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集団反抗

昭和二十六年の暮頃には,私たち百名近い佐官組[入院者は除く]の中で比較的温厚な性格の者五十名ぐらいが,A・Bの二つの組に編成され,民主主義の特別教育を受けはじめた.なんでもレーニン1の帝国主義論をテキストにして討論をやっているということだったが,詳しいことはわからなかった.

私は相変らず歩哨や監守を相手に口喧嘩をやっていたので,反動組に残されていた.しかし約半分近い進歩組が出て行ったということは,残された反動組をますます勝手なことをいうグループにしてしまっていた. そしてそのことは次第に,進歩組との間におもしろくない溝を作りつつあった.

ある日の事だった.今日は特に薄ら寒くて,高い製粉所の煙突の煙は,北風を受けてほとんど真横に流れていた. 運動場に出てみると,進歩組に入れられたはずの元関東2州の警察部長潮海辰亥3さんが,隅っこの方にしょんぼり立っているのが見えた. 潮海さんとは娑婆にいる時から親しくしてもらっていたので,私はそっと近づいて聞いた.

「どうしたんです」

052私のこの短い質問にはいろいろな意味がこもっていたが,潮海さんは充分それを読み取っていて

「どうもこうもありませんよ.少しおとなしくしていたもんだから,とんでもない組に入れられてしまいましてねえ………」

と,少しはにかみながらぼやいた.こんな温厚な君子にもやはり,それなりの受難があるもんだなあと少し気の毒な顔をすると,まだ言い足りなかったのか

「今さらこの年になって,民主主義もへったくれもありませんよ」

とつけ加えた. そこで私たちはそのまま別れたが「猫をかぶっている連中も相当おるんだなあ」と思った. しかしこれは間違っていた. 中国に移ってきてからもう二年近くになっている.私たちの間にはこの生殺与奪の権力の下で,すでに二つの道が芽生えていたのである. 主観的には一定の曖昧さを持っていたとしても,客観的にはすでにこれらの人々は,人民の道の上に足を置いて身動きもできなくなっていたのである.平たく言うなら,その後の学習が[一部の例外は除いて],多くの人々をそうさせてしまったのである.


昭和二十七年の十一月の中頃,私たちはまた撫順4に帰るからすぐ準備をしなさい」

と突然の命令を受けた.いつもこんな時,頭に浮ぶことは,「さては帰国の準備に違いない」053いうことだった. 私たちは最近新聞を手にしなくなっていた,それでも

「革命で中断していた日本人の送還が,最近になって再開されているらしい」

という噂が,どこからともなく伝わっていたのでなおさらそう思ったのである.おまけに撫順に帰ってみたら,若い兵隊さんたちは一ヵ年も前に帰ってきていて,セメントで屋根瓦を作る作業をやっていたとか.ところがそれも一段落,いま後片付けをしている真最中というのである. 私たちは

「いよいよもって帰国のための集結だ」

と決め込んでしまったのである.この独り決めは私たちをこの上もなく朗らかにしていた.

前と同じように一室に十三人ずつ入った.反動組が入口に近い四部屋,進歩組[A・Bの二組]がその奥の四部屋に陣取っていた. 運動に出る時は反動組と進歩組は別々だった.急に広い部屋で大勢一緒に生活するようになったので,私たちの反動ぶりも大胆になり,朝からマージャンをやったり碁[いずれも紙製]を打ったりして暇をつぶした.一番マージャンに熱心だったのは元関東州の検事だった田中魁5さんだった. 三つのグループを作り,毎日の成績を壁に貼り出していた.

ところが進歩組の連中は毎日熱心に学習をしており,時折り討論もやっていた.夜になると決まってシベリヤ6で習った進歩的な歌を歌って,文化活動めいたことがやっていた.私たちはだんだんこれが耳ざわりになってきたのである.

もっともハルピン7にいた時だって,尉官組と進歩組が合同して劇をやった時,見物させられた054私たちは腹を立て,野次りとばしたことがあった. へんてこな格好をした天皇と東条英機8の亡者が,労働者に罵倒されながら,あたふたと舞台裏に引き揚げて行く場面で,昔水兵だったという古賀珍平9じいさんが

「つまらん芝居はやめろ!」

と怒鳴った. するとまた誰かが腫(きびす)を継いで

「日本へ帰ってやって見ろ!」

と罵倒したことがあった.

