Springe direkt zu Inhalt

2

高梁飯の碁石

やがて私たちは五メートルもあろうかという高い塀と,大きく開いた頑丈な扉をくぐった.私はそれから約十年間この塀の中で暮したのである.

「満洲国」昭和十二年頃,日本人の「満洲国」における治外法権を撤廃する時,従来の監獄が余りにも小さく,その上,余りにもお粗末すぎたので,奉天1瀋陽2に日本人用,この撫順3城外に朝鮮人用のわりと近代的な監獄を作った. もちろん中国人用の監獄は従来のままで,狭い汚ない部屋の中に重い足枷をつけたまま,横にもなれぬほど放り込んでいたのである.私たちが入ったこの監獄は「満洲第二の上等品」なのだから,文句の言いようはない.

広くて明るい部屋に十三人づつ追い込まれた.大きな旧式の錠前がおりた扉を真中に,幅二メートル半のコングリートの土間が窓ぎわまで続いていて,その土間をはさむように高さ四十センチの板張りの寝台が作られていた.私たちは六対七の割合で両側に別れて旅装をといた.

ソ連4での抑留とはまるで待遇が違い,労働は何もないばかりか,ご飯は何杯でもおかわりすることができた. その意味ではまさに天国である.毎日の労働で真黒に陽焼けしていた顔,おまけにやせこけて頬骨をつき出し,眼ばかりぎょろぎょろさせていた顔も,しだいに持ち前の人相を取り戻018しつつあった. ある日便器の掃除に出された時,一人の看守が私をとらえて「アイヤァ!お前ら一日二斥[約一キロ]も食ってるよ」

と言って眼を丸くしていた.

たった一つおもしろくなかったことは,胸に番号札をつけられ,獄庭で写真を撮られたことだった.いよいよ「本物の囚人」ソ連では半ば捕虜であった]にされてしまったと胸が痛んだ.私の番号は八九五番で,この番号はこの日から十年間,私の名前でもあった.

最初の一ヵ月は兵隊さんたちと一緒だった.やって来た順に追い込まれたからであった. だが一ヵ月の後,将官組,佐官組,尉官以下の組の三つにわけられ,食事の内容も違った. 説明によると「過去の生活慣習にあわすため」ということだった.

こうなると私たち佐官組の連中は,一種の解放感にも似たものに湧き返った.というのは,この中の多くの者はソ連にいた頃,兵士たちのやっていた反軍闘争の渦に巻き込まれ,極反動として毎日吊し上げの憂き目にあった者ばかりだったからである.それがこうして一室に集められ,何の気がねもするでなく話しあえるようになったということは,まず当面の喜ばしいできごとの一つであった.

やはり気になることは,「労働がいつから始まるか」ということであった. そしてそれが一番いやなことだと思っていた. だが管理所[この監獄の正式な名前は戦犯管理所と言った]の方からはうんともすんとも言ってこないのである. 毎日の労働でくたくたになっていたソ連での五年間は,019ぶらぶら遊んでいた病弱組[オーカー]の連中を「なんでいいご身分だろう」とうらやましく思ったものだったが,さてこうして毎日なんにもしないで,鉄格子の中に座っていなければならないとなると,今度は退屈で退屈で,かえって苦しくなるほどだった.

私たちはいつとはなしに,碁や将棋に熱中するようになっていた.もちろん,碁石も碁盤もボール紙で作った粗末なものだった. だから少し強い風でも吹きこんだりすると,碁石もろともひっくり返ってしまい,また初めからやり直さなければならなかった.こうなるとみんなは,なんとかならぬものかと頭をひねり出したのである.

「ねえ,ねえ!高梁飯をひねりつぶしてこれくらいの団子を作るんですよ.一週間も乾かしておくとちょうどよい大きさになりますから………」

と,ソ連で長いこと病院生活をしていたという元安東5市警察局の経済保安課長をしていた小川仁夫6さんが,やせ細った指で直径三センチくらいの輪を作って見せた.

「白石には石灰を,黒石には煤煙を塗りさえすりゃあ,一級品になりますよ」

と言うのである. 私はさっそくその話にとびついた.一人見張りに立ってもらい「おい,来るぞ!」

と言うと大急ぎで新聞をかぶせて隠すのである.団子を作るのはうまく行ったが,さて作った団子を乾かすとなると大変である. 第一に隠す場所がない. 第二には若干発酵して酒粕の勾いがたてこめて来るのである. あちこちの布団の陰や枕の向こうに隠してみたが,何しろ大した数である.

