戦闘昭和十五年三月

思い出せない県独自の小討伐,などのあったことを認めた.私はこれだけを思い出しただけで,自分ながら驚いてしまったのだった. 細かい計算こそしてみなかったが,私はすでに五百名以上の人命を奪っていることになるのである.命が幾つあっても足りないとはまさにこのことであろう. 私の自供が一応終ると,検察官は折り畳んだ一枚の紙片を示して「これに見覚えがあるだろう」と言った.それは私が毎月中央に報告していた「思想対策成果月報」の控えで,私の捺印がしてあった. 隅の方がだいぶ焦げているところからみると,焼け残りの灰の中から107掘り出したものらしかった. 昭和十四年十二月の日付になっていた. 数字は逮捕欄が二千九百九十五名,厳重処分欄[討伐中現地で殺害]が十四名,送検欄が二百七十二名となっていた. 一月から十一月末までの十一ヵ月間に,この様な数字の大罪を犯しているとすると,私の任期一年二ヵ月間には三千八百二十名を逮捕し,十八名を厳重処分にし,三百三十五名を送検[大半は死刑]している計算になるのである. もちろんこれには,保安局で逮捕し殺害した者の数は含まれていない.


五月に入って間もなく突然荷物の検査があって,紐という紐は全部取り上げられてしまった. 私はこの時,バンドの裏に忍ばせていた麻縄を取り上げられたが,看守は何も言わなかった.多分他の部屋でも,同じようなことをしていた人がたくさんあったからだろうと思った. ところが,それから十日もたたないうちに,前回残してくれたバンドまで取り上げられてしまった.それだけでなく共同便所のドアは全部取りはずされ,用を足しているのが丸見えになってしまった. この頃になると誰の取り調べも核心に迫っていたので,みんな大なり小なり自殺のことを考えるようになっていた. 三江省の取り調べが始まって少したった頃だった. 部屋に帰ってみると留守居をしていた金子少佐が神妙な顔をして

「おい,さん.最初の荷物検査なあ.あれは二宮53君がやったんだそうだよ」

と言うのである. 二宮君はシベリア時代,皮製の上等なバンドをパンにかえて食ってしまったので,それ以来自転車のチューブをバンド代りに使っていた.真夜中に布団を頭からすっぽり108かぶり,そのバンドの一方を首にきつけ,他方を足先に結んでうんと伸ばして自殺を図ったのだが,人事不省になると足が曲がってしまい,とうとう発見されたというのであった.

「第二回目の検査の時は平木54憲兵大佐がやったんだそうだ」

と言う. 私は暗然とした. 平木大佐は無口な上に沈着な大人物で,シベリヤ以来尊敬もし,親しくつき合って貰っていた人の一人だった. ウズベック55の収容所で一度「僕の同僚はたくさんマレーで自決しているんですよ.生きているのが苦しくてねえ」と話していたのを思い出した.その首吊り自殺も平井56主計大佐が気がつき,人工呼吸の末やっと息を吹き返したと言うのである.

「それになあ,どうやら将官の方でも瀬谷57中将がやったらしいし,兵隊のなかにも自殺に成功した人があるらしいんだ」とも言った.


一度総括にまでこぎつけて,やれやれと言っていた遠間少佐と金子少佐は,総括を出してから三週間とたたないうちに,また盛んに呼び出されるようになっていた.けっきょく旧部下の方の取り調べが進むにつれて,上官たる二人のボロがばれてくるからだった. ところがそんなのは多くの場合,全く知らないことか,あまり覚えていない事件ばかりだったので,おいそれと認めるわけにゆかなかった.

遠間少佐はとくに頭を抱えていた. 大隊副官をしていた頃,俘虜を使って刺突訓練をやらせ,殺害しているといって迫られていた.まったく身に覚えのないことだが「証人もいる」というの109だそ うであった.

私が三江省の特捜班の犯罪で行きづまり,困り抜いていた時だった. 一足先に帰ってきていた二人は,入口に背を向けて何やらこそこそやっているのである.のぞいてみるとせっせと麻で首吊り縄を作っていた. 私は別に驚きもしなかった. というのは,その麻は金子少佐がずっと前から,配給される葉煙草をしばっであったものを隠してあったもので,手さばきよく縄の端に環まで作り,いざという時はさっとやれるように作っていた.

「どうしてそんなに急ぐんだ」

と聞くと遠間少佐は頭をかいて

「いやあ,今日はぺしゃんこにやられたよ」と言って話し出したことはこうだった.

「どうしても認めないんなら証人を呼んでくるがよいな」

と検察官から念を押されてしばらく待っていると,奥の部屋から出てきたのは宮田という中尉だった. 遠間少佐が不審な顔をしていると

「私は幹部候補生の時,一ヵ月ばかり少佐殿の教育を受けた宮田という中尉です」と名乗った. 遠間少佐はさっぱり思い出せない. すると

「0年0月00地区で現地教育を受けた時,あなたは教官でありました」

とつけ加えた. 遠間少佐ははじめて思いだした. そう言えばあの時,三十名ばかりの幹部候補生を110預かったことがあったが,あまりにも短い期間だったし,それを専属にやっていたわけでもなかったので,顔も名前も覚えていなかったのである.しかしこうなったら今さらどうにもならない. ほかの教官がやらしたことで,遠間少佐は知らなかったとしても,いやしくも当時の上官であった以上,責任を回避することができないからだった.

「よしわかった.お前の言うことはいっさい認めるから安心しろ」

遠間少佐は久しぶりに昔の大隊長然とした口調でこう言った. すると宮田中尉は大喝一声,顔を引きつらせて叫んだ.

