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ハルピン1の二ヵ年

いつしか秋も深くなって,時たま鉄格子の間から迷い込んで,私たちを喜ばせてくれた赤トンボも,もうこなくなって久しくなっていた.いつかの句会で元関東2州の警察部長だった潮海辰亥3さんが

「獄庭の胡蝶は秋を低く舞う」

と詠んだ黄色の蝶々もどこかへ行ってしまい,早い陽足(ひあし)に朝晩はめっきり寒くなった十一月の末,私たちは突然金源4少佐から,「君たちはこれから直ちに,ハルピンに向って出発する」と伝えられた. この知らせには余り驚かなかった.というのは,ここにきてからずっと配られていた瀋陽5日報」という新聞が,この一ヵ月ぐらい前からぱたりと停まっていたし,獄舎の近くを走る夜汽車の回数も一だんと増してきていたので

朝鮮6の方に何かが起こっているに違いない.おそらく米軍が中国の国境近くに迫ってきたのだろう.こうなれば中国の参戦も必至だ」

私たちは米軍による救出ということを,まるで「可能性おおあり」のように話し合っていたからである.

024何はともあれ私たちは,追い立てられる鶏のような気ぜわしさで,その日の午後三時撫順7を出発した.

今度の汽車はこの前の時のように,名もない駅に何時間も停まって食事をしたりすることもなく,一気にハルピンに向かって走って行った. そして,翌日の夕方まだ明るい頃,ハルピン駅を通り越して松花江8岸の引き込み線に入って停まった.

さすがにハルピンは寒かった. 松花江を渡って来る身を切るような北風にさらされ,カチカチに凍った線路の雪の上に,赤い夕日が心細い光を投げかけていたのを見たことを覚えている.私たちは例によって,その江岸の線路の上で,陽がとっぷり暮れるのを待った.

あたりがすっかり見えなくなり,対岸の民家の灯が宝石のように輝きはじめてから,私たちは数台のバスに乗せられて出発したが,そのバスが街角を一曲りか二曲り回ったかと思うと,すぐ真黒い,高い煉瓦塀の中に入って行った.顔見知りの看守[誰が名をつけたのか知らないが,当時はもう看守のことを班長と呼ぶようになっていた]に案内され,薄暗い電灯のともった階段を一つ登って,三一メートル四方の小さな部屋に連れ込まれた.誰が見ても昔独房に使われていた部屋としか思えない間取りである.

窓寄りの方には頑丈な鉄格子がはまっており,ぞの外の一メートル半の廊下を隔ててでなければ,硝子窓を通して星空を見ることはできなかった.部屋の隅には高さ二十センチ,幅六十センチのコンクリートの台が作ってあり,その中に水洗便所が切つであった. [この水洗便所はそれから約二年間,025私たちの洗濯だらいであり,洗面器であり,ひねると出てくる水道の水は,私たちの飲み水となった]

両側の壁には「打倒日本帝国主義」とか,「中国国民党万歳」という血書がそのまま残っていた.

入口に近い便所の横の壁には,一人の中国兵が青竜万を振りかぶって,日本兵らしい者の首をはねている下手な墨絵があった.

松花江岸………もしかしたら」

不吉な予感にも似た恐怖が胸の中を走った.そして私は急に,話をしない人間に変わってしまった.

翌日午後三時,運動に出た時,私は注意深く周囲の様子を調べて見た.黒煉瓦ずくめの古風な二階建の建物に,三方をまれた狭い獄庭の一方は,上部に硝子の破片を埋め込んだ高い煉瓦塀になっていた. その塀の向こうに大きな字で,ハルピン製粉所」と書いた煙突が,寒空に高々とそびえ立っていた.

これですべては明白になった.私の不安はすでに現実の物となっていたのである. この建物こそまぎれもなく,私が勤めていた秘密機関保安局が,ハルピンに作っていた秘密収容所だったのである. 私は今の今までこれらの秘密収容所だけは,誰にも知られていないと信じきっていた.保安局という防謀,謀報の秘密警察は,ボーイにいたるまで日本人を使っていた. 中国人の口から洩れることを恐れとからである. もちろん組織の末端では中国人の密偵を使っていた.しかしかれらはただ,商人や職人になりすました日本人の操縦者に連絡するだけで,こんな建物があることも026知らされていなかったし,近寄ることもできなかったのである.

このような秘密収容所は全満各省に作っであった.私たちはそれに「三島化学研究所」三江9省]とか,「満蒙資源開発公司」竜江10省]とかいった,いいかげんな偽装看板をかけてごまかしていた.確かにこの建物には,「第二松花塾」という名をつけてあったはずである.

浜江11省地方保安局[私が勤めていた中央保安局の下部機関]では,敗戦の半年くらい前から国民党の地下組織を発見し,大弾圧を行っていた.確か十名近い中心人物をこの収容所に叩き込んでいたはずである. 保安局要員は毎日毎晩,一人一人引き出してはひどい拷問を加えて取り調べた.椅子に座らせて電気を通して苦しめたり,水を飲ませたり,真赤に焼いた鉄棒で身体を突っついたり,裸の上に洋紙で作った着物をきせ,それに火をつけて絶叫させたり,およそ人間の知恵で考え得られるありとあらゆる残酷な方法で拷問を行い,かれらの組織の全貌と活動内容を知ろうとした.しかもそれを保安局要員は,あたかも自分たちだけに許された特権であるかのように考えていたのである.おまけに取り調べが終わって用がなくなったら,その口述が苦しまぎれのでたらめであろうと,初めから間違えて逮捕した無実の者であろうと,私たちは組織の秘密を守るために,一人残らず収容所の中で殺してしまったのである.