ここにきてからもっともうるさかったのは討論の内容が聞こえて来ることだった.

「当然われわれは進んで裁判を受け,断罪さるべきである」

「俺はこの手では中国人民を殺害した.だのに中国人民はこの鬼の俺に,真人間になれとさとした」

とかいう金切り声が,しょっちゅうマージャンの碑を切る手に響いてくるのである.とくに負け込んでいる時などはよけいに腹が立って仕方がなかった. はじめのうちは

「なんだだらしのない奴らが,たったこれしきのことでケツを割りやがってッ」

と咳いていたが,とうとう

「こらッ!静かにせんか!」

「金切り声でなけりゃあ討論にならんのか!」

055「いい歳しやがて何んてざまだ!」

と,怒鳴り返すことも一度や二度ではなかった.ある晩かれらは「焼け跡だ,焼け跡だ,焼け跡を旗が行く」

という歌を歌っていた.どうやらスクラムを組んでやっているらしかった. それが終わるのを待ちかねたように,

「焼け糞だ,焼け糞だ,焼け糞の旗が行く」

と誰かがやり返した.みんなどっと笑ったが田中魁[元関東州検事]さんが

「どうかね皆さん!毎晩A組の連中にワイワイやられて迷惑千万なんだが,一つこっちもやろうじゃあないですか」

と提案した. まっさきに賛成したのは野次10将軍の古賀珍平さんだった「うん,やるんなら徹底的にやろうや」

と言う. 大喜びの引地章[元満洲国警正]さんや広瀬三郎12[元中佐]さんなども,

「うちだけやったんじゃあ効果がないから,ほかの部屋にも話して盛大にやりましょうや」と言い出した.

他の組とも連絡がついて,二日後の夕食をすませてから始まった.さて! 始まったとなると興に乗り過ぎ,とんでもない馬鹿騒ぎになってしまった. 右隣りの部屋ではとん狂な声で,「去年の秋の患いに………」と義太夫をはじめた. その前の部屋では,「馬属は死ななきゃーなおりやせぬ」

056浪花節をやり出した. 四つの部屋はいっせいに進歩組のいやがる歌を唄っては時折り,「よーッ」などと叫んで床を叩いた.そのうちにだんだん熱が入ってくると右隣りでは義太夫を中途でほったらかし,加茂熾13[元満洲国警正]さんの音頭で「梅にも春」の大合唱がはじまった. たちまち四つの部屋は手拍子と,床音と歌声と狂声の巷と化してしまったのである.

監守たちは意味がわからないのか,それとも手がつけられないとでも思ったのか,苦りきった顔をして見物していた.ただ進歩組の二部屋だけは静まり返っていて,なんの反響も示さなかった.


「帰国は近い」と思っているのに,いっこうに音沙汰もなく,昭和二十七年も暮れて二十八年の春を迎えてしまった. 私たちの間にはだいぶあせりが見えはじめていた.

ストームをやった晩からは,進歩組の連中もだいぶ遠慮深くなっているようで,討論も合唱も心なしか静かになっているようにみえた.この頃から私たちの間にはこんな話が,ちらほら出るになっていた.

「将軍たちは一体なにしているんだ.戦争の重大な責任者でありながら,部下をたくさん連れて浮虜になったというのに,一日でも早く兵隊たちを帰国させてやるために,今こそなんらかの手を打つべきではないか?」

というのである. 一応筋の通った意見のように見えた.しかし私は気が進まなかった. というのは,「若い兵隊を救え」と言いながら実は「俺たちをも救え」[実際そういう言い方をしていた人もあった]057という意味が感じられたからてある. だがそのうちにその声は

「将軍たちがやらないんなら,俺たちでやろうじゃあないか」

という話に変わってきた.私はこれにも反対だった. その理由は第一に

「やったってなんの効果もない.いたずらに犠牲者を出すだけだ」 「若い者にはいい顔になるし,帰国の暁には立派な上陸切符になる」

という功利主義を感じたからである.一口に言うなら功利に走るには犠牲の方が大き過ぎると思ったのである. こんな話がだいぶ広がったある日の運動時間に,私は隣室の中本広三郎14さん[元関東州検事]に話しかけられた.

