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ソ連1の抑留者から中国の戦犯へ

昭和二十年八月の全面降伏によって捕えられ,シベリヤ2に送られた日満将兵と「満洲国」の官吏は,四十七万と言われた.これらの人々はいたるところに作られてあった組末な収容所ラーゲリーに入れられ,土建工事とか森林伐採,炭坑等の仕事のうちで,比較的技術を必要としない重労働に使われた.

[一度に四十七万という大軍を引き入れたというのに,私たちは一度も新築の収容所に入れられたことはなかった.また多くの友人からもそんな話を聞いたことはなかった.近頃「収容所列島」という言葉を耳にするが,この言葉はまことに言い得て妙,実感のこもった言葉だと思う]

重労働もさることながら,ひもじかったのには参った.五ヵ年もの長い間,腹の空きっ放しという苦しさは,まことになんとも言いようのないものであった.

その後ナホトカ3から送還がはじまり,昭和二十五年の五月頃には,ハバロフスク4に集結した抑留者の総数は,わずか二千余名を数えるに過ぎなかった. ところが急にその頃から,ソ連当局は005「取 り調べ」「裁判」にピッチをあげはじめた. 旧「満洲国」時代保安局という対ソ諜報の秘密機関に勤務して第二課長をしていた私のところには,取り調べから帰って来た友人たちが毎日のように

「君のことを,写真を突きつけられて聞かれたが,知らないと答えてあるからね」

と知らせにきてくれた.これは

「だから君も僕のことについては,一切知らないことにしてくれ」

という要求でもあった.幸いにしてこれらの友人たちのおかげで,私は一回も取り調べに引き出されもせず,最後まで労働に出かける隊列の中に入っていた. そのうちに,取り調べを受けに出て行った友人たちが,帰ってこなくなってしまった.

「裁判を受けて刑務所に入れられたんだよ」

という噂が立った.誰もそう信じた. 七月頃になると三分所と七分所に残ったものは,あわせて一千余名となってしまった. その月の終わり,確か二十九日の夕方だったと思う. 七分所の所長ソ連の将校]から

「諸君は近き将来,祖国に向かって出発することになるだろう」

と伝えられた. 奥歯にもののはさまった言い方ではあったが,私たちはそれを「すわダモイ[帰国]だ!」

と取ったものだから,たちまち大騒ぎになってしまった.中には抱き合って跳び上がっている若い兵隊さん[「北支5」方面で特務的任務についていた兵士]もたくさんあった.

006ぞれから二,三一日して私たち一千余名は,郊外の畑の中にある小さな駅から,穀物運搬用の貨車を改造した,いつもの「囚人護送車」に乗せられ,そのまま中国に送られたのである.

「妙におかしい.帰国列車は窓を開けっ放し,赤旗を振りながら大はしゃぎで帰ったと聞いているのに,この厳重な警戒ぶりはなんということだ」

「大体祖国に向かって出発するなんて言い草が変だと思った」

と,憤慨とも悲観ともつなかい不満が盛んにとびかわされていた.しかし私たちの間では,こんなことで議論がはじまると,きまって楽観論が勝利したのである. 誰もがいやな未来は避けて通りたかったからである.

ソ連も大国じゃあないか.自国でつかまえた戦犯を,他国にたらい回しするなんて,そんな見っともないことするもんか」

誰かがこう言うと,この話はいっぺんにけりになった.だが習朝起きてみた時,万事はすでに休していた. 列車は夜のうちに中国への分岐点ニコリスク6を通過していた. 進行方向に向かって左側にある万一尺の鉄格子の窓から入ってくる光は,列車が西に走っていることを知らせていた.

「あ~あ」

薄暗い箱の隅の方で若い兵隊さんが,わざとらしい大きな溜息をついた.その人はもうすでに,今しがた受け取った運命を半ばあきらめているかのようだ.

私たちは何回も,いや何十回もこんな目に会ってきていた.

007「今度こそダモイだ」

と思いこんで乗り込んだ自動車や列車,時にはごていねいにも残った友人たちから

「元気でやっていたと,家族の奴に知らせてくれな」

と,伝言(ことづけ)まで頼まれて出発したこともあったが,きまって他の収容所への移管だった. そこは,二,三日前に大勢の若い兵隊さんたちが帰国したので,人手が足りなくて困っているところだった.私たちは着いたその日から,隊列を組んで土方仕事に狩り出された.

私たちは何回も,いや何十回も空頼(そらだの)みをしてきた. そしてその回数だけあきらめてきたのである. だから空頼みするのも早かったが,またあきらめるもの早かった.