この収容所でも十名以上の国民党員を殺害していたはずである.しかもその大半は敗戦後自分たち[保安局要員]の身の安全を願って,そうです!ただそれだけの理由で殺したのである.私が見た部屋の落書きはその殺された国民党員たちが,今わのきわに書いた遺書だったのである. 私は027このような拷問と虐殺を指揮した中央保安局の幹部の一人だった. しかも今その私が,その殺人窟に入れられているのである.

ここがどういう所なのか.ここで何が行なわれたのか. この私がそれにどんなふうに関係していたのか. それがわかったら大変である.

絶望と死の恐怖が私を襲った.急に足がこわばって歩みが止まった.

「今に殺される.この私が………」

空はどんよりと曇っていた.今夜は雪かもしれない.


その後私は,ここがどんな部屋であるのかについては,誰にも話さなかった.歩哨は毎日硝子窓との間にある廊下を,カッツ,カッツと靴を鳴らせて回っていた. 肩から斜に弾帯を背負い,黒光りのするカービン銃[小型機関銃]を抱いて,五分間置きに通り過ぎるのである. その硝子窓には満洲特有の氷の絵模様が張りつめて,物騒でその上単調な獄舎の生活に,小さな色取りを注ぎ込んでくれた.深い海底に群生している昆布を思わせるようなその絵模様は,鉄格子の桟に顎(あご)を押しつけて見入る私たちを,遠い海のかなたの水晶のような昆布林の中に連れ込んでくれた.外はもう零下十五度をくだっていたが,暖房設備の整ったこの独房は,その美しい氷の絵模様を,二時間とは見せてくれなかった.

028人間という奴は退屈すると,活字が見たくなるものらしい. 習慣というものは恐ろしいもので,裟婆にいた時は,一日として活字を見ないで暮したことはなかった.

誰がはじめたのかわからないが,私たちは,いつのまにか一日二時間の獄庭散歩の時に,隅の屑箱の辺りから新聞の切れ端を拾って来るようになっていた.弁当や書類を包んだらしいその新聞紙は,どれもこれもしわくちゃになっていたし,時にはひどく汚れていたりした. 私たちは水でていねいにしわを伸ばし,汚れを落して読んだ.

ある日私は運良く,少しも汚れていない新聞紙松江12日報]を一枚手に入れた. それはくず箱の向こうの壁との間に,無造作に丸めて捨ててあったものだった. 何か油で揚げた御馳走でも包んだものらしく,ところどころに油のしみがついていた.

「どうだい!たいした堀出し物だろう」

私はそれをいま一人の田中三治13さん[満軍憲兵少佐]に示して鼻をうごめかした.だが私はそれを一分と読まないうちに,真青になってしまったのである. 第一面のトップに,肇州14(ちょう)城外の白雪を朱に染めた三肇惨案」という見出しが,一号活字で大きく浮かび上がっていたからである.私は文中に島村副県長」という活字がありはせぬかと,食い入るように読み入った.

新聞には私が肇州県に赴任して三ヵ月目に,三十名近くの共産党員を,城外の雪の中で銃殺した事件が書いであった. 言々恨みと怒りでのた打っているその文章は,15氏という被害者[大幹部]の妻が書いたものであった.

029昭和十六年一月末,当時竜江省白城16県の副県長をしていた私は,突然浜江省肇州県の副県長に転任の辞令を受け取った.当時肇州県は,中国共産党第二路軍第十二支隊長徐沢民17氏の率いる約六百名の遊撃隊によって,日本帝国主義の植民地体制が,滅茶苦茶に破壊されている時だった.もちろん私もこんな危いところに赴任することはいやだった. だがもし私がこれを断わったとしたら,風上にも置けない卑怯者としてさげすまれ,友人たちにも顔向けができなくなったに違いない.私はそれが恐かったのでしぶしぶながら赴任したのであった.

昭和十六年の一月の末といえば,大東亜戦争開始の直前である. 中国本土に大軍を入れた日本軍は,広大な地域で人民軍の抵抗に遭い,ただ点[都会]と線[鉄道]を占領しているだけで,にっちもさっちもいかなくなっている時だった.アメリカの重慶18を通じて行われる軍事援助も活発だったし,ソ連の新疆19ルートからの援助物資も相当なもので,中国征服の夢はようやく一頓挫という時期であった.

この頃北満の山岳地帯に根拠地を持っていた第二路軍は,中国本土のこのような情勢に呼応し,日本軍の後方攪乱を目的として平原地区への進撃を開始しようとしていた. もちろん私たちもこの情報は入手していたが,さて,いつ,どこに打って出て来るかは全く不明だった.それがはからずもこの肇州県[革命後発見された大慶21油田の中心地区と思って下されば,当らずとも遠くはない]に出てきたのである.

徐沢民支隊長は肇州県豊楽21街の商務会長をしていた事があり,県でも有力な土豪烈紳の一人だった. 030かれは商務会長の頃から日本の満洲侵略に反対し、祖国の領土は必ず中国人民の手に奪回しなげればならないと考えていた.商務会長を辞めた頃から,かれは中国共産党に接触するようになった. それからのかれはまったくせきを切った奔流のように,まっしぐらに反満抗日の実際活動に突き進んで行ったのである.まもなくかれは肇州県城から四キロ南方にある托古22(たっこそん)に住む張銘[この暴露記事を書いた女の夫]という人の裏庭に地下室を作り,文字通りの地下活動に入ったのである.そして昭和十五年十月の末,北満の広野に霜が降り,畑の高梁がすっかり刈り取られた頃を見はからい,「日本帝国主義打倒」の兵を挙げたのであった.

挙兵の当夜一部の兵力をもって,托古村村投場と駐在所に焼き打ちをかけさせ,自らは主力を率いて豊楽街[彼の出身地]を占領し,警察署を手に納めてたくさんな兵器弾薬を手に入れた.その翌日は長駆して肇源(ちょうげん)県城肇州県の南隣り]を襲い,県庁を焼打ちして日本人官吏十三名を斃し,三肇23(ちょう)肇州肇源肇東24の三県]の広野を震駭(しんがい)せしめる大事件を引きおこしたのである.