「抗議文の話がだいぶ熱っぽくなってきたようだが,島村君はどう思うかね?」

「やったってなんにもならんでしょう」

私は,ぶっきら棒に答えた.それだけでは何だか言い足りないような気がしたので

「どうしてもやると言うなら,後世の史家に問う覚悟で抗議文でも出すんですねえ」

とつけ加えた. 私があまり大きなことを言うんで,中本さんは少し呆れたという顔をしたが,低い落ちついた声で

「そうねえ,実は私もそんな気がしていたんですよ」

と答えた. ところが私の知らないところでこの話は,ひそかに,急ピッチで進んでいたのであった.やがて某少佐が原稿を書いて,具体的な相談にまで発展した.

058「はじめは抗議文のつもりで書き出してみたんですがねえ.われわれの今の身分のことも考え合わせ,第一回は嘆願文の方がよいと思いましてねえ」

題目の通り文章も辞を低うした嘆であった. 私はまっこうから「そんな物が出せるか」と思った. いったいどのくらいの覚悟で書いたのかと聞き返したくなっていたがだまっていた.ところが案外なことにみんなは賛成しているようなのである. 最後に近くなって引地さんが

島村さんはどうなんです?」

と,私の沈黙をなじるかのように聞いた.私は一瞬,妙な反発を感じたので

「反対です」

と言ってのけた. 引地さんはむっとした顔になり

「なぜですか?若い兵隊のことを考えたら,このさいわれわれとしてもなんらかの手を打つべきではないですか?」

とたたみかけてきた.私は心中やっぱり藪蛇になりだしたと後悔したが

「大体何を出したってなんにもなりませんよ.どうせなんにもならんもんなら,後世の史家に問うつもりで抗議文を出したらどうですか.こんな馬鹿な奴が居たんかになってもいいじゃあないですか」

と言ってしまった.全く窮鼠猫を噛むのたぐいだった. するとその引地さんが横手を打って

「実は私もそう思っていたんですよ」

059と言ったまではよかったが,

「そう!抗議文にしましょうや. 毛沢東15に,対等の立場で書きましょうや」

と賛成したのには面くらった.ところが広瀬三郎中佐,志村行雄16中佐,田中魁検事など数人の者が言下に引地案に賛成したのである. もう大勢はきまった. 元来こんなことを討議にかけるのが間違っていたのである.誰もが腰抜けとは言われたくないからである.

「じゃあ島村さん!一つ起草してくれませんか」

とうとう田中さんがそう言い出した. とんでもない事になったと思ったが,もう騎虎の勢である. 田中さんと広瀬さんに手伝ってもらうことにして引き受けさせられた.私は鉛筆をなめなめ

「余等はここに,貴国のわれわれに対する不当なる抑留に対し,厳重に抗議するものである」

と書き出してそっと大きな息をした.草案の起草者ともなれば罪も一人重くなることだろう.

「行く桜,残る桜も散る桜」という句を黒板に書き残して出発した特攻隊の若者があったと聞いているが,もしかしたら「やがて残る桜も散るんだから」と自らを尉めながら,そしてその残る桜に追い立てられる思いで,出て行ったんではなかろうかとさえ思うのだった.私は書き続けた.

「日本降伏後七年有半になるというのに,未だに抑留して帰国させないとは何事だ.高級幹部の責任を追及するというのならまだしも,一兵卒として狩り出され,戦争を強要された若者にまでその責任を問うという貴国の態度には,われわれは断じて首肯し得ないと共に,国際法に照しても違法な行為であると信ずる」

060という意味の事をだいぶ書いてから

「わが日本国はすでに久しい前に全面降伏の意を表明し,戦勝国たる中国に対しても謝罪し,戦争を終結する態度を明らかにしているではないか.然るに貴国の斯の如き不当なる態度は,ただに日本国民の願望にもとるのみならず,日中の平和,引いては東洋の平和,世界の平和に対しても,重大な障害となっているものと信ずる」

と書き,最後に

「われわれはここに,われわれを直ちに釈放し,事実上の戦争終結を要求する」

と結んだ. 宛名は毛沢東国家主席と周恩来17総理にしたが,われわれの方は,自筆連名とし指判を押すことにした. 原案が出来,全室員の討議にかけた.すると数人の者から

「内容はけっこうだが抗議文という題名は余りにもきつすぎるので,請願文くらいにしてはどうか」

という意見が出た.誰も反対しなかった.