その日の二時頃,列車は国境の街グロデコウ7に着いた.


日露戦争の直前,三国干渉に憤激した日本の軍事探偵が,ウラジオストック8からこの街に潜入し,ハルビン9に通ずる鉄道の建設状況を探るため,命がけで活躍した話は何かの本で知っていた. その頃頭に描いたグロデコウの街は,なんだか薄汚ないグロテスクな街であった.

ところが今日見るこの駅はなんと静かな,明るい駅であることか.まわりには一面に高い白楊の木が繁っていて,その間に赤い屋根の住宅が白い壁を見せて点在していた. どの家の庭にも大きな日輪花(ひまわり)が,今を盛りと咲いていた.

夕方近くなって,この閑散とした駅が急に騒がしくなってきた.かなりたくさんのソ連兵が008運ば れてきて,次々と降りはじめたからである. 中にはホームに整列して点呼をとってから,勇ましい靴音を残して出かけて行った小隊もあった.見たこともない大砲を積んだ列車も入ってきた. どの兵隊もみんなきびきびしていて,朝鮮の方の戦い[米軍の北上]が,よほど緊迫していることを思わせた.

汽車はその夜,グロデコウの街にとまって動かなかった.

翌日の十時頃になってやっと御輿(みこし)を上げた汽車は,のろい足取りで中国の街綏芬河10(すいふんが)に向かって山を登りはじめた.大陸特有の澄みきった空からは真夏の太陽がじりじりと照りつけ,小さな鉄格子の窓二つしかない箱の中は,まるで蒸し風呂のように暑かった.

帰国とばかり思い込んでいた私たちは,「中国への移管」と気づいたのはつい昨日のことである. すぐあきらめはしたものの,まだ心構えといったものは何もできていなかった.このむんむんする熱気の中からは,なんの考えも生まれてきそうにもないが,やはりなんとなく不安なのである. 人民裁判の恐ろしさを聞いているからである. 私の場合は中国共産党の弾圧と,共産軍に対する諜報活動を行った過去が恐い.

「秘密戦士はつかまったら最後だ.命はないものと思え」

「何もしゃべるな.何をしゃべっても許してくれるものではない」

私たちは上司からこう教えられてきたし,また教えてもきた.

「それに中国に入ったらもう嘘は通らぬ」

009ソ連の将校は「満洲国」のことについては何も知らなかった.

「そんなことはやっておりません」

と,最初から嘘を言って突っ張った.何を聞かれてもそう言っていたら

「何もやらない官吏がどこにあるか」

とつめよられたのには答えに窮した.そこで「中国共産党に対する弾圧」だけをしゃべって,肝心の「対ソ諜報活動」を隠した.そのお陰で今度は中国入りである. 調書は引き継がれるに違いない. 裏目に出たとはまさにこのことだろう.

私がやった場所は中国である.私のやったことを知っている中国人はたくさんいる. 私の使った中国人も生き残っているだろう. 私の不安はここにあった. だがなんのうまい考えも出てきそうにない.

「明日は明日の風が吹くさ」

恐がったり,あきらめたりしている私を乗せた汽車は,ゴットン,ゴットンとあえぎあえぎ山を登って行った.山の大きなうねりを回る時,遠く山下に残してきたグロデコウのあたりが,紫色に煙っているのが見えた.だが,死が待っている中国に入ろうというのに

「さらばソ連よ」

と,名残りを惜しむ気にはなれなかった.

最後の短かいトンネルを一つくぐって,列車は中国の街,綏芬河に入った. 昔,帝政ロシヤ時代010ポクラニチャと言ったこの街には,昭和十三年の冬一度やって来たことがあった.

あの頃はちょうど近衛11内閣が,口に不拡大政策な唱えながら,しきりに中国本土に襲いかかり,次第に日中戦争の泥沼に突入しはじめている頃であった. 関東軍は盛んに「後門の虎の危険」をわめき立て,このあたりの山々に陣地を作り,いつでも跳び出せる準備を進めていた.この駅の構内にも腰剣をガチャガチャ鳴らせながら,将校たちが忙しそうにかけまわっていた.

今見る八月の山々はまことに静かだった. 山一面に生い繁った楢(なら)の灌木の所どころに,大きな灰色の岩が突き出していて,地蝉がジ一ジ一鳴いていた.駅の構内には人影一つ見あたらない. 平和とはこんなにも静かなものかと,今さらのように感ずるのだった.