こうして日本の統治者どもの心胆を寒からしめたかれは,その後約三ヵ月間,三肇地区を中心にゲリラ活動を行い,渡辺25浜江省警備課長を戦死せしめるなど,日満軍警で組織された数千の討伐隊を奔命に疲らしめたのであった.しかしわれに数倍する討伐隊の日夜をわかたぬ進撃と迎え討ちに会い,一人減り,二人斃れ,私が赴任する頃には約三十騎くらいの小部隊数個に分かれていた. そして私が入城したその日に,徐沢民支隊長は北隣りの青崗26県の一部落で逮捕された.

私の任務はこうして散り散りになった小部隊を討伐することにあったが,それよりも部隊を解散031 して地下に潜入した隊員を探し出し,逮捕し,拷問し,さらに探し出すことであった. 三肇惨案のむごたらしい鬼畜の行為は,むしろこの時から始まったのである.

浜江省警務庁長秋吉威郎27は,すでに早くから景山事務官を現地に派遣し,この仕事を開始させていた.私が着任した時はすでに,県の留置場も法院の監獄もみんないっぱいになり,不眠不休の取調べが進行していた. この文章を書いた張銘夫人もその時すでに捕えられていたのである.

「私は足枷をさせられたまま庭に引きずり出された.庭では私の夫が仰むけに梯子(はしご)に縛りつけられ,水を飲まされているところだった.夫はうわっうわっと苦しい叫びをあげながら,頭を左右に振って水から逃げようとしていた.しかしだめだった.水は逃げる口を追って間断なく注がれ,見る見るうちに胃のところが大きくふくれ上がってきた.見ている私の方も息が詰まって苦しかった.やがて夫は気絶してしまった.両手で顔をおおっている私の手を,一人の鬼が荒々しくもぎほどいて,

"どうだ!言わなきゃあお前にもああするぞッ!"と叫んだ.返事の代わりににらみ返したら"この女奴(あまめ)ッ!"といきなり私の顔に鞭が飛んできた.私はだまってこらえた.すると鬼奴はもっと腹を立て,胸といわず腰といわず,めちゃくちゃに殴った.今一人の鬼が,泥靴で夫の胃の上を踏んだ.水が口からプーッと噴水のように吹き出した.

"ハッハッハッハハ"と見ていた鬼共がいっせいに笑った.その鬼がいやというほど夫の顔を蹴032飛ばした.やっと正気に返えった夫は私の居ることに気づいた."どうだ!白状しなけりゃあ,可愛いい享主にまた水を飲ませるぞ"と鬼がまた叫んだ.はっと思った私が夫の顔を見た時だった.

"言うなッ!口が裂けても言うんでないぞッ"夫が怒鳴った.その声がまだ終らないうちに二人の鬼が夫にとびかかった.殴る,蹴る,踏みつける,手当り次第である.夫の唇が切れて顔が真赤に染まった."言うんでないぞッ!言っても殺される.言わんでも殺されるんだ""一人でも多くの同士を守るんだッ"鬼共は狂人(きちがい)のようになって夫を殴った.その鞭の下で夫は再び気絶した.

零下二十度の外気の中で,さっき夫が吐いた水はもう地面で白く凍りはじめていた.こんなことが毎日毎日続いた」

張銘夫人はこのようにその時の様子を書いていた.

私は赴任してまだ二ヵ月とたたないうちに,張銘を頭とする三十名近くの人々の,死刑執行に立ち合わなければならなかった. ハルピン高等法院肇州臨時審査廷の裁判は,裁判と言っても名ばかりで,全く乱暴きわまるものであった.日本軍の要求に基づいて,派遣され,この取り調べを指揮したハルピン高等検察庁の上田幸平28検察官の求刑どおり,ばたばたと判決するだけのことだった.

刑場は県城から一キロ半南方の雪野原の中だった.準備ができたというので私は二頭立ての馬車で出かけた. 城門を出て少し行ったところに黒山29の人だかりがあった. 烈士の親戚や友人たちが033その最期を,一目だけでも見ようと集まっていたのである. しかしたくさんな瞥察官が銃をして,かれらが刑場に近づくのを阻んでいた. 馬車はそこで道を捨て,白皚々(はくがいがい)の雪野原の中に入って行った.

刑場は緩(ゆる)やかなカーブの丘を背に作られてあった. 刑場といってもその丘の麓に,長さ三十メートルの長い穴が掘られ,その手前四十メートルの所に二メートル近い腰掛けが三つ,穴と並行に置かれてある.ただそれを遠巻きに五十名余りの武装した警察討伐隊が警戒しているのが,刑場らしい雰囲気を作っていた.

「なかなかよいところじゃないか」

同乗の松本30警佐を振り返ってこう言うと

「はあ,あの穴を掘るのに一苦労しましたよ.凍った土という奴はまったく手におえませんねえ」

と,黒々とした土盛を指さして答えた.やがてハルピンの高等法院や高等検察庁の責任者,日本軍の小安部隊長等が馬車を連ねて到着した. これで役者がそろったわけである. 陽はもうだいぶ西に傾いて,身を切るような北風がしきりに外套の裾を吹き上げていた.みんなは平常な顔を見せようとつとめているらしいが,心はその反対らしかった.

「今日はよい天気でよかったですねえ」と言ったのは小安部隊長だけである.

034「無茶に寒いですねえ」

「春先の方がもっと寒さを感じますねえ」

多くの人々はこんな話を交わしていた.やり場のない心の寒さを,寒風にごまかしているのである. 私も靴底で凍った雪バリバリ踏み砕きながら,遠まきにしている中国人警備兵の方ばかり気にしていた.