この事があってからの私たちの思い上がりは,まさに頂点に達した観があった.口数の少ない温厚の君子にさえ見えた江見俊雄18さん[元大連19警察署長]までが

「こんなまずい飯が食えるか」

と言って20大尉に食ってかかる一幕もあった. 幸い大尉が

061「まあそんなに皮肉を言うなよ」

と笑いながら受け流してくれたので事なきを得たが,一時はどうなることかと心配したほどだった.また「こんな大嵐の日に運動が出来るか」

と言って,反動組の総組長をしていた江頭幸21[元「満洲国」憲兵少佐]さんを押し立て,ストライキのまねごとをやった事もあった.実際その日は蒙古嵐が吹き荒れていて,運動場は砂塵を巻いていたが,私たちはそれを口実にマージャンを続けたかったからだった. 私はこんな空気のど真中に立っている自分を自覚していた.そして今に何かがおこるとおどおどしていた. もちろんうわべはいかにも反抗の闘士であるかの如く装いながら.


ついにその日が来たのである.

朝食をすませて一服していると温厚な呉大尉がやってきて,反動組の中から三十名近くの者を指名し,講堂に連れ出したのである.講堂にはすでに孫22中佐[所長],金23少佐[副所長],雀24中尉その他十四,五名の指導員が,肩にきらきらする大きな肩章をつけてずらりと並んでいた. 瞬間私はとうとう来てしまったと腹をきめた.

「今日は諸君と慢談したいと思う.意見のある者は自由に発言しなさい」

私たちが席につくと孫所長が今日の集りの趣旨を述べた. しーんと静まり返っているわれわれの座席からは,誰も手を上げる者がなかった.二,三分そのままの姿勢が続いた. すると金少佐が062一歩進み出て,

「どうしたんです.遠慮せず発言しなさい.思っていることは,言わなければ解決しませんよ」

と言って,最前列にいる私の顔をじっと見つめるのである.

実は,二日前私は,この金少佐の事務室に呼び出され,北京からやってきた譚風25という上級幹部と二時間余り,民族論について渡り合っていたのだった.私の主張を要約すると

「世界がすべて社会主義国家になってしまい,階級闘争がなくなってしまったとしても,民族闘争は残る」

「資源,領土,文化の差や民族感情,作風上の違いが残る以上,すべてが平和的に解決するとは限らない」

というのであった. 譚先生は

「元来民族は資本主義の産物である.今までの戦争は民族闘争であるかのごとき様相を呈しているが,その実はその国の独占資本家が民族意識を鼓吹し,自己の野望をあたかも民族的欲求であるかのごとく信じ込ませ,戦場に狩り立てたのである」

「階級間には搾取,被搾取という食うか食われるかの,譲ることの出来ない矛盾があるが,民族間には本来そんな性質の矛盾はない.社会主義になれば民族間に残った矛盾は,時間と共に少なくなってゆくだろうし,人民は必ず平和的に解決する」

こんな遠い未来の推則について,抽象的な議論をすることにあまり気乗りがしてないらしい先生063に対して,いくら執拗に食い下がって見たところで,二時間という限られた時間では倒底結着がつくはずもなかった.

つい二日前にこんな事もあったので,今こうして見つめられている,となんだかこう,私が催促されているような気になってしまい,ついふらふらと手を上げてしまったのである.

「それでは申し上げますが,中国はどういう理由で私たちをこのように,長期間抑留しているのでしょうか.これについては何回もお話を承っておりますが,いっこうに合点がゆきません」

と切り出し,何回か金少佐に食ってかかり,請願文にも書いたと同じことを今日もまた持ち出したのであった.そうしないことには私の無罪論が成立しないからである. そしてこう結んだ.

「私は敗戦のあの時,熱河26省の省次長岸谷隆一郎27さんが自決された時,そこに駆けつけた八路軍の一将校が,"自殺までしなくてもよかったのに.われわれはこのような立派な人物と,東亜の将来について談じ合いたかった"と言ったと聞いております.私はこの話を聞いて,共産主義者の中にも武士道を解する立派な人がいるのかと感激した次第でありますが,いったい中国は私たちをどうしようというのでしょうか?もし中国がわれわれに対し,足下に膝まずいて靴をなめろと言うのでしたら,私も日本男児,そのような屈辱には死を堵して対抗するでありましょう」

私はしゃべっているうちにいつの間にか,昔学生時代,弁論部にいた頃の癖を出して,語調を張り上げ大見得を切っていたのであった.後方の席で引地さん,田中さん,志村さんが大きな声で「同感ッ!」と叫んだ.