私たちはもう何時間も汽車の中にほったらかしにされていた.今まで蒸し風呂のように暑かった箱車の中に,少し涼しい風が吹き込んでくるようになった頃,大きな音を立てて錠前がはずされ,頑丈な扉が開かれた. レールを幾つもまたいで中国の列車に近づく私たちの傍で,見覚えのあるソ連の将校が一人,愛相笑いを振りまきながら手を振っていた. 若い兵隊さんの幾人かは列から跳び出し,握手をしたり,抱き合ったりして別れを惜しんでいた.

「さんざんこき使われ,小馬底にされてきたというのに,今さらなんということかをする連中か」と不愉快でならなかった.

中国の列車に入って驚いたことは,今までの囚人列車とはうって変わり立派な客車だった.

「ホホ!こいつは大したもんだ」

011と,みんなは嘆声に近い声をあげた. 客車の両方の入口には,古ぼけた小銃を抱えた歩哨が二人立っていた. 便所に行く時その前を通ると,銃を奪われては大変だとばかり,遠い手の方に握りなおしたが,少しも敵意は感じなかった.今まで大きな図体のソ連兵ばかり見てきたせいか,とても可愛いい子供の兵隊のように見えた.


私たちを乗せた列車は四日かかって,翌々日の正午頃瀋陽12[旧奉天13の駅についた. 途中長春14新京15を通過する時は

「それっ,新京だ」

というわけで,窓にぶら下がっている新聞紙をまくり上げて硝子にへばりついた.五年前まで飲んだり食ったり騒いだり,思うままに振舞った新京,妻や子供たちと水盃をして別れ,そのままソ連に連れて行かれた街だけに,もしかしたら妻子はまだこの街に住んでいるのではなかろうか,もしかしたら顔見知りの日本人が,ぶらぶらしているのを見かけるんではないかと,眼を皿のようにしてへばりついていた.

線路のすぐそばに,昔満鉄の車庫だったらしい建物が幾棟も焼け落ちていて,妹蜘の巣のように組み合わされた鉄骨が,赤く錆びてひん曲っていた.あの頃よく通った興安16大路の陸橋の辺りは,家という家が見る影もなく焼けただれていた.

「そうとう猛烈にやり合ったらしいですねえ」

012隣りに座っていた兵隊が,若いに似ぬ皺(しわ)がれ声でこう言った. 新京をはさんでの国民党軍とのつばぜりあいは,そうとう激しかったと聞いていたが,まさかこれほどまでとは思っていなかった.不思議なことに犬の子一匹通っていないのである. まるで死の街をかけぬけている感じだった.

「もしかしたらこの戦火の中で妻子………」

と一瞬暗い思いが走った.今は使っていないらしい南新京の駅には,夏草がいっぱい生い繁っていた.この駅を過ぎる頃から,もと私が住んでいた南湖17のあたりが見え始めてきた.

「確かにあのあたりだった」

私は妻子を残してきた高等法院の高い建物の向こうの,今はもう深い森に埋まっている官舎のあたりを,それが見えなくなるまで見送っていた.

汽車は翌日の正午頃になっても動こうとしなかった.すでに二十四時間もたっている.

ここは瀋陽には違いないが,どうやら鉄西の貨物引込み線の中らしい. どちらを向いてもレールばかりで,所どころに空の列車が停まっているが,昨日からいっとうに動いた様子もない.

「おーい,いったいどこまで連れて行ったら気がすむんだろうなあ」

私たちは今朝からすでに,何回もこの話をくり返していた.何回議論しても結論は出ないが,いつまででも話していたい話なのである.


ところがこの二十四時間の間に私たちの全く知らないところで,思いがけない事件がおきていた013のである. いやおこしていたという方が正しいのかも知れない.しかもそれは,それから八年もたってから初めてわかったことであった.

「それから八年」その時はすでに私たちは,刑に服して二年目に入っていた. 古海忠之18[元「満洲国」総務庁次長]さんと私はふとしたことから,皇帝溥儀19の書いた手記を読まされることになった. その手記は一千枚にものぼる大文章で,二冊に分かれていた.一字一字,まさに帝王の字とでも言うべきか,ペン字でありながら打ち立てからはねに至るまで,はっきりとわかる楷書で,内容は徹底した自己暴露だった.