間もなくトラック三台に分乗した烈士の一行が到着し,次々と穴の手前に立たされはじめた.こうなると私たちも立ってばかりはいられないので,腰掛に並んでじっとかれらを見守った. 顔は土色に青ざめ,落ちくぼんだ眼をしたかれらはみな一様に,敵意に満ちた眼で私たちの方をじろっと見てから,黙々として穴の方に歩いて行った.かれらの一歩一歩の歩みに,足枷の金具がガチャッガチャッと音を立てた. その音だけがこの不当な死刑に対するただ一つの抗議かのように響いていた. かれらが並び終わる頃には,それと同数の銃を持った警察官が,十メートル手前に並び終わった.抜刀した松本警佐が私たちの方に駆け寄って「準備終わりました」

死刑執行官が無言でうなずくと,きれいな姿勢で回れ右をし,いきなりかん高い声で

「構(かま)え!銃(つつ)

「撃てえ!」

と続けざまに号令した.耳をつんざく銃声が,三十名近くの烈士を棒倒しに穴の中に突き落した. ところがその硝煙が,遠巻きにしている警備兵の環の外に出ないうちに,もう二人の獄史が穴035の中に飛び込み,血まみれの死体から足枷を取りはずし始めた.金槌で錠前を叩くカチン,カチンという金層性の音が,なんだか地獄から聞えてくる閻魔の声であるかのように,凍った雪の上を走っていた. それがすむと死体にガソリンをかけ火がつけられた.風上からつけた火がぱっと穴を走ったかと思った瞬間だった. ちょうど真中頃から火,だるまになった人間が一人

「うッあッ!」

と,悲鳴とも喊声ともつかぬ叫び声をあげながら,私たちに向かって真っしぐらに駆け出してきたのである.それはまるで地獄から飛び出してきた魔王のようであった. みんないっせいに棒立ちになった. 手が硬直して腰の拳銃が取れないのである.

幸いなことに火だるまの魔王は,私たちの前三メートルで倒れ,二,三転して動かなくなった. 張銘夫人はこれらのことをつぶさに書いた後に

「日本の鬼どもの統治は終わりを告げた.われわれの苦しかった日々は,永遠に終わりを告げたのである.しかし生き残った日本の支配階級は,今アメリカの走狗[犬]になり下がり,かつて自ら通った侵略の道,自ら破滅した道の案内役をつとめている」

「われわれはもっと警戒しなければならない.われわれの周囲にはこれらの侵略者どもを迎え入れ,また一儲けしようと企んでいる売国奴や悪徳地主どもがうようよしている.われわれはこのさい,これらの悪者どもを徹底的に暴き出し,粉砕しなければならない」

私があの頃たよりに思って使っていた31警佐,郭32警佐,孫33警佐,金34警尉たちもおそらく人民の036追及の前に処刑されたに違いない. だがほっとしたことに,島村35副県長」の活字だけはどこにも見当らなかった. というのは,中国ではこの頃盛んに,悪徳地主や売国奴どもの行状を暴きながら土地革命を進めていたので,あるいはこの暴露記事も,目的がその方にあったのかも知れない.

とまれ私は,この張銘夫人の記事を読んで震え上がってしまったのである. しかも私は,今自分たちで作った秘密収容所,殺人窟に入れられているのである.


私はここハルピンに来てから,もう二回もひやっと胆をつぶすようなできごとに出あった.しかしよく考えて見るとそのできごとは,ただ単に私が,今,それを知ったので驚いているだけのことで,私が知る以前からあったことであり,今もなおあり続けていることなのである.それなのにそれに対する恐怖の度合いは,時間がたつにつれて薄らぎ,慣れるにつれて遠退いて行くのである. 時には全くなかったかのように振舞っている自分を発見して,はっとすることさえあるのである.どうやら人間という奴は,そんな勝手な動物らしい.

三人の独房生活は,同じ顔ぶれでは二ヵ月とは続かなかった.理由はわからないが,しょっちゅう誰かが出て行き,誰かが入って来るのである. ソ連以来の顔見知りがくることもある.全く見知らぬ人がくる時もあった.

昭和二十五年も暮れ,二十六年にはいって三ヵ月もたった頃,田中元満軍憲兵少佐が出て行ってその代わりに,糸満盛信さんという,聞き慣れない名の元関東州の警部だった人が入ってきた. 037これが五人目だったと思う.

「私は沖縄県人でして」

糸満さんは初対面の時,ていねいに手をついて頭を下げた. なかなかの酒豪だそうで,酒の本も二,三冊出版したこともあると話していた.ともあれ私と堀口37さん[元憲兵隊長中佐]は大喜びをした.たくさん耳新しいことが聞けて退屈をまぎらわすことができるからである.

この頃から言わず語らずのうちに,牢掟みたいなものができつつあった.新入りともなれば前の部屋でしゃべった話であっても,新しい部屋にかわってくると,また話さなければならなかった.

「あたりまえなら座布団の一枚も差し上げ,三尺下がって御挨拶せんにゃあならんのですが,まあ身の上話など致しますので,まっぴら御勘弁なすって………」

と切り口上を述べていた. 糸満さんは沖縄の豪族の息子だったそうで,生い立ちも私たちと変わつていた. 沖縄県人と祖先の墓の話もした. アワ盛り酒の造り方も話してくれた. 赤人(あかひと)という反抗の英雄の話もした. ハブの話や空手[本も書いている]の話もした.そんな話の中で,

「私は敗戦当時一兵卒だったんですよ」

と話し出した. 糸満さんは警察ではもう古手になり,老いぼれて「使いものにならぬ」という理由で,停年にはかなりの年月を残していたのに,敗戦直前に馘になってしまった. だが間もなく召集令状を突きつけられて国境に送られてしまった.