「お前はまだ中国人民の温かい心情がわからんのか.被害者たる中国人民が今,われわれを真人間に立ち返らせようと,苦心惨胆してくれているのがわからんのか」

と卓を叩いて叫んだ.中尉はとうとう涙を流しながら

「もしお前が教官として責任を感ずるのなら,まっさきに罪を認め,中国人民に謝罪し,認罪の模範をわれわれ部下に示すべきではないか」

というのである. 遠間少佐は

「もう俺はだまっていたよ.奴ら本気でそう思っているらしいんだから,手がつけられないんだ.まさか検察官の前で,共産党を甘く見るなとも言えんしなあ」

と淋しそうに笑っていった.そこで私も一緒になって作ったのだが,その首縄も作った翌々日の検査の時取り上げられてしまった.

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1 Zhou Yongliu, chin. General
2 Furt 渡河点 des Liao, Ort einer Schlacht
3 Dongsan, die drei nordöstlichen Provinzen (遼寧省Liaoning・吉林省Jilin・黒竜江省Heilongjiang), auch Dongbei東北.
4 Pangyang, Provinz, siehe Dongsan
5 Jilin, Provinz und Stadt, siehe auch Dongsan
6 Rehe, bekannt auch unter dem Namen Jehol; eine frühere Provinz der Inneren Mongolei, die 1933 von den Japanern der Mandschurei angegliedert worden war.
7 Guandong, alte Provinz
8 Changcheng ("Große Mauer"), auch: Kreis
9 Shang (Tang) Yulin, 省長 von Rehe
10 Suidong, Kreis in Shihe.
11 Baxiantong, Gemeinde in Naimanki
12 Wangfu
13 Xing'an --- 1. Gebirgszug . Außer 興安嶺 kommt vor: 小興安嶺 Chinese (Pinyin) Xiao Xing'an Ling or (Wade-Giles romanization) Hsiao Hsing-an Ling, conventional Lesser Khingan Range 2. Hsingan or Xing'an (興安省, Pinyin: Xīng'ān shěng) refers to a former province, which occupied in Western Heilongjiang and part of Northwest Liaoning of the Autonomous Mongol Anto (province) of Hsingan. The name is related to that of the Khingan Mountains. Another name used for this land is Burga, which is also the name used for the east sector of the province, the Burga district. The province was first created as part of Japanese controlled Manchukuo and after the Second Sino-Japanese War the Republic of China government reorganised the area as Hsingan Province, with the capital in Hailar. It is now part of the Inner Mongolia Autonomous Region of the People's Republic of China.
14 Iwai Fumio, 退役大尉
15 Sanjiangfang, Siedlung 4 km südlich von Wangfu
16 Ning Zhongfu, Schuldirektor in Sanjiangfang, angeblich Stabschef der Armee von Zhou Yongliu
17 Chifeng --- (chin. 赤峰市, Chìfēng shì; Mongolisch: Ulanhad) ist eine bezirksfreie Stadt im Nordosten des Autonomen Gebiets Innere Mongolei.
18 Itô Hatsutarô, 巡官 oder 警尉, 警察討伐隊長 von Naimanki
19 Heilongjiang, Provinz und Fluss (= Amur)
20 Ussuri (chines.: Wusuli Jiang 乌苏里江 / 烏蘇里江), rechter Nebenfluss des Amur
21  Die Sowjetunion
22 Jiamusi Bezirksfreie Stadt in der Provinz Heilongjiang und deren wirtschaftliches und kulturelles Zentrum, "östlichste Stadt Chinas"
23 Yamashita Kunifumi, Generalleutnant, Kommandeur der 第四師団部
24 Tulongshan, Berg in Heilongjiang
25 Luguoqiao, Marco-Polo-Brücke
26 Zhou Baozhong, Anführer der 抗日第二路軍
27 Zhao Shangzhi, Anführer der 抗日第三路軍
28 Dai Hongbin, Anführer einer Bauernarmee
29 Xie Wendong, Anführer einer Bauernarmee
30 Usuda Bimei, 治安部次長
31 Yilan, Kreis bei Harbin in Sanjian
32 「三島化学研究所」という秘密収容所
33 Jinzhou, Industriestadt in der Provinz Liaoning
34 Ôhata Isaburô
35 gemeint vermutlich: Tangyuan, ein Kreis in Jiamusi, Heilongjiang.
36 Shimazaki, 警務庁長 von Tangyuan
37 Tsuru, 警務課長 in Tangyuan
38 Murakami, 警備課長 in Tangyuan
39 Huachuan, Kreis in Heilongjiang
40 Haoli (Heli), Kreis in Sanjian
41 Tonghe, Kreis in Harbin, Heilongjiang
42 Kamimura, 警備課長
43 Fujin, Kreis in Heilongjiang
44 Suzuki, 総務課長 in Fujin
45 Imamura, 警務課長
46 Norimatsu Yumekichi, 警正, 警務課長 von Fujin
47 Bahuli, Station bei Jiamusi
48 Zhongyuan, Sumpfgebiet 湿地帯 in Sanjian
49 Fangzheng, Kreis in Heilongjiang
50 Wandashan, Gebirge in Heilongjiang
51 Fuyuan --- located northeast of Jiamusi, is only 65 kilometers from Khabarovsk, the biggest city in Russia's Far East region. Apart from playing an important role in the opening up of Heilongjiang to Russia, owing to the convergence of the Heilong and Wusuli rivers, Fuyuan is a key port where Heilongjiang Province links up with the Pacific Ocean.
52 Luobei (萝北县), Kreis in Heilongjiang
53 Ninomiya
54 Hiraki, Oberst der Kempeitai
55 Usbekistan
56 Hirai, 主計大佐
57 Setani, Generalleutnant
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