溥儀氏はまず幼少の頃の宮中の葛藤,思春期のみだらな性生活,重臣たちの醜悪な権力闘争,日本の軍国主義者たちのあの手この手の策謀,特に天津20の張園21に隠遁生活をしていた頃,当時天津の総領事だった 吉田22茂 氏[後の総理大臣]の工作ぶりは真に迫ったもので,吉田氏の転任の時は埠頭に見送り,手を取って泣いたとさえ書いてあった. 「満洲国」の皇帝に引っ張り出されてからの溥儀氏は,することなすこと約束と違い,何一つ自分の思うようにはならなかったと,口をきわめて関東軍を罵倒してあった.

この手記の中に,瀋陽での出来事がのっていたのである.

皇帝溥儀も張23総理以下の各大臣や将軍たちとともに,同じ汽車に乗ってソ連から移管されたのであった. そしてかれもまた私たちと同じように,いやそれ以上に

「中共に送られたら命がない」

014と思いつめていた. 日本侵略主義者から見れば,単なる傀儡(かいらい)だったに過ぎないかも知れないが,日本の言いなりに「満洲国」を作り,日本軍国主義者の侵略に加担し,中国人民の意に反して領土を売りとばした売国奴としての罪は,とうてい言いのがれようもないと考えていたからであろう.それでかれはソ連にいた時,何回もスターリン宛に手紙を書いて

「中共にだけは渡さないで欲しい」

と懇願した. しかしそれに対する返事は一回も返ってこなかった.かれは手記の中に

「車中では食うものもろくに喉を通らなかった」

「自暴自棄になって,側近の者をだれかれの容赦なく怒鳴りつけた」とも書いていた.

瀋陽についたその夜,かれは駅長室に呼び出された. その時かれは「いよいよくるものがきた」と観念した.ところが応接室に入ってみると,車中の大きな丸い卓の上には,珍しい菓子や果物がたくさん並んでいて,革命政府の幹部らしい中年の男がにこにこしながら

「さあどうぞ」

と一番上席の椅子をすすめるのだった.しかし溥儀氏はこの光景を「最後の晩餐(ばんさん)と受けとったので,蒼白な顔をして入口に立ったまま,一歩も入ろうとはしなかった.やがて山海の珍味が運ばれはじめると,隣室からさらに上級の幹部らしい人物が五,六人出てきた. かれらはしごく屈託のない態度で

「まあまあ」

015溥儀氏を上席の所まで押しやった.だが溥儀氏は席につこうとはしないで,依然として立ったままでいた. 自ら椅子を引いて座った一番上席の幹部らしい人物が,今一度席をすすめようと振り向いた時だった. 溥儀氏は蒼白な顔で

「さあ行きましょう」

と叫ぶとみんなを顎で促し,入口の方に足早に歩きはじめた. 溥儀氏としては,

「やるんならぐずぐずせずに,すっぱりやってくれ!」

と思ったからである.するとその幹部がにこやかに立ち上がり

「あなたは何か勘違いしているのではないですか?まあまあ」

と,溥儀氏の肩を抱いてむりやり席につかせた. 食事をしながらかれらはかわるがわる

「私たちはあなたを殺したり,処刑するために引き取ったのではありません.あなたが前非を悔いて,真に人民のために奉仕することのできる人物になり,平和な生活をしてもらうために引き取ったのです.私たちは,あなたがぜひそうなるように努力してもらいたいと願っています」

とやさしく諭すのだった.しかし溥儀氏は依然として

「うまい事を言って泥を吐かせ,最も効果的な瞬間に断罪するんだろう.その手に乗るものか」と考えつづけていたのであった.


私たちはその日の夕方,旧撫順24城外の小さなな*小さな*駅で汽車を捨てた.

016「なんだ,ここだったのか」

と思ったが誰も口には出さなかった.私たちは狭いプラットホームに整列して,人員点呼を受けた. 駅の周囲には小銃に着剣した中国の兵隊が,うようよするほど立っていた.駅のすぐ後ろには小さなはげ山が迫っていて,そのてっぺんに古びた大きな塔が立っていたが,そのあたり一面にも,着剣した兵士が並んでいた.まことに厳重な警戒ぶりである.

陽もとっぷりと暮れ,暗がりが一面をおおい尽くし,近くの人の顔さえ定かに見えなくなってから,私たち一千余名の長い列は,汚ない大きな風呂敷包みを背負って歩きはじめた.行列はわざと城門を突っきることを避けて,遠回りの小道を歩いた. ところがその道筋の両側には着剣した兵隊が,銃の引きがねに手をかけ,約十メートルおきに立ちはだかっていた.私たちは

「身に寸鉄も帯びない俺たちなのに,なんでこんな真似をするんだろう」

といぶかった. ところが不思議なことに,その兵隊たちはみんな私たちに背を向けて立っているのである. シベリヤで民主運動のリーダーをしていた若い憲兵伍長が,私のすぐ前を歩いていたが

「人民がわれわれを襲撃する気配でもあるんかな」

と,半ばひとり言のようにつぶやいた.私ははっとした.