「警察では老いぼれで使いものにならぬが,軍隊ではまだ一兵卒として充分使える」

038「こんな話なんてありませんよねえ」

という糸満さんは「まことに憤慨にたえぬ」という顔付だった.しかしあの頃としては,こうした憤慨は通らなかった.

四十の坂をとっくに越えていた糸満さんにとっては,一兵卒の生活は楽しいものにはならなかった. 今まで上級警察官として長い剣を吊り,市民の上にふんぞり返っていた糸満さんだけに,することなすこと間伸びがしていて,若い班長のしゃくの種になった. その上アル中に近い身体になっていた糸満さんは,一兵卒として機敏に跳び回るには,体力的にも無理な話だった. 何かやると,何か答えると,頬っペたにビンタが飛んでくるのである.

「帝国軍人の土性骨を入れ変えるためにゃあ,お前らの一匹,二匹,殴り殺したってお安い話だ」 若い班長は補充兵を集めて公然とこう言い放ったと言うのである.

「いやあ,軍隊というところはまことにひどいところですよ.あれじゃあ上官に対する信頼なんて,できっこありませんよ.あんな事じゃあ日本軍は絶対に強い軍隊にはなれませんよ」

と食ってかかるのである.私は,「この男そうとう社会主義にいかれてやがるんだな」と思ったが,その社会主義国の牢獄に繋がれているんでは,そう露骨な口論もできないとだまっていた.

綏芬河近くの兵舎に入った糸満さんは入隊して三ヵ月目,やっと軍隊生活の「要領」がわかりかけた頃,今度の敗戦という憂き目に会ったのだそうである.

ソ連軍の攻撃が始まるらしいぞ」

039という噂みたいな話を聞いて半日もしないうちに,糸満二等兵がはじめて聞いた隊長の命令は,

牡丹江38に向かって退却する」だった. 重い小銃や弾薬,それに食糧から毛布にいたるまで担がされている糸満さんたちは,来る日も来る日も退却を続けた. その退却も平坦な道をただ歩くのではなかった.しょっちゅうソ連の飛行機の機関銃掃射を受けねばならなかった.

遠くの方でブーンと言ったかと思うと,もうバリバリと撃って来るのである.逃げるひまも,地形を探して隠れるひまもあったものではなかった. たちまちプッ!プッ!と親指大の穴が雨上りの地面にあきはじめる. あっと思った瞬間通り過ぎるんだが,すぐまた引き返してくる.

「あの時は恐かったよ.伏せたまま頭も上げられないんだからなあ.さんざん暴れた末,やっと引き揚げたらしいんで頭を上げて見たら,さっきまでぴんぴんしていた戦友が,血だらけになって動かないんだからねえ」

起き上がるとまた行軍である.もちろん死んだ戦友は放ったらかしである. 足が棒のようになり,足の裏は豆だらけになったが,命の方がもっと大切なので捨てられては大変と,歯をくいしばって行軍を続けた.

やっと牡丹江に着いてほっとしたのもつかのま,部隊はまたもや退却を命ぜられた. この頃から大きな荷物を背負った男女が,子供の手を引いて歩いている開拓団に会いはじめた.かれらは糸満さんたちを見ると,まず

「兵隊さん,後生ですからいっしょに連れて行って下さいよ」

040とねだった. へとへとに疲れ果てている人びと,満洲という異国人ばかりの戦場に取り残されながら,武器一つ持たされてないこれらの人びとは,銃を担いだ日本兵の隊列を見つけたら,神とも仏とも思ったに違いないのである.しかし糸満さんたちはどうすることもできなかった. 部隊に課せられた任務はただ一つ,「退却」だけだったからである. こうして大日本帝国の軍隊は,涙を流してすがりつく同胞,今までせっせと働いて食糧を生産してくれた開拓団の老若男女を,敵が迫ってくる後方に置き去りにして,ひたすら「退却」という最高の軍命令を守り通していたのだった.

「私はあの時,もし兵隊は何のためにあるんだと聞かれたら,どう答えようかと思いましたよ」 日本人はみんな ハルピン,ハルピンへと歩いていた. ハルピンに着きさえしたら何とかなると,いっさいをハルピンに賭けて歩いていた.

しばらく行くと糸満さんの部隊はとある小山に差しかかった. そう険しいというほどの山道ではなかったが,疲れ果てた糸満さんたちにとっては,とても辛い坂道であった. やっと峠に近づいた頃,ふと前方から赤子の泣き声が聞えはじめた.

「また開拓団にあうんかな?」

ふと暗い思いがした.だが火がついたように泣き叫んでいるその声には,誰もあやしている様子がなかった.

道端の平垣な岩の上に,毛布でくるんだ生後四,五ヵ月の赤子が捨てであった.枕もとに大きな握り飯が二つ,仏様にでもそなえるように置いてあった. 「そうか!みんなこうして死んで041行くんかも知れない.早いか遅いかの違いだけなんだろう」 あまりにも大きい悲劇の連鎖の中で,糸満さんの眼にはもう涙も滴れてしまっていた. 戦友たちはみんな通り過ぎた後,必ず一回は振り返っていた.

山を降りて少し行ったところで,へとへとになっている開拓団の一行に追いついた. 糸満さんたちはこの人たちをも追い抜いて退却した.

話を結んだ糸満さんの眼には涙が光っていた. 生後間もない赤子に,とうてい食えないお握りと知りながらも,置いて行きたかった母親の心情が,つんと胸をついたからであろう.人情もろい堀口さんは指を折りながら

「もし生きていてくれたとしたら………」と言いかけて声を飲んだ.


座ったままの生活が多いせいか,みんな軽い神経痛を病んでいた.これが昔話に聞く牢獄病という奴だそうである. 一時驚くほどの大食漢を発揮しぶくぶく肥っていた連中も,今はだいぶ小食になり,この頃は身体の方も娑婆の格好を取りもどしていた.