064これが一つの口火になった事は確かだった. 横山光彦28元ハルピン高等法院次長,田中魁元関東州検事の両氏が争うように手を上げ,法廷弁論そのままの口調で,「われわれに対する長期抑留は国際法上からも違法である」と幾つかの例を挙げて主張した. その他数名の人々も立って各々の立場から長期抑留の不当をなじったのである.発言者の後続が一応とぎれた時,孫中佐[所長]がつかつかと壇上に駆け上がった.顔は怒りで蒼白になり,唇はぶるぶる震えていた.

「昆蛋ッ![馬鹿者奴ヅ]お前らはたくさんな中国人を残酷なやり方で殺害しておきながら,中国人民を恐喝するとは何事だッ!」

通釈に立った29中尉はさすがに「昆蛋」という言葉は訳さなかった.だが,この言葉は私に向けられたものに違いなかった.

「古い陳腐な国際法を持ち出してとやかく言っているが,今日はもうそんなものが通用する時代ではない.中国にはお前らを裁き,処罰する権利があるのだ」

田中さんと横山さんの言葉を取り上げてからやっと言葉を柔げ

「君たちの前には明暗二つの道がある.いずれの道を選ぶかは君たちの自由である.君たちは先日請願文を出したが,内容を見ると不都合きわまるものである.よって所長の権限で没にする」と伝えた. 翌朝この時発言した七名が独房に移された. 広瀬三郎[元歩兵中佐],志村行雄[元憲兵中佐],金子克己30[元満軍憲兵中佐],田中魁[元関東州検事],横山光彦[「元満洲国」ハルピン高等法院次長],大瀬戸権次郎31[元「満洲国」密山32県県長]と私であった.

065「とうとう来るところまで来た」と私は思った.

それに相当ひどい懲罰をくうだろうと恐れていたのに,一応これくらいですましてくれたことに対する一種の安堵感もあった.しかしそれよりも「これで大任は果した.一応男は立った」という解放感の方が強かったのである.

しかし,独房の真中にただ一人座って二日もたつと,その平静は一時の興奮にすぎなかったことに気がついた.それはハルピンの後半以来ずっと続いてきた異状なムードに酔いしれ,感覚を失った平静さだったのである.ところが次第に

「俺という男はなんとまあ,人並な道が歩けない男か?」となり,とうとう「何事も静かに見流して静かなること林の如しであることこそが,大人物のとるべき態度ではなかったのか」となると全くうんざりしてくるのである.

私は自嘲とも,後悔ともつかぬことを独語して時間をつぶしていた.

その頃若い進歩的な兵隊たちの間には,「創作活動」と称して,自発的に自ら犯した侵略罪行を暴露する運動が進展していたのだが,私たち反動組の者にはいっこうに知らされていなかった.

独房に入って三日目の朝十時頃だった. 33中尉が静かに戸を開けて入ってきた. いつ会っても物静かな三十歳前後のこの中尉は,日本語はあまり上手でないらしく,ゆっくりと思い出し思い出し話す人だった.

なんでも「満川国」の総理大臣で,今この監獄に縛がれている張景恵の二男坊だという話だった.

066これはずっと後の話だが,古海忠之[元「満洲国」総務庁次長]や崔中尉[日本語のうまい指導員]から聞いた話によると,この話はほんとうのことだった. 張中尉は最初日本の早稲田大学の専門部に学んでいたが,その後ハルピン大学に移ってロシヤ語を専攻した. 敗戦の時は父の張総理が逮捕されたので,自分も浮虜の一員に加わり父に従って入ソした. ハバロフスクの戦犯収容所では古海さんらと一つ屋根の下で,老父の身の回りの世話をしていた.そして父とともに中国に移管されると,直ちに中尉の肩章をつけ,私たちの指導員の一人になっていたのである.