「なるほどなあ,この行列の中には皇帝もいるし,大臣たちもいる.恨み重なる日満の将兵もいるんだから」

と思った. と同時に「大変なところに連れてこられたもんだ」と,暗い前途が思いやら

 

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 Die Sowjetunion
2 Sibirien
3 Nachodka Находка, Region Primorje
4 Chabarowsk Хабаровск, nahe der Grenze zu China. Dort Gefangenen- und Umerziehungslager
5 Beizhi, kurz für Beizhina
6 Nikolsk = Ussurijsk Уссурийск, Region Primorje --- Ussurijsk wurde im Jahre 1866 als Nikolskoje (Никольское) gegründet und entwickelte sich aufgrund seiner günstigen Lage schon bald zu einem Handelszentrum. Dessen Bedeutung nahm während des Baus der Transsibirischen Eisenbahn stark zu, besonders aber nach deren Fertigstellung 1916. 1898 erhielt Nikolskoje die Stadtrechte, 1913 war es die viertgrößte Stadt im russischen Fernen Osten. Nach der Revolution von 1917 wurde Nikolskoje systematisch zum landwirtschaftlichen Zentrum der Region ausgebaut. Ab 1926 trug die Stadt den Namen Nikolsk-Ussurijnski, 1935 erfolgte die Umbenennung der Stadt nach Kliment Woroschilow. Nach der Machtübernahme durch Nikita Chruschtschow erhielt die Stadt 1957 ihren heutigen Namen.
7 Grenzübergangsstelle Grodekowo-Suifenhe, Region Primorje, auch 留置場
8 Wladiwostok Владивосток, Region Primorje
9 meist ハルピン od.  ハルビン geschrieben: Harbin, Stadt nördlich von Xinjing, Hauptstadt der Provinz Heilongjiang
10 Suifenhe, Grenzstadt in Heilongjiang (Grenze zu Sibirien), hieß früher ポクラニチャ
11 Prinz Konoe Fumimaro (manchmal auch Konoye), * 12. Oktober 1891 in Tokio; † 16. Dezember 1945, war mehrfach Premierminister von Japan (1937–1939, 1940–1941 und v. Juli 1941–Okt. 1941)
12 Shenyang, siehe Fengtian
13 Fengtian, früherer Name der Provinz Liaoning, wurde unter japanischer Herrschaft wiederbelebt, nach 1945 abgeschafft.
14 Changchun, Hauptstadt der Provinz Jilin; seit 1932 Hauptstadt der von den Japanern besetzten Mandschurei; zu dieser Zeit hieß die Stadt Hsingking (新京; Pinyin Xīnjīng; jap. Shinkyō).
15 Xinjing, Hauptstadt der Mandschurei (1932-1945); siehe 長春 Changchun
16 Xing'an, Hauptstraße in Changchun
17 Nanhu, "Südlicher See" bei Changchun
18 Furumi Tadayuki --- (1900-1983), gehörte als stellvertretender Regierungschef der von den Japanern eingesetzten Regierung der Mandschurei zu den ranghöchsten Gefangenen
19 Pu Yi (letzter Kaiser von China, 1906-1967)
20 Tianjin --- regierungsunmittelbare Stadt und Stadtregion in Hebei 河北 am Fluss Haihe
21 Zhangyuan, Palast in Tianjin --- The Japanese organized his (= Pu Yis) flight to the Japanese concession in Tianjin where he lived in two large mansions (first Zhangyuan, then later Jingyuan). He set up a "court-in-exile" there until 1932 when he became the ruler of the Japanese puppet state Manchukuo.
22 Yoshida Shigeru, 1878-1967, japanischer Premierminister v. 1946-1947 u. 1948-1954.
23 Zhang Jinghui --- or Chang Ching-hui, (Traditional Chinese: 張景惠; 1871-1959) Chinese general and politician during the Warlord Era. Helped to establish the Japanese puppet regime of Manchukuo and was its second and last Prime Minister.
24 Fushun, Stadt in Liaoning, Nordostchina, Bergwerke 炭坑; Ort der späteren Kriegsverbrecherverwahranstalt 戦犯管理所