四月の中頃から松江日報』という新聞が入るようになった. それによると獄舎の外では朝鮮戦争の発展に並行して,土地革命に伴う粛正運動[漢奸狩り]が,嵐のような勢いで広がりつつあった.やはり特務根性というのか,私にはそれが,なんだか革命政府は戦争[外患]という国家の一大事042を巧みに利用して,アメリカ帝国主義に対する敵がい心をあおり立て,その盛り上がった憤激を国内の地主,売国奴に指向させ,いっきょに内憂を除き,一石三鳥思う壷の土地革命を推進しているように思えてならなかった.だから私はこれらの記事を見るたびに,「いやあ,お見事,まことにあっぱれ」と,中共幹部の政治的手腕に感心していたのであった.

しかしこうした記事を毎日見ているうちに,最初秘密収容所の落書きや,三肇惨案の記事に肝を潰した私も,次第に慣れっこになり,こわいながらもそれらの出来事が,なんだか他人事のように思えてくるのだった.

「勝つか負けるかは時の運だ.ちっとばかり手荒なことがあったからといって,わいわい騒ぐこともなかろうさ.中国さんだって朝鮮の前戦では,鉄砲や大砲で人殺しをやっているじゃあないか.それが戦争というもんだよ」

と言いたくなってきていた.いや!こう考え,こう行動しないことには,この監獄の生活に押し潰されそうで,なんともたまらなかったのである. だからこれは何も,「でも地球は回っている」というガリレオ38の勇気とは似ても似つかぬものであった. 客観的事実は他国を侵略したということである.その上肝心の祖国はすでに全面降伏をしている. これでは私たちの心のよりどころは何もない. ただ残っているものは「なにくそッ」というやけくそ半分の面子欲と,「暴(ば)れないだろう」いや「暴らすものか」という強がりだけだったのである. 風前の灯のような環境の下にありながら,まだちっとでも格好よく[実はその反対だが]振舞っていたいと願う浅ましさには,つける薬も043なさそうである.

ハルピンにきた当初は,放歌高吟するような不心得者は一人もいなかった. ところが近頃は手放しで歌うようになっていた.誰か一人それをやると,歌わない奴が卑怯者のように思われそうで,歌わないわけにはいかなくなってくるのである. もちろん私たちの歌う歌は,軍国主義華やかな時代に仕入れた歌ばかりである. シベリヤ 時代に少しは民主主義の歌も習ってはいたが,そんなものを歌いでもしたらすぐ「よせやい!胸くそが悪うならあ!」と隣室から罵声がとんできたものだった.

実際「団結の力はわれわれの武器だ」と歌われでもしたら,腕を組んだ人垣の真中に引き据えられ,毎朝,毎晩吊し揚げをくったハバロフスクの生活が思い出され,腹が立ってくるのだった. 隣り近所に聞えよがしに大声でがなる私たちの歌は,メロディーや歌詞を味うといったそんな上品なものではなかった.もちろん軍国主義のきざな歌を歌うことによって,囚われの身の不満を発散させ,昔を偲んで自ら慰めるという作用がなかったというわけではないが,それよりもむしろ,佐官組全員に対して侵略思想を持ち続けさせ,「へこたれずに頑張ろうぜ」と呼びかける,一種のデモンストレーションの方が強かった.

私は子供の時から唱歌がへたで,もう一歩で音痴というところだった.ところがここのように,狭い廊下に囲まれた独房が十個も背中合わせになっているところでは,音響がうまい具合に響き合うせいか,「ふん,俺だってまんざらでもないわい」と思えるのだった.これがいけなかった. 私044は得意になって毎日がなった.ただ堀口中佐が歌うと時折り,両隣りから拍手がおこったりしたのに,私の場合は何の反響もなかった.これだけはおもしろくなかった.

ある日曜日の朝のことだった.私は廊下に面した鉄格子に片手をあずけながら,例の調子で

「自由の空に寄す南溟の,永久(とわ)なる波の響き」

と母校[旧制高知高校]の校歌をがなっていた. 通りかかった若い歩哨が

「おいッ!朝っぱらからなんだ.みんな学習してるじゃあないか」

と注意した. 実際糸満さんは今しがた入った松江日報』を読み耽けっていた. だが私は何かこう,ここで一言(ひとこと)やり返さないことには,近所隣りの手前,沽券にかかわるような気がしたので

「今日は日曜じゃないか.歌を歌って何が悪いんだ」

と荒々しくくつてかかった.さあこうなったら歩哨も後へは引けない.

「みんなの邪魔をしていいと言うのか?お前はなぜ学習しないんだ」とやり返してきた. 後はもう売り言葉に買い言葉でてんやわんやである.

囚人から逆捻じをくった歩哨はだんだん激昂してくる.顔を真赤にし,胸に抱いた黒光りのカービン銃をもどかしそうに摺り上げ,早口に何やらわめいている. あまり中国語が話せない私には,何のことかさっぱりである. たまに良い考えが浮んできても,さてそれをどう言い表すか言葉に迷うのである.とうとう眼を吊り上げてしまった私は

「何言ってやがんだッ!このオタンコナス奴ッ」

045と日本語で怒鳴ると,さっさと隅の便所の所に行き尻をまくってやりはじめた. こうなると歩哨はますます火がついたように鉄格子につかまり,口をその間から押し入れるようにしてがなり始めた.私は眼を据えて

「おいッ!人が用を足しているのに話しかけるのが,中国共産党の礼儀か?」

とだけ言って取り合わなかった.