崔中尉はある日[その時私は刑を言い渡され服役していた]

中尉は実に偉い人だ.あの当時にだねえ,今を時めく総理の御曹子でありながら,われわれに重要な情報をたびたび提供してくれたんだからねえ.そのためわれわれは何回死地を脱出することが出来たことか」

と,しみじみと語ってくれた. 古海さんは

「あの中尉だがね.親父の反対を押しきって女中と結婚するというんで僕も結婚式に出たよ.花嫁さんは北京大学の学生だという話だったが,とても綺麗な女(ひと)だった.今から考えて見ると,その女中[花嫁]というのが,総理の家にもぐり込んでいた共産党の諜報員だったんだねえ」

と話していた. 私たちは当時血眼になって延安34の諜報員を探していたが,まさか張総理の御曹子が共産党員だとは思ってもみなかったし,これでは「満洲国」の機密も筒抜けだったに違いないとぞっとしたのだった.

067立居振る舞いに物音一つ立てないの中尉,黒光りのする長靴をはいたまま一歩部屋に足を入れたが,綺麗に拭き上げた板張りの上に,ちょこんと座っている私に封がつくと,気まずそう収制をして両膝をついた.

島村!この紙に君が犯した罪行を書いて出しなさい」

と休み休み言って,一束の白紙と鉛筆を私の前に押し出した.その声は島村!」と呼び捨てにはしているが,島村さん」と言っているかのように響いた.

「なるだけ詳しく書きなさい」

「私には罪行なんでいうものはありません.その事については先日講堂で充分に申し上げてあるつもりです」

と私は憮然としてこう言うと,張中尉はますます柔和な顔をして

「それではその,君がしたよいことを詳しく書きなさい」

これでは喧嘩にもならない.私はだまって中尉が出した紙と鉛筆を,中尉の膝小僧のあたりに押し返した. 中尉はそれを予期していたかのように

「じゃあ,気が向いたら書きなさい」

と言い残すと,もと来たように物音一つ立てず出て行ってしまった.私はその日一日中考えた. だいぶ考えあぐんだすえ「絶対に書くまい」と決心した. そしてそれを隣室の広瀬中佐に知らせておこうと思った. 一人でも多い方が気楽だという,私のずるさがそうさせたのである.ちょうど,068隔ての壁の高い所に,方五寸近くの穴があいており,そこに両室を照す電灯が灯っていた.私はその穴の下に布団を積み上げて登り

「私は絶対書かぬ.あなたはどうするか」

と書いた紙切れを投げ込んだ.するとまもなくその穴から,同じような紙きれが舞い落ちてきた.

それには「もちろん私も書かぬ.紙と鉛筆は差入れ口から廊下に投げ出してしまった」とも書いてあった. 上には上があるものだと感心したが,投げ出す勇気は出なかった.

私はそれから三日間,何もしないでつくねんと独房の真中に座っていた.いや「何もしないで」というのは誤りである. 私は四六時中壁の一所を見つめて,くたくたになるほど考えあぐんでいたのである. 張中尉が置いて行った紙と鉛筆が「書けよ!書いた方が安全だぞ」と,私を強迫しているように見えた.

それでも昼間はよかった.何やかやと気もまぎれたが,夕食をすませてからがいけなかった. 冬の陽ざしが今私が入っている棟の影を庭に映し出した時など,窓ガラスにへばりついて,その影がぐんぐん向こうの高い塀の方に伸びて行くのを,いつまでも見つめていたりした.ちょっとした石コロや自動車の輪跡などが見つかると,「あッ!あれまでもう一尺だ」と一心に見入っていた.

やがて暮色が蒼然(そうぜん)として迫ってくると,私はこの天地の間にただ一人取り残され,孤影消然*孤影悄然*として立っているかのように思えてくるのである.そして大自然の運行が,どうにもならぬ力でぐんぐんと069進展しているのに,私はその前に立ちはだかって,「よせッ」「止まれッ」とあがいているように思えて仕方がなくなるのであった.

私は四日目の朝,とうとう鉛筆を取った. 広瀬中佐には例の穴から「恥ずかしながら気が変わったので書くことにする」と知らせると,「それなら僕も書く」と折り返し返事がきた.内容は言うまでもなく

「私が中国にきたのは東三35省三千万の住民が,張作霖36その他の軍閥の苛斂誅求に苦しんでいたのでこれを解放し,五族協和の王道楽土を建設するためだった.その間に大東亜戦争という不幸な出来事があったために,多少の手違いはあったにしても,基本的には初期の目的を貫き,孜々営々として理想境の建設にいそしんでいたのである」

と前置きしてから,私がいかに有能にして立派な牧民官であったかを,数々の具体的な事例[例えば学校の建設,道路の建設等々]を挙げ,自慢たらたらを書き並べたのであった.