020新聞紙をかぶせてみたが乾きが悪い. おまけにこの部屋は北向きで日光の力は借りられない. ほとほと困りぬいたあげく,大胆過ぎるとは思ったが,壁の中程に八十センチくらいの段ができているのを見つけ,大半をそこに並べることにした.

なるほど小川さんが言うように,団子は一日一日小さくなっていった. 四,五日たった頃だった.

私たちが運動[約二時間の獄庭散歩]から帰ってみると,看守二人を従えた金源7少佐[この管理所の副所長]がむずかしい顔をして,部屋の真中に立っていた.食卓代りに使っている机の上には,もう碁石大に近づいた団子が山と積まれているのである. 瞬間私は

「しまった!」

と首をすくめた. 裟婆での「しまった」とは訳が違い全く胸にどすんときたのである. 不安な顔をして座につくと

「これは誰が作ったのですか」

と,日本語の上手な金源少佐が,底力のある声でみんなを見まわした. 誰も答える者はない.おたがいに顔を見合わす勇気もない. すると向う側の元師団参謀少佐の日向幸夫8さんがちらっと私の顔を見た.まことに糞真面目な顔である. だが日向さんは全く手を出していないご仁の一人である.

「誰ですか?誰かがやらないことには,こんな物が出てくるはずがないでしょう」

金源少佐がまた言った. その通りである. しかし誰も答えない. 二分,三分と沈黙が統いた.021そのうちに私はふと「私がしましたと誰かが買って出たとしたら,それこそ面目まるつぶれになる」と思いついた.まさに一番積極的にやったのはこの私だったからである. そこで思いきって

「私がやりました」

と手を上げた. まことにお恥ずかしい次第だが,その声はだいぶ震えていた.

「何を作っていたのですか」

「碁石です」

私はそこで金源少佐の顔から眼を放した. 「馬鹿者ッ!」という大喝がとんでくると思ったからである.ところが

「あなたは正直に言いました.それは非常に良いことです」

という低い声がかえってきたのである.私が唖然として少佐の顔を見上げると

「しかしこんな事をすることはよいことではありません.改めなければなりません.中国は今,革命直後で,物資も之しく困難な時期です.労働者も農民もみんな乏しきを分け合って闘っているのです.君たちはみんな,昔,米の飯を食い,肉や魚で贅沢三味な生活をしていた.だから高梁飯なんか,自分たちの口にするものではないと考えているのだろう.だが私たち中国の人民はそうは思っておりません.食糧はどんなものでも,農民たちが汗水流して作った尊い労働の結晶であり,人間の命をつなぐ宝物だと思っております」

「人間は必ず過ちを犯します.だからそのことは余り恥ずかしいことではありません.しかし過ち022を悔い改めない人は,とても恥ずかしい人間だと思います」

まず「怒鳴られる」と思い,こんなことで睨まれはじめたら,今後「ろくな事になるまい」と青くなっていた私は,ほっとして胸をなでおろした.そして「中国の共産党の奴,なかなか味なことをいいやがるな」と,胸をなでおろしたり,感心したりしていた. 私は,金源少佐の話を少しも聞いていなかった. いや耳では聞いていたが,心では聞いていなかったのであった.

 

----

 

1 Fengtian, früherer Name der Provinz Liaoning, wurde unter japanischer Herrschaft wiederbelebt, nach 1945 abgeschafft.
2 Shenyang, siehe Fengtian
3 Fushun, Stadt in Liaoning, Nordostchina, Bergwerke 炭坑; Ort der späteren Kriegsverbrecherverwahranstalt 戦犯管理所.
 Die Sowjetunion
5 Andong, Stadt in der südkoreanischen Provinz Gyeongsangbuk-do. Sie ist mit knapp 185.000 Einwohnern die größte Stadt im nördlichen Teil der Provinz.
6 Ogawa Fumio, 元安東市警察局の経済保安課長, geb. 1908, hat 1979 einen Bericht über die Gefangenschaft publiziert (『処刑されなかった戦犯』)

7 Jin Yuan, Major, Stellvertretender Gefängnisdirektor 副所長, von den Japanern Kin Gen genannt.
8 Hinata Yukio, 元師団参謀少