私は翌日の十時頃金源少佐に呼び出された. 同じ二階の奥まった一室に,少佐は端然と肘掛け椅子に座っていた.少佐の前には大きな事務机があり,その前にちょこんと木製の古びた腰掛けが置いであった. 神妙な顔をして頭を下げると

「それにかけなさい」

とその腰かけを指さした.にこりともしない. 昨日の歩哨との喧嘩のことに違いないと,私は部屋を出る時から覚悟していた. 少佐はだまってポケットからシガレットを取り出し,一本を私にすすめてから「身体の調子はどうですか?」

「はあ」

私はそれ以上なんにも言わず,今受け取ったシガレットを指の間で弄んでいた.

「あなたは僕に,何か要求を持っているのではないですか?」

その声は前よりももっと柔かで,顔には笑いさえ浮かんでいるのである.私はやや安心した.

046要求がないかというんならおおありだ. しかしこの際それを言っていいのかどうか? 話はどうせ昨日のことになってくるだろう.下手に要求でも出したら,後でつじつまが合わなくなるに決まっている

元来自分は囚人である.生殺与奪の権を握った相手と五分の喧嘩は出来るはずもない. だのに喧嘩はすでにやってしまったのである. 私は本来特務をやってきた狡猾な人間である. 相手の一定の過失をつかみ,これなら勝てると見越さないことには,喧嘩なんか仕掛けはしない.やり始めた以上はその過失にしがみつき,遮二無二押しまくらないことには勝てないし,へたに譲歩でもして別の土俵に引きずり込まれでもしたら,それこそ取り返しがつかなくなるだろう.だのに少佐は昨日の喧嘩を,それとは別の大きな不満があり,それの表れに過ぎないと取っている. そこで私は

「あります.早く国に帰して下さい」

と言って少佐の顔を見た.少佐は少しだけ眉を上げたがゆっくり煙草に火をつけ,そのマッチ箱を私の方に押しやりながら

「それだけですか?」

「はあ,いっぱいあります.しかしいっさいはこれから出てくる要求で,これが解決しないことには解決しませんし,これが解決しさえすれば雲散霧消する要求です」

「うん!そうでしょう.僕が君だってもそう思います.しかしあなたは帰国して何をやりますか」

047とまた聞くのである.

「はあ,これと言ってあてがあるわけでもないんですが………」

と言いよどんだ. 少佐の質問に答えてないからである.昨日あんな喧嘩をやったあげく,あくどいやり方で共産党の悪口を言った手前,まさか「帰国の暁は反戦平和の闘士となって闘います」と言っても通らないだろうし,そうかと言って,「大いに軍国主義を鼓吹し,再び捲土重来して見せる」なんて言う勇気もなかったので

「家族が生活に困っていると思いますので………」

とお茶を渇した. 少佐は再び

「じぁああなたは家族に,幸福な生活をさせたいと言うんですね.いいでしょう.人間誰しも家族との団欒(だんらん)を願わないものはありません.しかしあなたは今のような思想状態で,ほんとうに家族を幸福にすることが出来ると思っているんですか?」

私ははっとした. とんでもない土俵に引きずり込まれているのに気がついたからである.私はだまってうつむいていた.

「じゃあ聞きますが,他人の労働を搾取し,他民族を圧迫するような生活,つまり侵略戦争を引きおこして国民を戦場に狩り出し,他民族を殺させるような社会に生活していて,あなたの家族は幸福になれましたか.もちろん一時はうまい汁を吸うことも出来たでしょう.しかし結局のところどうなったのです.あなたは家族が困っているようなことを言っていましたが,今の日本で困って048いるのは,あなたの家族だけではありませんよ.あなたたちが戦争をやったがために,親を失い,子を失い,夫を失って困っている家族はいっぱいおります.あなたにもその責任の一端はあるんじゃないですか?」

しかしこう言われると私の心の中には,承服出来ない幾つかの反論が突き上げてきていた.なるほど日本の人々は相当困っているだろう. それに対して私にも若干の責任はあろう. しかしそれは結局負けたからだ. 世界を相手にしたんでは,いくら日本が強いからと言ったって勝てるものではない.家族の不幸は私が帰りさえすれば取りもどせる. また他人を不幸にした責任をとるためにも,一日も早く帰国して復興事業に参加したいと言っているではないか,といいたかったがだまっていた.

「あなたは負けたから仕方がないと思っているでしょう.ぞれが間違っているんです.じゃあなぜ負けたんですか.なぜあなたたちは世界を相手に戦争をするようになったんですか.どうです」 「あなたは帰国させないからと言いましたね.しかし誰が監獄に入れられるような事をしたんですか.私たちはあなたを,あなたの国に行ってつかまえてきたんではないですよ」

私が頑固に押しだまっていると,

「結局,あなたの現在の不幸はあなたが招いたのです.あなたたちが侵略という正しくないことをしたからです.だから世界の人々はその侵略行為を許さなかったのです.あなたたちは負けたくなかったでしょう.世界を相手にもしたくなかったでしょう.だのにこうなったのはあなたたちが,049そしてあなたの国が,正しくないことをしたからではないですか」

私はとうとう最後の切り札を出さねばならなくなった.

「しかしですねえ.その侵略戦争は国家が発動してやったのです.私はただ一介の小役人として国家の命令に服し,法律に従って職務を執行していたに過ぎません.もしあの時命令に服しなかったとしたら,私は厳罰に処せられていたでしょう.責任は国家が負うべきであって,私のような小役人が負うべきではないと思います.今もし私が,あの戦争の責任は私にあるだなんて言ったら,それこそ万人の物笑いになるだけです」

私は普段から考えていたことを思いきって言ってのけた. 金源少佐はやはり態度を変えず

「あなたは戦争の責任は国家が負うべきものだと言うんですね.いいでしょう.もちろん日本の人民には罪はありません.しかしあなたはなんだったんですか.そう言うあなたは,国家はどこにあると思っているんですか?まさかあなただって空中にあるとは言わないでしょう.国家はその国の国家権力を構成している人々を抜きにしては,どこにも存在しておりません.あなたは小役人かも知れません.しかしあなたは国家権力の構成分子の一人だったはずです.あなたは自己の職分に応じて国家権力を執行し,中国人民を圧迫し,こき使い殺害してきたはずです」

私はおもしろくなかった.ことに「中国人民を殺害している」と言っているのがおもしろくなかった. だが今これを反駁すると,事はますます面倒になる.そう思ったので私はうつむいていた.