 

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1 Lenin
2 Guandong, alte Provinz
3 Shioumi Tatsui, 元関東州の警察部長
4 Fushun, Stadt in Liaoning, Nordostchina, Bergwerke 炭坑; Ort der späteren Kriegsverbrecherverwahranstalt 戦犯管理所.
5 Tanaka Hajime, 元関東州検事
Sibirien
7 meist ハルピン od.  ハルビン geschrieben: Harbin, Stadt nördlich von Xinjing, Hauptstadt der Provinz Heilongjiang
8 Tôjô Hideki, 1884-1948, ab 1940 Heeresminister, 1941þ44 Ministerpräsident, 1944 Generalstabschef ; im Tokyo-Prozeß zum Tode verurteilt.
9 Furuga Shinpei, früherer Matrose 水兵
10 野次将軍 ist der Spitzname eines Baseballspielers (川藤幸三, geb. 1949)
11 Hikiji Akira, 警察署長
12 Hirose Saburô, Oberstleutnant der Infanterie 歩兵中佐
13 Kamo Hiroshi, 元満洲国警正, geb 1894, Polizeistellenleiter in Tianjin
14 Nakamoto Kôsaburô, 元関東州検事
15 Mao Zedong (jap.: Mô Takutô)
16 Shimura Yukio, 憲兵中佐
17 Zhou Enlai --- Zhōu Ēnlái auch Chou En-Lai (chin. 周恩来/周恩來, W.-G. Chou Ên-lai; * 5. März 1898 in Huai'an, Provinz Jiangsu; † 8. Januar 1976, Premierminister der Volksrepublik China von 1949 bis zu seinem Tod.
18 Emi Toshio, früherer 警察署長 in Dalian
19 Dalian (jap. Dairen), früher Lüda oder Lüta; eine Hafenstadt in Liaoning
20 Kure, Hauptmann
21 Egashira Miyuki, 1913-1986, Major der Geheimpolizei; 1984 Herausgeber von『満州国軍憲兵の懐古』
22 Sun, Oberstleutnant, Gefängnisleiter 所長
23 Jin, Major, stellvertretender Lagerleiter? 副所長
24 Qiao (Que), Oberleutnant
25 Tan Feng, 上級幹部 aus Beijing
26 Rehe, bekannt auch unter dem Namen Jehol; eine frühere Provinz der Inneren Mongolei, die 1933 von den Japanern der Mandschurei angegliedert worden war.
27 Kishitani Ryûichirô, 省次長 von Rehe
28 Yokoyama Mitsuhiko, Vorsitzender Richter 審判長 des 高等法院 in Harbin; im Juni 1956 in Shenyang zu 16 Jahren verurteilt, im Aug. 1961 entlassen; 『望郷 私は中国の戦犯だった』(1973)
29 Cui Renjie, Oberleutnant, Dolmetscher
30 Kaneko Tatsumi, 元満軍憲兵中佐 1-4 少佐 2-1
31 Ôseto Gonjirô, früherer 県長 von Mishan
32 Mishan 1. Kreis in Dong'an 2. Ort in Hebei (5-4-25)
33 Zhang, Oberleutnant, studierte an der Waseda-Univ., Sohn von Zhang Jinghui
34 Yan'an --- (pinyin: Yán'ān; Wade-Giles: Yen-an) liegt im Norden der Provinz Shaanxi an der Grenze zur Inneren Mongolei und am Gelben Fluss. Yan'an war 1935 das Ziel des Langen Marschs und danach bis 1948 die politische und militärische Basis der Kommunistischen Partei Chinas.
35 Dongsan, die drei nordöstlichen Provinzen (遼寧省Liaoning・吉林省Jilin・黒竜江省Heilongjiang), auch Dongbei東北.
36 Zhang Zuolin --- Zhāng Zuòlín (Traditional Chinese: 張作霖,Simplified Chinese:张作霖, pinyin: Zhāng Zuòlín, Wade-Giles: Chang Tso-lin) ... nicknamed the "Old Marshal" (大帥), "Rain Marshal" (雨帥)or "Mukden Tiger"; einer der wichtigsten Warlords zu Beginn des 20. Jh.; Warlord in der Mandschurei v. 1916 bis 1928.