「あなたは,戦争じゃないか,殺し合うのも,略奪するのもお互い様じゃないかと思っているで050しよう.だが戦争には正義の戦争と不正義の戦争があります.あなたたちのやったような他国を侵略する戦争は正しくない戦争です.しかし私たちがやった戦争,祖国の安全と人民の生命を守る戦争は正しい戦争です.だから世界の人々は私たちに味方したのです」

「もう今日の世界は日露戦争の時代ではありません.強国はどこの国の領土を植民地にしようが勝手だ.口惜しかったら力ずくで取り返しに来い,という時代ではありません」

「あなたはあなた自身が侵略をし,その結果あなた自身をも,あなたの家族をも,そして日本の多くの人々も不幸にしてしまったにがい経験を持っているのです.あなたは自ら犯した経験から真面目に学習しなければなりません」

金源小佐はそれから,長々と三十分くらい世界の大勢を説き,すでに平和の力は戦争の力に打ち勝つ時代になっていると説いた.

だのに私は,「まことにもっともなお話しには違いないが,そんなことくらいならとうの昔から知っている」と思い続け,そんな常識的な原則論くらいで,よくもまあ共産党員になれたものだと軽蔑していた.

「中国人民はあなたたちに,再び中国を侵略しない人間になれと要求する権利を持っています.中国人民は,再び中国を侵略するような戦犯は,絶対に帰国させるわけに参りません.帰国するもしないも,あなた自身が決めることです」

私はこの言葉を最後に室を出た.昨日の喧嘩の話は何もなかった.


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1 meist ハルピン od.  ハルビン geschrieben: Harbin, Stadt nördlich von Xinjing, Hauptstadt der Provinz Heilongjiang
2 Guandong, alte Provinz
3 Shioumi Tatsui, 元関東州の警察部長
4 Jin Yuan, Major, Stellvertretender Gefängnisdirektor 副所長, von den Japanern Kin Gen genannt.
5 Shenyang, siehe Fengtian
6 Korea
7 Fushun, Stadt in Liaoning, Nordostchina, Bergwerke 炭坑; Ort der späteren Kriegsverbrecherverwahranstalt 戦犯管理所.
8 Songhuajiang, Nebenfluß des Heilongjiang (Amur), fließt durch Harbin
9 Sanjian, frühere Provinz
10 Longjiang, Provinz
11 Bangjian, Region 地方 und Bahnhof bei Harbin
12 Songjiang (Wade-Giles: Sungkiang) eine von insgesamt neun Provinzen, die von den Nationalchinesen nach 1945 in der Mandschurei eingerichtet worden waren, jedoch aufgrund der Machtverhältnisse nur auf dem Papier bestanden. 1954 wurde Songjiang ein Teil der Heilongjiang Provinz.
13 Tanaka Mitsuharu, Major der Geheimpolizei in der Mandschurei
14 Zhaozhou, Kreis in Daqing
15 Zhang Ming, hoher Beamter 大幹部, lebt in Tuogu
16 Baicheng, Stadt in der Provinz Jilin (früher Heilongjiang-Provinz)
17 Xu Zemin (徐澤民), 中国共産党第二路軍第十二支隊長
18 Chongqing (Ch'ung-ch'ing, auch Tschungking), Stadt in der Provinz Sichuan, von 1937 bis 1946 Sitz der chinesischen Regierung.
19 Xinjiang --- Uigurisches Autonomes Gebiet Xinjiang, veraltete Kurzform: Sinkiang, Autonomes Gebiet im äußersten Westen von China. Der nördliche Teil des Gebiets wird auch Dsungarei (Uigurisch Dsungarai oder Dshungariä) genannt
20 Daqing, bezirksfreie Stadt in Heilongjiang, vor allem bekannt durch seine Ölfelder und den Slogan Mao Zedongs: In der Landwirtschaft von Dazhai lernen, in der Industrie von Daqing.
21 Fend/Li-le/yue, Gemeinde und Stadt in Zhaozhou
22 Tuogu, Dorf im Kreis Zhaozhou
23 die drei Kreise Zhaozhou, Zhaoyuan und Zhaodong
24 Zhaodong, Kreis in Daqing
25 Watanabe, 警備課長 der Provinz Bangjian
26 Qinggang, Kreis in Heilongjiang
27 Akiyoshi Isao, 浜江Bangjian省警務庁長 bzw. 浜江地方保安局長
28 Ueda Kôhei, ハルビン高等検察庁の
29 Heishan --- (möglicherweise muslimische Sekte)
30 Matsumoto, 警佐
31 She (Xie, Ye), 警佐
32 Guo, 警佐
33 Sun, 警佐
34 Jin, 警尉
35 Shimamura Saburô, 副県長 von Baicheng und Zhaozhou (= Sh. Saburô); geb. 1908, Verwaltung Geheimpolizei; im Juni 1956 in Shenyang zu 15 Jahren verurteilt, im Dez. 1959 entlassen; Vorsitzender des Vereins der China-Heimkehrer (Chûren); 1976 gest.
36 Itoman Morinobu, einfacher Soldat 二等兵, 名の元関東州の警部, aus Okinawa
37 Horiguchi, 元憲兵隊長中佐
38 Mudanjiang, bezirksfreie Stadt im Südosten der Provinz Heilongjiang
39 Galileo